2020年07月29日

 わが青春譜20

 ●新たな課題「北方領土」問題
 小杉なるニセ弁護士から仕掛けられた「領収書偽造事件」によってわたしは国会議員へのみちを断たれた。
 小杉が、わたしの事務所に、右翼の児玉誉士夫から中曽根代議士が3億円をうけとったとするニセ領収書をもちこんだのが事件の発端だったが、領収書を偽造したのは小杉で、わたしは事件となんのかかわりもなかった。
 ところが、新聞は、わたしが共犯者であるかのように書き、友人でもあった戸川猪佐武(評論家)が「自民党公認ほしさ」などと事件との関連を匂わせる発言をしたため、次期衆議院選の大物候補といわれたわたしへの信頼や支持はたちまち失墜した。
「千載一遇(千年にいちどのよい機会)」が「好事魔多し(よいことには邪魔が入りやすい)」にしてやられたわけだが、もとの原因は、わたしの油断にあったわけで、代議士のみちはあきらめるしかなかった。
 当時、わたしは、40歳で「食糧自給連盟」のほか、10以上の団体役員をつとめていたが、選挙から離れて、いちばん最初にとりくんだのが、北方領土問題だった。
 当時、北方領土返還運動は、民族派や右翼団体らがデモ行動をくりひろげていたが、徒党を組んで、コブシをふりあげ、大声をあげるだけでなんの効果もあがっていないことはだれの目からも明らかだった。
 わたしは、のちに「島は還らない」(思想評論社)を著して、北方領土問題の論点を2つ挙げて、ソ連と膝詰め談判をすべきと論じるが、2つの論点というのが――
 @アメリカが、戦後、ソ連へ譲渡したクリルアイランズ18島(千島列島)に北方四島はふくまれない
 A日本降伏後にソ連が奪った北方4島占領は一方的侵略で戦利にあたらない

であった。

 ●「マッカーサー命令」のクリルアイランズ
 満洲と北緯38度以北の朝鮮、樺太及び千島諸島のソ連への帰属をもとめる「一般命令第一号(米国陸軍中将R・K・サザーランド)」のもととなったのがマッカーサー命令第一号だった。
 そこに「ソ連はクリルアイランズとサハリン(樺太)に進駐すべし」とある。
 ソ連軍は、マッカーサー命令にもとづき、日本がポツダム宣言をうけいれた8月15日から3日後の8月18日、北千島の占守島に総攻撃をかけている。
 そして、中千島の得撫島まで南進して、突如、軍事行動をやめて連合国軍の動向をうかがう。
 なぜなら、得撫島の南に位置する択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島の北方4島はクリルアイランズに属さない日本固有の領土だからである。
 アメリカがソ連に領有を密約したクリルアイランズに北方領土4島は入っていない。
 択捉島以南の4島が日本領と定められたのは1854年の「日露和親条約」で、クリルアイランズ18島が日本領となったのは、1875年の「樺太千島交換条約によってである。
 ソ連が、かつて、いちども、ソ連領になったことがない北方領土を侵略するのは、日本が、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において降伏文書に調印した翌日の9月3日である。
 ソ連は、第二次世界大戦の戦勝記念日を9月3日にとりおこなう。
 日本が降伏文書に署名した9月2日にすると、9月3日の北方4島の侵略が平時の軍事行動ということになって、戦利という大義名分がなりたたなくなるからである。
 北方領土問題の核心は「マッカーサー命令」でいうクリルアイランズに北方領土がふくまれるか否か、そして、終戦後におこなわれた北方4島の侵略および占有に正当性があるか否かに絞ることができる。

 ●法的根拠をもたないロシアの北方領土占領
 ソ連が、北方領土占領の根拠とする「ヤルタ秘密協定」は、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約だったとして、アメリカ政府はこれを認めていないが、3巨頭の一人として署名したチャーチルも、ルーズベルトとスターリンに騙されたとして、ソ連の対日侵攻の1か月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4か国首脳に同協定の無効と危険性をうったえている。
 戦後、日本を規制してきた連合国の宣言や協定には、ヤルタ秘密協定のほかにカイロ宣言やポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約などがあるが、いずれも、領土の取得禁止や不拡大を謳い、参戦の見返りに他国の領土を割譲するなどのクレージーな約定は例がない。
 1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島(クリル)列島18島を放棄させられたが、引渡先は未定で、本来なら、一定時期がすぎた段階で日本への返還されるべき性格のものである。
 少なくも、サンフランシスコ平和条約に署名していないソ連(ロシア)には帰属権なく、北方領土は、法的には、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約の上にもとづいた不法占有のままである。
 ちなみに、ソ連の対日進攻の最終目的は、北海道東部で、アメリカが原爆をもっていなかったら、北方4島どころか北海道までがソ連領になっていたはずである。
 千島列島22島(クリル諸島18島+北方4島)の領有を正当化(戦争結果)するロシアは、近々、国内法を整備して、22島の領有を法制化する構えだという。
 ロシアが北方領土の法制化をめざす理由は、北方4島領有に法的根拠がないからで、現在、同4島は、係争関係のもとにある。
 唯一の法的根拠は「日ロ平和条約」になるはずだが、日本が、北方4島のみならず、サンフランシスコ平和条約で放棄した22島の返還をもとめて国連にうったえでると、領有権をもたないロシアは窮地に追いこまれる。
 鈴木宗男や佐藤優らが2島返還をいうのは、日本のためではなく、ロシアを助けるためだが、たとえ、2島であっても、日米安保があるかぎり、ロシアに返す気はない。
 そうならば、日本は、国連総会で、千島列島22島の潜在主権が日本にある旨の演説をおこなって、ロシアが、無法国家であることを訴えたほうがよほど国益にかなうのである。

 ●ソ連がもとめた対日参戦@v請
 1945年7月。スターリンは、モロトフ外相をトルーマン大統領のもとに派遣して、書面にもとづく、正式な対日参戦≠フ要請をおこなっている。
 米英らの名義をもとめたのは、一方的に「日ソ中立条約」を破って参戦する負い目を連合国側に負わせるためだった。
 モロトフとの会見に立ち会ったのはトルーマンの腹心バーンズ国務長官であった。
 バーンズ国務長官は、ヤルタ秘密協定について、トルーマン大統領からなにも聞いていなかった。
 ヤルタ秘密協定は、米・英が批准しておらず、大半の政治家がその存在すら知らなかった。
 バーンズ国務長官はミスター原爆≠ニいわれるほど原爆支持者で、ソ連の参戦をそれほど臨んではいなかった。
 原爆があれば、ソ連の参戦がなくても日本を降伏させられるはずだったからである。


 ●カーター大統領への手紙
 1956年の「対日覚書」でアメリカ国務省は「南千島は日本固有の領土である」と宣言している。
 国際法学者のあいだでも、クリルアイランズがカムチャッカ半島から中千島(ウルップ島)までの18島というのが共通の理解である。
 仮にマッカーサー命令を是としても、その範囲は中千島までである。
 わたしは、昭和47年6月7日、アメリカのジミー・カーター大統領に一通の手紙をしたためた。
 内容は、アメリカがソ連の占有をみとめたクリルアイランズの範囲である。
 カーター大統領への手紙で、わたしは、北方領土における日本の歴史・条約上の正当性をしめし、ヤルタ秘密協定を領有の根拠とするソ連の主張に法的な根拠がないことをうったえた。
 ソ連は「マッカーサー命令」にもとづいてクリルアイランズを占有した。
 そのなかに、北方4島がふくまれるか否か。
 カーター大統領もしくは米国務省が「ふくまれない」といえば、その言質をもって、ソ連と論争を立てることができる。
 北方領土を返せと空に叫ぶよりそのほうがよほどましなたたかいになる。

 ●アジア太平洋民主党大会に出席
 わたしは、アメリカ労働界の重鎮で「アジア太平洋民主党大会」の委員長を務めていた日系人ジョージ・コノシマ氏の計らいで、同大会にオブザーバーとして参加することがきまって、1980年5月17日、アメリカにむかった。
 胸ポケットに同大会の主賓であるカーター大統領への質問状を秘めていたのはいうまでもない。
 そのことを、当時、上梓した「国益を無視してまで商売か」(日新報道)の「はじめに」でふれているので引用する。
 ちなみに、この出版は、別項で詳説するように、昭和55年、ロッキード事件に次ぐスキャンダル「グラマン事件(日商岩井事件)」を東京タイムス社会部長と一緒に共同取材したもので、このとき「海部メモ」が大きな問題となった。

 現在、アメリカでは、大統領予備選のキャンペーンが、本番並みの激しさでくりひろげられているが、1980年5月22日、ワシントンヒルトンホテルで、アジアパシフィックアメリカン、デモクラシィパーティーという大会が開催された。
 アジア太平洋系の民族による民主党後援大会で、日本からの出席者はわたしだけであった。
 アメリカには、日本や中国、朝鮮その他のアジア太平洋系国家を祖国とする米国市民が人口の約一、五パーセント300万人いるといわれている。
 これらアジア太平洋系の米国市民が結束して大統領を招き大会を開いたのは今回が初めての試みであった。
 わたしはジョージ・コノシマの紹介で大統領と会い、握手と挨拶を交わしたものの、質問状を直接手渡すことは憚られた。
 だが、わたしの長年の友人、実業家貴戸氏(ロスアンゼルス在住)を介して、民主党上院議員スパーク松永(ハワイ州)、ジミー・ホワイト上院議員と意見を交換することができた。
 わたしは、外交官でも政治家でもなく、一介の言論人にすぎない。
 国家の外交や条約について、政治家や役人とやりあう資格はない。
 だが、言論人、評論家として、知恵を絞り、戦略を練ることはできる。
 国家的な問題を、外交権限をもたないわたしが問題提起しても、限界があるだろう。
 だが、言論人の言論と言論にともなう行動は、つねに、世の中や時代をうごかしつづける。
 北方領土問題でアメリカにまでわたった経験が、その後のわたしの政治・外交にかかる言論の土台になったのはいうまでもない。

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2020年07月27日

 わが青春譜19

 ●「山本君を後継指名から外す」
 菊池義郎先生が、自民党都連本部にみずから足を運んで「山本君を後継指名から外す」とつたえたのは、新聞記事を真にうけたからだった。
 わたしがその事実を知ったのも、新聞報道からだったが、「時すでに遅し」で事態は最悪の方向へとむかっていた。
 領収書を偽造した小杉らが逮捕されて、わたしが事件に無関係だったばかりか、被害者だったことが明らかになったが、新聞がわたしを共犯者であるかのように報じたあとでは、もはや、手の打ちようがなかった。
 新聞記者が、戸川猪佐武の不用意な発言をとらえて「公認ほしさ」と書いたが、これは、歪曲をこえたねつ造で、名誉毀損罪という犯罪行為にあたる。
 名誉や社会的信用は、築きあげるまでに長い時間がかかるが、毀損するにはわずか一晩で事足りる。
 わたしは、この一件で、国会議員への階段からまっさかさまにころげ落ちるのである。
 逮捕後、小杉がニセ弁護士とわかったが、わたしは、気がつかなかった。
 小杉の事務所には「小杉法律事務所」という表札がかかり、ドアには名義を借りてきた2人の弁護士の氏名が書かれていた。
 弁護士事務所なら弁護士法違反になるが、法律事務所なら、弁護士の資格がなくても開業、登録ができる。
 小杉は、なぜ、わたしに接近して、謀略をかけたのか、いまだにわからない。
 いずれにしても、わたしは、まともにそのとばっちりをうけて、政治生命を断たれるのである。
 わたしの後援会「山峯会」は、できたばかりの組織で、会員数も集票能力も菊池先生の「白菊会」に遠くおよばなかった。
 当時、新聞が、戸川談として、わたしが自民党の公認を欲しがっているかのようにつたえたが、これは、事実に反する。
 わたしは、この頃、自由民主党の品川支部青年部長のほか、都連青年部中央執行委員をつとめていて、都連青年部の部長が、保坂三蔵都議会議員(のちに参議員)であった。
 その保坂に『青年部の推薦くらいは下さい』と軽口を叩いたことはあるものの本気ではなかった。

 ●政治の激動と反共運動
 わたしが反共運動をはじめたのは、学生時代で、昭和30年代である。
 当時は、左右陣営や保革・労使がきびしく対立する政治の激動期であった。
 右翼活動が活発化した背景にあったのは、昭和26年の「五全協」で、日本共産党が暴力革命=武装闘争路線をとったからで、山村工作隊や地下トラック部隊、火炎ビン闘争などによって、日本は、革命前夜の緊張につつまれた。
 昭和30年の「六全協」で、日本共産党は、軍事主義から議会主義へ路線を変更したが、これに反発した反代々木系から革共同(核マル・中核)や共産同(ブント)、革労協や連合赤軍などの過激派がうまれる。
 70年安保以降、過激派は内ゲバで自滅してゆくが、その一方、大学教壇や日教組などの教育界や学会、法曹界や官界、マスコミの左傾化がすすみ、日本総左翼化の対抗軸となったのが右翼勢力であった。

 ●最大の理解者だった菊池義郎先生
 新島闘争(34年)や安保闘争(35年)で、先頭に立ってたたかってきたわたしの政治信条は、尊皇と反共で、その意味でも、自民党きっての反共主義者として知られる菊池先生はかけがえのないわたしの理解者であった。
 しかも「白菊会」という強力な後援会をつけていただいた。
 菊池先生との邂逅は、政治家をめざすわたしにとって、これ以上、望むべくもない天恵というべきものであった。
 といっても、わたしは、次回選挙で、一足飛びに当選と考えていたわけではなかった。
 白菊会の後援を得られれば、次点争いに食い込める。その実績を土台にして地道な活動をつづけてゆけば、かならず、先が見えてくるはずである。
 三段跳びを引き合いにすると、次の選挙はホップで、そのあとのステップやジャンプで飛躍が望めるのだ。
 わたしの選挙区、東京二区は、各党の幹部級の議員が議席を争ってきた。
 それまで、自民党は二議席を確保していたが、宇都宮議員が無所属となったため、石原議員一議席だけとなった。
 菊池先生が落選(次点)した選挙で、宇都宮議員は自民党を離党、無所属で当選したが、両先生とも明治生まれのご高齢で、後継者が取り沙汰された。
 当時、都連の会長は、宇都宮の盟友だった鯨岡兵輔衆議院議員であった。
 二人とも自民党左派で、かれら左派が、自民党が保守党へ脱皮できない最大の抵抗因子なのは、昔も今もかわらない。
 昭和51年頃、箱根山で、自民党都連の勉強会が開かれた折、挨拶に立った鯨岡都連会長が、自民党を批判して無所属へ転じた宇都宮議員を擁護する論をくりだしはじめた。
 わたしは、立ち上がって「たとえ、個人的な同志であろうと、自民党を批判して離れていった人物を擁護するのはおかしい」と大先輩の鯨岡議員に異義を申し立てた。
 このとき、とんできてわたしの発言を制し、場を取りなしたのは保坂議員であった。
 筋がとおらないこと、はなはだしいが、昔も今も、その体質はかわっていない。

 ●偽造事件「小杉の動機は謎のまま」
 わたしの選挙は、事実上、菊池義郎の後任選挙で、菊池の後援会「白菊会」も山本支援に総力をあげると意気が高かった。
 ところが、新聞の誤報によって、菊池先生は、後継指名を取り消してしまう。
「白菊会」も腰折れとなって、これでは、とうてい、選挙にならない。
 わたしは、信頼していた参議院議員長谷川仁先生に相談した。
 相談というより、撤退の報告のつもりだったのだが、長谷川先生は、意外なことを口にされた。
「いまここで逃げたら新聞報道をみとめることにならないか」
 わたしの後援会「山峯会」だけでたたかえる選挙ではなかったが、負け戦でも、敵前逃亡よりはるかにましである。
 打って出た選挙は惨敗で、次点にも遠くおよばず、家や蓄えも失った。
 だが、わたしは、すべてをあきらめたわけでは、むろん、なかった。
 わたしは、政治家のみちを捨てて、あらたな国家運動を模索する。
 その一つが、次項にしめす「北方領土問題の新提言」である。
 それはさておき、小杉なる人物が、いかなる動機からわたし近づき、なんの目的で罠を仕掛けたのか知りたいと思ったが、小杉は、警察に拘留されていたため会うことはできなかった。
 友人の大泉一紀(元読売新聞記者)が公判を傍聴したが、動機に関する小杉の証言は、終始、あいまいで、内容をつかみきれなかったという。
 それでも、偽造をみとめて、有罪判決をうけた。
 あのとき、小杉を突き放しておけば、わたしは、ちがった人生を歩んでいたはずである。
 ときどき、そういう思いが胸をよぎるのである。
 
 すぎし日の 師の恩いまも ありがたき
      吾は忘れず 朽ち果てるとも


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2020年07月17日

 わが青春譜18

 ●謀略「中曽根ニセ領収書事件」
 選挙準備が順調にすすみ、テレビ出演やマスコミ関係の仕事も捗っていた。
 このとき、わたしは、生涯、悔やむような災難が降ってわいてくると、想像すらしていなかった。
 好事魔多しというが、順風満帆だったあの時期、事務所に訪ねてきた小杉というニセ弁護士によって、わたしの人生は、おおいに狂わされることになる。
 選挙公示の数か月前、秘書の新井が、とつぜんの来客をとりついだ。
 新井は、石原慎太郎の浜渦秘書とキックボクサーから暴行を受けたわたしの秘書、押切から推薦をうけた新しい秘書である。
 来客は、小杉という人物で、名刺に、法律事務所代表の肩書きがあるという。
 わたしは、押切から紹介された新井を信頼していたので、代わって話を聞くようにつたえた。
 ところが、小杉という人物は、わたしに、直接、会って話をしたいという。
 自民党の大物議員、中曽根康弘が関与する極秘案件というふれこみだった。
 新井が、再度、代理で話を聞きたいと申し入れると、これを解決できるのは山本先生以外にはいないと、このとき、小杉は新井に熱弁をふるっている。
 わたしを知っている口ぶりだが、わたしは、小杉という人物を知らなかった。
 わたしと面識のない小杉が、なぜ、わたしに、政界の極秘案件をもちこんでくるのか。
 いまから思えば、わたしは、小杉にもっと警戒心をもつべきだったかもしれない。
 だが、当時は、若く、なんにたいしても自信があって、わたしにトラブルをおそれる怖気はあまりなかった。
 結局、新井に面談の日時をきめさせ、その日は、小杉にお引取りねがった。
 約束の当日、わたしは、品川区の大井町駅の近くの喫茶店で小杉と会った。
 名刺には小杉法律事務所の代表とあって、住所は、渋谷区の恵比寿だった。
 小杉は「大橋事件(京成電鉄の株不正取引事件)」の首謀者、大橋富重の会社整理をしているという。
 大橋事件というのは、池田首相の側近、黒金泰美官房長官を巻きこんで世を騒がした「吹原産業事件(昭和40年)」につづいておきた株の不正取引事件である。
 経緯をのべたあと、小杉は、おもむろに、1通のコピーをとりだした。
「大橋の未整理書類のなかからこんなものがでてきました」
 みると、中曽根が児玉から5億円を受領したとする領収書のコピーだった。
 昭和39年の自民党総裁選挙は3選をめざす池田勇人とこれを阻止しようとする佐藤栄作が激突して、当時のカネで100億円以上がうごいたといわれる史上もっともカネに汚れた総裁選挙となった。
 このとき、おきたのが「吹原産業事件」で、フィクサーの吹原弘宣や闇金融王の森脇将光らが暗躍した。
「大橋事件」でも、大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫などの有力政治家や黒幕の名前が取りざたされた。
 児玉は、黒金念書が問題となった吹原産業事件で、検察側証人として法廷に立っている。
 そして、大橋の未整理書類のなかから中曽根が児玉から5億円をうけとったとする「中曽根領収書」がでてきた。
 ジャーナリストならとびつきたくなるネタだが、わたしには次期衆院選挙という関門がひかえている。
 うかつにうごいて、ドロをかぶると選挙にさしつかえる。
 わたしは、協力を断って、マスコミに情報提供することをすすめた。
 領収書の真偽が不明なことと、扱いを誤ると恐喝事件にみなされる可能性がでてくるからだった。
 マスコミを一枚かませておけば、二重の意味で、安全弁になる。
 このとき、小杉は、意外なことを口にした。
「先生は大橋さんと面識ありますね」
 たしかに、わたしは、大橋と会ったことがある。
 大橋は、静岡県長岡で長岡カントリークラブというゴルフ場とホテルを経営する実業家で、わたしは、同ゴルフ場の会員権をもち、年に何度かプレーしていた。
 ただそれだけの関係だが、大橋が事件をおこしたのち会員権の値が下がって多少、迷惑をこうむった。
 その日、わたしは、領収書のコピーを預かり、後日、マスコミ関係者とともに小杉の事務所を訪ねる約束をして、別れた。
 小杉と再会を約したのは、マスコミを一枚かませて、裏をとるという提案をうけいれさせた以上、つっぱねるわけにいかなかったからである。
 わたしは、朝日新聞社会部のAと、共同通信編集委員のBを赤坂の事務所に呼んで、対策を練ったが、問題は、領収書の真偽だった。
 本物なら大スキャンダルだが、ニセ物なら「有印私文書変造罪」になる。
 ニセ領収書が恐喝などの犯罪にふれる可能性があれば、かかわりにならないにこしたことはない。
 ただ、朝日のAも共同通信のBも、事件性にはつよい関心をもった。
 3人で話しあった結果、小杉法律事務所を徹底的に取材して、領収書が本物という確信がとれたら、わたしが記事を書き、朝日や共同通信が報道や配信にうごくという合意にたっした。
 朝日のAと共同通信のB、そして、わたしの3人は、恵比寿の小杉法律事務所を訪ねた。
 ドアには「小杉法律事務所」と書かれ、弁護士3名の名が記されていた。
 わたしは、法律事務所の代表である小杉を弁護士と思いこんでいる。
 そうでなければ、わたしは、この手の事件に首をつっこまなかった。
 取材は難航した。小杉や小杉の同僚らは、大橋の事務所から運び込んできた書類の山から領収書がでてきた経緯を説明したが、裏づけとなる資料や関連の材料はなにもでてこなかった。
 その後、3人は、二度、小杉法律事務所へ足を運んで、書類を丹念に調べたが、中曽根領収書に関連づけられる決定的な資料はみつからなかった。
 特ダネとなる情報は、かならず裏づけがあって、エピソードやストーリーをもっている。
 たんに領収書や覚書が存在しても、それが、どういう性格のもので、だれの手をへたものかなどの物語性が明らかにならなければ、記事にもならず、世に出すこともできない。
 わたしは、このころから、ドキュメンタリー本や雑誌の執筆をはじめているが、一度も、事実誤認や名誉棄損などのトラブルをおこしたことはない。
 事実関係の報道について、臆病なほど慎重で、その代わり、確証がえられたらズバリと斬りこむスタイルをまもってきたせいと思っている。

 ●恩田貢(週刊文春元記者)の策謀
 わたしの事務所に、週刊誌や月刊誌、政・経・財界誌のライターや編集者がやってくるのは、昔も今も同じで、なかには、何十年の付き合いのひとたちもいる。
 わたしの事務所から世に出た大事件も少なくないが、いずれ、ふれるつもりである。
 恩田もわたしの事務所の常連だったが、当時は、文春を退社して、トップ屋として売り出し中であった。
 その恩田がやってきて、「中曽根領収書」を見せろという。
 この事件で、いまだわからないことが、2つある。
 1つは、なぜ、小杉がわたしのもとへ「中曽根領収書」をもちこんだのか。
 そして、もう一つが、なぜ、恩田が、わたしの事務所に「中曽根領収書」があることを知っていたのか、である。
 わたしは、すでに、朝日のAと共同通信のBをパートナーにしている。
 したがって、二人に断りなく、恩田を仲間に入れるわけにはいかなかった。
 恩田には断ったが、恩田は、その後も電話をかけてくるなど執拗だった。
 ある日、赤坂の事務所に大勢の新聞記者が押しかけて来た。
 警視庁記者クラブの新聞記者で、一様に「中曽根領収書」について、質問を浴びせてくる。
 これで、わからないことが1つふえた。
 新聞記者は、なぜ「中曽根領収書」がわたしの事務所にあると知っているのか。
 もっとも、この謎は、すぐに解けた。
 恩田が、中曽根事務所の上和田秘書に「中曽根領収書」のてん末をつたえていたのである。
 中曽根事務所の上和田秘書から訴えをうけた警視庁の動きは迅速だった。
 即日、小杉法律事務所に捜査に入り、小杉と共犯者らを逮捕している。
「中曽根領収書」は、案の定、偽造だったのである。
 警視庁の番記者が、このとき、大挙して、わたしの事務所におしかけてきたのは、警視庁のリークで、記者らにわたし事務所の住所を流したのである。
 わたしは、このとき、迷惑がかかることをおそれて、朝日のAや共同通信のBの名をだしていない。
 小杉の名前を伏せたのも、記者団に経緯を話す前に、小杉の了解をえようと思ったからだったが、これが裏目にでた。
 翌日の新聞各紙には、わたしが「中曽根領収証」の偽造犯として報道されていた。
「山本峯章 公認欲しさに偽造」という捏造記事まである。
 政治評論家で私の親しい戸川猪佐武の談話となっている。
 わたしが戸川に電話で真意を問いただすと、戸川は「いやそうじゃないんだよ」「山本君どうしたんだろう。公認の件でも絡んでいるのかなあ」と独り言をいっただけだと苦しい言い訳をした。
 だが、いったん記事になってしまえば、いくら地団駄を踏んでも後の祭りである。
 わたしは、警視庁に電話をかけて、事実関係をつたえた。
 朝日新聞と共同通信と共同取材して、どこから、偽造疑惑がでてくるだろう。
 新聞は、小杉逮捕を報じたが、わたしを「中曽根領収証」の偽造犯と報じた誤報の訂正記事は、朝日新聞以外、載らなかった。
 朝日が「中曽根領収書偽造事件には山本峯章は関係なかった」と訂正記事をのせたのは、朝日新聞社会部のAが関与していたからであろう。
 しかし、社会面の片隅の二行の訂正記事ではだれも気がつかない。
 わたしが新聞の誤報で大きなダメージをうけたのは、これだけではない。
 朝日新聞は「橋梁談合」の仲介に立ったわたしを「山本、明日、逮捕か」と大誤報するのだが、このときは、二行の訂正記事すらださなかった。
 この件については、後日、詳細をのべよう。

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2020年07月13日

わが青春譜17

 ●菊池義郎後援会「白菊会」
 国政選挙に打って出る覚悟を固めて、品川区に住居を移し、大田区の蒲田に事務所を開設したのが昭和49年のことであった。
 選挙区は、東京二区で、当時、自民党議員は、それまで、23年間、議席をまもってきた菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけだった。
 5人区の東京二区で、自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしが、菊池義郎に面談を申し入れて、後継者指名と「白菊会」の応援をえた経緯についてはすでにのべた。
「白菊会」は、長年、菊池義郎をささえてきた後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 昭和50年に入ると、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書のほか、「白菊会」や旧菊池事務所のスタッフらがうごきだした。
 わたしは、連日、稲見秘書の案内をうけて、後援会幹部のご自宅を訪ねた。
 すべてから支持をとりつけたわけではなかったが、反応は良好で、なかには「白菊会」の地区会員を集めて激励会を開いてくれたひともいた。
 活動が軌道にのってくると、菊池先生も、もちまえの元気をとりもどされて、後援会活動も熱をおびはじめた。
 50年6月10日。品川公会堂で「白菊会」と「山峯会」の共同後援による講演会「山本みねあき/鶴田浩二と語る憂国論」がひらかれた。
 後援活動の一環であったが、新聞が参加者3000人と報じた会場の大半は、白菊会の会員で、白菊会がなければ、成功はおぼつかなかった。
 鶴田浩二とわたしの関係は、学友をつうじてのもので、わたしが、特攻隊の生き残りである鶴田の「遺骨収集」に賛同して以来、意気投合していた。

 昭和50年初旬、石原慎太郎が都知事選に出馬するという噂が飛び交った。
「裕次郎が慎太郎に代わって、国政選挙に出馬するという情報がマスコミから流されると「週刊現代(3月13日号)」は「菊池義郎の東京二区の地盤を引き継いで、とむらい合戦と意気込んでいた山本陣営はカッカときた」などという憶測記事を書くなど、東京二区はにわかにキナくさくなってきた。
 月刊誌「全貌(4月号)」は「石原慎太郎の都知事選出馬で東京二区は大激戦区に!」という見出しを掲げて「前回、石原慎太郎に蹴落とされた菊池義郎が引退、地盤をひきついだ大型新人の山本峯章の動向に注目」などと書き、わたしのもとにもメディアの取材が相次いだ。
 結局、石原慎太郎は、このとき、都知事選出馬を見送った。
 すると今度は「ショックの山本陣営」という記事(内外タイムズ八月三日号)が流れるという具合で、どれも、うわさ話の域をでなかった。
 わたしが狙っていたのは、無所属の次点で、次々回の衆議院選挙を天王山とにらんでいた。
 それには、テレビのワイドショーなどで物価の山本≠フ名を売って、あとは、経験ゆたかな「白菊会」の力を借りで、時間をかけて、選挙区内での知名度や好感度を上げてゆく方法しかなかった。
 したがって、石原の都知事選への出馬には、まったく無関心だった。
 芥川作家で、マスコミの寵児。選挙に出るたびに記録的な大量票を獲得する石原慎太郎の票田と「白菊会」を中心とする主婦層の票田は、別だったからである。
 石原の票を食うことは不可能で、そんな気もなかったが、マスコミは、石原が危機感をもったがごとく、おもしろおかしく書き立てた。
 大型新人というキャッチフレーズは、わたしの人気や実力をさしたものではなく、長きにわたって、菊池義郎先生をささえてきた「白菊会」が山本峯章についたことへの評価で、わたしは、その事実を痛いほど知っていた。
 わたしの「山峯会」と菊池義郎「白菊会」では、大関と幕下ほどのちがいがあって、わたしは、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書に頭があがらなかったのである。

 ●鶴田はヤクザ、山本は右翼だ
 菊池義郎が、すでに、引退したにもかかわらず、51年3月、品川公会堂でおこなわれた「白菊会春季大会」は盛況で、新聞は、会場に入りきれないほどの3000人が集まったと報じた。
 事実上の山本峯章後援会の大会で、鶴田浩二も、バンドを率いて、かけつけてくれて、体験談を語り、ヒット曲である「街のサンドイッチマン」を歌って会場をわかしてくれた。
「白菊会」の活動がさかんになるにつれて、誹謗中傷や流言飛語に悩まされるようになった。
 そのなかの一つが、わたしを支援してくれた鶴田浩二にまつわるものだった。
 鶴田浩二は、東映映画で、やくざがはまり役の一流の映画スターである
 中傷というのは、鶴田はやくざだから、やくざの山本の応援に来ているという次元の低いものだったが、政治的デマゴギーは、低級なほどプロパガンダ効果が高いという法則がある。
 1984年の「三宅島官民共用空港」闘争では、反対派の「空港ができたらジェット機の爆音でブタが仔をうまなくなる」「魚がとれなくなる」というデマゴギーに多くの島民がダマされた。
 山本峯章は右翼という陰口も叩かれたが、これは、黙殺するほかなかった。
 わたしは、1660年前後、保革が激しくぶつかった新島闘争や安保闘争にくわわった。
 この経緯は、菊池先生もご存知だが、先生は、一言もふれらなかった。
 菊池先生自身も、自民党きっての反共主義の論客として知られていた。
 先生は、ともかく、後援会の会員が不信感をもった場合、わたしは、納得がゆくまで話し合うハラで、逃げ隠れする気は毛頭なかった。
 政治思想やイデオロギー、政治信条は、言論の上に成立するものである。
 したがって、政治運動をする場合、信念をもつと同時に最小限の理論武装がもとめられる。
 政治は、言論で、言論が放棄されると戦争となるであろうが、それが政治の破綻にほかならない。
 朝日や毎日のようなマスコミ左翼が、伝統主義や保守主義、民族主義などを右翼(あるいはネットウヨ)と差別的に色づけして、四つに組んだ議論しようとしないのは、大きな問題なのである(この件についてはいずれ詳しくふれる)。
 その後、「白菊会」と「山峯会」は、品川区と大田区で、連日、50人〜100人規模の会合をひらいて、順調に、組織固めと選挙の体制づくりがすすめられた。
 51年9月24日 大田区体育館で「山本みねあきを励ます一万人集会」が開催された。
 選挙にむかって、後援会の強化と臨戦最終体制に入るための大集会で、菊池義郎後援会「白菊会」と山本峯章後援会「山峯会」の共催となった。
 収容可能数5000人ほどの大田体育館で、あえて、一万人大集会を謳ったこの大会は、結果として、大成功であった。
 出席者の7〜80%は白菊会の長年の会員で、さすが、菊池先生を23年間にわたって、国会に送りこんできただけの大組織である。
 この日の大会は「白菊会」に「山峯会」にあやかった形で「白菊会」会長の菊池義郎先生も「山峯会」会長の今東光先生も、壇上で、満足げであった。

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2020年07月03日

 わが青春譜16

 ●石原慎太郎秘書 暴力事件
 国政選挙の準備中、わたしの秘書である押切が石原慎太郎の秘書、浜渦武生らから暴行をうける事件がおきた。
 昭和49年10月25日の夕刻、わたしは、赤坂の事務所で「日本食糧自給連盟(会長赤城宗徳/防衛庁長官・農林大臣)の会議を開いていた。
 食料自給率は、わたしの物価政策の目玉で、この日の会議には、城西大学の岩井主税教授や評論家の広瀬らいつものメンバーが顔を揃えていた。(この件については別項でのべる)
 そこへ、顔面から血を流した秘書の押切がはいってきた。
 聞くと「石原の秘書、浜渦とキックボクサーから暴行をうけた」という。
 わたしは岩井教授から紹介された赤坂の前田外科病院へ押切をむかわせた。
 診断書の結果は「左顔面、前胸部、左大腿部打撲 全治二週間」であった。
 浜渦らが押切を襲った理由は、むろん、衆院選挙がらみで、私怨であった。
 10数年、賀屋興宣衆院議員(東京三区)の秘書をやっていた押切は、参院から衆院へのりかえた石原慎太郎が、賀屋の地盤をひきついで三区から立候補する姿勢をみせたため、賀屋に指示にしたがって、石原の秘書についた。
 役割は、選挙参謀だったが、石原の心変わりで、選挙区が、急きょ、二区に変更されたため、石原の秘書を辞した。
 そして、東京二区で石原慎太郎の対抗馬になったわたしの秘書になった。
 これを、慎太郎に心酔する浜渦が裏切りとみて、先の襲撃事件となったのである。
 押切はインタビュー(内外タイムズ)にこう応えている。
「狂乱物価¢゙治を謳ってテレビで話題になっているばかりか、東京二区で長年議席をまもってきた菊池義郎衆院議員の地盤をひきつぎ、来春の統一選挙に立候補する山本氏を有望と見て、みずから、選挙参謀を買ってでた」
 週刊大衆(昭和49年11月14日号)にこうある。
「(暴行事件)のウラには、押切が秘書についた山本峯章が、石原慎太郎の東京二区から出馬する大型新人という事実が隠されている」「次回の衆院選で、石原は、前回のように、2位に大量差をつけてトップ当選というわけにはいかないだろう」
 第34回衆院選挙東京二区の下馬評で、わたしには、大型新人という形容詞がついていたのである。

 ●暴行事件の全容と経緯
 押切は事件についてこうのべている。(週刊大衆11月14日号)
「10月24日午後6時頃、石原さんがコミッショナーをしているキックボクシング協会のS(清水)から、協会の事務所に来てくれという電話がかかってきました。話なら電話ですませたいと申し入れると、来られないのならオレが行くという話になって、結局、25日の午後、ニューオータニのロビーにあるコーヒーショップで会う約束をしました。当日 事務所(山本峯章)の青年と二人で行くと、清水は「二人で話したいから席を外してくれ」と連れの青年を追い返しました。そこへ浜渦があらわれると、清水は、静かな場所で話そうとエレベーターホールむかいました」
 事件はその直後におきた。
 3人がエレベーターに乗ったとたん、清水が腹部に二発、そのあと、右から浜鍋、左から清水が顔、左脇に拳を撃ちこんできたのである。
 清水はキックボクサー出身で、浜鍋も、学生時代(関西大学)、空手をやっており、この2人の暴力は、素手でも凶器とみなされる。
 エレベーターが地下三階の駐車場につくと、押切は、通路で、二人からまた2、3発殴られた。
 膝から崩れ落ちた押切にむかって、清水と浜渦は事務所まで来いという。
 押切が行く必要はないとつっぱねると、浜鍋は、道義的にゆるせないということばを残して、車で去っていった。
 この事件の原因と経緯について押切は次のように語っている。
「石原議員の秘書になって、他の秘書やとりまきによる誹謗中傷に悩まされることになりましたが、そのなかに、石原が顧問をつとめる団体(10以上)の顧問料をわたしがネコババしているというものもありました。
 この件は、石原とわたしが直接話しあって、誤解は解けましたが、秘書らの邪推やいやがらせ、告げ口がやまないので、イヤ気がさして、公示一か月前に辞めさせてもらいました。
 もともと、東京三区で、賀屋議員の地盤をひきつぐ前提で、賀屋の秘書から石原の秘書になった経緯があって、辞職にためらいはありませんでした。
 ところが、石原は『秘書を何人もクビにしてきたが、秘書から首をきられるのは初めてだ』と怒ったそうです」

 ●被害届けを受理しない赤坂署
 押切秘書が赤坂署に被害届を提出する一方、わたしは、赤坂署にこの事件の厳重な取り調べを依頼した。
 押切は、赤坂署に「この種の傷害事件では、犯人はとっくに逮捕されているはず。犯人未逮捕どころか、事件の捜査がすすんでいないのはなぜですか」と詰め寄ったが、担当の係官は「ほかの事件で忙しくすすまない」「先方は現職議員が関係しているので」「上層部からの命令で」などと言を左右にして埒が明かない。
「共犯の清水はいつ呼ぶのですか」と聞いてもさっぱり要領をえない。
 事件への石原の関与について、内外タイムスは、わたしのコメントを載せている。
「この事件に石原先生が関与しているはずはない。石原さんはなにも知らないのでしょう」
 だが、わたしに、事件の幕を引く気はさらさらなかった。

 ●今東光和尚も仲裁を断った 
 昭和49年11月2日の内外タイムス紙の大見出しに「今東光和尚も仲裁を断った」とある。
 今東光はわたしの後援会会長である。
 週刊大衆に今東光の秘書、茎沢久孝の話が載っている。
「石原議員が、深夜、今東光先生に電話をかけてきたのは、山本峯章後援会の会長だったからで、電話の内容は、とりなしの依頼でした。穏便によろしくというものでしたが、今先生は耳を貸さなかった。すると、翌日、今度は第三者が、2人(浜鍋と清水)に詫び状を書かせるからとやってきましたが、これも断りました」

 ●住吉連合小林楠扶会長からの電話
 そんな折、一本の電話が事務所に入った。
 住吉連合小林会小林楠扶会長からである。
 小林楠扶は、住吉連合という日本最大級の任侠組織の会長で、日本青年社という右翼団体を主宰していた。
 日本青年社が、尖閣諸島上陸決死隊を結成して魚釣島に上陸、点滅式灯台を建設するのは、それから、4年後の昭和53年8月のことである。
 小林は開口一番、「石原の問題から手を引いてくれないか」という。
「暴力をふるわれて怪我をした秘書が告訴して白黒をつけたいといっているので、秘書の意思を尊重したいと答えると、小林はしばらく沈黙したあと、こう念を押した。
「等々力がいってきても聞かないつもりか」
 等々力とは右翼の大物、児玉誉志夫のことで、児玉は、世田谷区の等々力に居を構えている。
 小林の仲裁を断って、等々力の仲裁にのったら、小林の顔がつぶれる。
 やくざの世界では、相手の面子をつぶせば、血の雨が降ることになる。
「だれがいってこようとダメです。これは、わたしではなく、暴力事件の被害者であるわたしの秘書がきめることです」
 小林は、低い声で「わかった」といって、電話を切った。
 
 ●多摩川に沈めてしまうつもり?
 石原慎太郎の後援会の幹部である漆島秀幸から抗議の電話が入った。
「あなたはヤクザを使って、石原先生の秘書を痛めつけたと聞く。けしからんではないか」
 話がまったく逆で、あきれたが、そのあたりの事情を当時の内外タイムスがこう報じている。
「事実関係が逆であることを知った漆島は、石原の秘書内藤秀喜を自宅に呼びつけて、説明をもとめた。この席には、山本峯章後援会の古川亘明と塩満一が同席したが、内藤は二人の素性を知らない。
 このとき、内藤秘書はぬけぬけとこう言って、漆島の叱責をうけている。
「浜渦が個人的に気に入らないのでやったのでしょうが、押切は、殴られても仕方のないやつなのです。多摩川に沈めるという話もでたほどで」
 石原に心酔するのは結構だが、多摩川に沈めるというのでは狂気である。
 スター性のある石原慎太郎には、狂信的なとりまきや支援者がでてくる。
 第37回衆院選挙(昭和58年)の選挙活動中に、石原慎太郎の公設秘書が対立候補だった新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」というシールを貼る選挙違反がおこして、新井は落選した。
 この事件は、公職選挙法違反事件として、公設秘書の栗原俊記が逮捕されたにもかかわらず、石原自身に捜査がおよぶことはなかった。
 なお、新井は、同じ選挙区で、第38回衆院選挙に出馬し当選している。
 平成10年、新井将敬は、日興証券利益供与事件への関与が疑われて、逮捕許諾決議の直後、無実を主張したのち、ホテルパシフィック東京で自殺した。
 偶然だが、新井将敬を囲む中小企業や、上場をめざす「IT企業」の集団がいまも健在で、多くが上場をはたしている。
 このグループの中心的人物とは、いまも親交があって、年に数回、相談事をもって訪ねてこられる。

 ●浜渦副知事就任に「待った」
 押切の暴行事件は、結局、告訴状が受理されず、浜鍋秘書も暴行犯の清水も不問となった。
 警察が石原の政治力を忖度した結果であろう。
 だが、この暴力事件が、後日、石原慎太郎東京都知事が推挙した浜鍋副知事の就任に「待った」をかけることになる。
 1995年に議員辞職した石原慎太郎は、4年後の1999年、東京都知事に当選。以来、4期14年の長期政権を築きあげるが、その背後にいて、石原をささえてきたのが、浜鍋副知事だった、
 浜鍋の副知事就任に、最初に、異を唱えたのが自民党都議会だった。
 秘書を副知事という公職へ横滑りさせることへの違和感にくわえて、強面の浜渦にたいする抵抗もあった。
 わたしは、押切にたいする浜渦の暴力事件を報じた内外タイムスを東京都議会(自民党)に提供すると、内外タイムスも、浜鍋の副知事就任への疑問符を続報としてつたえた。
 一年後、後に衆院へ転出するM都議が訪ねてきた。
「先生、もういいですか」
 浜渦の副知事就任について、わたしに意見をはさむ資格などない。
 だが、このとき、一言、M都議にこうつたえた。
「石原の用心棒みたいな男なので、事件をおこさなければよいがね」
 案の定、浜渦は、その数か月後、目黒駅の近くでタクシーの運転手に暴力をふるって、警察沙汰の騒ぎをおこした。
 だが、不起訴になって、事件は、やがて、忘れられた。
 不起訴になったのは、警察(警視庁)の予算は東京都の「警務消防委員会」が握っているからである。
 権力は、政治や行政と癒着しながら勢力を拡大させてゆくのである。
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