昭和36年2月1日、中央公論社の社長、嶋中鵬二宅に右翼の少年(小森一考)が侵入、嶋中家の家政婦を刺殺、嶋中夫人に重傷を負わせる事件がおきた。
動機は、前年11月発売の『中央公論(12月号)』に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』が天皇を冒?しているという理由からだった。
小説の主人公が見た夢(風流夢譚)という設定で、内容は、朝日新聞ですら非人道性と指摘した支離滅裂なものだった。
天声人語(昭和35年12月1日)にこうある。
「読んで見るとひどいものだ。皇太子殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリが振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音を立ててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の首なし胴体などとを書いている。過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であってもそれ程問題になるまいが、現に生きている実在の人物を実名のまま処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するというほかない」
(右翼の動向)
浅沼事件がさめやらぬ同年11月発売された中央公論(12月号)に載った「革命によって天皇家の人々の首が落とされる話」が、右翼にとって見逃しにできない重大事だったのはいうまでもない。
右翼団体の多くが、ポスターや看板、飛行機ビラ散布までして、中央公論社に抗議をおこない、糾弾や威圧、ときには、暴力的行為にもおよんだ。
中央公論社は12月号で「お詫び」を掲載したほか、編集長を更迭するなどして、事態が収拾にむかった矢先に、大江健三郎が、翌年1月発売の文学界二月号で、山口二矢をモデルに、右翼青年の性と天皇崇拝をからめて「政治少年死す―セブンティーン第二部」という天皇批判的な小説を発表した。
これで、沈静方向にむかっていた右翼の抗議にふたたび火がついた。
(政府の動き)
宮内庁は「皇室の名誉を棄損する」と抗議を発表。宮内庁が皇室に代わって民事訴訟をおこなう案も検討されたが、実現には至らなかった。
このとき、神社本庁は、不敬罪の復活を主張したが、自民党は政治問題化を避けている。
(深沢擁護論)
「ブラックユーモア」「荒唐無稽なフィクション」「パロディ(嵐山光三郎)」という擁護論のなかに、石原慎太郎や武田泰淳の賛辞、三島由紀夫の推薦(三島はのちに否定)もあったのは注目に値する。
文学という特殊な文化のなかにおいて、なんらかの価値があったのかもしれないが、文学の門外漢である一般人や右翼にとっては、ただの不敬で、歴史や国体にたいする侮辱以外のなにものでもなかったのである。
評論家の丸山真男は、言論や表現の自由は、節度をもって行使されるべきと前置きして「表現の自由における節度は、それぞれの内面的良心に従って判断されるべき問題(毎日新聞/昭和36年2月1日)と書いた。
節度とは度をこさない適当なほどあいという意味合いであろう。
そして、それが、内面的良心に従って判断する問題だと丸山はいう。
天皇一家や皇太子一家が革命で首を切られて、その首が金属的な音を立ててスッテンコロコロころがっていくとする表現が、度を越さない適当なほどあいで、深沢の節度の範囲というつもりなのだろうか。
節度は良心、心の問題で、人間の社会の根本である。
だが、良心や節度だけで国家の政治は成り立たない。
社会は、性善説と性悪説の二面性からできているからである。
節度や良心だけで国を治めてゆくことができれば申し分ないが、人間はかならずしも善良ではないので、同時に法やルール、規制を定めて、国家の運営にあたらねばならない。
それが法治社会で、これは、規制がはたらいている社会ということである。
自由は、規制の内にあって、身勝手な自由は、却って、不自由なのである。
そこで、強者の論理である自由主義に対抗する政治手法として、弱者の論理である民主主義という制度がうまれた。
平等・公平・自由・人権・福祉などの民主主義の理念は、自分勝手で野蛮な自由主義を規制して実現されるもので、規制がなければ、弱者救済という民主主義の理想は達成できない。
われわれの民主主義は、全体主義の人民民主主義ではなく、自由民主主義であって、個が尊重されている。
宗教や政治には狂気がひそんでいて、節度や理性で、深層心理に眠っている狂気を抑えることはできない。
丸山のいう内面的良心や節度で狂気をコントロールできないので、法治社会においては法が動員されるが、法をこえる手段も、可能性として存在する。
民主主義は、強者の論理を抑える政治的原理であって、悪や強者を抑えこむ道徳的原理ではない。
闘争や多数決、そして、テロリズムは、強者に対抗する手段で、民主主義においては、これを防ぐいかなる方法も、ゆるされていない(たとえば予防拘束)のである。
戦後左右両翼の主たる動き
(右翼のこと)
戦前の右翼は、占領軍によって、約二〇〇団体が解散命令をうけ、くわえて公職追放令によって指導者を失って、致命的打撃を受けた。
占領下において、右翼は、完全に封じ込まれて、国体運動も不能になったのである。
昭和26年、日本はサンフランシスコ条約を締結して、独立国となった。
同年、保守政治家や右翼要人も公職追放解除となった。
この年、いち早く全国の右翼団体を糾合して、全国愛国者懇親会をたちあげたのが福田素顕(狂介)だった。
追放命令が解除されたのち、右翼運動家を組織化したのは、福田の懇親会と日本青少年善導協会が最初で、懇親会は、35年に「大日本愛国団体連合」として、二十八団体を糾合、時局対策協議会(時対協)を併置して今日に至っている。
素顕は、堺利彦や大杉栄、高畠素之ら国家社会主義者やアナキストなどとの交わりが深かったが、その後、右翼運動に転向している。
わたしとともに新島闘争にくわわり、後に全愛会議の青年部結成に参加した防共挺身隊の福田進は、素顕の息子である。
わたしは、昭和30年代初め、反共活動家 清水亘とともに素顕の勉強会に参加している。
そこで出逢ったのが、八丈島出身の浅沼美智雄やキリスト教の牧師で、戦後、反共運動家に転じた荒原牧水、治安確立同志会会長の高津大太郎ら多くの運動家で、福田や吉村も仲間だった。
福田進や吉村法俊(のちに昭和維新連盟)は、銀座四丁目の交差点に面した鳩居堂ビルの二階に事務所を構え、朝から晩まで軍歌を流していたが、当時はそれがゆるされた時代だった。
新島ミサイル闘争の賛成派オルグとして、ともにたたかう以前の話である。
日本共産党合法化―その後
1922年の結党以来、日本共産党は、非合法の存在だった。
日本がポツダム宣言を受諾すると、連合軍が進駐して占領政治がはじまった。
非合法だった日本共産党は、GHQの民主化指令にもとづいて合法化されると、戦時中、収監されていた幹部も解放されて、以後、活発な活動を開始する。
1945年11月8日の党大会(四全協)は、非合法だった昭和元年の三全協以来、19年ぶりの会議で、合法化されてのちの初めての協議会となった。
同党大会で採決された行動綱領によると、連合軍を軍国主義からの解放軍とみなし、連合軍の本土進駐によって、日本に民主主義革命の端緒が開かれるに至ったと占領軍による日本占領を手放しで評価している。
そして、天皇制の打倒や人民共和政府の樹立などの戦略目標を掲げた。
合法政党となった昭和21年4月の選挙で、5議席を得ると、昭和24年の総選挙では、衆議院選挙で35議席と大躍進をはたして、保守陣営に危機感がひろがった。
コミンフォルムの批判により武装闘争へ
ところが、四全協で決議された「平和的手段によって日本の解放と民主的な変革を達成する」とする方針が、コミンフォルムからの批判をうけて、転換を余儀なくされる。
昭和26年10月の五全協で採択された綱領には、暴力革命必然論に拠って立つ武装闘争方針が示されて、この綱領にもとづいて、全国的に、騒擾事件や警察襲撃事件などの暴力的破壊活動がくり返されてゆく。
〇白鳥警部射殺事件(27年1月21日)
〇大須騒擾事件(27年7月7日)
〇神宮外苑広場に於ける血のメーデー事件(27年5月1日)
〇地下トラック部隊(日本共産党特殊財政部事件)
〇火炎ビン闘争(火炎瓶で交番を襲撃、警官を負傷させ、殺害した)
〇山村工作隊(中国共産党に倣って農村を拠点とした革命運動)
候補者全員落選
21年5議席、24年の総選挙で35議席と大躍進をした共産党が、五全協で暴力革命路線を採用した後の27年10月の選挙では全員落選した。
コミンフォルムの批判によって、平和主義革命路線を捨て、暴力主義革命へ切った舵が国民にまったく受け入れられなかったのである。
六全協で戦術転換
昭和30年7月。第六回全国協議会(六全協)において、劇的な戦術転換がおこなわれた。
武装蜂起から平和路線(議会内革命)への転進である。
火炎ビン闘争や山村工作隊は放棄されたが、暴力革命そのものが否定されたわけではなかった。「左冒険主義という戦術上の誤りを犯した」という自己批判が六全協の総括であった。
昭和33年7月の第七回党大会で、暴力革命必然論を立てた五全協の決定は一部の過激分子(所感派)によるものと責任を転嫁して、廃棄された。
だが、36年7月の第八回党大会では「二段階革命方式を盛り込んだ綱領を採択している。二段階革命方式は、ブルジョア民主主義革命+社会主義革命の二重革命で、民主主義から社会主義への移行である。
日本共産党の共産主義革命は、民主主義的平和論を説きながら続行されているのである。
日本共産党が、六全協以降、放棄した武装闘争路線を受け入れられない急進的な学生党員らは、共産主義同盟(ブント/全学連)や新左翼などの過激派となっていく。
反共抜刀隊構想と頓挫
51年の公職追放解除で、活動を再開した右翼や保守政治家にとって最大の危機は、共産主義革命で、日本共産党や社会党、日教組や労組連合は、公然と革命を唱え、とりわけ、日本共産党は、五全協の決定にもとづいて武装闘争を展開していた。
共産党や職業的革命家に煽られて労働者が蜂起すれば、警察力だけでおさえこむことは不可能で、当時の警察予備隊が保安隊から陸上自衛隊へ昇格するのは54年(昭和29年)である。
51年の秋に反共啓蒙運動をおこなう「日本青少年善導協会」が設立されたが、啓蒙運動や研修会などで、暴力革命を防衛できるはずはなかった。
のちに初代の法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官をつとめることになる法務総裁の木村篤太郎は、このとき、全国の博徒・テキヤ・愚連隊を結集した二十万人「反共抜刀隊」の編成という構想を立て、着々と手を打ってゆく。
木村は、GHQから解散命令をうけていた大日本国粋会理事長梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請、梅津は断ったが、「刑法を改正して、賭博行為の逮捕は現行犯に限定する」という約束を交わして、梅津の協力をとりつけた。
1951年12月6日、梅津が音頭をとって、上野精養軒に、関東の親分衆が集って「共産党が武装蜂起した場合、任侠や博徒、テキヤが協力して実力で打倒する」という誓約がなされた。
「反共抜刀隊」構想に反対したのが吉田茂だった。
吉田は、日本共産党などが政府転覆をはかった場合、在日米軍に鎮圧させるという。事実、旧安保には内乱鎮圧≠ニいう項目があったが、内乱の鎮圧を外国の軍隊に頼って、独立国家ということはできない。
岸信介の新安保(60年)で内乱条項が削られたのはいうまでもない。
吉田の経済優先主義は、国家の独立や主権までを危うくするリスキーなものだったのである。
「アイク歓迎実行委員会」
「反共抜刀隊」に次いで、自民党が本格的に任侠団体を動員しようと画策したのは60年安保闘争においてだった。
60年6月19日にアメリカのアイゼンハワー大統領・の訪日が予定されていたが、これに反対していた反安保勢力は、アイゼンハワーの来日にあわせて空前の大衆動員をかけると予想された。
左翼の反安保・反米闘争が、ソ連の支援のもとで、暴力革命へ飛び火しないという保証はなかった。
政府自民党(「安全保障委員会」)は「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げると、会長の橋本登美三郎を介して、戦後右翼の大物、児玉誉士夫に協力をもとめる。
革命勢力の増大に危機感をつのらせた自民党は、ふたたび、任侠勢力の組織的動員に期待をかけたのである。
作家、猪野健治の調査によると、集められる博徒は1万8000人、テキヤ1万5000人、旧軍人消防関係4000人、宗教団体など1万人、右翼団体4000人、その他5000人で、テキヤの召集にあたったのは尾津喜之助と関口愛治、博徒の召集にあたったのは稲川裕芳だったという。
この動員計画が、結果として、右翼とヤクザの境界線をぼやかして、両者を暴力集団という一つの括りに入れてしまった。
任侠勢力は、世俗の集団で、あるのは、思想ではなく、力や経済である。
一方、右翼は、思想家、思想集団で、暴力は、思想や行動原理の一部である。
右翼のテロは、思想からにじみだしたもので、利害得失など、世俗的な原理から切り離されている。
爆弾を投げて大隈重信の暗殺をはかった玄洋社元社員の来島恒喜がその場でみずからの喉を突き、浅沼稲次郎を暗殺した山口乙矢が、東京拘置所で首を吊ったのは、思想は、自死をもって、完結するからである。
生命を思想とひきかえにするのが右翼なら、生命を世俗の経済や権力などに懸けるのが任侠で、右翼と任侠の死生観は、水と油ほど異なるのである。
60年安保に象徴される政治の時代が終わると、自民党は、右翼や任侠団体と絶縁して、商法改正などで、資金源を断った。
任侠系団体は、政治結社の冠を返上して、右翼活動から撤退した。
任侠は世俗にもどって、右翼は、思想という聖域に引き返したのである。
昭和30年代がテロの時代となったのは、60年(昭和35年)の安保闘争を中心とした大衆運動の盛り上がりが右翼に共産主義革命の危機感を高まらせた結果で、70年(昭和35年)の安保自動延長以後、革命の危機が遠のくと右翼テロもなりをひそめる。
※脚注/30年代の右翼テロ
●「河上社会党代議士殺人未遂事件」(昭和35年6月)河上丈太郎社会党顧問がナイフで切りつけられて左肩部に全治3週間の負傷
●「岸首相傷害事件」(昭和35年7月14日)岸信介首相が登山ナイフで切りつけられて左臀部に全治2週間の負傷
●「浅沼社会党委員長殺人事件」(昭和35年10月12日)日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が山口二矢に刺殺される
●「嶋中事件」(昭和36年2月1日)天皇や皇室にたいする不敬な小説を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した
●「三無(さんゆう)事件」(昭和36年12月)「無税・無失業・無戦争」の実現と共産革命の殲滅を訴え、34人の元軍人・実業家が検挙されたクーデター未遂事件
●「河野邸焼き討ち事件」(昭和38年7月15日)右翼の野村秋介が自民党の河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入。放火して建物は全焼した。
(岸内閣と安保改定)
昭和32年2月25日。病気で倒れた石橋内閣をひきつぎ、東條内閣で商工大臣をつとめた岸信介が第五十六代内閣総理大臣に就任した。
戦前、反米だった岸が、一転して、親米内閣の宰相となったのである。
岸は、鳩山内閣(昭和三十年八月)の幹事長として、重光外相とダレス国務長官の会談に同席して、条約の対等化や日本の防衛など、吉田がむすんだ安保条約の改定をもとめた重光の提案が、このとき、ことごとく拒絶された現実を目のあたりにしている。
旧安保条約では、アメリカは、日本のどこにでも駐留基地を建設できるにもかかわらず、アメリカが日本をまもる義務は明文化されていなかった。
岸は、対米従属と片務性がつよい条約を解消して、アメリカとともにソ連や中国と対抗できる、日米が対等な立場に立った同盟を望み、日本がアメリカのよきパートナーである印象をあたえようとした。
その矢先、ジラード事件が起きる。
昭和32年1月 米兵ジラードが群馬県相馬ヶ原演習地で農婦を射殺したのである。
ところが、地位協定や日米安保のとりきめで、裁判権は日本になかった。
国民は激高して、結局、日本は裁判権をえたが、殺人事件の有罪判決だったにもかかわらず執行猶予という不透明なもので、後日、これが、日本側の譲歩だったことが外務省の「戦後対米外交文書公開」で明らかになる。
旧安保条約は、戦勝国と敗戦国の不平等条約で、これを対等な同盟にかえるにあたって、岸や重光ら戦時内閣の旧閣僚(重光は東条内閣の外相)が払った努力はなにものにもかえがたい。
昭和32年1月。岸は、2月に駐日マッカーサー大使と会談して、4月には安保改定と沖縄返還を協議している。
同年5月、日本の防衛力強化を謳った国防基本方針を閣議決定すると、安保改定へむかってうごきだした。
それには、自由主義陣営の立場から、国際共産主義への対決姿勢を明らかにして、日本の共産化というアメリカの懸念を払拭する必要があった。
同年6月。岸は、アイゼンハワー大統領と首脳会談をおこない、安保改定の検討を約束させた。
アイゼンハワーのこの約束を現実のものとさせる出来事がおきる。
当時、米ソは、宇宙開発を競っていた。
32年、ソ連はスプートニク1号の打ち上げに成功して、アメリカをリードするのである。
毛沢東の「東風が西風を制した」の発言もあって、左派は勢いづいた。
社会党浅沼委員長の『米国は日中共同の敵』という発言がマスコミで大きく扱われるなど、日本国内で、徐々に、親ソ親中、反米のムードが醸し出されていった。
アメリカが、日米安全保障の条約の改定を決断したのは、日本を自由陣営にとりこんで、反ソ・反中の砦にするという意志がはたらいたからで、アメリカも危機感をもったのである。
昭和35年1月。岸は全権団を率いて訪米する。
そして、アイゼンハワー大統領と会談後、新安保条約が調印された。
残るスケジュールは新安保条約の批准とアイゼンハワー大統領の訪日だけとなった。
そして、同年から翌年にかけて、60年安保騒動がひきおこされるのである。