2020年05月07日

わが青春譜9

『魚が逃げる』『いえ、逃げません』
 神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
 平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
 神津島に防災無線を設置したいというのである。
 神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
 過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
 佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
 このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
 伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
 その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
 聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
 わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
 佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
 ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
 わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
 ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
 このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
 わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
 ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。

 数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
 そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
 佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
 局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
 魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
 だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
 わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
 そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
 その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。

 沖合の イカ釣り船の漁火が 
    明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり


 新島闘争(その後)
 昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
 その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
 それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
 新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
 議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
 ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
 一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
 問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
 防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
 ところが、その約束がはたされていない。
 新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
 わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
 下で部長に逢ってくれ?
 わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
 用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
 わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
 先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
 わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
 局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
 それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
 局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
 新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
 大きな政治問題に発展する。
 局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
 国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
 政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
 新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
 ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
 わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
 役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
 権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
 一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
 わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
 役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
 役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
 すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
 陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
 政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
 わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
 いずれ、そのことにもふれることにしよう。



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わが青春譜8

 言論出版妨害事件
 明治大学教授をつとめ、政治評論家となってから、攻撃的で、右翼的な政治論評で一世を風靡した藤原弘達先生と知りあったのは、国民討論会のゲストにお迎えした縁からであった。
 藤原先生の政治論は明快で、根本の考え方は、二元論であった。
 政治家と官僚、国家と国民を二元論で論じて、永遠に争いをくり返す一元論をバッサリと切って捨てた。
 わたしの「国体と政体」「権力と権威」「軍事と文化」の二元論も、多分に藤原先生の影響をうけているはずで、その意味において、わたしの恩師といえる。
 藤原先生は、官僚制や元老政治の研究者で、『官僚/日本の政治を動かすもの(講談社/1964年)『官僚の構造(講談社)1974年』などの著作のほか研究論文に「最後の元老/西園寺公望論」がある。
 わたしの『役人よ驕るな〈官僚がこの国を滅ぼす〉光人社/2004年』や『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道 /2010年)も、土台に藤原イズムがあったように思う。
 国民討論会以後、わたしと藤原先生をふたたびむすびつけてくれたのは、日新報道の遠藤留治社長であった
 藤原弘達先生の推薦文を付けるので、創価学会の批判本を書いてもらいたいというのである。
『創価学会を斬る』(藤原弘達著/日新報道/1969年)が世に出てからすでに26年の歳月が流れていた。
 若干の躊躇もあったが、わたしは、藤原先生の意向に応えるべく、ひきうけた。
 それが『池田創価学会の政権略奪を斬る(日新報道/1995年)』だった。
 そこで、わたしは、基礎票をもつ創価学会が自民党にくいこんで、日本の保守政治を骨抜きにするだろうと予言しておいたが、現在、そのとおりになっている。
 遠藤社長との付き合いは古く、1980年代からである。
『国益を無視してまで商売か(グラマン事件と謎のボストンバック)日新報道 /1980年』)『猛毒農薬が日本人を蝕んでいる(日新報道/1981年)』『レポ船の裏側(北方領土問題の核心)日新報道/1982』など、事件がらみの出版が多く、圧力もあったが、遠藤社長はすこしも臆するところがなかった。
『創価学会を斬る』を企画したのも遠藤社長で、このとき、著者の藤原弘達と版元の日新報道にかかった言論弾圧は熾烈なものだった。
 遠藤社長はこうふりかえる。
「組織ぐるみの運動だったのは明らかで、抗議の手紙やハガキがダンボールに何箱にもなった。藤原先生は、執筆中、都内のホテルを転々として、われわれも異動しながら編集作業をおこなった。藤原の自宅には「地獄に堕ちろ」「殺す」などの脅迫電話や手紙が殺到して、警察が家族の警備にあたったほどだった」
 妨害だけではなく、学会側から初版本10万部相当を丸ごと買い取るという条件もだされたというが、遠藤社長も藤原先生も、一顧だにしなかった。
 さらに、公明党の竹入義勝委員長(当時)の依頼を受けた田中角栄が、藤原先生に直接電話をかけ、赤坂の高級料亭で、2度にわたる交渉がおこなわれたという。
 遠藤社長はこう述懐する。
「藤原先生は、料亭で、角栄にむかって『総理総裁をめざしている男が、一言論人、一出版社の表現の自由を奪い、特定の勢力の利益のためにうごいてよいのか』とタンカを切りました。このとき、角栄は『よし、わかった』と潔く仲介役を降りたのです」
 それが、取次店まで巻きこんだ「創価学会・公明党による言論出版妨害事件」の核心で、超ベストセラー、池田大作の「人間革命」を売らせてもらっている取次店も、聖教新聞を印刷させてもらっている三大紙(朝毎読)も創価学会には逆らうことができなかったのである。
 TBS「時事放談」で、病気で降りた小汀利得に代わって、藤原弘達が細川隆元と辛口毒舌をくりだして国民的な人気を博すのはその後のことである。

 藤原先生とともに九州講演
 言論出版妨害事件の騒ぎが冷めやらない昭和四十七年の秋であった。
 九州の蓮尾国政から講演依頼が舞い込んできた。
 藤原弘達先生とわたしに政治問題について語ってもらいたいというのである。
 蓮尾は、福岡県大牟田市の工務店経営者で、のちに福岡県土木組合連合会理事長をつとめることになる有力者で、地元の人望も厚かった。
 愛国者で、わたしが西山広輝からあずけられた「政治結社昭和維新連盟」の九州総本部長を統括していた。
 講演当日、藤原先生は、TBSテレビの番組に出演しておられた。
 わたしの秘書の寺井という青年がテレビ局に迎えに行き、九州大牟田市まで案内して、わたしは、消防署から注意が出るほど満員となった大牟田市民会館で藤原先生をお迎えした。
 講演は大成功で、主催者の蓮尾国政は、講演を終えた食事会で、藤原先生と歓談して、おおいに満足げであった。
 蓮尾は、西山広輝の人脈の一人だが、そのなかで、忘れてはならない人物がいる。
 松本英一(元参議院議員/社会党顧問)先生である。
 部落解放同盟を選挙基盤としたため、社会党党籍だったが、人格識見や政治信条においては保守主義者で、なによりもわが国の歴史や伝統、文化を尊んだ。
 自由主義や民主主義を信奉して、伝統の維持や相続に無関心な自民党の議員に比べて、松本は、はるかに保守的な政治家であった。

 脚注「松本治一郎」/参議院議員・社会党最高顧問/部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟から「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれて親しまれた。元参議院副議長。

 松本治一郎先生が現職の頃、一緒に上京した英一先生のお伴をして、赤坂の飲食店やクラブで、語り合ったのがよい思い出である。
 治一郎先生亡き後、英一先生は、参議院議員となると同時に、地元の福岡県建設事業協会の会長に就任、同職を長期間つとめた。
 九州へ出張すると、事務所に招かれて、ステーキ定食をご馳走になった。
 じゃが芋を残すと「山ちゃん、じゃが芋は肉の毒を消してくれるよ」と諭すようにいってくれたものである。
 いまは、みな み霊となって、わたしは、過ぎ去った日々を想って、感慨にふけるばかりである。

 うつし世は 生者必滅 会者定離 
    悟らんとしてなほ 侘しさ覚ゆ


 九州講演 その二
 鹿児島県に加藤天界と云う反共尊皇運動家がいた。
 大牟田市の講演から数か月のち、加藤天界が、鹿児島県で、藤原弘達先生とわたしの講演会を開催したいと連絡があった。
 藤原先生にスケジュールを調整してもらい、その日、先生とわたしは、同じ飛行機で鹿児島空港に降り立った。
 空港ロビーから玄関を出ようとすると先生の足がピタッと止まった。
「山本君、あれは」
 玄関口の前で、二十人ほどの青年が隊列を組み、こちらをジーッと見ている。
 加藤天界が迎えに遣わした者たちだったのだが、藤原先生には、正体不明な不気味な集団にしか見えていない。
 豪放磊落にみえても、藤原先生は、東京大学で丸山眞男に師事した学窓育ちである。
 わたしは、藤原先生をロビーの椅子席に待機させ、玄関まで迎えに来ていた加藤天界のグループの解散をたのみ、それから、タクシーで、藤原先生をホテルへ案内した。
 そして、ホテルで、なにくわぬ顔で、藤原先生と加藤天界を引き合わせた。
 先生は、終始、にこやかに微笑をうかべておられたが、空港ロビーでみせた緊張した面持ちは、いまでも、わたしの脳裏に残っている。
 その夜、ホテルの大広間でおこなわれた講演会は、千人近い聴衆で埋まって大盛況で、会場から、会場から多くの激励の声が飛んだ。
「あんた殺されるよ」
 わたしが、しばしば、出版妨害に見舞われたのは、単行本から週刊誌に至るまで、告発記事が多かったせいで、乗組員を装ったやくざがソ連と秘密取引をおこなっていた実態を暴いた『レポ船の裏側』では、出版後、レポ船が一網打尽になって、やくざの恨みを買った。
『要人誘拐(三井物産マニラ支店長誘拐事件)/晩声社/1987年』『佐川急便の犯罪/ぱる出版 1992年)』『富士銀行の犯罪/ぱる出版/1992年』
『橋梁談合の謀略を暴く/ぱる出版/1995年』、では、背後でうごめく暴力団の存在を暴き、「真珠宮ビル事件」では取材にでかけたフィリピンで被害者の一族を救出するという想定外の取材までおこない、JR東日本のスキャンダルでは告発者の身柄を革マル松崎一派からまもった。
 あるとき、わたしの赤坂の事務所に5人の男が乗り込んで来た。
 取材を中止して、いますぐ、書きかけの原稿をひきわたせという。
 断ると「あんた、そのうち殺されるよ」と捨て台詞を残して立ち去った。
 ジャーナリズムにおいて、暴露という表現の自由がゆるされているが、その自由によって、たとえそれが、社会的善であっても、かならず、傷つき損害を被るひとがでてくる。
 事件モノから本格評論へ、わたしがスタンスをかえたのは、ちょうど、そのころだったことを白状しておこう。
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