2020年04月27日

わが青春譜7

 経済自立と思想運動
 60年安保という嵐が過ぎ去ったあと、政治の岸内閣から政権をひきついだのが、経済中心の池田内閣だった。
 自民党政治は、鳩山一郎や岸信介ら政治や外交、憲法改正に熱心だった旧日本民主党系と、経済一辺倒の吉田茂以来の旧自由党(保守本流/「宏池会」)系が、交代に政権を担当して、政治と経済のバランスをとってきた。
 そのなかで池田勇人は、佐藤栄作に並ぶ吉田学校の優等生で「経済は池田にまかせなさい」と豪語する経済派だった。
 池田内閣の発足をもって、時代のパラダイムが、政治から経済に移ったとはいえ、右翼のテロ事件や極左の暴力事件(学園紛争/浅間山荘事件/内ゲバ殺人)が、70年安保前後まで、断続的につづく。
 だが、60年安保とちがって、国民の共感をえるどころか、反発と恐怖心、嫌悪を招いただけだった。
 国民の関心は、経済にむけられて、池田の「所得倍増計画」が軌道にのった70年代には、「一億総中流」ということばがうまれた。
 この頃から、地方の中学校卒業者が大都市の企業へ集団で就職する「集団就職」がはじまって、急カーブを描いて成長する経済をささえる若い労働力は「金の卵」と呼ばれた。
 経済成長にともなう労働インフラの整備や人口の大都市集中によって、建築ブームがおきると、一般建築のほか、日本住宅公団や自治体が中心の住宅供給事業もさかんになってきた。
 わたしは、昭和37年、新宿区百人町に、東亜興行という会社をおこした。
 建築現場の清掃人を派遣する人材会社で、折からの建築ブームをみこしたものだったのはいうまでもない。
 仕事の内容は、ゼネコンなど建築事業者が、完成した建物を発注者が引き渡す前のクリーニング(清掃)である。
 仕事は、思ったよりも順調にすすみ、予定よりも多くの作業員を雇うことができた。
 東亜興行をおこした理由は3つあった。
 1つは、経済的自立で、わたしは、政治運動に、経済的自立が不可欠という信念をもっている。
 寄付や賛助金に頼る政治活動が、純粋な志を腐らせ、堕落していう例をいやというほど見てきたからだった。
 2つ目の理由は、新島闘争や安保闘争などで共に闘った仲間や同志に正業の職場を提供したかった。
 3つ目は、思想運動の拠点をつくることで、東亜興行にわたしの個人事務所を併設して、かつての仲間や同志と反共尊皇の政治活動をつづけた。
 昭和39年の春、新島闘争や安保闘争の同志だった吉村法俊が事務所に訪ねてきた。
 吉村は、中堂利夫(アジア反共青年連盟)や山口二矢とともに大日本愛国党をとびだして、防共挺身隊の福田進(福田素顕の長男)らと共闘する右翼活動家で、わたしと意気投合するところが少なくなかった。
 話を聞くと、吉村は、安保闘争後、三浦義一門下の西山幸輝が率いる政治団体(昭和維新連盟)に招かれて、活動しているという。
「いっしょにやってくれないか」
 新宿に事務所を立ち上げて2年目のわたしに吉村の誘いを断る理由はなかった。
 西山は、京橋の「西山幸輝事務所」を拠点に「財団法人・日本政治文化研究所」と「政治結社・昭和維新連盟」という2つの団体を主宰していた。
 さらに、西山は、明治時代から終戦まで刊行されていた『日本及日本人』の版権を日本新聞社から買い取って復刊させる準備をすすめていた。
 西山は、わたしに「日本及日本人」社の営業担当役員と株主をひきうけてほしいという。
 編集や営業は「日本及日本人」社でおこなったが、本の発送は、すでにのべたように日本学生同盟の学生に協力してもらった。
 そのなかに、三島由紀夫とともに市ヶ谷の自衛隊本部へのりこんで割腹自殺した森田必勝がいた。
 新島闘争でともにたたかった山口二矢も「日本及日本人」社でともに働いた森田必勝も、愛国の烈士だが、わたしの印象に残っている面影は、あどけない少年のものだった。

 わたしは「日本及日本人」の出版をつうじて、政治運動が力ずくや手練手管だけの世界でないことを知った。
 政治は、文化活動でもあって、そのなかに、出版や講演、討論会などがふくまれる。
 60年安保で、自民党は、団体右翼からアウトローまで動員して、反対運動をおさえこんだ。
 その後、全学連や極左集団は、分裂と内ゲバで自滅してゆくが、日本の隅々にまで浸透した左翼や反日、反伝統主義、GHQが仕込んでいった亡国思想には拭いがたいものがあった。
 政治は、権力で、革命活動やテロは、警察力でおさえこむことができる。
 だが、日本は、政体のほか、2000年の国体をもった伝統国家である。
 警察力や自衛隊で、権力をまもることができる。
 だが、国体を危うくする文化侵犯を武力でまもることはできない。
 文化の侵犯にたいしては、文化をもって防衛しなければならない。
 それには、啓蒙活動が、必要なのではないだろうか。
 60年安保で、右翼は、自民党からの要請をうけて、左翼の暴力にたいして暴力をもってたちむかった。
 しかし、右翼は、自民党という権力(=政体)から利用されただけだった。
 右翼がまもるべきは、権威(=国体)で、自民党や警察に利用される道具であってはならない。
 文化防衛は、言論によって、なされるべきではないか。

  衆議院議員 中川一郎と共に啓蒙運動
 昭和40年代の三派全学連や全共闘の学園紛争や東大闘争が掲げたスローガンに日米安保条約の破棄があった。
 日米安保条約は、条約当事国の片方が破棄宣言をしないかぎり自動継続する。
 したがって、70年安保は、争点にならなかったが、左翼は、安保をタテに政治をゆさぶった。
 すべて、デマゴギーだが、ファシストも共産主義者も、大衆運動に、デマゴギーを欠くことはできないと、公然とみとめている。
 それなら、デマゴギーを粉砕する正論でたたかいを挑んでいこう。
 相談にのってくれたのは、大野伴睦の秘書時代から親しくさせてもらった中川一郎(衆議院議員)だった。
 中川一郎を大会委員長、わたしと五味武(国会タイムズ社長)が世話人をつとめて新宿文化会館で第一回国民討論大会を開催した。
 テーマは「安保は国民に幸せをもたらすか」で、当時、日本人は、日米安保条約がなんたるものか、まったく知らなかった。
 マスコミが、感情的な反対論とデマゴギーをくりだすだけで、内情をなにも知らせなかったからである。
 第1回大会国民討論会 大会委員長/中川一郎(衆議院議員)
 講師/長谷川仁(参議院議員)/源田実(参議院議員)/戸川猪佐武(評論家)/田中栄一(衆議院議員)/藤島泰輔(作家)/山岩夫(日大教授)
 国民討論会では、講演の後、講師と聴衆が活発に質疑応答をおこなった。
 講師と聴衆がその場で直接ことばをやりとりすることで、会場は、おおいにもりあがった。
 第一回大会が成功裏に終って、第二回目からは、わたしが主催者となって、年4回のペースで、討論会形式の講演会を継続することにした。
 第2回大会国民討論会(新宿厚生年金会館)
 講師/村松剛(評論家)/戸川猪佐武(評論家)/齋藤栄三郎(評論家)
 第3回大会国民討論会(東商ホール)
 講師/鵜沢義行(日大教授)/戸川猪佐武(評論家)長谷川仁(参議院議員)
 以下、そのほかの講師の氏名だけを記す。
 大森実(評論家)/中山正暉(衆議院議員)、村上兵衛(評論家)船戸英三(領土問題研究家)/黛敏郎(音楽家)/多田真鋤(慶應大学教授)/深谷崇(衆議院議員)御手洗辰男(評論家)/山岩夫(日大教授)/浜田幸一(衆議院議員)/藤原弘達(評論家)
 わたしは、東亜興行の経営をまかせて、「日本及日本人」の出版と国民討論会に熱中するが、やがて、西山幸輝や三浦義一先生との関係が深まって、わたしの人生航路は大きく転換する。
 そのことについては、別項でふれよう。
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2020年04月09日

わが青春譜6

全日本愛国者団体会議
(右翼結集/全愛会議結成)

 1959年(昭和34年)。右翼団体の連合体として国内最大となる「全日本愛国者団体会議」が設立された。
 綱領は「国体護持、反共戦線」の二点だけだった。
 右翼は、世俗的政党のように、共通の目的や政策を掲げて、政権をもとめる意図も経験も、歴史ももっていない。
 綱領が二点に絞られたのは、右翼は、思想や行動も、一人一党のお山の大将だったからで、大同をとって、小異を捨てたのである。
 発会時、参加したのは、全国80団体だったが、5年後の1964年(第6回大会)には440団体に増加した。
 戦前戦後をつうじて、同じ旗の下に、かくも多くの右翼が、同志的結束心をもって集結した例はない。
 右翼が、大同団結ができた理由の一つは、日本共産党・全学連・労組ら革命勢力の大躍進であった。
 昭和23年の総選挙で35議席を得た日本共産党の暴力革命(五全協)路線にくわえて、三池争議や砂川闘争、そして、60年安保闘争によって、体制維持が危険水域にたっして、右翼陣営に危機意識が高まった。
 もう一つの理由は、議長や顧問らが、右翼史に名を残すカリスマ性をもっていたことだった。
 初代議長をつとめたのが佐郷屋嘉昭(日本同盟)で、佐郷屋亡き後は、小崎金蔵(日本同盟)、高橋正義(日乃丸青年隊)、西山幸輝(昭和維新連盟)、荻島峯五郎(日本国粋会前川一家総長)らが議長団を形成した。
 最高顧問には、戦後最大の黒幕といわれた三浦義一、血盟団事件の井上日召、五・一五事件の橘孝三郎、児玉機関の児玉誉士夫が就任した。
 このほか、新日本協議会や日本郷友会など自民党の外郭団体がくわわった。
 全愛会議の活動の中心となったのは青年部だった。
 高橋正義(義人党のち青思会議長)
 石井一昌(護国団団長)
 福田進(防共挺身隊)
 吉村法俊(全アジア反共連盟のち昭和維新連盟)
 遠井司郎(靖國会・司山會)
 小林健(愛国青年連盟)
 筑紫次郎(東洋同志会)
 わたしも、若輩ながら青年部の幹部として、会議や情宣活動にくわわった。
 佐郷屋留雄議長や井上日召最高顧問が意気軒昂な時代だった。
 この青年部が40〜50年代の民族主義運動の柱となってゆく。
 昭和37年、全愛会議青年部の一部が、児玉誉志夫の影響下で、高橋正義を議長とする青年思想研究会として独立、児玉軍団と呼ばれるようになる。

 脚注「五全協」/日本共産党が第5回全国協議会(1951年)で採択した綱領。暴力革命必然論にもとづく武装闘争方針で、この綱領の下で、交番襲撃などの暴力事件が次々とおきる
 脚注「佐郷屋留雄」/濱口雄幸首相暗殺未遂犯。玄洋社系愛国社党員。1930年、東京駅ホームを移動中の濱口雄幸首相を銃撃、重傷を負わせる。佐郷屋は現行犯逮捕された。濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。佐郷屋は殺人罪により死刑判決を受けるが恩赦で無期懲役に減刑された。事件から10年後、仮出所する。1954年、血盟団事件の首謀者である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、後に団長となる。1959年に全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
 脚注「橘孝三郎」/国家主義運動家。農本主義を唱え、愛郷塾を創立して青年を指導。五・一五事件に塾生を率いて参加する。出獄後、著作活動に専念。全愛会議の最高顧問
 脚注「児玉誉志夫」/政財界の黒幕として活動。ヤクザやテキヤ、任侠、裏社会にもつよい影響力を持っていた。戦時中、上海の「児玉機関」や軍需物資鉱山などの利権でえた数億ドルの資金で、戦後の政界を牛耳った。結党資金を提供した鳩山一郎(日本民主党)のほか、三木武吉や岸信介、河野一郎らと親しく、次期総理大臣を岸から大野伴睦に譲り渡す誓約(河野一郎と佐藤栄作が署名)の立会人もつとめた。安保闘争時、木村篤太郎は、ヤクザ・右翼の動員をはかったが、児玉は、その世話役をはたした。
 脚注「井上日召」/一人一殺≠フ血盟団事件の首謀者として無期懲役。1940年、特赦を受けて出獄。1954年、佐郷屋嘉昭と護国団を結成、初代団長。全愛会議最高顧問。右翼活動から引退後、三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。
 脚注「血盟団事件」/1932年におきた連続テロ事件。井上準之助と團琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶、井上日召の国家改造計画。「政財界の指導者暗殺と海軍のクーデターを連動させて、天皇中心の国家革新を実現させる」という構想だった。犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らが暗殺対象として挙げられた。

 自民党と暴力団
 岸信介首相が、川島正次郎(自民党幹事長)や橋本登美三郎(「アイク歓迎実行委員会」を介して、児玉誉士夫に右翼団体や暴力団の取りまとめを依頼したのは、警察の警備不足を補うためだった。
 陸上自衛隊の治安出動は、赤城宗徳防衛長官が、辞表を懐に岸首相の要請を断っている。
 国会を取り巻いた30万人(警視庁発表13万人)をこえるデモ隊が労組や全学連らの指導で革命軍化すれば、血のメーデー事件をはるかにこえる体制の危機が生ずる。
 血のメーデー事件では、警官隊の数倍のデモ隊が襲いかかって、死者2人に重軽傷者1500人という大惨事になった。
 児玉は「警官補助警備力」として、芝の御成門周辺だけで、稲川組5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、神農愛国同志会(博徒・的屋連合)10000人の配置をきめたが、この打ち合わせに警視庁も同席していたという。
 児玉の「東亜同友会」(全国博徒による反共組織)構想は、錦政会と山口組が衝突したグランドパレス事件(昭和38年))で流れるが、松葉会、錦政会、住吉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会が児玉の呼びかけに応じて、「関東会」を結成する。
 関東会は、加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200人に送りつける。
 政治に介入してきた暴力団にたいして、権力は反撃に転じる。
 昭和39年(1964年)1月に「暴力取締対策要綱」が閣議決定されると同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置、山口組(神戸)、本多会(神戸)、柳川組(大阪)、錦政会(熱海)、松葉会(東京)の5団体を広域暴力団と指定して、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始するのである。

 ヤクザと縁を切った池田政権
 日米安保条約は1960年6月19日に自然成立。同月21日に批准されて昭和天皇による公布。そして、同月23日の条約発効をもって岸首相は退陣を表明した。
 同年7月19日。池田勇人内閣が成立すると、反対運動は急激に退潮した。
 安保反対が、強行採決反対と岸内閣打倒へ傾いて、安保改定への反対運動という性格が薄くなっていたためであろう。
 岸首相は、総辞職の前日(7月15日)、暴漢に襲撃され重傷を負った。
 動機は、安保問題ではなく、岸が、大野へ政権を禅譲する密約を反故にしたためで、犯人は、大野伴睦と縁のある人物だったという。
 児玉誉士夫が立会人になって、岸から河野一郎、河野から大野伴睦へ政権をたらい回しにする約束がまもられなかったとするもので、念書には佐藤栄作の署名もあったとつたえられる。
 ヤクザとむすびついていたのは、岸信介や河野一郎、大野伴睦ら政治路線派で、河野らと親しい関係にあった児玉は「関東会」の名で、自民党の全議員に警告状を送りつけていた。
 政権は、岸の政治路線から、すでに、経済路線派の池田勇人に移っている。
 池田・佐藤ら官僚派は、怯えるどころか、反撃に出る。
 とりわけ、所得倍増論の池田は、高度経済成長という大展望の下で、寛容と忍耐の政治を打ち出したばかりで、支持率も上がって、自信を深めていた。
 浅沼稲次郎刺殺事件や家政婦と夫人が殺傷された嶋中事件、クーデター未遂(三無事件)や河野一郎邸放火のような殺伐とした事件が相次ぎ、国民は政治の時代にうんざりもしていた。
 池田内閣は、1961年、「政治的暴力行為防止法案」を国会に提出した。
 団体活動としての政治的暴力行為を禁じるものだったが、労組への適用をおそれた社会党の反対で、衆議院で可決されたものの、参議院で廃案となった。
 政暴法は廃案になったが、警察当局は、この法案をきっかけに、街宣右翼や過激派への取締りを強化してゆく。

 右翼と反共
 右翼の尊王は、国体思想のことで、国体の中心におられるのが天皇である。
 歴史や伝統、文化などの国体を敬うことと天皇を敬愛することは同じ次元にあって、それが、伝統国家である。
 伝統国家が、国体と政体の二重構造(二元論)になっているのはいうまでもない。
 政体とは、権力構造のことで、強者の論理である権力は、ときには、野蛮で暴力的なものとなる。
 国体と政体、権威と権力の二重構造にあるわが国では、権力(幕府)に施政権の正統性を授ける権威(朝廷)が、権力の暴走をおさえこんできた。
 永遠の権威、国体が、一過性の権力、政体を監視するのである。
 この歴史的仕組みは、現在も、天皇の国事行為や三権の長の認証などとして残っている。
 国体をまもる右翼は、文化の防衛者で、天皇の防人である。
 民を大御宝として慈しむ皇祖皇宗の大御心が、日本の右翼にとって、まもるべき唯一のものなのである。
 天皇=国体の最大の敵が共産主義革命である。
 反共・防共を特化した右翼が反共右翼である。
 60年安保で、自民党に利用されたのが、この反共イズムで、右翼団体だけではなく、任侠や博徒、広域暴力団が、政治結社の看板を上げて左翼革命勢力にたちむかった。
 このとき、右翼は、国体の防人ではなく、政体の守護者となった。
 日米新安保条約が批准されて、全学連や極左、過激労組などによる暴力革命の危機は去った。
 危機をのりこえた政府が、それまで利用してきた暴力団右翼の排除に動いたのは、むしろ当然で、任侠や博徒、広域暴力団は、政治結社の看板を下ろして元の家業にもどっていった。
 一方、右翼は、もともと、文化の防衛者で、国体の防人である。
 政治問題に立ち上がったのは、共産主義革命から国体をまもるためだった。
 自民党がリベラル保守なら、右翼は、ラジカル保守で、伝統主義者である。
 民主主義を奉る自民党は、けっして、保守主義政党ということはできない。
 自民党は、政体に属する集団で、目的は、権力の獲得と運用である。
 一方、右翼は、国体の側にあって、国体の象徴たる天皇の防人である。
 右翼と自民党が手をむすぶのは、価値観や歴史観が近いからである。
 だが、世俗的権力をもとめる自民党と、超俗的権威をまもる右翼は、同列にあるわけではない。
 まして、右翼は、自民党の補完勢力ではない。
 60年安保という革命の危機に右翼は、左翼の暴力に暴力で対抗しただけである。
 嵐が去って、日本は、経済大国の道を歩みはじめた。
 右翼は、ふたたび、天皇をまもる草莽の志士へと立ち返っていったのである。

 君臣が 一つとなりて栄えたる 
   大和島根に 在わす喜び

 民の幸 神に祈れる すめらぎを 
   神に見立てて 永久の国体

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