2020年01月29日

わが青春譜1

 新島闘争
 昭和三十四年。伊豆七島の新島にミサイル試射場設置の計画がもちこまれた。
 村議会は、賛成派と反対派が対立。島外からの支援者もくわわって、新島は激しい政治闘争の場と化した。
 わたしは賛成派オルグ団の責任者として渡島。辻村村会議長宅を宿舎として、同志の学生・青年らとともに賛成派島民の支援闘争をおこなった。
 同年十二月十日 村議会で賛成案採決。ミサイル試射場の設置が決定される。
 翌年は、60年安保闘争とあって、学生運動や労働運動が過熱していた。
 当時、日本は、若者が、青春をかけて、左右のイデオロギーをぶつけあった政治闘争の時代だった。
 この新島闘争の賛成派オルグ団に、社会党委員長の浅沼稲次郎氏を刺殺した愛国党の山口二矢少年がくわわっていた。

 追憶の 真砂の浜に たたずみて
     一人思ふは 帰り来ぬ日々

 脚注「新島闘争」/防衛庁が東京の南西約150kmの伊豆新島にミサイル試射場設置を計画して、昭和34年(1959年)、新島村議会は受入れを強行採決した。これにたいして、新島基地反対同盟を支援する総評や社会党、共産党、左翼学生運動組織がオルグ団を送り込み、新島は、島民が左右に分かれて争うイデオロギー闘争の戦場と化した。

 闘争に明け暮れていた日々だったが、夕暮れには、一人、新島前浜で、海をながめた。
 多情多感な青春のただなかにあって、連絡船が週一回という離島でながめる水平線の残光は、いっときの安息であったが、それまですごしてきた都会への郷愁を誘わずにいなかった。

 新島の 白き真砂は 恋しかり
    いとしき人の名 書きてまた消す

「巨星墜つ」

 昭和四十年、西山幸輝氏(日本政治文化研究所)とともに、日本新聞社から版権を譲り受けた「日本及日本人」の復刊、再刊にあたる。
 ちなみに姉妹誌「日本」の版権は講談社が取得した。
 村上兵衛(作家/評論家)、御手洗辰雄(政治評論家)、黛敏郎(音楽家)、鵜沢義行(日大名誉教授)、山岩男(哲学者/京大教授)、多田真鋤(政治学者/慶大教授)ら錚々たる諸先生が執筆陣に名をつらねた。
 三島由紀夫先生にも、再三再四、執筆をお願いして、玉稿を戴いた。
 本の発送業務は、早大のOB矢野君の協力を得て日本学生同盟の学生諸君に協力を戴いた。
 そのなかの一人が、森田必勝仁兄であった。
 昭和45年11月25日。三島由紀夫が「楯の会」会員らと市ヶ谷の自衛隊本部へのりこんで、憲法改正と決起をうったえるも、決起ならず、森田必勝とともに割腹自殺する。
 
 益荒男の たばしる大刀の 閃きを
     悲しと思う 嗚呼、巨星墜つ

 脚注「日本及日本人」/評論雑誌。明治40年、雑誌「日本人」を改題して三宅雪嶺を中心に発刊。国粋主義を唱えた。昭和20年終刊。戦後、1950年に日本新聞社が復刊、1965年以後は日本及日本人社から刊行された。
 林房雄(作家)や保田與重郎(文芸評論家)ら保守論客が論陣にくわわった。

 脚注「日本学生同盟」/昭和41年に結成された右派の学生運動団体(前身は「早稲田学生連盟」)。中心となったのは矢野潤や齋藤英俊らで運動スローガンは「ヤルタ・ポツダム体制打倒」だった。三島由紀夫、林房雄、村松剛、黛敏郎らの文化人の支持をえて、自主独立をめざす新民族主義を唱えた。

 脚注「三島由紀夫の割腹自殺事件」/1970年11月25日。三島由紀夫は「楯の会」の会員4人をともなって、東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問、総監の益田兼利を縛って総監室を占拠。救出しようとした自衛隊員に日本刀などで切りつけ8人に重軽傷を負わせた。三島は自衛隊員に決起を呼びかけるアジ演説をおこなったのち、早稲田大学学生森田必勝とともに割腹自殺した。

 脚注「森田必勝」/三島由紀夫が結成した「楯の会」の第二代学生長。三島とともに自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自殺した。総監の監禁、自衛隊員8人へ傷害を指示したのは三島ではなく、森田だったという見解もある。

 尊師三浦義一

 国文学者 保田與重郎先生、三浦義一先生による近江の義仲寺再興に
 三浦義一門下 西山広喜氏(日本政治文化研究所理事長)と共に参じる    
   
 義仲寺や 尊師義一の いしぶみ(碑・石文)を
     読みて寂しき 近江野の秋

 脚注「義仲寺」/源義仲と義仲の愛妾だった巴御前巴の墓がある滋賀県大津市の寺院。松尾芭蕉も遺言によって此処に葬られる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」。戦後、荒廃するも、三浦義一と保田與重郎によって再興される。両氏の墓も義仲寺にある。

 脚注「三浦義一」/日本の右翼。フィクサー。戦前、政財界や軍部と交流が深かった。とりわけ東條英機と親密で、大東塾の影山正治や国家社会主義者の津久井龍雄とも親しかった。戦後、GHQ民生局のケーディスをスキャンダルで追い落としてケーディスと敵対する参謀第2部(G2)とのあいだに強力なコネをつくるなど、GHQ占領下の政財界で、愛国者として隠然たる力をしめした。
 財閥解体の危機から三井十三家を救って、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えたことから室町将軍と呼ばれた。
 北原白秋門下の歌人で歌集に「当観無情」「草莽」「悲天」「続悲天」がある。
 最近(令和元年)、三浦義一の孫で萩原朔太郎の妹、津久井ユキの孫にあたる歌人三浦柳が祖父三浦義一の生涯と短歌を綴った『残心抄』(PHP研究所)が刊行された。歌集「悲天(講談社エディトリアル)」も復刊されている。

 脚注「西山広喜」/日本政治文化研究所理事長。部落解放同盟・松本治一郎(社会党最高顧問)の養嗣子にあたる松本英一(参議院議員)の義兄弟。英一の兄貴格に三浦義一の高弟関山義人(政治結社興論社)がいた。関山をとおして三浦義一の知遇をえる。関山が興論社を解散後、昭和維新連盟を結成。さらに三浦が再建に尽力した日本政治文化研究所の理事長に就任した。
『日本及日本人』の再建復刊にあたって、西山が同社の代表取締役、わたしは株主兼役員をつとめた。

 脚注「関山義人」/戦時中、香港総督府関山機関を運営。戦後は右翼系政治団体の国策社青年部長をへて政治結社興論社社主となる。 児玉誉士夫の兄弟分にして、三浦義一直系の高弟。受勲後、右翼活動を自粛、興論社を解散した。奥州大学(富士大学)学長や明治大学理事をつとめた。

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2020年01月19日

年末年始三句、短歌六首

【年末年始 三句】

背高き
影をおいたる 
冬至かな

侘しさや
暗夜に消え行く 
除夜の鐘

地蔵尊
衣も新た
四方の春

【神田川の夏と秋 二首】  
        
わくらば(病葉)や          
水面に踊りて       
流れゆく         
森滴(したた)りて      
秋まだ遠し       
          
秋高し
青に染まらぬ
ちぎれ雲
子守柿の実
彩なほ冴えて

【尊師三浦義一 二首】

国文学者 保田與重郎先生、三浦義一先生による近江の義仲寺再興に
三浦義一門下 西山広喜(財団法人日本政治文化研究所理事長)と共に参じる    
   
義仲寺や    
尊師義一の
いしぶみ(碑)を
読みて寂しき 
近江野の秋

三浦柳作、祖父三浦義一とその歌『残心抄』を読みて

残心抄
尊師義一の
歌読みて
紙めくるたび
儚く寂し

【愛(まな)娘 二首】 

身障の
吾児を授かり
育みて
健気(けなげ)に妻は
神宝と笑む

(娘の車椅子を押し歩む)
吾児乗せた
車の椅子の
重たさに
己(おの)の老い知り
寂しさ覚ゆ

posted by office YM at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする