●三浦義一先生余話 昭和40年初旬から、中川一郎(衆議院議員)とともに講演・公開討論会を開始した。
国民啓蒙運動と銘打ち、わたしが経営にくわわった雑誌「日本及日本人」がこの活動の後援に立った。
この講演・公開討論会が、事実上、わたしの社会運動の第一歩だった。
この頃、三浦事務所の内田秘書から三浦義一先生のお世話役を仰せつかった。
三浦先生は、足が少々不自由で、葬儀など外出時に介添え役が必要だった。
ボディガード的な要素もあって、体格がよかったわたしが目をつけられたのであろう。
三浦義一は、GHQ参謀第2部(G2)とつながりをもっていた。
キャノン機関で知られるG2は、反共防諜機関で、日本解体をすすめていた左翼的なGHQ民政局(GS)と対立していた。
民政局を仕切っていたのが容共派のチャールズ・ケーディスで、反共主義のチャールス・ウィロビー(G2部長)と敵対関係にあった。
ケーディスを追い落とした女性スキャンダルの裏にいたのが三浦義一だった。
東京裁判に反対した日本好きのウィロビーと、尊皇思想家である三浦義一の友情の深さは知る人ぞ知る。
三浦義一は、戦後復興に際して、裏面から日本の政界や財界をささえてきた。
したがって、三浦先生のお供にあたって、多くの財界人や政界人、文化人と出会うことができたが、終始、「見ざる聞かざる言わざる」を信条としてきたのは、供人の分を忘れたくなかったからである。
三浦先生が逝去して、約50年、半世紀の歳月が過ぎた。
戦後の焼け野原からから70年、日本は、世界に類のない復興を成し遂げたが、今日の繁栄や発展が、歴史書に書かれたきれいごとだけで達成されたわけではない。
若い人は、現在の日本の平和は、憲法9条によってもたらされたという。
だが、60年安保をたたかった保守派は、日米安保が日本の安全をまもっているというきびしい現実を知っている。
物事には表と裏がある。格好の良い背広が、けっして表にでてこない裏地にささえられているように、裏地には、裏地の役割がある。
戦後、占領軍の支配下におかれて、危機に瀕した国体や伝統文化、国家機能をまもってきたのは、保守派で、外国に媚びをうる国際派・容共派ではなかった。
その保守派の裏側にいたのが、裏地いわゆる黒幕で、三浦がその一人だった。
明治維新においても、薩長にたいして、会津藩や庄内藩、奥羽列藩同盟以下31藩が敵対したが、国家を思う気持ちにかわりはなかった。
歴史書には「朝敵」と書かれるが、薩長は天皇を政治利用しただけで、会津藩以下、朝敵と呼ばれた33藩こそ尊皇的だった。
歴史は、かくも、表面的なもので、昭和史も例外ではない。
戦後、黒幕と呼ばれた三浦義一が、日本の復興にいかに貢献したいか、いかに政財界に大きな力をもっていたか、かつての側近が、「見ざる 聞かざる 言わざる」を破って その片鱗を語っても、今なら、三浦先生は、わらってゆるしてくださるだろう。
●建国記念日の成立について 昭和25年、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本は独立国家となった。
その翌年から、国家の誕生日である紀元節復活のうごきが出てきた。
といっても、紀元節は、昭和23年占領軍によって廃止されている。
昭和32年、自由民主党は、議員立法として、紀元節に代わる「建国記念日法案」を提出した。
だが、これを「反動的法案」とする社会党の反対によって、参議院で廃案となった。
その後、自民党は、建国記念日法案を9回にわたって提出するが、ことごとく、社会党の反対でつぶされる。
昭和38年、社会党は「建国記念日」にの≠入れる「建国記念の日」の改定案で妥協した。
社会党が法案にの≠挿入することで妥協したのは、世論の批判があったからである。
「建国記念日」を「建国記念の日」へ修正して、政党の面子をたもとうというのであろう。
昭和41年、佐藤内閣で「建国記念の日」の祝日法改正案が成立した。
あとは、建国記念の日を「いつ」にするかだけで、日にちの決定は、有識者による審議会にゆだねられた。
●「幹事長、2月11日でなければ責任をとれんぞ」 昭和41年11月頃、田中角栄幹事長が室町の三浦事務所を訪れた。
三浦と会談後、部屋の出口で、三浦が田中に念をおした。
「2月11日でなければ責任取れんよ。いいかね、総理にそうつたえてくれんかね」
田中は、黙って、頭を下げて退出した。
三浦は、うなずき「うん。これできまった」とつぶやいて、自室に消えた。
佐藤政権の背後に三浦がいたことは、当時、政界通ならだれもが知るところで、歴代総理大臣にも、これまで、黒幕人脈が隠然たる力をもっていた。
総理府に設置された「建国記念日審議会」では、6月頃から建国記念の日をいつにするか審議された。
だが、野党案には、日本の終戦記念日8月15日をあてるべきという国辱的な意見まであって、収拾がつかなかった。
野党の多くが、日本を否定することが正義というGHQ仕込みの反日主義に立っているので、昭和23年、GHQが否定した紀元節にもとづく2月11日案はどこからもでてこなかった。
紀元節は、古事記や日本書紀が、日本の初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、神武天皇元年の1月1日 (旧暦)を新暦に換算すると2月11日になる。
尊皇思想家 三浦にとって、日本の建国記念日は2月11日以外あろうはずがなかった。
三浦が田中につたえた「責任取れんよ」は右翼の動向だったと思われる。
40年代初めの右翼陣営は、60安保闘争が終わって間もなく、依然として大きな組織力と行動力をもっていた。
政府も、右翼の存在を無視して、紀元節=建国記念日という民族的テーマをおざなりに扱うわけにはいかなかったのである。
戦後、占領軍によって廃止された紀元節は、佐藤内閣によって「建国記念の日」として復活して、2月11日が、晴れて、国民の祝日となった。
●「永田を車に入れておけ」 昭和40年代、大相撲の人気力士だった北葉山の結婚披露宴が帝国ホテルの宴会場でおこなわれた。
三浦は、双葉山会の顧問を務め、相撲界では著名人であった。
昔は、夜の11時、NHKで「大相撲ダイジェスト」という番組がその日の取り組みを放映したものである。
その映像に、土俵近くのマス席で観戦する三浦の姿がよく見られた。
北葉山の結婚披露宴に出席する三浦に、昭和維新連盟の西山幸輝とわたしが同席した。
三浦は、大好物のスコッチウイスキー「オールドパー」の水割を飲みながら挨拶にくる人々と挨拶を交わし、談笑していた。
三浦の隣席に座っているのは、銀座の最高級クラブといわれたAのオーナーママで、オールドパーの小瓶をハンドバッグに入れている。
三浦のグラスが空になると、ママが、ハンドバッグからオールドパーの小瓶をとりだして、水割りをつくって、三浦の前に置く。
そのうち、大映映画社長の永田雅一が挨拶にやって来た。
永田は、顔の広い実業家で、政界にも広い人脈をもち、河野一郎衆議院議員や右翼の児玉誉志夫とも近しい怪人物として知られていた。
女優を妾にしながら「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と言い放つ映画界の父、プロ野球の名物コミッショナーで、大言壮語するところから「永田ラッパ」の異名もあった。
その永田が三浦の脇のママを相手にラッパを吹きはじめた。
それが、長時間におよんで、だんだん三浦の機嫌がわるくなった。
わるいことに、三浦のグラスが空になったのを見たホテルのボーイが三浦のグラスを宴会用のウイスキーの入ったグラスと差し替えてしまった。
とっさのことで、わたしもママも、そのことに気づかなかった。
「これはわたしのとちがうよ」
三浦の一言で、ママは、あわてて、オールドパーをとりだして三浦の水割をつくった。
永田は、様子を察して立ち去って、西山のすがたも見当たらない。
三浦は、憮然として、わたしに命じる。
「永田を車に入れておけ」
仕方なく、永田社長のところに行くと、永田は「おじいちゃん(三浦のこと)は怒っているか」と聞く。
わたしがうなずくと、永田は、肩をすくめて宴会場の奥へ消え、わたしは、後姿を見送るほかなかった。
宴が終わって、わたしが三浦の身体を支えて歩きはじめると、三浦は「永田を車に入れているな」とたずねた。
「すいません。帰しました」
「バカ者、車に乗せておけといったはずだ」
わたしは謝りながら、ホテルの玄関で待っていた車に三浦を乗せて見送った。
そのとき、わたしは、エラい人の世界ははかり知れないと思ったものである。
翌日、日本及日本人社に出社して、もっと驚いた。
西山によると、その朝、永田が帝国ホテルの総支配人といっしょに、室町の三浦の事務所へ謝罪にきたというのである。
帝国ホテルの総支配人をつれて謝罪にいった永田もさることながら、天下の永田をそこまで縮みあがらせる三浦義一とは何者なのであろうか。
●厚生大臣を一喝 昔の政治家は、料亭や銀座の高級クラブを利用して、交流を深めた。
料亭政治というのは、赤坂や新橋、神楽坂などの一流料亭を舞台にした政治形態で、政治家の政策や利害の調整から政治家と官僚の交流、大物政治家同士の談合と、これまで、政界史の裏面を飾ってきた。
議場で多数決を争うだけが政治ではない。
三浦義一とウィロビーが組んで、GHQ民政局のケーディスを追い落としていなければ、日本は「逆コース(1948年以降、アメリカが対日占領政策を容共から反共へ転換)」へ舵を切ることができず、中国化していた可能性が高い。
マッカーサー総司令官や民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスらが逆コースに反対したのは、日本の民主化が道半ばと思ったからだった。
だが、ウィロビーは、直接、国務省に共産主義の脅威をうったえて、本国で「占領軍のマッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風)とまで呼ばれた。
ウィロビーのおかげで、日本は、社会主義化を免れたといってよい。
政治は、いつの世も、議場を超越した次元で、うごくのである。
三浦も、財界・政界、文化人と一流の料亭で交流した。
昭和四十年代初め、佐藤内閣において、新潟県選出の渡辺良夫衆議院議員が厚生大臣となった。
ある日、三浦の供をして、銀座の高級クラブに入った。
銀座のクラブは8時にオープンするが、客で賑わうのは8時30分をすぎた頃からである。
一流のホステスは、客と食事にも同伴する。その門限が8時30分である。
三浦が足を運んだのは、客も疎らな8時頃であった。
三浦が店内に入ると、奥の席でホステスに囲まれていた渡辺厚生大臣が三浦に気がつき、座ったまま、右手を軽く上げた。
田中角栄が右手をあげて「よお!」とやるあのポーズである。
いくら、政治家の場所に不慣れなわたしでも、まずいことになった直感した。
三浦は、渡辺を無視して、いつもの座る席に座るとわたしに命じた。
「渡辺を呼べ」
「先生、三浦が呼んでいます」
と告げると渡辺は立ち上がり、三浦の席に歩み寄った。
「お前いつからそんなにエラくなったのだ」
恐縮している渡辺にむかって、三浦はたたみかけた。
「だれのお陰で大臣になれたのじゃ」
しばらくして、カウンターの隅からみると、渡辺が、三浦の脇の席に座って談笑していた。
それが三浦の人柄で、叱るが、からりとして、根を残さない。
三浦義一が、佐藤栄作内閣に大きな影響力を持っていたことは、政治通ならだれでも知っている。
焼け野原から、占領時代をへて、独立国家として独自のみちを歩みはじめるまで、きれいごとの民主政治だけで、日本は、はたして、やってこれたであろうか。
三浦が、戦後政治のなかで、黒幕として、影響力を発揮できたのは、時代の要請だったとしかいいようがないのである。
(この件については別項で述べる)
●「岸さん後で電話をくれないか」 昭和四十四年頃、渋谷の松濤のお寺で、ある政治家の葬儀があった。
門から葬儀がおこなわれている寺院の建物まで距離があった。
わたしは、いつものように、三浦の身体をささえて、式場へ向かった。
そのとき、焼香を終えて戻ってくる岸総理が三浦と鉢合わせになった。
会釈を交わして、とおりすぎようとしたとき、三浦が立ち止まった。
「岸さん、後で、電話をかけてくれないか」
岸は、軽くうなずき、そして、三浦も岸も、そのまま、歩き去った。
そのあと、岸元総理から電話がかかってきたことはいうまでもない。
戦後の混乱期から経済復興、高度経済成長期にかけて、黒幕と呼ばれる人々が存在したのは事実である。
岸は、安保闘争の折、児玉誉志夫に、暴力団・テキヤの動員を依頼している。
池田内閣でも、血盟団事件の実行犯の一人四元義隆が大きな影響力を持っているといわれた。
昭和25年 日本共産党五全協の暴力革命路線に危機感をつよめた自由党の木村篤太郎法務大臣が、国粋会などを動員して、反共抜刀隊の組織化を図ったが、吉田茂が予算を組まず、結局、流れてしまった経緯についてはすでにふれた。
60年安保闘争についても、別項で、別働隊について詳細をのべた。
三浦は、政財界に大きな影響力をもっていたが、力や組織を背景に威を誇るというタイプの人間ではなく、むしろ、歌人や文化人としての品格をただよわせていた。
34年、右翼が結集した「全愛会議」の最高顧問となって、戦後の右翼界の重鎮となったが、個々の団体と深い関係をむすぼうとはしなかった。
直接、三浦の影響を受けた団体も、多くはなかった。
そのうちの一つが、歌道の修業や人格の陶冶、徳性の練磨を重視した大東塾で、顧問をつとめたほか、塾長の影山正治が主宰した「新国学協会」には保田與重郎や林房雄、尾崎士郎らとともに同人として参加した。
門下生である関山義人の興論社や西山幸輝の昭和維新連盟、そして豊田一夫の殉国青年隊も役職には就かなかった。
室町の事務所には重苦しさや威圧を感じる堅苦しさはまったくなかった。
事務所には、内田秘書のほか、側近の大場先生、運転手だけだったが、来客は、財界や政界の大物、文化人らひきもきらなかった。
●「指を落として棺に入れる」 三浦は情に厚く思いやりのある人であった。
『征塵録』などの著者小山田剣南が晩年病床にあったとき、三浦に命じられて赤坂の料亭茄子のスッポン料理をよく運んだ。
剣南は、大アジア主義を掲げた頭山満の玄洋社の海外工作を担った内田良平の黒龍会の七人衆といわれた人物である。
部屋は蔵書に埋もれていた。
わたしは、その内の一冊を手にとって、無遠慮に、これ読みましたかと尋ねたものである。
剣南は微笑をうかべてうなずいた。
わたしが手にとったのはマルクスの「資本論」であった。
このとき、反共右翼は、腕力だけではなく、左翼との論戦にも勝たなければならないと痛感したものである。
三浦が、血盟団事件の井上日召を、晩年、援助していた話は知る人ぞ知る。
昭和46年4月 三浦義一は逝去した。
葬儀のとき、わたしと豊田一夫が、霊柩車まで柩をはこんだ。
出棺直前に左手に包帯をして、涙をいっぱいためた男が土色に変わった指の一部を棺に納めた。
男は大東塾の塾生であった。
三浦は大東塾の顧問でもあった。
わたしは、神道右翼にそのようなしきたりがあることを初めて知った。
三浦家の墓は青山墓地にある。
だが、三浦個人の霊は、国文学者の保田与重郎と共に再建して、滋賀県の史跡となっている義仲寺に眠る。
この寺には、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉の墓がある。
毎年、芭蕉忌がおこなわれ、句会も催されている。
今でも変わりないことと思う。
境内には保田与重郎と三浦義一の石文が建立されている。
三浦の石文にはこんな一首が刻まれている。
としつきは 過ぎにしと思ふ 近江野の
みずうみのうへを わたりゆく月 義一
後年、わたしは、友と京都で一夜を過ごし、一人、翌日、琵琶湖のほとりに建つ義仲寺に足を運んだ。
そして、三浦義一の石文の前に立って、過ぎ去った歳月を想った。
義仲寺の 尊師義一の 石文を
よみて寂しき 近江野の秋