2020年05月25日

わが青春譜11

 ●連盟会長を継いでくれないか
 西山幸輝から、昭和維新連盟の会長をひきうけてもらえないかと相談をもちかけられた。
 昭和44年の春のことである。
 西山は、政治結社「昭和維新連盟」のほか、財団法人「日本政治文化研究所」や出版事業「日本及日本人社」などの文化的事業を手がけており、大学教授や評論家、作家ら多くの文化人が研究所や財団の理事や顧問を務めていた。
 昭和維新連盟は、反共と国体護持を旗印にする実践的な右翼団体である。
 昭和維新連盟が、学者や文化人がくわわっている「日本政治文化研究所」や「日本及日本人社」の関係団体というのでは、世間の通りがよくなかった。
 西山が、昭和維新連盟から距離をおこうとしたのは無理からぬことであった。
 西山がわたしに白羽の矢を立てたのは、新島闘争と安保闘争を体験してきた経歴をふまえてのことだったと思うが、わたしにも、反共・尊皇思想をきわめたいという気概があった。
 わたしは「日本政治文化研究所」の理事と「日本及日本人社」の役員を辞任して、いわば、身一つとなって、政治運動にのりだしてゆく。
 昭和維新連盟は、新宿大久保通りに面したビル(科研ビル)ワンフロアーを借りきって、そこへ本部を移して、活動を開始した。
 昭和維新連盟の活動については、いずれのべるが、ここでは、独自の活動を展開する異色の存在だったとだけ記しておく。
 この時点で、昭和維新連盟は、三浦義一が顧問をしていた全日本愛国者団体会議(全愛会議)から37年の独立した青年思想研究会(青思会)に加入していた。
 青思会は、児玉誉士夫の影響がつよく、児玉軍団といわれた。

 ●西山、児玉門下に馳せ参じる
 昭和46年4月10日、三浦義一が逝去する。
 三浦の葬儀を終えた数日後、西山幸輝から食事の誘いがあった。
 財団や雑誌社を退職して以来、久々の邂逅であった。
 その席で、わたしは、西山から、思いがけないことを聞かされる。
 三浦義一が、生前、じぶんが死んだ後、児玉誉士夫に相談しなさいといっていたというのである。
 わたしは、三浦義一門下であることを誇りに思っていた。
 昭和維新連盟をひきうけたのも、心のどこかに三浦義一の反共・尊皇思想があったからで、わたしの右翼思想の根幹に三浦がいたことを否定できない。
 西山も、わたし以上、三浦にたいして畏敬の念をもっているはずだった。
 その西山が「児玉門下となる」という。
「三浦義一亡き後、児玉誉士夫が、政財界に大きな影響力をもつことになるでしょう。しかし、児玉には、児玉軍団の青思会を率いる高橋議長ほか、多くの直参がいます。いまから、児玉門下に馳せ参じても、所詮、外様です」
 だが、西山の意思は固く、三浦義一門下をつらぬくべきというわたしの意見は容れられなかった。
 数日後、わたしは、上野の青思会本部に高橋議長を訪ね、脱会を申し入れた。
 その足で、同じ上野にあった全愛会議の本部を訪れ、萩島峯五郎議長と岸本力男事務長に脱退を告げた。
 萩島峯五郎議長とは気が合い、岸本力男事務長は、安保闘争・北海道遠征の戦友である。
 両者からつよく翻意を促されたが、わたしに枉げる気はなかった。
 以後、昭和維新連盟は、どこの組織にも属さない団体として、独自の運動を展開してゆくのはのべたとおりである。
 これら一連の行動は、わたしが独断でおこなったことで、西山は、関与していない。

 ●遠謀の策か、高等な処世術か
 その後、西山は、青思会の事務局に永井龍、全愛会議に吉村法俊を送りこんでいる。
 それが、西山の政治力で、わたしの独断専行で、多少、波風が立った関係を修復したばかりか、児玉の死後、直参の猛者をさしおいて、政財界に影響力をもつ最後の黒幕といわれる存在となった。
 昭和維新連盟時代のわたしが、硬派の力尽くなら、西山は柔軟な知恵尽くのひとで、長いものには巻かれても、ひと扱いや処世術の巧さからのし上がってゆく遠謀の策士であった。
 もともと参議院議員松本治一郎(社会党最高顧問)の秘書として上京、三浦の高弟、関山義人との縁から三浦門下になったひとで、思想的にはわたしよりはるかに柔軟なところがあって、現実的な対応力にもすぐれていた。
 わたしは、昭和49年に、右翼活動から引退して、評論や講演、執筆などの大衆啓蒙運動を開始したので、西山と、やや疎遠になった。
 仄聞するに、晩年の西山は児玉門下ではなく、三浦義一門下を名乗っていたという。
 児玉の軍門に下ったのは、やはり、遠謀の策か、高等な処世術だったようである。
 高杉晋作は倒幕の決意をこう詠んだ。

 西へ行く 人を慕いて 東行く
     わが心をば 神や知るらむ


 西山の心情が少し理解できるような気がする。
 だが、わたしは、頑なに、三浦にこだわった。
 尊王攘夷の志士、平野国臣は、桜島に向かってこう詠じた。

 わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば
     煙はうすし 桜島山


 わたしは、国臣の尊皇の心のはげしさにひかれるのである。


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2020年05月17日

わが青春譜10

 ●三浦義一先生余話
 昭和40年初旬から、中川一郎(衆議院議員)とともに講演・公開討論会を開始した。
 国民啓蒙運動と銘打ち、わたしが経営にくわわった雑誌「日本及日本人」がこの活動の後援に立った。
 この講演・公開討論会が、事実上、わたしの社会運動の第一歩だった。
 この頃、三浦事務所の内田秘書から三浦義一先生のお世話役を仰せつかった。
 三浦先生は、足が少々不自由で、葬儀など外出時に介添え役が必要だった。
 ボディガード的な要素もあって、体格がよかったわたしが目をつけられたのであろう。
 三浦義一は、GHQ参謀第2部(G2)とつながりをもっていた。
 キャノン機関で知られるG2は、反共防諜機関で、日本解体をすすめていた左翼的なGHQ民政局(GS)と対立していた。
 民政局を仕切っていたのが容共派のチャールズ・ケーディスで、反共主義のチャールス・ウィロビー(G2部長)と敵対関係にあった。
 ケーディスを追い落とした女性スキャンダルの裏にいたのが三浦義一だった。
 東京裁判に反対した日本好きのウィロビーと、尊皇思想家である三浦義一の友情の深さは知る人ぞ知る。
 三浦義一は、戦後復興に際して、裏面から日本の政界や財界をささえてきた。
 したがって、三浦先生のお供にあたって、多くの財界人や政界人、文化人と出会うことができたが、終始、「見ざる聞かざる言わざる」を信条としてきたのは、供人の分を忘れたくなかったからである。
 三浦先生が逝去して、約50年、半世紀の歳月が過ぎた。
 戦後の焼け野原からから70年、日本は、世界に類のない復興を成し遂げたが、今日の繁栄や発展が、歴史書に書かれたきれいごとだけで達成されたわけではない。
 若い人は、現在の日本の平和は、憲法9条によってもたらされたという。
 だが、60年安保をたたかった保守派は、日米安保が日本の安全をまもっているというきびしい現実を知っている。
 物事には表と裏がある。格好の良い背広が、けっして表にでてこない裏地にささえられているように、裏地には、裏地の役割がある。
 戦後、占領軍の支配下におかれて、危機に瀕した国体や伝統文化、国家機能をまもってきたのは、保守派で、外国に媚びをうる国際派・容共派ではなかった。
 その保守派の裏側にいたのが、裏地いわゆる黒幕で、三浦がその一人だった。
 明治維新においても、薩長にたいして、会津藩や庄内藩、奥羽列藩同盟以下31藩が敵対したが、国家を思う気持ちにかわりはなかった。
 歴史書には「朝敵」と書かれるが、薩長は天皇を政治利用しただけで、会津藩以下、朝敵と呼ばれた33藩こそ尊皇的だった。
 歴史は、かくも、表面的なもので、昭和史も例外ではない。
 戦後、黒幕と呼ばれた三浦義一が、日本の復興にいかに貢献したいか、いかに政財界に大きな力をもっていたか、かつての側近が、「見ざる 聞かざる 言わざる」を破って その片鱗を語っても、今なら、三浦先生は、わらってゆるしてくださるだろう。

 ●建国記念日の成立について
 昭和25年、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本は独立国家となった。
 その翌年から、国家の誕生日である紀元節復活のうごきが出てきた。
 といっても、紀元節は、昭和23年占領軍によって廃止されている。
 昭和32年、自由民主党は、議員立法として、紀元節に代わる「建国記念日法案」を提出した。
 だが、これを「反動的法案」とする社会党の反対によって、参議院で廃案となった。
 その後、自民党は、建国記念日法案を9回にわたって提出するが、ことごとく、社会党の反対でつぶされる。
 昭和38年、社会党は「建国記念日」にの≠入れる「建国記念の日」の改定案で妥協した。
 社会党が法案にの≠挿入することで妥協したのは、世論の批判があったからである。
「建国記念日」を「建国記念の日」へ修正して、政党の面子をたもとうというのであろう。
 昭和41年、佐藤内閣で「建国記念の日」の祝日法改正案が成立した。
 あとは、建国記念の日を「いつ」にするかだけで、日にちの決定は、有識者による審議会にゆだねられた。

 ●「幹事長、2月11日でなければ責任をとれんぞ」
 昭和41年11月頃、田中角栄幹事長が室町の三浦事務所を訪れた。
 三浦と会談後、部屋の出口で、三浦が田中に念をおした。
「2月11日でなければ責任取れんよ。いいかね、総理にそうつたえてくれんかね」
 田中は、黙って、頭を下げて退出した。
 三浦は、うなずき「うん。これできまった」とつぶやいて、自室に消えた。
 佐藤政権の背後に三浦がいたことは、当時、政界通ならだれもが知るところで、歴代総理大臣にも、これまで、黒幕人脈が隠然たる力をもっていた。
 総理府に設置された「建国記念日審議会」では、6月頃から建国記念の日をいつにするか審議された。
 だが、野党案には、日本の終戦記念日8月15日をあてるべきという国辱的な意見まであって、収拾がつかなかった。
 野党の多くが、日本を否定することが正義というGHQ仕込みの反日主義に立っているので、昭和23年、GHQが否定した紀元節にもとづく2月11日案はどこからもでてこなかった。
 紀元節は、古事記や日本書紀が、日本の初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、神武天皇元年の1月1日 (旧暦)を新暦に換算すると2月11日になる。
 尊皇思想家 三浦にとって、日本の建国記念日は2月11日以外あろうはずがなかった。
 三浦が田中につたえた「責任取れんよ」は右翼の動向だったと思われる。
 40年代初めの右翼陣営は、60安保闘争が終わって間もなく、依然として大きな組織力と行動力をもっていた。
 政府も、右翼の存在を無視して、紀元節=建国記念日という民族的テーマをおざなりに扱うわけにはいかなかったのである。
 戦後、占領軍によって廃止された紀元節は、佐藤内閣によって「建国記念の日」として復活して、2月11日が、晴れて、国民の祝日となった。

 ●「永田を車に入れておけ」
 昭和40年代、大相撲の人気力士だった北葉山の結婚披露宴が帝国ホテルの宴会場でおこなわれた。
 三浦は、双葉山会の顧問を務め、相撲界では著名人であった。
 昔は、夜の11時、NHKで「大相撲ダイジェスト」という番組がその日の取り組みを放映したものである。
 その映像に、土俵近くのマス席で観戦する三浦の姿がよく見られた。
 北葉山の結婚披露宴に出席する三浦に、昭和維新連盟の西山幸輝とわたしが同席した。
 三浦は、大好物のスコッチウイスキー「オールドパー」の水割を飲みながら挨拶にくる人々と挨拶を交わし、談笑していた。
 三浦の隣席に座っているのは、銀座の最高級クラブといわれたAのオーナーママで、オールドパーの小瓶をハンドバッグに入れている。
 三浦のグラスが空になると、ママが、ハンドバッグからオールドパーの小瓶をとりだして、水割りをつくって、三浦の前に置く。
 そのうち、大映映画社長の永田雅一が挨拶にやって来た。
 永田は、顔の広い実業家で、政界にも広い人脈をもち、河野一郎衆議院議員や右翼の児玉誉志夫とも近しい怪人物として知られていた。
 女優を妾にしながら「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と言い放つ映画界の父、プロ野球の名物コミッショナーで、大言壮語するところから「永田ラッパ」の異名もあった。
 その永田が三浦の脇のママを相手にラッパを吹きはじめた。
 それが、長時間におよんで、だんだん三浦の機嫌がわるくなった。
 わるいことに、三浦のグラスが空になったのを見たホテルのボーイが三浦のグラスを宴会用のウイスキーの入ったグラスと差し替えてしまった。
 とっさのことで、わたしもママも、そのことに気づかなかった。
「これはわたしのとちがうよ」
 三浦の一言で、ママは、あわてて、オールドパーをとりだして三浦の水割をつくった。
 永田は、様子を察して立ち去って、西山のすがたも見当たらない。
 三浦は、憮然として、わたしに命じる。
「永田を車に入れておけ」
 仕方なく、永田社長のところに行くと、永田は「おじいちゃん(三浦のこと)は怒っているか」と聞く。
 わたしがうなずくと、永田は、肩をすくめて宴会場の奥へ消え、わたしは、後姿を見送るほかなかった。
 宴が終わって、わたしが三浦の身体を支えて歩きはじめると、三浦は「永田を車に入れているな」とたずねた。
「すいません。帰しました」
「バカ者、車に乗せておけといったはずだ」
 わたしは謝りながら、ホテルの玄関で待っていた車に三浦を乗せて見送った。
 そのとき、わたしは、エラい人の世界ははかり知れないと思ったものである。
 翌日、日本及日本人社に出社して、もっと驚いた。
 西山によると、その朝、永田が帝国ホテルの総支配人といっしょに、室町の三浦の事務所へ謝罪にきたというのである。
 帝国ホテルの総支配人をつれて謝罪にいった永田もさることながら、天下の永田をそこまで縮みあがらせる三浦義一とは何者なのであろうか。

 ●厚生大臣を一喝
 昔の政治家は、料亭や銀座の高級クラブを利用して、交流を深めた。
料亭政治というのは、赤坂や新橋、神楽坂などの一流料亭を舞台にした政治形態で、政治家の政策や利害の調整から政治家と官僚の交流、大物政治家同士の談合と、これまで、政界史の裏面を飾ってきた。
 議場で多数決を争うだけが政治ではない。
 三浦義一とウィロビーが組んで、GHQ民政局のケーディスを追い落としていなければ、日本は「逆コース(1948年以降、アメリカが対日占領政策を容共から反共へ転換)」へ舵を切ることができず、中国化していた可能性が高い。
 マッカーサー総司令官や民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスらが逆コースに反対したのは、日本の民主化が道半ばと思ったからだった。
 だが、ウィロビーは、直接、国務省に共産主義の脅威をうったえて、本国で「占領軍のマッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風)とまで呼ばれた。
 ウィロビーのおかげで、日本は、社会主義化を免れたといってよい。
 政治は、いつの世も、議場を超越した次元で、うごくのである。
 三浦も、財界・政界、文化人と一流の料亭で交流した。
 昭和四十年代初め、佐藤内閣において、新潟県選出の渡辺良夫衆議院議員が厚生大臣となった。
 ある日、三浦の供をして、銀座の高級クラブに入った。
 銀座のクラブは8時にオープンするが、客で賑わうのは8時30分をすぎた頃からである。
 一流のホステスは、客と食事にも同伴する。その門限が8時30分である。
 三浦が足を運んだのは、客も疎らな8時頃であった。
 三浦が店内に入ると、奥の席でホステスに囲まれていた渡辺厚生大臣が三浦に気がつき、座ったまま、右手を軽く上げた。
 田中角栄が右手をあげて「よお!」とやるあのポーズである。
 いくら、政治家の場所に不慣れなわたしでも、まずいことになった直感した。
 三浦は、渡辺を無視して、いつもの座る席に座るとわたしに命じた。
「渡辺を呼べ」
「先生、三浦が呼んでいます」
 と告げると渡辺は立ち上がり、三浦の席に歩み寄った。
「お前いつからそんなにエラくなったのだ」
 恐縮している渡辺にむかって、三浦はたたみかけた。
「だれのお陰で大臣になれたのじゃ」
 しばらくして、カウンターの隅からみると、渡辺が、三浦の脇の席に座って談笑していた。
 それが三浦の人柄で、叱るが、からりとして、根を残さない。
 三浦義一が、佐藤栄作内閣に大きな影響力を持っていたことは、政治通ならだれでも知っている。
 焼け野原から、占領時代をへて、独立国家として独自のみちを歩みはじめるまで、きれいごとの民主政治だけで、日本は、はたして、やってこれたであろうか。
 三浦が、戦後政治のなかで、黒幕として、影響力を発揮できたのは、時代の要請だったとしかいいようがないのである。
(この件については別項で述べる)

 ●「岸さん後で電話をくれないか」
 昭和四十四年頃、渋谷の松濤のお寺で、ある政治家の葬儀があった。
 門から葬儀がおこなわれている寺院の建物まで距離があった。
 わたしは、いつものように、三浦の身体をささえて、式場へ向かった。
 そのとき、焼香を終えて戻ってくる岸総理が三浦と鉢合わせになった。
 会釈を交わして、とおりすぎようとしたとき、三浦が立ち止まった。
「岸さん、後で、電話をかけてくれないか」
 岸は、軽くうなずき、そして、三浦も岸も、そのまま、歩き去った。
 そのあと、岸元総理から電話がかかってきたことはいうまでもない。
 戦後の混乱期から経済復興、高度経済成長期にかけて、黒幕と呼ばれる人々が存在したのは事実である。
 岸は、安保闘争の折、児玉誉志夫に、暴力団・テキヤの動員を依頼している。
 池田内閣でも、血盟団事件の実行犯の一人四元義隆が大きな影響力を持っているといわれた。
 昭和25年 日本共産党五全協の暴力革命路線に危機感をつよめた自由党の木村篤太郎法務大臣が、国粋会などを動員して、反共抜刀隊の組織化を図ったが、吉田茂が予算を組まず、結局、流れてしまった経緯についてはすでにふれた。
 60年安保闘争についても、別項で、別働隊について詳細をのべた。
 三浦は、政財界に大きな影響力をもっていたが、力や組織を背景に威を誇るというタイプの人間ではなく、むしろ、歌人や文化人としての品格をただよわせていた。
 34年、右翼が結集した「全愛会議」の最高顧問となって、戦後の右翼界の重鎮となったが、個々の団体と深い関係をむすぼうとはしなかった。
 直接、三浦の影響を受けた団体も、多くはなかった。
 そのうちの一つが、歌道の修業や人格の陶冶、徳性の練磨を重視した大東塾で、顧問をつとめたほか、塾長の影山正治が主宰した「新国学協会」には保田與重郎や林房雄、尾崎士郎らとともに同人として参加した。
 門下生である関山義人の興論社や西山幸輝の昭和維新連盟、そして豊田一夫の殉国青年隊も役職には就かなかった。
 室町の事務所には重苦しさや威圧を感じる堅苦しさはまったくなかった。
 事務所には、内田秘書のほか、側近の大場先生、運転手だけだったが、来客は、財界や政界の大物、文化人らひきもきらなかった。

 ●「指を落として棺に入れる」
 三浦は情に厚く思いやりのある人であった。
『征塵録』などの著者小山田剣南が晩年病床にあったとき、三浦に命じられて赤坂の料亭茄子のスッポン料理をよく運んだ。
 剣南は、大アジア主義を掲げた頭山満の玄洋社の海外工作を担った内田良平の黒龍会の七人衆といわれた人物である。
 部屋は蔵書に埋もれていた。
 わたしは、その内の一冊を手にとって、無遠慮に、これ読みましたかと尋ねたものである。
 剣南は微笑をうかべてうなずいた。
 わたしが手にとったのはマルクスの「資本論」であった。
 このとき、反共右翼は、腕力だけではなく、左翼との論戦にも勝たなければならないと痛感したものである。
 三浦が、血盟団事件の井上日召を、晩年、援助していた話は知る人ぞ知る。
 昭和46年4月 三浦義一は逝去した。
 葬儀のとき、わたしと豊田一夫が、霊柩車まで柩をはこんだ。
 出棺直前に左手に包帯をして、涙をいっぱいためた男が土色に変わった指の一部を棺に納めた。
 男は大東塾の塾生であった。
 三浦は大東塾の顧問でもあった。
 わたしは、神道右翼にそのようなしきたりがあることを初めて知った。
 三浦家の墓は青山墓地にある。
 だが、三浦個人の霊は、国文学者の保田与重郎と共に再建して、滋賀県の史跡となっている義仲寺に眠る。
 この寺には、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉の墓がある。
 毎年、芭蕉忌がおこなわれ、句会も催されている。
 今でも変わりないことと思う。
 境内には保田与重郎と三浦義一の石文が建立されている。
 三浦の石文にはこんな一首が刻まれている。
 
 としつきは 過ぎにしと思ふ 近江野の
    みずうみのうへを わたりゆく月
 義一

 後年、わたしは、友と京都で一夜を過ごし、一人、翌日、琵琶湖のほとりに建つ義仲寺に足を運んだ。
 そして、三浦義一の石文の前に立って、過ぎ去った歳月を想った。
 
 義仲寺の 尊師義一の 石文を
    よみて寂しき 近江野の秋

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2020年05月07日

わが青春譜9

『魚が逃げる』『いえ、逃げません』
 神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
 平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
 神津島に防災無線を設置したいというのである。
 神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
 過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
 佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
 このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
 伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
 その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
 聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
 わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
 佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
 ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
 わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
 ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
 このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
 わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
 ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。

 数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
 そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
 佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
 局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
 魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
 だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
 わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
 そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
 その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。

 沖合の イカ釣り船の漁火が 
    明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり


 新島闘争(その後)
 昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
 その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
 それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
 新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
 議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
 ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
 一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
 問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
 防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
 ところが、その約束がはたされていない。
 新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
 わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
 下で部長に逢ってくれ?
 わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
 用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
 わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
 先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
 わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
 局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
 それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
 局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
 新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
 大きな政治問題に発展する。
 局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
 国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
 政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
 新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
 ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
 わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
 役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
 権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
 一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
 わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
 役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
 役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
 すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
 陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
 政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
 わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
 いずれ、そのことにもふれることにしよう。

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わが青春譜8

 言論出版妨害事件
 明治大学教授をつとめ、政治評論家となってから、攻撃的で、右翼的な政治論評で一世を風靡した藤原弘達先生と知りあったのは、国民討論会のゲストにお迎えした縁からであった。
 藤原先生の政治論は明快で、根本の考え方は、二元論であった。
 政治家と官僚、国家と国民を二元論で論じて、永遠に争いをくり返す一元論をバッサリと切って捨てた。
 わたしの「国体と政体」「権力と権威」「軍事と文化」の二元論も、多分に藤原先生の影響をうけているはずで、その意味において、わたしの恩師といえる。
 藤原先生は、官僚制や元老政治の研究者で、『官僚/日本の政治を動かすもの(講談社/1964年)『官僚の構造(講談社)1974年』などの著作のほか研究論文に「最後の元老/西園寺公望論」がある。
 わたしの『役人よ驕るな〈官僚がこの国を滅ぼす〉光人社/2004年』や『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道 /2010年)も、土台に藤原イズムがあったように思う。
 国民討論会以後、わたしと藤原先生をふたたびむすびつけてくれたのは、日新報道の遠藤留治社長であった
 藤原弘達先生の推薦文を付けるので、創価学会の批判本を書いてもらいたいというのである。
『創価学会を斬る』(藤原弘達著/日新報道/1969年)が世に出てからすでに26年の歳月が流れていた。
 若干の躊躇もあったが、わたしは、藤原先生の意向に応えるべく、ひきうけた。
 それが『池田創価学会の政権略奪を斬る(日新報道/1995年)』だった。
 そこで、わたしは、基礎票をもつ創価学会が自民党にくいこんで、日本の保守政治を骨抜きにするだろうと予言しておいたが、現在、そのとおりになっている。
 遠藤社長との付き合いは古く、1980年代からである。
『国益を無視してまで商売か(グラマン事件と謎のボストンバック)日新報道 /1980年』)『猛毒農薬が日本人を蝕んでいる(日新報道/1981年)』『レポ船の裏側(北方領土問題の核心)日新報道/1982』など、事件がらみの出版が多く、圧力もあったが、遠藤社長はすこしも臆するところがなかった。
『創価学会を斬る』を企画したのも遠藤社長で、このとき、著者の藤原弘達と版元の日新報道にかかった言論弾圧は熾烈なものだった。
 遠藤社長はこうふりかえる。
「組織ぐるみの運動だったのは明らかで、抗議の手紙やハガキがダンボールに何箱にもなった。藤原先生は、執筆中、都内のホテルを転々として、われわれも異動しながら編集作業をおこなった。藤原の自宅には「地獄に堕ちろ」「殺す」などの脅迫電話や手紙が殺到して、警察が家族の警備にあたったほどだった」
 妨害だけではなく、学会側から初版本10万部相当を丸ごと買い取るという条件もだされたというが、遠藤社長も藤原先生も、一顧だにしなかった。
 さらに、公明党の竹入義勝委員長(当時)の依頼を受けた田中角栄が、藤原先生に直接電話をかけ、赤坂の高級料亭で、2度にわたる交渉がおこなわれたという。
 遠藤社長はこう述懐する。
「藤原先生は、料亭で、角栄にむかって『総理総裁をめざしている男が、一言論人、一出版社の表現の自由を奪い、特定の勢力の利益のためにうごいてよいのか』とタンカを切りました。このとき、角栄は『よし、わかった』と潔く仲介役を降りたのです」
 それが、取次店まで巻きこんだ「創価学会・公明党による言論出版妨害事件」の核心で、超ベストセラー、池田大作の「人間革命」を売らせてもらっている取次店も、聖教新聞を印刷させてもらっている三大紙(朝毎読)も創価学会には逆らうことができなかったのである。
 TBS「時事放談」で、病気で降りた小汀利得に代わって、藤原弘達が細川隆元と辛口毒舌をくりだして国民的な人気を博すのはその後のことである。

 藤原先生とともに九州講演
 言論出版妨害事件の騒ぎが冷めやらない昭和四十七年の秋であった。
 九州の蓮尾国政から講演依頼が舞い込んできた。
 藤原弘達先生とわたしに政治問題について語ってもらいたいというのである。
 蓮尾は、福岡県大牟田市の工務店経営者で、のちに福岡県土木組合連合会理事長をつとめることになる有力者で、地元の人望も厚かった。
 愛国者で、わたしが西山広輝からあずけられた「政治結社昭和維新連盟」の九州総本部長を統括していた。
 講演当日、藤原先生は、TBSテレビの番組に出演しておられた。
 わたしの秘書の寺井という青年がテレビ局に迎えに行き、九州大牟田市まで案内して、わたしは、消防署から注意が出るほど満員となった大牟田市民会館で藤原先生をお迎えした。
 講演は大成功で、主催者の蓮尾国政は、講演を終えた食事会で、藤原先生と歓談して、おおいに満足げであった。
 蓮尾は、西山広輝の人脈の一人だが、そのなかで、忘れてはならない人物がいる。
 松本英一(元参議院議員/社会党顧問)先生である。
 部落解放同盟を選挙基盤としたため、社会党党籍だったが、人格識見や政治信条においては保守主義者で、なによりもわが国の歴史や伝統、文化を尊んだ。
 自由主義や民主主義を信奉して、伝統の維持や相続に無関心な自民党の議員に比べて、松本は、はるかに保守的な政治家であった。

 脚注「松本治一郎」/参議院議員・社会党最高顧問/部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟から「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれて親しまれた。元参議院副議長。

 松本治一郎先生が現職の頃、一緒に上京した英一先生のお伴をして、赤坂の飲食店やクラブで、語り合ったのがよい思い出である。
 治一郎先生亡き後、英一先生は、参議院議員となると同時に、地元の福岡県建設事業協会の会長に就任、同職を長期間つとめた。
 九州へ出張すると、事務所に招かれて、ステーキ定食をご馳走になった。
 じゃが芋を残すと「山ちゃん、じゃが芋は肉の毒を消してくれるよ」と諭すようにいってくれたものである。
 いまは、みな み霊となって、わたしは、過ぎ去った日々を想って、感慨にふけるばかりである。

 うつし世は 生者必滅 会者定離 
    悟らんとしてなほ 侘しさ覚ゆ


 九州講演 その二
 鹿児島県に加藤天界と云う反共尊皇運動家がいた。
 大牟田市の講演から数か月のち、加藤天界が、鹿児島県で、藤原弘達先生とわたしの講演会を開催したいと連絡があった。
 藤原先生にスケジュールを調整してもらい、その日、先生とわたしは、同じ飛行機で鹿児島空港に降り立った。
 空港ロビーから玄関を出ようとすると先生の足がピタッと止まった。
「山本君、あれは」
 玄関口の前で、二十人ほどの青年が隊列を組み、こちらをジーッと見ている。
 加藤天界が迎えに遣わした者たちだったのだが、藤原先生には、正体不明な不気味な集団にしか見えていない。
 豪放磊落にみえても、藤原先生は、東京大学で丸山眞男に師事した学窓育ちである。
 わたしは、藤原先生をロビーの椅子席に待機させ、玄関まで迎えに来ていた加藤天界のグループの解散をたのみ、それから、タクシーで、藤原先生をホテルへ案内した。
 そして、ホテルで、なにくわぬ顔で、藤原先生と加藤天界を引き合わせた。
 先生は、終始、にこやかに微笑をうかべておられたが、空港ロビーでみせた緊張した面持ちは、いまでも、わたしの脳裏に残っている。
 その夜、ホテルの大広間でおこなわれた講演会は、千人近い聴衆で埋まって大盛況で、会場から、会場から多くの激励の声が飛んだ。
「あんた殺されるよ」
 わたしが、しばしば、出版妨害に見舞われたのは、単行本から週刊誌に至るまで、告発記事が多かったせいで、乗組員を装ったやくざがソ連と秘密取引をおこなっていた実態を暴いた『レポ船の裏側』では、出版後、レポ船が一網打尽になって、やくざの恨みを買った。
『要人誘拐(三井物産マニラ支店長誘拐事件)/晩声社/1987年』『佐川急便の犯罪/ぱる出版 1992年)』『富士銀行の犯罪/ぱる出版/1992年』
『橋梁談合の謀略を暴く/ぱる出版/1995年』、では、背後でうごめく暴力団の存在を暴き、「真珠宮ビル事件」では取材にでかけたフィリピンで被害者の一族を救出するという想定外の取材までおこない、JR東日本のスキャンダルでは告発者の身柄を革マル松崎一派からまもった。
 あるとき、わたしの赤坂の事務所に5人の男が乗り込んで来た。
 取材を中止して、いますぐ、書きかけの原稿をひきわたせという。
 断ると「あんた、そのうち殺されるよ」と捨て台詞を残して立ち去った。
 ジャーナリズムにおいて、暴露という表現の自由がゆるされているが、その自由によって、たとえそれが、社会的善であっても、かならず、傷つき損害を被るひとがでてくる。
 事件モノから本格評論へ、わたしがスタンスをかえたのは、ちょうど、そのころだったことを白状しておこう。
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