2020年06月29日

わが青春譜15

 ●山本峯章後援会「山峯会」発足
 冷蔵販売車を団地に展開する「動くスーパー」で狂乱物価≠ノ挑んできたわたしは、流通機構の改革によって、物価を下げられることを知った。
 物価は、国民にとって、生活に直結する切実な問題であった。
 北方領土も日米安保も、国家にとって、大事な政治的テーマである。
 同様に、物価も、国民にとって、重要な政治的テーマで、池田勇人の「所得倍増計画」は、国民に熱狂的に迎えられた。
 所得がふえるのと、物価が下がるのでは、結局、同じことである。
 わたしは、物価を下げる運動が、国政の争点になるとふんで、政治の世界に打って出るハラをきめた。
 昭和49年の春、わたしは、大田区蒲田に山本峯章後援会山峯会の事務所を設立した。
 目的は、国会議員選挙の立候補で、初回で次点にこぎつけ、二回目で当選という青写真を描いて、活動を開始した。
 わたしの後援会(山峯会)の初代会長には、直木賞作家にして参議院議員の今東光が就いてくれた。
 今先生は、中尊寺貫主として、国宝金色堂を再建した僧正としても知られていた。
 この頃(昭和40〜50年代)、衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で複数の議員が選出された。
 わたしが選挙事務所を構えた大田区は、東京二区で、大田区と品川区のほかわたしがうまれた三宅島の伊豆七島と小笠原諸島をかかえた日本一広い選挙区である。
 定数は5人で、ここで自民2、公明1、残りの2議席を民社、社会、共産が議席を分け合い、あるいは、争っていた。
 わたしが大田区に事務所を構えた昭和49年当時、自民党議員は、それまで常連だった菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけであった。
 自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしは、品川区に自宅を移して、品川区を中心に、後援会の組織づくりに精をだした。
 友人や知人のコネを頼りに、品川・大田両区を回ると「菊池先生の御子息が出馬しないのなら応援してもよい」という声が少なくなかった。
 菊池先生というのは、23年間、東京二区で議席を確保してきた菊池義郎前議員のことで、1972年の第33回衆議院選挙で苦杯をなめていた。
 賀屋興宣の後継者として、参議院から鞍替えして、東京三区から出馬すると噂されていた石原慎太郎が、突然、東京二区から出馬しためであった。
 菊池義郎は、引退を表明したが、後援者のあいだで、子息が後を継ぐという噂が流れていた。
 菊池義郎を支えてきたのは「白菊会」という後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 白菊会のメンバーの多くは主婦で、だれもが、気さくで人情家の菊池夫人を慕い、夫人の手料理、芋の煮っころがしのもてなしをうけたひとたちも少なくなかった。
 わたしの生まれは三宅島で、父母から親戚にいたるまで、八丈島出身の菊池義郎の支持者でもあった。
 当時、わたしは、自由民主党品川支部青年部長と東京都連合会(都連)青年部の中央執行委員という役職をえていた。
 都連青年部の部長は、保坂三蔵都議(のち参議院議員)で、一定の影響力をもっていたが、東京二区は広く、新人のわたしが、都連青年部の肩書きだけで当選圏内にのしあがってゆくのは容易なことではなかった。
 わたしは、白菊会のキーマンといわれた稲見秘書を訪ね、菊池夫人、そして菊池義郎先生との面談に漕ぎつけて、単刀直入に、協力を頼みこんだ。
 菊池義郎は、政界でも指折りの一本気な性格で、戦時中、時局講演会で中国大陸からの即時撤退を主張して憲兵隊に拘引され、日大教員の職を棒にふった経験をもつ猛者で、反共主義の一言居士としても知られていた。
 菊池義郎は、わたしの申し入れを快諾して、後継者指名と「白菊会」の応援をひきうけてくれた。
 わたしは、いまでも、菊池義郎先生と夫人の恩を深く胸に刻みこんでいる。

 ●パロディ狂乱物価葬儀 テレビ放映”
 昭和49年10月24日、東京大田区の池上本門寺境内で、インフレによる高物価に挑戦と謳って「物価葬儀」なるイベントを挙行した。
 祭壇の上に棺桶を置き、池上本門寺の僧侶による読経にあわせて、参加者が大根や茄子、カボチャなどの野菜を棺桶に放りこみ、高物価に決別を告げるという趣向で、白菊会の会員が中心に、エプロン姿の主婦1500人以上が参加した。
 模擬葬儀のあと、産直野菜の大安売りをおこなうこのイベントは、マスコミからも注目された。
 ▼読売新聞(夕刊)は、写真2枚付きの報道で、見出しにこうある。「本物の棺桶に大根やキャベツ、人参などをどっさりつめて/生鮮食品狂乱物価葬儀/本日急逝いたしました」「式の後は産地直送の野菜十数トン/主婦ら約1500人」(昭和49年10月24日)
 ▼東京新聞は「ストップザ狂乱物価/生鮮食品葬儀」というタイトルに記事がこうつづく。「東京大田区の池上本門寺境内で同日午前9時半から狂乱物価の告別式と青森農協とのタイアップによる産地直送野菜の安売りがおこなわれた。
 境内に設けられた祭壇には棺桶や「狂乱物価」と戒名が書かれた位牌、「貧困者一同」から贈られた花輪などが並べられ、賛同者として「傍観者代表―橋本自民党幹事長、なにもできないしない代表―美濃部東京都知事、評論家として各党幹事長の名前が貼りだされていた」(10月24日)
 ▼週刊大衆は「狂乱物価葬儀/安いことはいいことだ」という見出しに写真2ページをもちいて「おちゃらかしの葬儀は、物価問題に無策の政府・野党をひっくるめてからかおうという挑戦的な内容」(11月14日号)と評価した。
 そのほか、いくつかのメディアが好意的に報じてくれたため、池上本門寺を舞台にした狂乱物価阻止♂^動は、一応の成功をおさめることができた。

 ●フジテレビ「三時のあなた」にゲスト出演
 狂乱物価に無策な政府の無策を批判した池上本門寺の狂乱物価葬儀は、フジテレビ「三時のあなた(司会/扇千景)でもとりあげられた。
 同番組にゲスト出演したわたしと小渕恵三(のち総理大臣)は、狂乱物価の原因となっている産業構造や流通機構について、意見を交し合ったが、小渕とわたしは、のちに、田中角栄の政策研究会「新総合政策研究会」で一緒に学ぶこととなる。
 別項でのべるが、三宅島の「官民共用空港問題」でともにうごいた山下元利(防衛庁長官)もこの研究会で出会い、意気投合した仲である。
 2人とも故人になって、久しいが、このお2人ばかりか、かつで、自民党を築きあげた功労者で、存命されている方たちは、年々、少なくなってゆく。

 ●「山本さん 最近の右翼はどうかね」と田原総一朗
 右翼活動家の前歴を捨て、国会議員候補あるいは政治評論家としての活動を本格化させはじめたわたしにとって、右翼という呼称は、ありがたいものではなかった。
 右翼活動を否定するものではないが、国政選挙や社会運動、テレビ出演には決定的に不利にはたらく。
 世間は、不正が目に余ると、右翼はなにをやっているのかと待望論をのべるが、右翼を善良で小市民的な国民と同列に見ているわけではなかった。
 むしろ、国民にとって、牙や毒のある存在で、だからこそ、右翼には、存在価値があるともいえるのである。
 わたしは、のちに、川崎敬三の「アフタヌーンショー」など多くのテレビやラジオの番組に出演させてもらうことになるが、田原総一朗が司会する「サンデープロジェクト」にも、ゲストとして、10回以上、呼ばれている。
 番組が終了すると、テレビ朝日の近くの全日空ホテルで、出演したゲストやスタッフが食事をしながら雑談する。
 反省会と慰労会を兼ねたような集まりで、スタジオとはちがってなごやかな雰囲気である。
 とつぜん、田原が、テーブル越しに、大声でわたしに声をかけてきた。
「山本さん 最近の右翼はどうかね」
 まるで、景気の動向でもたずねる調子で、これでは、返答のしようがない。
 右翼をまともにとりあげるなら、議題に掲げて、左右から大論陣を張るべきテーマで、食堂の片隅で、もののついでにもちだしてくる問題ではない。
 勘が鋭いジャーナリストの田原がそんなことに気づかないわけはなかった。
 周囲には、番組スタッフや他の出演者がいて、田原に注意をむけている。
 田原のことばから周囲につたわったのは、山本峯章が右翼の関係者であるということだけで、おそらく、田原の意図もそこにあったのだろう。
「田原さん、右翼動向が知りたければ、あなたの友人の野村秋介さんに聞いてはいかがか。最近の右翼のことなど、わたしが知るわけがない」

 ●小渕恵三と「金丸事件」
 このとき、わたしの隣に座っていた小渕恵三が、気まずい雰囲気を察したのか、他に用件があったためか、「出ましょう」とわたしをうながした。
 小渕とわたしは、同じ全日空ホテルの喫茶店に入った。
 小渕がわたしを喫茶店に誘ったのは、当時、小渕は、自民党をめぐる大きな問題に頭を悩ませていたからだった。
 金丸信副総裁が東京佐川急便から5億円のヤミ献金をうけていたとされる「金丸問題」であった。
 竹下派内では、裁判で徹底抗戦を主張する小沢一郎と、略式起訴での決着を主張する梶山静六が対立して、派閥分裂に危機に瀕していた。
 小渕の相談は、マスコミ対策で、金丸と一心同体の竹下派も、明確な方針が立っているわけではなかった。
「マスコミにはノーコメントでおしきるべきです。なにかいえば、誤解や曲解をまねき、あるいは、真意をねじまげられて、口は災いの元ということになりかねません」
 金丸事件は、上申書提出と20万円の罰金刑ですんだが、小沢一郎が自民党から去って、1955年の保守合同以後、38年におよんだ自民党の長期単独政権に終止符が打たれることになった。
 小渕恵三内閣(第一次)は、細川護煕から羽田孜、村山富市、橋本龍太郎とつづいてきた保革連立から脱した5年ぶりの自民単独政権だったが、総理大臣在任中、小渕恵三は、この世を去った。
 小渕は、総理大臣のとき、わたしが談合事件の黒幕と朝日新聞に誤報された折、共通の知人をとおして「心配している」というあたたかいことばをつたえてくれた。
 総理大臣の役も終えたらゆっくり会うことができるだろうと期待していたのだが、それもかなわぬ夢となった。

 いつの日か またあいみむと 契りたる
     君の訃報の 聞くは侘しき


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2020年06月24日

 わが青春譜14

 ●流通機構改革「動くスーパー構想」
 列島改造景気によるインフレや地価上昇、オイルショックによる消費物価の高騰は、当時、狂乱物価といわれて、社会問題化しつつあった。
 経済成長率が年平均10%をこえ、石炭から石油への転換(エネルギー革命)や石油化学コンビナートなど大型化、合成繊維やプラスチック、家庭電器など各種の技術革新やモータリゼーション、スーパーマーケットなどの流通革命もすすんだ。
 経済成長はゆたかな国民生活をもたらしたが、一方、物価上昇や大都市圏の過密と農村などの過疎、そして、公害などの負の遺産もうんだ。
 忠岡とわたしがめざしたのは、旧態依然たる流通機構の改革で、生鮮三品を中心とした産地直売だった。
 冷蔵車による移動販売だったところから「動くスーパー」と名乗った。
 いまでは、別段、珍しいことではないが、昭和40年代には、まだ、前例のない目新しい発想であった。
 日産自動車と冷蔵販売車の委託契約をおこない、取引銀行を大和銀行ときめて、始動体制を整えた。
 昭和48年10月1日に制定された大規模小売店舗法によって町の商店街に大型スーパーの出店がはじまった。
 これらのスーパーにも、一部、野菜などの産直を目玉とするところもあったが、流通経路の簡素化までには至らず、狂乱物価の沈静に大きな役割は果たすことはできなかった。
 戦後、再建された生協(CO・OP)も、消費者が組合員に共済事業であるが、産直などにつながる大きな動きはなかった。

 ●酒は値切って買う?
 明治以降、日本の国税の主たる対象は、塩・酒・タバコである。
 塩やタバコは、かつて、専売公社が元締めで、公定価格だった。
 酒税も、国家の重要な税収の一つで、国税庁から「酒類の販売事業免許」の許可をとらなければ、販売することはできない。
 わたしと忠岡は、蔵出しの時点で課税される酒が、流通過程では自由価格であることに着目した。
 現在、酒の販売は、完全自由化されてコンビニでも買える。
 だが、40年代は、酒類の販売業免許はきびしく、販売免許はかんたんには下りなかった。
 そこで、免許をもっている知り合いの酒屋を口説いて、出張販売であつかう酒を卸してもらうことにした。
 そして、自由価格で販売して、このとき、「酒は値切って買いなさい」というキャッチフレーズを謳った。
 狙いは、消費者に「流通を簡素化すれば物価が下がる」という認識をもってもらうためだった。
 仕入れた酒(日本酒のみ)をライトバンに積んで「物価高に挑戦!」という旗を立てて、わたしたちは、団地に乗りこみ、日本酒の安売りを開始した。
 酒は公定価格と思っている主婦の多くは、酒屋で酒を値切るなど思いもよらなかった。
 売り口上で、蔵出し酒税の仕組みを教え、日本酒が自由価格で買えることをつたえ、「今晩は二級酒の値段で、旦那に一級酒を飲ませてあげてください」とうったえると、ライトバンに満載してきた酒がたちまち売り切れた。
 あるとき、団地で、日本酒を安売りしていると、国税庁の役人があらわれた。
「免許はあるのか」と聞く。
 わたしは、友人の酒屋の免許で、出張販売をやっていると応えた。
 国税庁の役人は、出張販売にも許可が必要というが、申請しても許可がでるはずはなかった。
 押し問答しているうち、集まっていた主婦が役人に「帰れコール」を浴びせはじめた。
 どうやら潮時で、これ以上役人に逆らえば、友人の酒屋に迷惑がおよぶ。
 わたしたちは、ライトバンの出店をたたんで、団地から引き上げた。
 酒税は、国家の三大税源の一つで、役所によって完全に保護されている。
 翌日、事務所にやってきた酒屋の友人が、国税事務所から、きついお叱りを受けたとこぼした。
「免許取り上げられると店が潰れてしまうよ」と青息吐息である。
 わたしは、国税庁に顔の利く代議士に頼み、始末書を提出して事なきをえた。
 挑戦は挫折したが、物価高への抵抗運動については、十分に手応えがあった。
 旧い流通体制を改革することは簡単なことではない。
 因習やなれあいに利権構造が複雑にからんで、排除には相当の抵抗がある。
 必要なのは、意識改革で、消費者が立ち上がらなければなにも変わらない。
 続いて、肉の流通に挑戦した。東北で購入した牛を解体処理後、流通経路を省略して、店頭販売する計画だった。
 ところが、埼玉でも東京でも、解体処理場が仕事をうけてくれない。
 同和と称する者から、事務所に「われわれの商売を潰す気か」と脅迫電話が入るなど、嫌がらせもあった。
 肉の流通は閉鎖的な体質で、これが、改善されたのは、自由化などの流れにそって、消費者が立ち上がったからである。
 現在は、国内の流通機構も改革され、外国産の牛・豚・鶏が安く輸入されるようになって、市場は、当時では、想像もできないほど開放的になっている。

 ●動くスーパーが不渡り
 酒や肉の流通に取り組んでいた動くスーパー社に大きな災難が降りかかってきた。
 不注意から手形の不渡り事故をおこしてしまったのである。
「動くスーパー社」は日産自動車と冷蔵販売車の改造契約を結んでいた。
 車両数は、業務の拡張に合わせて、今後、数十台にもなる予定だった。
 不渡り事故というのは、日産自動車に渡してあった手形の決済期日に当座の預金残高が不足していたのである。
 忠岡は、普通預金に残高があるので安心していたというが、当座は不足していた。
 このようなケースでは、担当者が連絡をとって、普通口座から当座への資金移動を指導する。
 普通口座から当座預金に資金を振り替えればそれで済む話だからである。
 ところが、取引銀行の大和銀行本店は、忠岡に電話さえよこさなかった。
 そして、銀行に責任はないという一点張りである。
 銀行は、大蔵省の管轄下にあって「動くスーパー社」は、流通機構改革運動で国税庁に喧嘩を売り、肉その他の流通機構改革における法規の解釈や手続きで、役所としばしば悶着をおこしている。
「動くスーパー社」は、権力にとって、目の上のこぶだったのである。

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 わが青春譜13

 ●反共運動前線を去る
 昭和40年代になって、左右の思想的対決に大きな変化が生じる。
 60年安保における左陣営の大衆動員や右翼団体から暴力団まで駆り立てた右陣営の反共戦線が鳴りをひそめて、政治的無風状態がうまれるのである。
 理由の1つは、左右対決の焦点となるべき日米安保条約が自動延長となったためで、左陣営は、日米安保反対を煽って、大衆を動員する争点を失った。
 左翼が沈静化すれば、右陣営も、反共戦線を立てる必要はなかった。
 もう1つの理由は、かつて、安保闘争の主役を演じた全学連が過激派へ変容したことで、学生運動は、国民から遊離した犯罪グループへ転落していった。
 一連の極左暴力事件やゲリラ的な70年安保闘争、学園闘争は警察力で十分に対応できた。
 70年安保で、反代々木系といわれた極左暴力集団は、右翼(反共団体)と衝突するまでもなく、結局、40年代末には自滅してゆく。
 全学連の分派活動の一つにすぎなかった学園の民主化闘争も収束する。
 生き残ったのは、議会主義と平和路線を唱えた日本共産党だけだった。
 天皇や憲法、自衛隊などの問題を棚上げして、革命政党としての正体を隠しているが、日本共産党は、民主主義革命と共産主義革命の「二段階革命論」を唱える革命政党で、いまもなお、破防法における調査対象団体の指定をうけている。
 といっても、日本で、革命がおこる可能性はなく、日本共産党は、反自民のもとに群れる野党勢力の一つにすぎないものになっている。
 戦後体制の残滓、極左暴力革命の危機を回避して、日本が、高度経済成長にむかったのが、所得倍増計画の池田勇人内閣(1960年)からで、池田からはじまる経済優先政策は、その後の佐藤栄作内閣を経て、田中角栄内閣の列島改造論で大きな山場を迎える。
 田中角栄の列島改造計画で日本中がわき立ち、マスコミは、角栄を今太閤ともちあげた。
 国民が目をむけたのは、日米安保や沖縄返還、日中国交回復などの政治課題より、経済問題で、そのなかで、池田勇人の所得倍増計画と並んで国民の心をとらえたのが、田中角栄の列島改造計画だった。
 列島改造景気によって、高速道路や新幹線、本州四国連絡橋、地方の工業化促進候補地が脚光を浴びることになったが、これらの地域で、投機家によって土地の買い占めがおこなわれて、1973年には、インフレや物価上昇などが社会問題化した。
 政府は「物価安定七項目」を打ち出すなど、生活関連物資などの買い占めや売り惜しみ対策を取ったが、インフレはいっこうに収まらず、家計をあずかる主婦はやりくりに悩まされた。
 そのさなかにおきたのが「狂乱物価」で、原因は、第四次中東戦争が発端になったオイルショックだった。
 この頃、むつ小川原開発選挙で行動を共にした忠岡とわたしが、流通革命というべき「動くスーパー」構想を立ち上げたのは、福田赳夫が命名したという「狂乱物価」に挑戦するためだった。
 現在なら、珍しくもない「産地直送」だが、当時は、まだ、流通機構が保守的で、狂乱物価という社会現象に正面からとりくむ機運もなかった。
 わたしは、40年から45年まで、一流の講師を招いて、講演会を主催する大衆啓蒙運動をおこない、45年からは、西山幸輝からひきうけた昭和維新で実践的な政治運動を展開してきた。
 わたしは、反共運動から身をひき、大衆に密着したソフトな社会運動へ方向転換するため、昭和維新連盟の会長を薗田新に譲って、港区赤坂に新たに事務所を構えた。
 昭和48年の初頭で、忠岡とともに流通機構改革運動にとりくもうというのである。


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2020年06月04日

わが青春譜12

 ●むつ小川原開発の影武者
 昭和48年初秋、わたしの事務所に、小川原湖温泉社長の忠岡武重が訪ねてきた。
 忠岡は、わたしの旧い友人で、青森県の小川原湖の湖畔で温泉宿を経営しているが、旅館のほうは人任せで、本人は東京に住んでいる。
 のちに、わたしと共に社会事業をおこなうことになるが、その件については後述しよう。
 このとき、わたしは、忠岡から、六ヶ所村の村長選挙への協力を頼まれる。
 六ヶ所村は、田中角栄の日本列島改造論で、一躍、有名になったむつ小川原開発の中心となった地区で、現在、原子燃料サイクル施設などの原子力施設や国家石油備蓄基地、風力発電基地などエネルギー関連施設が集中している。
 だが、当時は、ワカサギやシラウオなどの漁獲量が豊富な小川原湖を擁する以外、これといった売り物がない、青森県下北半島の太平洋岸に位置する半農半漁の村でしかなかった。
 忠岡の話によると、開発賛成派と反対派がしのぎをけずっている村長選挙の背景には、自民党がすすめてきた新全国総合開発計画という国家プロジェクトがあるという。
 六ヶ所村は、国・自治体・財界が一体となった大型の国家事業(新全国総合開発計画)における苫小牧に次ぐ目玉で、村長選で開発推進派が負けるようなことになれば、当時、数兆円規模といわれたむつ小川原開発が後退して、六ヶ所村は、経済発展の恩恵に浴することができない。
 六ヶ所村村長選挙が、開発計画に大きな影響をあたえるとあって、提唱者である自民党が全力をあげると思いきや、忠岡の話では、かならずしもそうではなかった。
 忠岡は、わたしに、ある財界人に会ってもらいたいという。
 忠岡に案内されたのは東京駅の近くにある日本ビルディングに入居している「むつ小川原開発株式会社」という第三セクター(官民共同事業体)だった。
「新全国総合開発計画」におけるむつ小川原開発は、トロイカ方式と呼ばれるもので、財団や企業らが土地買収と工業用地の造成分譲、計画や調査の業務をそれぞれ分担しあっている。
 むつ小川原開発株式会社の資金30億円も、北海道東北開発公庫と青森県が50% 残る50%は経団連傘下の150社の共同出資によるものだった。
 社長室で待っていたのはむつ小川原開発の社長をつとめる安藤豊禄(元小野田セメントの社長)だった。
 長年、経団連の理事をつとめている財界の大物だが、気さくで率直、驕ったところがなかった。
 忠岡と安藤のやりとりから、六ヶ所村の村長候補の一本化に難航しているとわかった。
 安藤が忠岡にたずねた。「県連(自民党青森県連)で調整できないものだろうか」
 村長選で開発推進派が負けるようなことになると、大幅な計画縮小どころか六ヶ所村の開発計画が頓挫しかねない。
 忠岡と安藤の懸念はそこにあった。安藤がずばりと切りこんできた。
「あなたは中川さんと近いとうかがっているが」
 安藤がいう中川とは衆議員議員の中川一郎のことである。
 だが、福田に私淑する中川は、福田の緊縮財政論に近く、大規模開発による土地価格の高騰やインフレを招く田中角栄の積極財政には批判的だった。
 一方、中川は、青嵐会の代表として、多くの右派議員に支持されている実力者で、将来の総理候補として頭角をあらわしつつあった。
 安藤から、直接、協力をもとめられて、わたしは、忠岡と共に開発推進派の力になろうと意を決めて、その日、むつ小川原開発株式会社を後にした。
 
 ●出稼ぎ村 むつ小川原六ヶ所村
 青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備する計画がもちあがったのは昭和30年代末頃だった。
 その計画が、昭和四十四年五月 田中角栄内閣の「新全国総合開発計画」として閣議決定されて、実行段階に移された。
 対象地域は、むつ市やなど16市町村におよんだが、開発の中心は、青森県の下北半島太平洋岸に位置するむつ小川原港の六ヶ所村が中心であった。
 六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所、火力発電などを建設する世界最大の開発といわれたむつ小川原開発計画は、石油危機などによって、縮小を余儀なくされる一方、原子力関連施設が進出してきて、今日のすがたになった。
 開発の中心となった六ヶ所村や周辺の地域は、半農半漁で、毎年2〜3千人の人々が、家族と離れて、出稼ぎで現金収入をもとめる土地柄であった。
 秋の刈り入れが終わると、家族と別れて都会へ出稼ぎに行き、春の雪解けに帰って、田植え作業するケース、一年をとおして出稼ぎに出るケースと事情はさまざま異なっても、この時代、むつ小川原および六ヶ所村は、貧しい北国の出稼ぎの村であった。

 どじょっこやふなっこが遊ぶ 雪解けに
      おどうは帰る 手みやげもって


 ●戊辰戦争で敗れた会津の斗南藩
 青森県の東北部、下北地方に位置するむつ市は、かつて、斗南藩と呼ばれた地域と重なる。
 斗南藩は、戊辰戦争に敗れて、領地を没収された会津藩が再興をゆるされて移住した藩で、多くの旧藩士が移住して開墾にあたったが、痩せた土地と寒冷による不作や飢饉によって、多くの死者を出し、次第に離散していった。
 北辺の地で、薩長政府への復仇を誓って斗南「南(薩長)と斗(戦)う」と名乗った斗南藩士だったが、その誓いはたっせられなかった。
 その後、明治4年の廃藩置県で斗南県となったが、同年九月、青森県に編入されて、その名も消えた。
 廃藩置県が敷かれても、戊辰戦争で朝敵となった会津藩士が住む北の果てに薩長政府の恩恵はおよぶことがなく、文明開化と呼ばれる近代化もこの地には無縁だった。
 むつ小川原開発計画は、明治維新以降、時代から取り残されて、半農半漁と出稼ぎで成り立っていた斗南という因縁の地にようやく訪れてきた恵みの風であった。

 尊皇の 武士共(もののふ)が 朝敵と
    なりておちゆく 北の地の果て


 ●開発派、選挙とリコールで敗ける
 出稼ぎという労働形態から抜け出して、一年をとおして、家族がいっしょに暮らせる環境をつくるのが六ヶ所村の願いで、青森県政や県議会も同じ思いをもっていたのはいうまでもない。
 昭和44年5月30日、列島改造論にもとづく田中角栄の「新全国総合開発計画」が閣議決定されると、開発地区に指定されたむつ小川原および六ヶ所村はわきたった。
 ところが、左翼が、むつ小川原および六ヶ所村開発の反対に回った。
 左翼の反対は、正当な根拠や理由にもとづくものではない。
 反対が先にあって、これを合理化するために、根拠や理由をこじつけるのである。
 むつ小川原および六ヶ所村開発反対の理由が、企業公害であった。
 誘致された企業が廃液を垂れ流して、人間が住めないほど自然が破壊されるというのである。
 昭和44年12月、六ヶ所村の村長選挙がおこなわれた。
 六ヶ所村助役と自民党県連事務局長の一騎打ちとなったが、助役の寺下力三も県連事務局長の沼尾秀夫も同じ保守系で、開発問題について、両者に大きな見解のちがいはなかった。
 選挙の結果、寺下力三が当選した。
 ところが、選挙が終わると、寺下が反対派に豹変して、開発反対をうったえるという想定外の事態が発生した。
 これに呼応して、反対派が、六ヶ所村開発反対同盟を結成すると、賛成派も立ち上がって、六ヶ所村は、開発反対同盟と開発賛成派が対立する政治闘争の場と化していった。
 三宅島の防衛施設庁の官民共同空港誘致や新島ミサイル試射場設置闘争でも経験したことだが、住民をまきこんだ政治闘争には、左翼(日本共産党ら)がオルグ団を送りこんでくる。
 デマゴギーで住民を煽るなどは序の口で、思想的洗脳やイデオロギー教化をおこない、その結果、地域のみならず、親子や兄弟までが対立するハメになる。
 雑誌『世界(1986年6月号』)に鎌田慧が「暗躍するフィクサー」という記事(183〜196P)でわたしを誹謗しているが、鎌田は成田空港闘争の当事者で「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめる左翼作家である。
 その鎌田の著作に『六ヶ所村の記録』というノンフィクションがある。
 同書の内容紹介に「冷害や凶作が相次ぐ不毛の土地、下北半島の六ヶ所村に次々とみまう開発の波」とある。
 これが左翼の論理で、開発で多くの人々がうける恩恵には目をむけず、自然破壊という大衆受けするスローガンを立てて、貧しさや後進性から抜けだそうとする人々のねがいを踏みにじるのである。
 左翼オルグ団は、選挙が終わると、六ヶ所村を去って行く。
 あとに残るのは、イデオロギー対立の傷痕と両派の不信と憎しみ、反目だけである。
 左翼は、村民の対立を煽り、闘争実績を誇るが、あとは野となれ山となれの論理で、村の発展や人々の幸などは端から眼中になかった。
 反対同盟は、社会・共産両党に公明党をくわえた野党共闘体制に青森県下の労組や公害反対をスローガンとする左翼系の団体が総動員された磐石の体制であった。
 これに対抗するのが自民党県連と六ヶ所村の「五派協議会」だった。
 左右対立構造のなかで、賛成派村議による寺下村長のリコール運動がおきたが、結果は、小差で開発派が負け、反対運動に勢いがついた。

 ●一本化ならずば青嵐会動けず
 昭和48年にはいって、村長選挙(12月)の運動が加熱してきた。
 むつ小川原開発は、田中内閣が政治生命をかける国家的な大事業である。
 村長選は、その成否を左右しかねない大事な選挙である
 自民党青森県連にとっても、是が非でも、勝利をもぎとらなければならない小さい村の大きな選挙だった。
 だが、障害が立ちはだかった。
 共に賛成派の沼尾秀夫と古川伊勢松が互いに一歩も譲らないのである。
 候補を一本化しなければ、反対派に漁夫の利を奪われるのは目にみえている。
 だが、地元の有力者で、共に多くの公職に名を連ねる著名人である両人とも譲る気はなかった。
 背景にあるのが、青森県県政における二大派閥の勢力争いだった。
 一つは、知事とその子息である衆議院議員竹内黎一(県連会長)が形成する多数派の竹内派である。
 もう一つは、小派閥ながら、大平派の幹部で、中央政界で大きな力をもっている田沢吉郎衆議院議員の影響をうけるグループである。
 青森県政では、竹内派と田沢グループが主導権争いをくりひろげていた。
 県連は、48年6月頃から、一本化工作にのりだしたが、難航した。
 結局、竹内派と田沢グループの調整がつかないまま村長選挙を迎えるはめになる。
 わたしと忠岡は、のちに知事となる北村副知事やむつ小川原地方を選挙地盤とする菊池・岡山両県議と幾度か会って、候補一本化の案を練った。
 この選挙に負ければ、貧困や出稼ぎによる家族崩壊など、六ヶ所村の悲劇が将来へもちこされることになる。
 当時、ケガで松葉杖をついていた北村副知事も、菊池・岡山両県議も悲壮な覚悟で候補の一本化にあたったが、沼尾・古川両候補は一歩も譲らず、ついに11月25日の告示日を迎えることになる。

 ●中川一郎(青嵐会)と密議
 忠岡がわたしを訪ねてきて、「むつ小川原開発会社」の安藤豊禄社長に会った折、青嵐会代表の中川一郎代議士の名が出たのは、わたしが、中川と個人的に親しかったからだった。
 わたしが、この件で、中川一郎議員に協力をもとめたのはいうまでもない。
 六ヶ所村は、国家的事業である田中角栄の「列島改造論」の目玉というべきむつ小川原開発の中心地である。
 むつ小川原開発の浮沈がかかっている六ヶ所村の村長選挙が、自民党はむろんのこと、自民党若手中堅議員の集まりである青嵐会の関心を呼ばないわけはなかった。
 だが、青森県連では、竹内黎一と田沢吉郎という地元選出の2人の国会議員が、長年、勢力をもっていて、自民党本部も、普通選挙法の原則から、うかつに干渉することができない。
 まして、青嵐会が、青森県連の意向を無視してうごくわけにはいかなかった。
 そもそも、候補が一本化されていない以上、応援にかけつけることすらできないのである。
 沼尾と古川という保守系両候補の背後にいるのが、竹内と田沢の派閥だった。

 ●出稼ぎ労働者に投票を
 わたしと忠岡らがすすめてきた保守系候補の一本化は暗礁にのりあげた。
 あとは、保守系候補のどちらかを勝たせる次善の策に頼るほかなかった。
 開発反対派を退けるには、開発推進派の共倒れという最悪の事態を避けなければならないのである。
 立候補は3人である。
 寺下力三郎(現職反対派)
 沼尾秀夫(保守賛成派)
 古川伊勢松(保守賛成派)
 寺下力三郎には、全野党が反対同盟をつくって、労組らの支援体制も万全であった。
 開発賛成派は、開発反対派の優位に立っているが、候補者が2人に分裂しているので、2位、3位となって、1位を開発反対派に奪われる。
 下馬評は、寺下力三郎が当選で、次点が古川伊勢松だった。
 賛成派の村議21人のうち、沼尾支持派が8人 古川支持派が13人だった。
 反対派を退けるには、古川伊勢松に勝たせる以外、方法はなかった。
 わたしは、中川一郎と知恵を絞って、一つ、妙案を思いついた。
 投票日に、2〜3千人といわれる出稼ぎ人の一部を一時帰郷させるというアイデアだった。
 六ヶ所村の村長選において、2〜3千人有権者数は圧倒的である。
 そのうち一部が帰郷しただけで、現職反対派の寺下力三郎の優位がひっくり返る。
 当初、忠岡とわたしが現地に入って、選挙運動をする計画もあったが、身内意識がつよい村組織のなかで、よそ者が画策すれば、かえって、反発をまねきかねなかった。
 それに比べると、出稼ぎ人の一時帰郷は、灯台下暗しの名案だった。
 青森にもどって、忠岡の小川原湖温泉ホテルで会議を持ち、菊池県議や岡山県議らに表の選挙対策本部を任せ、わたしと忠岡は裏選対≠ノあたることとした。
 裏選対というのは、出稼ぎ人を一時帰郷させ、投票用紙に古川伊勢松の名を書かせることである。
 むつ小川原開発は、第三セクターで、株主が、国や県、財界(150社)の三者で構成されている。
 六ヶ所村村長選の勝敗は、株主であるゼネコンの利害を大きく左右する。
 わたしは、ゼネコン各社に赴いて、12月の投票日に、出稼ぎ人帰郷させるよう説いて回った。
 そのなかで、とりわけ協力的だったのは、国際興業の小佐野賢治社主だった。
 北海道や東北で鉄道やバスなどの運輸交通事業を営む国際興業は、不動産や土地開発にも力を注ぎ、むつ小川原の開発予定地に大規模な投資をおこなっていた。
 小佐野は田中角栄の盟友でもあり、大手ゼネコンにも人脈をもっている。
 六ヶ所村の村長選で古川が落選すれば、開発の縮小や延期を免れないばかりか、投資効果が下がって、むつ小川原開発の株主でもあるゼネコンにとっても大きな損失となる。
 出稼ぎ人に一時帰郷にめどが立って、あとは、投票用紙に「古川伊勢松」と書かせるだけだったが、出稼ぎ人は、もとより、開発に賛成で、なにより、開発反対派の当選をおそれていた。
 12月2日 投票の結果、古川伊勢松が当選した。
 獲得票は2566票で、反対派の寺下力三郎と79票の差であった。
 3位の沼尾の得票1683票と合わせると、賛成派が、全村民の3分の2を占めたことになるが、それにしても、2位の寺下との差がわずか79票だったことを思うと薄氷の勝利だったといえよう。
 こうして、田中角栄の列島改造論で最重要政策だった巨大開発「むつ小川原開発」は開始された。
 
 武士(もののふ)の大義に奉じた 子孫らに
      文明開化の音 いま聞こゆ


 ●むつ小川原開発の影の部分
 月刊誌「二〇世紀」(昭和49年2月号)に「むつ小川原開発の影の部分」という特集記事があって、ジャーナリストの猪野健治が執筆している。
 記事には小見出しが五本立っている。@出稼ぎ村の悲劇A着々進む土地買収B一本化ならずCきらわれた外人部隊D古川支援の影武者――である。
 猪野は、忠岡に取材をかけて、わたしの情報にかんしても、忠岡談となっている。
「古川氏を支援した開発派の忠岡武重氏(むつ小川原湖温泉社長)が舞台裏をぶちまける」とあるのは、六ヶ所村村長選の古川当選が、当時、売れっ子ジャーナリストだった猪野の意表をつくものだったからであろう。
 忠岡は、遊説中のわたしとむつ小川原で出会ったとのべているが、なにかのまちがいで、忠岡とわたしは、旧知の間柄にあって、共に、むつ小川原開発の安藤豊禄社長のほか多くの政界人や財界人と会っている。
 そして、この選挙ののちも、共同で、流通機構改革運動に取り組んでいる(別の項で述べる)。
 忠岡はこうのべている。
「古川・沼尾の一本化工作については、山本さんをとおして、古川支援工作をN先生にお願いした。N先生は青嵐会にはたらきかけ、青嵐会は、古川支援をきめた。ここまでが第一段階です」
 N先生とは中川一郎衆議院議員である。
 記事にはこうある。
「N先生は、忠岡氏に青嵐会の渡辺美智雄、浜田幸一氏らを引き合わせているが、渡辺氏らは、その際、候補を一本化した上て、青森県連の要請があれば」と古川支援に条件を付けた。
 しかし、前述したように、県連の一本化工作は失敗に終って、ビラまでつくりながら青嵐会の古川支援は実現しなかった。

 ●なにもしなかった自民党
 記事にはこうある。
「山本峯章氏は、青森県連に、幾度か足を運んで、候補の一本化をと要請したが、県連には、危機感がなく、山本氏はあきれた」
 危機感がなかったのではなく、青森県連には、打つ手がなかったのである。
 忠岡はこう続ける。
「N先生は国際興業東北グループにはたらきかけ六ヶ所村出身者の帰郷運動をやってくれた」
 これも、忠岡の誤認か猪野の曲解で、N先生こと中川一郎は、わたしの人脈で、国際興業と数社のゼネコンに六ヶ所村出身者の帰郷運動をはたらきかけたのはわたしである。
 国際興業は、第三セクターの株主ではなかったが、むつ小川原開発に多大の先行投資をおこなって、大きな利害関係を持っていた。
 わたしは、これに目をつけて、小佐野を口説いたのである。
 そして、出稼ぎ者にジェット機で帰郷してもらい、投票させるという奇策を実行に移すのである。
 猪野はこう分析する。
 実際、自民党は、この選挙でほとんどなにもしなかった。竹下登副幹事長が来県しているが、これは参院に出馬する鳩山威一郎、佐藤信二両氏の表割りの根回しのためであった。
 そして、猪野は、最後に、わたしのコメントでしめくくる。
「むつ小川原開発は新全総―列島改造論にもとづく巨大開発であり、その成否は、自民党―田中内閣の浮沈にかかわるものだ。県連段階で調整がつかなければ総裁権限で候補一本化をはかってでも必勝を期するべきだった。田中総理はそれをしなかった。勝ったからよかったものの負けていたら、青森県連などは総辞職ものだ。いい加減にしろといいたい」
 六ヶ所村の村長選挙は、薄氷の勝利で、選挙態勢はお粗末の一言につきた。
 自民党本部から、多くの代議士が青森県連に馳せ参じたが、候補の一本化ができなかった県連は、選対本部も設置できない有様だった。
 象徴的だったのが、自民党佐藤寿県議が宣伝カーで、開発推進候補へ投票を呼びかけた珍光景である。
 これでは、有権者は、二人いる開発派のどちらに投票すればよいのかわからない。
 投票開票が終わったその夜、地元の有志の家でささやかな祝杯を挙げた。

 北国の ことば訛りは あたたかき
    いろり囲んで じょんからを謡う 


 あれから50年、今でも菊池県議のご子息 菊池茂さん、青森市の町田さんから地元の名産を送ってこられる。人情衰えずである。

posted by office YM at 21:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする