2020年02月28日

わが青春譜2

 安保闘争前夜」@
 北海道の街宣活動
 わたしの政治運動は、新島闘争(昭和34年)から翌年の60年安保闘争へ移ってゆく。
 政治運動といっても、党派や組織とは無関係で、いま思えば、エネルギーのはけ口をもとめて暴れまわった懐かしい青春の走馬灯である。
 当時、体育会系の学生が政治活動にひっぱりだされたのは、右も左も、暴力沙汰がおおっぴらだったからで、体育会系の猛者が左翼活動家とやりあった。
 日本共産党が火炎瓶闘争を放棄した六全協が、60年安保の5年前にあたる1955年で、左右の対決には、まだ、暴力沙汰がついてまわった。
 新島闘争のオルグ団に浅沼暗殺事件の山口二也がくわわっていたことはふれたが、同じオルグ団にくわわっていた防共挺身隊の福田進(隊長)らが左翼のグループに襲われて負傷、わたしが肩に担いで救出する一幕もあった。
 わたしが関連するいくつかのグループも、暴力事件をおこして、検挙されている。
 当時は、天皇を否定する左翼暴力革命が絵空事ではなかった一方、頭山満の大アジア主義や内田良平のシベリア横断譚なども大いに語られて、血気もバンカラの気風も旺盛だった。
 左翼が理屈ならこっちは大和魂だと、左翼暴力革命を阻止して、天皇をまもるという信念のようなものが、右の学生たちにはあったように思う。
 もっとも、のちにのべるように、わたしは、政治運動だけに没頭していたのではなかった。
 社会事業と称して、日比谷野外音楽堂を借り切って、10大学バンド合戦や「アジア友好の集い」などのイベントなどを企画して、つぎつぎ実行へ移していった。
 いま思えば、無謀な計画だったが、行動力のほうも型破りで、それが人生を思いがけない方向へ切り拓いてゆく帆になり舵となった。
 閑話休題。
 新安保条約が強行採決されたのが昭和35年5月19日である。
 その前年、すでに、全学連や労働組合など左翼陣営の安保反対の活動が開始されていた。
 日米安保条約が、日本にとっていかに必要な条約かをうったえて、北海道を一周する予定のわたしたちの街宣活動も、34年7月中旬からはじまった。
 当時、空の便やカーフェリーなどは、まだ、整備されておらず、北海道への交通は、青函連絡船があるだけだった。
 広報活動は、街頭演説とビラ配りが中心で、わたしたちは、日本銀行の現金輸送車を改造した宣伝カーに乗って、道内を巡った。
 遊説部長は、のち全愛会議事務局長をつとめる岸本力男で、わたしが、名目上、総括部長ということになった。
 岸本部長は、むずかしい哲学を論じたかと思えば、浪花節をうなるユニークなひとで、この先生の右翼理論は、難解で、よくわからないところもあったがおもしろかった。
 北海道の街宣を支援してくれたのは、当時、自民党内で、安保の強行採決を段取りした川島正二郎議員で、なかにはいったのが、反共右翼として知られた清水亘という人物だった。
 60年安保にたいする一般国民市民の関心は薄かったが、労組など左翼陣営は、敏感で、宣伝カーにペンキで「帰れ」と書き、刃物でタイヤに穴をあけるなどのいやがらせは、道内巡回中、日常茶飯事だった。
 当時、北海道は、炭鉱労組などの左翼活動が激しい土地柄で、わたしたちの街宣活動にも、多少、妨害もあったが、大きな衝突もなく、9月初め旭川での街宣を最後に、すべてのスケジュールを終えて、帰京することになった。
 そこで、困り果てたのが、食事代にも事欠く金欠だった。
 多少、資金を渡されていたが、2か月で底をつき、わたしたちは、無一文になって、途方に暮れた。
 思いついたのが運動部の友人のことだった。
 父親が函館で大きな会社を営んでいるはずだった。
 訪ねて、事情を話すと、にこにこわらいながら勝手な頼みに応じてくれた。
「カネは返さんでもよろしい」
 わたしたちが、そのあと、食堂にとびこんで、思い切り空腹をみたしたのはいうまでもない。
 後日談になるが、自民党へのりこんで、事情を話すと、「活動資金は仲介者にわたしてある」という話だった。
 どうやら、ただ働きさせられたようだが、後の祭りだった。
 運動にはカネがかかり、その資金は、じぶんで賄わなければならないということを、わたしは、この体験から、痛いほど肝に銘じた。

 七月中旬 夏着で北海道に渡ったわたしたちは、九月初秋の旭川の肌寒さに閉口した。

 北国の 初秋の晩景 肌寒し
  いろり囲んで 国を語りぬ

 戦に 敗れし祖国の 行く末を
  憂いて 我ら 街頭に立つ

「安保闘争前夜」A
 不平等条約改正
 現在の日米安全保障条約は、昭和26年、旧安保条約に代わって、昭和35年1月19日、ワシントンDCで締結された二国間の国際条約で、今日、なお継続されている。
 旧安保条約は、サンフランシスコ講和条約の署名した吉田茂が、平和条約にもぐり込まされていた特約条項(第6条a項但書)の「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」に署名して成立したもので、米軍の制限なき駐留をみとめる一方、日本を防衛する義務を負わない片務的な内容だった。
 アメリカに日本をまもる義務がなく、一方、在日米軍は、日本のどこにでも基地をつくることができるだけではなく、日米地位協定によると、在日米軍の兵士が日本国内で犯罪をおこしても、日本には、犯人を逮捕して裁く警察権や司法権がないなど、旧安保条約は、敗戦国の日本が、戦勝国アメリカの下位におかれた不平等条約だった。
 鳩山一郎や岸信介は、アメリカがおしつけた憲法と旧安保条約に大きな懸念をもったが、公職追放の鳩山や、公職追放の上、戦犯として、3年半も巣鴨に拘置されていた岸らに、政治的な発言や行動はゆるされなかった。
 吉田茂首相は「アメリカがタダでまもってくれるのだからいいじゃないか」と公言して、防衛はアメリカまかせで、経済を優先する吉田ドクトリンを着々と実行に移してゆく。
 吉田ドクトリンは、吉田学校の池田勇人と佐藤栄作へひきつがれて、池田派の宏池会(宮沢喜一ら)と佐藤派の周山会(田中角栄ら)へ分かれてゆく。
 昭和二十八年 吉田茂首相は、社会党の西村栄一議員に「バカ野郎」とつぶやき、これが問題となって、総辞職解散となって、政権が民主党の鳩山一郎へ移った。
 鳩山政権下で幹事長の岸信介は、このとき、重光葵外相とダレス国務長官の会談に同席して、重光が主張した日米安保対等§_がダレスに一蹴される一部始終を見ている。
 その後、藤山愛一郎外務大臣を派遣するなど、何度か、安保対等論がもちあがったが、アメリカは、日本の軍事力の脆弱さなどを理由に交渉のテーブルにつこうとしなかった。
 60年安保騒動で、マスコミは、反安保のキャンペーンを張ったが、新安保が、不平等条約だった旧安保の改正であることをつたえた報道機関はひとつもなかった。
 重光・ダレス会談の数か月後の11月15日、自主憲法と再軍備の日本民主党(鳩山一郎、岸信介ら)と経済優先の自由党(吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら)が合同して、自由民主党が誕生する(55年体制)。

「安保闘争前夜」B
 ソ連スプートニクの成功、アメリカの焦燥
 アメリカ側に変化があらわれたのは、その2年後だった。
 ソ連が、1957年10月4日、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功して、世界情況が変わってくるのである。
 人工衛星打ち上げのロケット技術は、大陸間弾道弾(ICBM)開発と並行している。
 米ソ冷戦のさなかに、ソ連の人工衛星打ち上げ成功が、アメリカにあたえた衝撃は大きく、アメリカは、世界戦略の根本的な見直しを迫られる。
 アメリカの新たな世界戦略は、欧州(NATO)や日本(日米安保)とむすんでソ連包囲網を形成することで、新日米安保条約も、アメリカの世界戦略の一部にくみいれられることになる。
 それが、新安保の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」で、旧安保とのちがいは相互協力≠ェあるかないかである。
 このちがいは、決定的で、相互協力という概念がなかった旧安保にはアメリカが日本をまもる条文はなく、日本がアメリカとともにたたかうという想定もなかった。
 新安保になって、日本は、アメリカの世界戦略におけるアジア太平洋の駐留基地から、アメリカとともに共通の敵とたたかう同盟国となった。
 そして、アメリカに日本をまもる義務があるように、日本もアメリカを支援する対等の地位に並んだ。
 ※日米地位協定と極東条項
 60年安保に瑕疵がないわけではない。
 締結以後、一度も改正されていない日米地位協定が、アメリカの治外法権の観を呈している現状、および、米軍が日本国内の施設および区域を使用できると定める根拠(「極東における国際の平和及び安全の維持」)の極東があいまいで、日本の安全に関係のない極東地域の紛争に日本が巻き込まれる恐れを払拭できない。
 かつて佐藤政権は極東条項の除外をアメリカにもとめたが、アメリカは聞く耳をもたなかった。
 田中内閣も極東条項の除外を迫ったが、アメリカは、除外するなら在日米軍を撤退させる」と恫喝した。
 日米地位協定の改定と極東条項の詰めが急務なのである。

posted by office YM at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする