2020年03月18日

わが青春譜5

 嶋中事件のこと
 昭和36年2月1日、中央公論社の社長、嶋中鵬二宅に右翼の少年(小森一考)が侵入、嶋中家の家政婦を刺殺、嶋中夫人に重傷を負わせる事件がおきた。
 動機は、前年11月発売の『中央公論(12月号)』に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』が天皇を冒?しているという理由からだった。
 小説の主人公が見た夢(風流夢譚)という設定で、内容は、朝日新聞ですら非人道性と指摘した支離滅裂なものだった。
 天声人語(昭和35年12月1日)にこうある。
「読んで見るとひどいものだ。皇太子殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリが振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音を立ててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の首なし胴体などとを書いている。過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であってもそれ程問題になるまいが、現に生きている実在の人物を実名のまま処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するというほかない」
(右翼の動向)
 浅沼事件がさめやらぬ同年11月発売された中央公論(12月号)に載った「革命によって天皇家の人々の首が落とされる話」が、右翼にとって見逃しにできない重大事だったのはいうまでもない。
 右翼団体の多くが、ポスターや看板、飛行機ビラ散布までして、中央公論社に抗議をおこない、糾弾や威圧、ときには、暴力的行為にもおよんだ。
 中央公論社は12月号で「お詫び」を掲載したほか、編集長を更迭するなどして、事態が収拾にむかった矢先に、大江健三郎が、翌年1月発売の文学界二月号で、山口二矢をモデルに、右翼青年の性と天皇崇拝をからめて「政治少年死す―セブンティーン第二部」という天皇批判的な小説を発表した。
 これで、沈静方向にむかっていた右翼の抗議にふたたび火がついた。
(政府の動き)
 宮内庁は「皇室の名誉を棄損する」と抗議を発表。宮内庁が皇室に代わって民事訴訟をおこなう案も検討されたが、実現には至らなかった。
 このとき、神社本庁は、不敬罪の復活を主張したが、自民党は政治問題化を避けている。
(深沢擁護論)
「ブラックユーモア」「荒唐無稽なフィクション」「パロディ(嵐山光三郎)」という擁護論のなかに、石原慎太郎や武田泰淳の賛辞、三島由紀夫の推薦(三島はのちに否定)もあったのは注目に値する。
 文学という特殊な文化のなかにおいて、なんらかの価値があったのかもしれないが、文学の門外漢である一般人や右翼にとっては、ただの不敬で、歴史や国体にたいする侮辱以外のなにものでもなかったのである。
 評論家の丸山真男は、言論や表現の自由は、節度をもって行使されるべきと前置きして「表現の自由における節度は、それぞれの内面的良心に従って判断されるべき問題(毎日新聞/昭和36年2月1日)と書いた。
 節度とは度をこさない適当なほどあいという意味合いであろう。
 そして、それが、内面的良心に従って判断する問題だと丸山はいう。
 天皇一家や皇太子一家が革命で首を切られて、その首が金属的な音を立ててスッテンコロコロころがっていくとする表現が、度を越さない適当なほどあいで、深沢の節度の範囲というつもりなのだろうか。
 節度は良心、心の問題で、人間の社会の根本である。
 だが、良心や節度だけで国家の政治は成り立たない。
 社会は、性善説と性悪説の二面性からできているからである。
 節度や良心だけで国を治めてゆくことができれば申し分ないが、人間はかならずしも善良ではないので、同時に法やルール、規制を定めて、国家の運営にあたらねばならない。
 それが法治社会で、これは、規制がはたらいている社会ということである。
 自由は、規制の内にあって、身勝手な自由は、却って、不自由なのである。
 そこで、強者の論理である自由主義に対抗する政治手法として、弱者の論理である民主主義という制度がうまれた。
 平等・公平・自由・人権・福祉などの民主主義の理念は、自分勝手で野蛮な自由主義を規制して実現されるもので、規制がなければ、弱者救済という民主主義の理想は達成できない。
 われわれの民主主義は、全体主義の人民民主主義ではなく、自由民主主義であって、個が尊重されている。
 宗教や政治には狂気がひそんでいて、節度や理性で、深層心理に眠っている狂気を抑えることはできない。
 丸山のいう内面的良心や節度で狂気をコントロールできないので、法治社会においては法が動員されるが、法をこえる手段も、可能性として存在する。
 民主主義は、強者の論理を抑える政治的原理であって、悪や強者を抑えこむ道徳的原理ではない。
 闘争や多数決、そして、テロリズムは、強者に対抗する手段で、民主主義においては、これを防ぐいかなる方法も、ゆるされていない(たとえば予防拘束)のである。

 戦後左右両翼の主たる動き
(右翼のこと)
 戦前の右翼は、占領軍によって、約二〇〇団体が解散命令をうけ、くわえて公職追放令によって指導者を失って、致命的打撃を受けた。
 占領下において、右翼は、完全に封じ込まれて、国体運動も不能になったのである。
 昭和26年、日本はサンフランシスコ条約を締結して、独立国となった。
 同年、保守政治家や右翼要人も公職追放解除となった。
 この年、いち早く全国の右翼団体を糾合して、全国愛国者懇親会をたちあげたのが福田素顕(狂介)だった。
 追放命令が解除されたのち、右翼運動家を組織化したのは、福田の懇親会と日本青少年善導協会が最初で、懇親会は、35年に「大日本愛国団体連合」として、二十八団体を糾合、時局対策協議会(時対協)を併置して今日に至っている。
 素顕は、堺利彦や大杉栄、高畠素之ら国家社会主義者やアナキストなどとの交わりが深かったが、その後、右翼運動に転向している。
 わたしとともに新島闘争にくわわり、後に全愛会議の青年部結成に参加した防共挺身隊の福田進は、素顕の息子である。
 わたしは、昭和30年代初め、反共活動家 清水亘とともに素顕の勉強会に参加している。
 そこで出逢ったのが、八丈島出身の浅沼美智雄やキリスト教の牧師で、戦後、反共運動家に転じた荒原牧水、治安確立同志会会長の高津大太郎ら多くの運動家で、福田や吉村も仲間だった。
 福田進や吉村法俊(のちに昭和維新連盟)は、銀座四丁目の交差点に面した鳩居堂ビルの二階に事務所を構え、朝から晩まで軍歌を流していたが、当時はそれがゆるされた時代だった。
 新島ミサイル闘争の賛成派オルグとして、ともにたたかう以前の話である。

 日本共産党合法化―その後
 1922年の結党以来、日本共産党は、非合法の存在だった。
 日本がポツダム宣言を受諾すると、連合軍が進駐して占領政治がはじまった。
 非合法だった日本共産党は、GHQの民主化指令にもとづいて合法化されると、戦時中、収監されていた幹部も解放されて、以後、活発な活動を開始する。
 1945年11月8日の党大会(四全協)は、非合法だった昭和元年の三全協以来、19年ぶりの会議で、合法化されてのちの初めての協議会となった。
 同党大会で採決された行動綱領によると、連合軍を軍国主義からの解放軍とみなし、連合軍の本土進駐によって、日本に民主主義革命の端緒が開かれるに至ったと占領軍による日本占領を手放しで評価している。
 そして、天皇制の打倒や人民共和政府の樹立などの戦略目標を掲げた。
 合法政党となった昭和21年4月の選挙で、5議席を得ると、昭和24年の総選挙では、衆議院選挙で35議席と大躍進をはたして、保守陣営に危機感がひろがった。

 コミンフォルムの批判により武装闘争へ
 ところが、四全協で決議された「平和的手段によって日本の解放と民主的な変革を達成する」とする方針が、コミンフォルムからの批判をうけて、転換を余儀なくされる。
 昭和26年10月の五全協で採択された綱領には、暴力革命必然論に拠って立つ武装闘争方針が示されて、この綱領にもとづいて、全国的に、騒擾事件や警察襲撃事件などの暴力的破壊活動がくり返されてゆく。
 〇白鳥警部射殺事件(27年1月21日)
 〇大須騒擾事件(27年7月7日)
 〇神宮外苑広場に於ける血のメーデー事件(27年5月1日)
 〇地下トラック部隊(日本共産党特殊財政部事件)
 〇火炎ビン闘争(火炎瓶で交番を襲撃、警官を負傷させ、殺害した)
 〇山村工作隊(中国共産党に倣って農村を拠点とした革命運動)

 候補者全員落選
 21年5議席、24年の総選挙で35議席と大躍進をした共産党が、五全協で暴力革命路線を採用した後の27年10月の選挙では全員落選した。
 コミンフォルムの批判によって、平和主義革命路線を捨て、暴力主義革命へ切った舵が国民にまったく受け入れられなかったのである。

 六全協で戦術転換
 昭和30年7月。第六回全国協議会(六全協)において、劇的な戦術転換がおこなわれた。
 武装蜂起から平和路線(議会内革命)への転進である。
 火炎ビン闘争や山村工作隊は放棄されたが、暴力革命そのものが否定されたわけではなかった。「左冒険主義という戦術上の誤りを犯した」という自己批判が六全協の総括であった。
 昭和33年7月の第七回党大会で、暴力革命必然論を立てた五全協の決定は一部の過激分子(所感派)によるものと責任を転嫁して、廃棄された。
 だが、36年7月の第八回党大会では「二段階革命方式を盛り込んだ綱領を採択している。二段階革命方式は、ブルジョア民主主義革命+社会主義革命の二重革命で、民主主義から社会主義への移行である。
 日本共産党の共産主義革命は、民主主義的平和論を説きながら続行されているのである。
 日本共産党が、六全協以降、放棄した武装闘争路線を受け入れられない急進的な学生党員らは、共産主義同盟(ブント/全学連)や新左翼などの過激派となっていく。

 反共抜刀隊構想と頓挫
 51年の公職追放解除で、活動を再開した右翼や保守政治家にとって最大の危機は、共産主義革命で、日本共産党や社会党、日教組や労組連合は、公然と革命を唱え、とりわけ、日本共産党は、五全協の決定にもとづいて武装闘争を展開していた。
 共産党や職業的革命家に煽られて労働者が蜂起すれば、警察力だけでおさえこむことは不可能で、当時の警察予備隊が保安隊から陸上自衛隊へ昇格するのは54年(昭和29年)である。
 51年の秋に反共啓蒙運動をおこなう「日本青少年善導協会」が設立されたが、啓蒙運動や研修会などで、暴力革命を防衛できるはずはなかった。
 のちに初代の法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官をつとめることになる法務総裁の木村篤太郎は、このとき、全国の博徒・テキヤ・愚連隊を結集した二十万人「反共抜刀隊」の編成という構想を立て、着々と手を打ってゆく。
 木村は、GHQから解散命令をうけていた大日本国粋会理事長梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請、梅津は断ったが、「刑法を改正して、賭博行為の逮捕は現行犯に限定する」という約束を交わして、梅津の協力をとりつけた。
 1951年12月6日、梅津が音頭をとって、上野精養軒に、関東の親分衆が集って「共産党が武装蜂起した場合、任侠や博徒、テキヤが協力して実力で打倒する」という誓約がなされた。
「反共抜刀隊」構想に反対したのが吉田茂だった。
 吉田は、日本共産党などが政府転覆をはかった場合、在日米軍に鎮圧させるという。事実、旧安保には内乱鎮圧≠ニいう項目があったが、内乱の鎮圧を外国の軍隊に頼って、独立国家ということはできない。
 岸信介の新安保(60年)で内乱条項が削られたのはいうまでもない。
 吉田の経済優先主義は、国家の独立や主権までを危うくするリスキーなものだったのである。

「アイク歓迎実行委員会」
「反共抜刀隊」に次いで、自民党が本格的に任侠団体を動員しようと画策したのは60年安保闘争においてだった。
 60年6月19日にアメリカのアイゼンハワー大統領・の訪日が予定されていたが、これに反対していた反安保勢力は、アイゼンハワーの来日にあわせて空前の大衆動員をかけると予想された。
 左翼の反安保・反米闘争が、ソ連の支援のもとで、暴力革命へ飛び火しないという保証はなかった。
 政府自民党(「安全保障委員会」)は「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げると、会長の橋本登美三郎を介して、戦後右翼の大物、児玉誉士夫に協力をもとめる。
 革命勢力の増大に危機感をつのらせた自民党は、ふたたび、任侠勢力の組織的動員に期待をかけたのである。
 作家、猪野健治の調査によると、集められる博徒は1万8000人、テキヤ1万5000人、旧軍人消防関係4000人、宗教団体など1万人、右翼団体4000人、その他5000人で、テキヤの召集にあたったのは尾津喜之助と関口愛治、博徒の召集にあたったのは稲川裕芳だったという。
 この動員計画が、結果として、右翼とヤクザの境界線をぼやかして、両者を暴力集団という一つの括りに入れてしまった。
 任侠勢力は、世俗の集団で、あるのは、思想ではなく、力や経済である。
 一方、右翼は、思想家、思想集団で、暴力は、思想や行動原理の一部である。
 右翼のテロは、思想からにじみだしたもので、利害得失など、世俗的な原理から切り離されている。
 爆弾を投げて大隈重信の暗殺をはかった玄洋社元社員の来島恒喜がその場でみずからの喉を突き、浅沼稲次郎を暗殺した山口乙矢が、東京拘置所で首を吊ったのは、思想は、自死をもって、完結するからである。
 生命を思想とひきかえにするのが右翼なら、生命を世俗の経済や権力などに懸けるのが任侠で、右翼と任侠の死生観は、水と油ほど異なるのである。
 60年安保に象徴される政治の時代が終わると、自民党は、右翼や任侠団体と絶縁して、商法改正などで、資金源を断った。
 任侠系団体は、政治結社の冠を返上して、右翼活動から撤退した。
 任侠は世俗にもどって、右翼は、思想という聖域に引き返したのである。
 昭和30年代がテロの時代となったのは、60年(昭和35年)の安保闘争を中心とした大衆運動の盛り上がりが右翼に共産主義革命の危機感を高まらせた結果で、70年(昭和35年)の安保自動延長以後、革命の危機が遠のくと右翼テロもなりをひそめる。

 ※脚注/30年代の右翼テロ
 ●「河上社会党代議士殺人未遂事件」(昭和35年6月)河上丈太郎社会党顧問がナイフで切りつけられて左肩部に全治3週間の負傷
 ●「岸首相傷害事件」(昭和35年7月14日)岸信介首相が登山ナイフで切りつけられて左臀部に全治2週間の負傷
 ●「浅沼社会党委員長殺人事件」(昭和35年10月12日)日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が山口二矢に刺殺される
 ●「嶋中事件」(昭和36年2月1日)天皇や皇室にたいする不敬な小説を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した
 ●「三無(さんゆう)事件」(昭和36年12月)「無税・無失業・無戦争」の実現と共産革命の殲滅を訴え、34人の元軍人・実業家が検挙されたクーデター未遂事件
 ●「河野邸焼き討ち事件」(昭和38年7月15日)右翼の野村秋介が自民党の河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入。放火して建物は全焼した。

(岸内閣と安保改定)
 昭和32年2月25日。病気で倒れた石橋内閣をひきつぎ、東條内閣で商工大臣をつとめた岸信介が第五十六代内閣総理大臣に就任した。
 戦前、反米だった岸が、一転して、親米内閣の宰相となったのである。
 岸は、鳩山内閣(昭和三十年八月)の幹事長として、重光外相とダレス国務長官の会談に同席して、条約の対等化や日本の防衛など、吉田がむすんだ安保条約の改定をもとめた重光の提案が、このとき、ことごとく拒絶された現実を目のあたりにしている。
 旧安保条約では、アメリカは、日本のどこにでも駐留基地を建設できるにもかかわらず、アメリカが日本をまもる義務は明文化されていなかった。
 岸は、対米従属と片務性がつよい条約を解消して、アメリカとともにソ連や中国と対抗できる、日米が対等な立場に立った同盟を望み、日本がアメリカのよきパートナーである印象をあたえようとした。
 その矢先、ジラード事件が起きる。
 昭和32年1月 米兵ジラードが群馬県相馬ヶ原演習地で農婦を射殺したのである。
 ところが、地位協定や日米安保のとりきめで、裁判権は日本になかった。
 国民は激高して、結局、日本は裁判権をえたが、殺人事件の有罪判決だったにもかかわらず執行猶予という不透明なもので、後日、これが、日本側の譲歩だったことが外務省の「戦後対米外交文書公開」で明らかになる。
 旧安保条約は、戦勝国と敗戦国の不平等条約で、これを対等な同盟にかえるにあたって、岸や重光ら戦時内閣の旧閣僚(重光は東条内閣の外相)が払った努力はなにものにもかえがたい。
 昭和32年1月。岸は、2月に駐日マッカーサー大使と会談して、4月には安保改定と沖縄返還を協議している。
 同年5月、日本の防衛力強化を謳った国防基本方針を閣議決定すると、安保改定へむかってうごきだした。
 それには、自由主義陣営の立場から、国際共産主義への対決姿勢を明らかにして、日本の共産化というアメリカの懸念を払拭する必要があった。
 同年6月。岸は、アイゼンハワー大統領と首脳会談をおこない、安保改定の検討を約束させた。
 アイゼンハワーのこの約束を現実のものとさせる出来事がおきる。
 当時、米ソは、宇宙開発を競っていた。
 32年、ソ連はスプートニク1号の打ち上げに成功して、アメリカをリードするのである。
 毛沢東の「東風が西風を制した」の発言もあって、左派は勢いづいた。
 社会党浅沼委員長の『米国は日中共同の敵』という発言がマスコミで大きく扱われるなど、日本国内で、徐々に、親ソ親中、反米のムードが醸し出されていった。
 アメリカが、日米安全保障の条約の改定を決断したのは、日本を自由陣営にとりこんで、反ソ・反中の砦にするという意志がはたらいたからで、アメリカも危機感をもったのである。
 昭和35年1月。岸は全権団を率いて訪米する。
 そして、アイゼンハワー大統領と会談後、新安保条約が調印された。
 残るスケジュールは新安保条約の批准とアイゼンハワー大統領の訪日だけとなった。
 そして、同年から翌年にかけて、60年安保騒動がひきおこされるのである。
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2020年03月09日

わが青春譜4

 ●池田政権発足そして浅沼事件
 日米安保条という大仕事をやりおえ、岸内閣は、三年四か月の使命を終えた。
 吉田茂と鳩山一郎のあとをうけた岸信介の最大の実績は、むろん、日米安保条約の改定だが、自民党政治の確立と日米関係の強化という戦後政治の基盤をつくりあげた功績も評価されるべきだろう。
 岸内閣が、経済の池田内閣に比較して、政治の内閣といわれる所以である。
 岸から政権をひきついだ池田内閣の政策は、徹底的な経済路線で、その代表が所得倍増計画である。
 高度経済成長と経済大国への道は池田が切り拓いたといってよいだろう。
 池田勇人は、大蔵官僚を経て、終戦後、政界入りして、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格となった。
 池田勇人が58〜60代、佐藤栄作が61〜63代内閣総理大臣である。
 経済の池田と沖縄返還の佐藤によって、日本は、戦後から脱して、新時代にむかってうごきだす。
 以後、自民党は、経済主導型と政治主導型の政策を交互にくりだして、日本の政治をリードしてゆく。
 経済主導型の舵をとったのは、池田勇人を中心に結成された宏池会で、保守本流と呼ばれたのは、吉田ドクトリンを継承していたからである。
 宮沢喜一ら4人の総理大臣をだしたリベラル派で、憲法改正に慎重だったのは、吉田茂以来の伝統であろう。現在、宏池会は、岸田文雄が率いている。
 政治主導型は、佐藤栄作の周山会で、佐藤の退陣直前に、田中角栄が七日会(後の木曜クラブ)を結成、佐藤派から大勢を率いて独立した。
 首相を3期6年つとめた佐藤が、引退後、政権を兄岸信介の派閥を引き継ぐ福田赳夫に譲ろうとしていたためで、田中角栄との間で「角福戦争」が生じたのは政治史に残る有名な話である。
 中曽根康弘の支援をうけて、角栄が天下をとるが、ロッキード事件後、竹下派(経世会)に派閥を奪われて、それが、現在の平成研究会(竹下亘)へひきつがれた。
 当時、自民党党員として、田中派の朝食会に出席していたわたしは、目白邸へ後援会の三宅島村会議長らを案内して、角栄先生と記念撮影をした思い出がある。
 この朝食会は、源田実と長谷川仁両参院議員の推薦で参加した勉強会(新政策総合研究会)を兼ねたもので、わたしにとって、貴重な政治体験であった。
 小渕恵三や山下元利と親しくさせてもらったのも、朝食会の縁で、わたしが衆議院選挙出馬後、テレビのレギュラー出演をへて、政治評論家として活動を開始する以前の話である。
 日本皇民党による竹下登ほめ殺し℃膜潤i1987年)の仲介を依頼された件、あるいは、田中角栄の元秘書榎本敏夫から直接うかがった「ロッキード裁判丸紅ルート」における東京地検の証言捏造など、いずれ、田中派にまつわる話をのべる機会もあるだろう。

 昭和35年7月14日、池田勇人が党総裁選出されたその日、新総裁就任の祝賀会場から出てきた岸信介が右翼に大腿部を数か所刺されて全治2カ月重傷を負った。
 政治から経済の時代へきりかわった時期におきたこの事件が、テロの時代の幕開けになるとだれが予想できたであろう。
 7月19日 池田政権が発足。池田内閣は人心一新、政局転換、政治の基本姿勢を「寛容と忍耐」におき、所得倍増計画を軸に経済優先路線をすすめた。
 60年代は、豊富で質の高い労働力と技術革新、廉価で安定的な資源供給に恵まれて、高度経済成長の条件が整った時代だったのである。

 浅沼稲次郎暗殺―山口二矢のこと
 第1次池田内閣が発足した3か月後の10月12日、 浅沼稲次郎日本社会党委員長が右翼の少年山口二矢(当時17歳)に暗殺されるという事件がおきた。
 60年10月12日、日比谷公会堂で、同年十一月に予定されていた総選挙にむけて三党党首立会演説会がおこなわれた。
 6月19日の安保自動成立以降、反対派のデモも沈静化して、左右両陣営の政治的な衝突もなかった。
 日比谷公会堂は2500人の大聴衆で埋まり、会場は、野次や声援で熱気を帯びていた。
 講演は、民社党委員長の西尾末広、社会党委員長の浅沼稲次郎、自民党総裁の池田勇人の順である。
 浅沼委員長が演壇に立つと右翼団体の野次が激しくなって、司会者(NHKの小林利光アナウンサー)が「ご静粛に願います」と自制をもとめ、浅沼委員長がふたたびマイクにむかった瞬間のことだった。
 一人の少年が向かって右側の壇上に駆け上がり、もっていた銃剣で一突きして、振り回されるような状態から体ごとぶつかって二突き目を刺した。
 わたしは、山口が壇上に駆けのぼって、もっていた刃物で浅沼委員長の胸を2度突き刺した瞬間を眼前で見ている。
 その光景が、いまだ、目にうかぶ。

 脚注/「浅沼稲次郎暗殺事件」昭和35年(1960年)10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂において、演説中の浅沼稲次郎日本社会党委員長が17歳の山口二矢に刺殺された。逮捕後、山口は、東京少年鑑別所内で首吊り自殺した。壁に歯磨き粉を水で溶いた液で「天皇陛下万才、七生報国」と書き残していた。

 この事件で、赤尾敏(愛国党)、吉村法俊(全アジア反共青年連盟)、福田進(防共挺身隊)の3人が別件逮捕されたが教唆≠ヘ立件できなかった。
 吉村と福田は、赤尾敏の愛国党を経て、それぞれ、反共団体を結成したので、山口とは同門ということになる。
 新島闘争では、吉村と福田は、わたしが責任者だった独立青年党と連携して賛成派オルグとして活動していた。
 山口二矢も嶋中事件の小森少年も、赤尾敏に同行して、しばしば、来島して賛成派オルグ団にくわわった。
 吉村は、その後、三浦義一門下の西山広喜が主宰する昭和維新連盟と行動を共にしている。
 昭和30〜40年代の左右両陣営の衝突が暴力をともなったのは、日本共産党の暴力革命論(5全協/昭和26年)や血のメーデー事件(昭和27年)の余韻が濃厚に残っていたからで、当時、右陣営にとって、左翼暴力革命が絵空事ではなかったのである。
 30年代の砂川闘争や新島闘争、そして、安保闘争で、右陣営が暴力的になったのは、極左暴力革命にたいする対抗からで、右翼もまた身体をかけて国体をまもろうとする意識がはたらいたのである。
 新島闘争でも頻繁に暴力事件がおきた。反対派オルグによる防共挺身隊宿舎への襲撃事件や賛成派オルグにたいする傷害事件などで、わたしとともに運動していた松尾は腹部を刺されて重傷を負った。
「お前は行動隊長か」と問われて「そうだ」と答えたためで、隊長はわたしで松尾は副隊長だったので、気の毒なことをした。つねにわたしと行動をともにしていた小鹿という青年も、袋小路に追い込まれて木刀で足を折られている。
 のちに、革マルと中核派の内ゲバ、浅間山荘のリンチ殺人を知って、左翼の暴力主義の本質をみたような気がしたのは、その体験からである。

 浅沼事件の社会的衝撃は大きく、暴力反対の世論をかきたてずにいなかったが、例外があった。
「暴力行為はけっしていいものではない。だが、インテリジェンスのない青年がかねて安保闘争などで浅沼氏の行為を苦々しく思っていてあのような事件が起きたのもわからないではない」という経団連会長の石坂泰三の発言である
 山口に同情的な発言が猛反発をうけたが、小泉信三の後を受けて宮内庁参与に就任した石坂は、尊皇心が厚く、なにより、反共主義者だった。
 左右を問わず、政治行動が、すべて、理性や節度にもとづいているとはかぎらない。
 宗教も政治も、その思想の深層に、理性や節度をこえた狂気が存在する。
 暴力革命や文化破壊が左翼の狂気なら、右翼には、反革命や文化防衛、テロという狂気がある。
 インテリジェンスというのは、知識で、脳みその問題である。
 権力構造(政体)の操作なら知識で間に合うだろうが、文化構造(国体)とむきあうのは、知恵で、これは、心の問題である。
 民族の心は、神話や伝説、長い歴史に培われてきた祖国をまもる防人としての大義で、それが、私心なき誠である。
 左翼によるテロ(暴力革命)は、政権奪取だけが目的で、心も人間としてのきずなも、伝統も文化も、習慣も調和も、すべて捨てられる。
 狙うのは、あくまでも政体で、それが私心である。
 国体=文化の防人(右翼)と政体=権力の亡者(左翼)のちがいは、私心のあるやなしやなのである。

 七生と報国誓い 君は散る
    かなしき雄叫び 神は知るらむ

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2020年03月02日

わが青春譜3

 新安保条約調印
 1960年(昭和35年)1月、岸首相以下全権団が訪米、アイゼンハワー大統領と会談して、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。
 社会党や総評系労働組合は「安保改定阻止国民会議」を結成して、全国的な反対運動を展開、全学連も大規模な動員をかけて、反対運動は大きな高まりをみせた。
 全学連が機動隊と衝突をくり返して、多くの逮捕者を出すにいたって、公安調査庁は、全学連や共産主義者同盟(ブント)傘下の社会主義学生同盟、六全協(三〇年)以後、共産党と袂を分かった過激派などを、破壊活動容疑団体とみとめ、取り締まり体制を強化した。
 昭和35年1月19日、ホワイトハウスで新日米安保条約が調印された。
 しかし、これで条約改定は終わったわけではない。
 日本国における国会採決と承認(批准)を経なければ条約は発効しない。 

 日の本の 結びし 安保条約は
   平和をまもる 国のいしずえ

 強行採決
 新安全保障条約がホワイトハウスで調印されて以降、日本国内では、国論が二分されて、世情は騒然となった。
 国会では、審議拒否や乱闘騒ぎがくり返され、反対運動は、学者や市民団体の署名運動から全学連よる反対決起大会まで、日に日に高まりを見せて、デモ隊は数十万人規模にたっした。
 外国の干渉もくわわって、1960年1月27日、社会党や共産党、総評の安保反対活動を支援してきたソ連は、日本に外国軍が駐留する限り歯舞・色丹島は返還しないと表明、中国も、同年5月9日、北京で、日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会を開催して、100万人が参加した。
 5月19日、政府与党は「新安保条約」の強行採決にふみきった。
 そして、5月20日、衆議院本会議を通過した。
 委員会採決の際、自民党は、座り込みの社会党議員を排除するため右翼などから屈強な青年を公設秘書として動員している。
 左右両陣営の運動激化
 5月19日の強行採決後、6月19日の自然承認にかけて、デモの参加者は増え、抗議行動も全学連を中心に過激になってゆく。
 この頃、右翼の治安確立同志会の坂本勇ら4名が社会党の浅沼委員長にアンモニア入りのビンを投げつける事件もおきている(5月26日)
 当時の事件を時系列に羅列してみよう。
 1960年(昭和35年)
 1月19日・日米政府間で条約調印
 4月    全学連が警官隊と衝突
 5月20日・衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む
 6月10日・ハガチー事件(ホワイトハウス報道官が来日。羽田でデモ隊に包囲されて、海兵隊のヘリコプターで脱出)
 6月15日・全学連と警察隊の衝突で、東大学生の樺美智子が転倒した学生らの下敷きとなって死亡。国会周辺で、デモ隊と右翼百数十人と大乱闘、双方で二十六人が検挙
 6月16日・政府はアイゼンハウワー大統領の訪日招待延期を発表
 6月17日・在京新聞7社が共同声明発表。デモ隊の暴力を批判、社会党に国会審議復帰を呼びかける。自民党の強行採決を批判して、反対運動を煽ってきた新聞マスコミが、アイゼンハウワー大統領の訪日延期後、一転して、全学連らの批判に回った
 6月17日・社会党河上丈太郎、右翼に刺され負傷
 6月19日・日米新安保条約が自然成立(23日に発効)。反対派デモ30万人が国会を取り巻く。
 空前の規模となったデモは、一部、暴徒化して、警察力だけで鎮圧することが不可能なのは明らかであった。
 岸首相は、赤城宗徳防衛庁長官に、陸上自衛隊の治安出動を要請した。
 赤城長官は、辞表を懐に「出動要請に応じれば、国民に銃口を向けることになる。自衛隊に国民を撃てと命じることはできない」と岸の要請を断った。
 60年安保に自衛隊が治安出動していれば、国家と国民の一体感が害われることになって、池田内閣の国を挙げての経済成長政策も失敗に終わっていたであろう。
 赤城長官の決断は正しかったのである。
 警察と右翼団体だけでデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、自民党の「アイク歓迎実行委員会」の橋本登美三郎委員長を暴力団関係者の会合に派遣して、児玉誉士夫を筆頭に松葉会の藤田卯一郎、錦政会の稲川角二、住吉会の磧上義光、関東尾津組の尾津喜之助ら多くの任侠や博徒、テキヤ団体の協力をとりつけた。
「アイク歓迎実行委員会」が、このとき想定した動員数は、全日本愛国者団体会議や1958年に岸が発案して木村篤太郎が率いる新日本協議会ら右翼団体4000人余とその数倍にもおよぶ任侠、博徒ら数万人で、アイゼンハワーの来日が実現していたら、デモ隊と、暴力団員をふくむ右陣営の未曾有の激突が実現していたはずである。
 6月23日・白金の外相公邸で批准書の交換など日米新安保条約の全手続きを終了。
 岸内閣は「人心一新」「政局転換」を名目に総辞職を発表
 全学連のデモや野党の激しい抵抗は、岸退陣によって、休息に終息へむかう。
 新安保は、アメリカが一方的におしつけた旧安保の抜本的な改正で、内乱の鎮圧や第三国への軍事的便宜提供禁止などの内政干渉が削除されている。
 だが、当時、新安保の内容にふれたメディアはなかった。
 旧安保は、そもそも、日本に軍事力がなかった時代の条約で、治安も防衛もアメリカに依存する一方、日本防衛が明文化されていなかった。
 新条約では、日本が他国から攻撃された場合、日本とアメリカが共同防衛にあたるほか、日本国内のアメリカ軍基地の利用には事前協議が必要となる。
 新安保条約は、日本の安全保障と国際的パートナーシップをアメリカにもとめるもので、左翼がこれに反対したのは、ロシアや中国から革命を輸入しようという革命軍だったからで、もともと、反米・反日だったのである。

 全学連の母体である共産主義者同盟(ブント)はマルクス・レーニン主義やプロレタリア国際主義、世界革命を掲げて、これが三派全学連(成島忠夫)やのちのよど号ハイジャック事件(田宮高麿ら)、日本赤軍(重信房子)、共産同赤軍派(塩見孝也)、連合赤軍(森恒夫)、12人の同志を殺害したあさま山荘事件(永田洋子)へつながってゆく。
 70年安保が大きな騒動にならなかったのは学生運動が死んだからである。
 日本共産党からブントが分裂したように、日本共産党から革命的共産主義者同盟(革共同)が分裂、さらに分裂して、革マル派と中核派がうまれた。
 内ゲバで100人以上の死者をだした革マル派と中核派、三菱重工爆破事件の東アジア反日武装戦線に大衆動員の能力はなく、全共闘の東大安田講堂事件(山本義隆)も日大紛争(秋田明大)も政治的な波及効果はなかった。
 全学連をふくめた極左が滅びたのは政権(政体)奪取を狙ったからである。
 国家は、権力(政体)と文化(国体)の二元構造で、権力は一過性で交代をくり返すが、文化や文明は、歴史の永遠性と連続性に拠って立つ。
 暴力で政体を脅かすことはできても、国体たる文化や文明はびくともしない。
 のちにのべるように、60年安保騒動の際、自民党に利用された暴力団系の右翼(任侠や博徒、テキヤ団体)がすがたを消すのは、政治や権力に関与したからである。
 ソ連崩壊後、反共という金看板を失ったが、本来、右翼は、国体護持が使命である。
 頭山満の玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の3つの社則を掲げたが、政治には一言もふれていない。
 頭山満は盟友の犬養毅(第29代内閣総理大臣)からなんども入閣の誘いをうけたが首を縦にふらなかった。
 右翼は国体の防人で、政体の番兵ではない。
 日米安保条約も、北方領土と同様、国体ではなく、政体の問題で、問われるのは、国益と国家の安全である。
 日米安保体制が日米両国にとって有益だったのは、アメリカは、対ソ冷戦に勝利して、日本も、すべてを失った敗戦国から世界の6大強国へのしあがったことからも明らかである。
 かつて、日英同盟は20年で破棄されて、日本は、ワシントン会議における四カ国条約に翻弄される。
 そして、アジア・太平洋地域のワシントン体制とヨーロッパのヴェルサイユ体制が、やがて、日独を戦争へ駆り立ててゆく。
 日米は、自由と民主主義を共有する同盟国だが、伝統国家と革命国家というちがいもあって、同盟の維持が、相互理解と利害の共有、双方の努力にあるのはいうまでもない。
 国家は共に闘うことはあるが、運命は共にしない。(ド・ゴール フランス大統領)
 国家は永続する友好関係もなければ永続なる敵もいない 。永久に存続するのは国益のみだ(ヘンリー パーマストン 英国首相)
 けだし名言である。


posted by office YM at 18:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする