2020年08月28日

 わが青春譜23

 ●FX商戦と怪文書、海部メモ
 内部でソ連のスパイが活動しているという告発にたいして、当の日商岩井の反応は鈍かった。
「狸穴(ソ連大使館)が手狭なので、どこの商社も1〜2人のエージェントを預かっている」などと抗弁して、なんら対策を打とうとしないのである。
 わたしたちが、新たな情報入手作業に入った昭和52年の暮れ、FX戦線に新たな動きがでてきた。
 次期戦闘機F15の欠陥追及に忙しかったマスコミが、新たに米軍から要請されたAEW(早期警戒機)や海幕のPXL(対潜哨戒機)の導入問題へ視点を移しはじめたのである。
 日商岩井にも動きがあるようだったが、この段階で詳細はつかめていない。
 そんな折、知人の恩田貢(元週刊文春記者)が事務所にやってきた。
 恩田は、第二次FX商戦にからんで、41年2月、防衛関係者と政界に「防衛庁の黒い墓標」と題する怪文書をばらまいた犯人として警視庁に逮捕されている。
 怪文書は、防衛庁の実力者、海原治官房長をターゲットにしたもので、この後も「防衛庁の葬送行進曲」「防衛庁版 汚職の道教えます」など5通の怪文書が流された。
 怪文書の狙いは、河野一郎と伊藤忠の政商コンビの裏側で暗躍する海原治を叩くことにあって「佐藤総理大臣」に宛てた最後の怪文書には「海原官房長の斬首をお願い致します」とあった。
 5通の怪文書には3つの狙いがあるようだった。
 海原はこの怪文書の目的について、つぎように語っている。
 第1はT38の入手を阻止して、競合関係にあるF4ファントム導入の道を滑らかにすること。
 第2は陸上自衛隊の地対空ミサイル「ホーク」の国産化を三菱電機の手からもぎ取って三井グループの手に移すこと。
 そして、第3は、以上1、2の目的を達成するためにわたし(海原)を防衛庁から追い出そうとする勢力とたたかうことという。
「わたし(海原)が事務次官になると、第1と第2の目的が達成できなくなるおそれがある」からである。
 それには、海原が伊藤忠や三菱の代弁者で、河野系であるという烙印を押しておく必要があった。
 ちなみに、河野と対立していたのは、グラマン社に近い岸信介で、日商岩井を経由して、グラマン社から不正な資金をうけとったとされるが、このグラマン疑惑は、時効の壁に阻まれて事件になっていない。
 海原は41年10月、怪文書の発行主「ATOM」なる者を氏名および住所不詳のまま告訴した。
 翌年、元朝雲新聞(防衛庁の機関的新聞)記者の山辺利政と週刊文春の社外ライター恩田貢が逮捕された。
 だが、海原も、次官候補から外されて、国防会議事務局長の閑職に追いやられている。
 この人事に、岸の思惑がはたらいたと囁かれたのはいうまでもない。

 ●怪文書事件の底流をなすもの
 怪文書の作成者として逮捕された恩田は、週刊新潮(54年4月5日号)に「怪文書は有森国雄に頼まれてつくった」とする告白手記を書いている。
 有森は、日商岩井の副社長、海部八郎の秘書である。
 怪文書を仕掛けたのは、日商岩井の航空機部門を担当する海部軍団だったのである。
 51年9月。有森は、共同通信の斎藤茂男のインタビューにこう応えている。
「第2次FX商戦は、海部が中心となって、田中六助(衆院議員)らを介して岸信介元首相らに接近、岸事務所をつうじて、防衛庁工作をおこなった」
「岸事務所には新たにはたらきかけた。わたしはメッセンジャーで上のほうは海部しか知らない。海部はアメリカから帰国後、政治を利用しなければ仕事ができないという考えをもつようになっていた。池田内閣の時代、秘書グループに近づいて池田首相の秘書官だった田中六郎と親しくなって、わたしも海部に従って田中を訪ね、しばしば、酒席をともにした。岸事務所へ接近できたのは田中の紹介であった。松野頼三は岸直系で、松野と海部はなみのつきあいではなかった」
「当時の政治情勢下で、防衛庁に影響力をもつ政治勢力といえば、第一次『グラマン対ロッキード戦争(岸信介対河野一郎)』以来の確執があって、佐藤内閣以来、いちばん事情が解って、力を発揮できるのは『岸事務所』ということになった」
 二次防当時、伊藤忠のノースロップ社製FX(高等練習機)T38の導入を考えていた海原一派とF4Eファントムを売り込もうとしていた海部軍団は真っ向から対立していた。
 防衛庁には、すでに、河野―伊藤忠―海原ラインが確立されている。
 海部軍団は、なんとしても、海原を防衛庁から叩き出したかった。
 海部軍団の後ろ楯となった岸派には、第一次FX商戦で、倒閣を駆け引きに使った河野一郎から煮え湯を呑まされた苦い経験があった。
 この防衛庁の利権奪回は、岸・佐藤派にとって、遺恨十年の悲願であった。
 ところが、岸・佐藤派の前に防衛庁の天皇といわれた海原が立ちふさがっっていた。
 怪文書による海部軍団の謀略は時宜を得たもので、佐藤内閣改造で、佐藤派四天王の一人、松野頼三が防衛庁長官となった8ケ月後(40年6月)に配布されている。
 42年7月27日。佐藤内閣によって、海原の異動が発表された。
 海原が、防衛庁事務次官コースから外れて、内閣官房の国防会議事務局長へ転出したのである。
 海部が岸事務所にぴったりとくっつき、政治力を使う一方、ブラックジャーナリズムをうごかして裏工作をおこなった成果だった。
 第三次FX商戦は、事実上、F14(安宅産業)とF15(日商岩井)の一騎打ちになったが、この時代、FX商戦は、第一次から第三次に至るまで、政権争奪の道具だったのである。

 ●実在した「海部メモ」
 52年の暮れ、恩田貢が事務所へやってきた。
 恩田には、日商岩井の「スパイ事件」の調査で相談にのってもらった経緯もあって、単刀直入に、FX商戦にかんする情報の提供をもとめた。
 わたしは、恩田が決定的な材料をもっているとにらんでいる。
 というのも、恩田は、海原を叩いた怪文書「ATOM」で、警察に逮捕されているからである。
 50年の春、週刊ポストが特集を組んだFX商戦の記事に、恩田や有森らが関与した怪文書事件にかかるメモや書類のコピーが使用されていた。
 もっとも、ポストの記事では、海部メモはまだ表面化していない。
 記事の内容にふれると、恩田は「週刊ポストの記事のネタ元は有森ではないか」と核心にふれてきた。
 わたしは恩田にたずねた。
「怪文書事件の当時者は、有森ではなく、あなただ。週刊ポストに書類をもちこんだのはあなたではないのか」
 恩田はわたしの質問をはぐらかした。
「海部と喧嘩して日商岩井を辞めた有森は海部を恨んでいた。有森なら資料を(ポストに)流す動機がある」
 わたしは恩田にたたみかけた。
「週刊ポストにもちこんだ書類のコピーを見せてくれませんか」
 恩田は渋面をつくって黙りこんだ。
 わたしは、恩田がなにか決定的な書類をもっているとにらんだが、そのときは深追いせず、食事をして別れた。
 あくる日、恩田から「明日うかがう」という電話が入った。
 例の書類をみせてくれる気になったとかと期待を抱かせた。
 翌日、事務所へやってきた恩田は内ポケットから封筒をとりだした。
「表にだしたくないのだが」
 怪文書事件にかかるメモや書類どころか、後に大問題となる「海部メモ」のコピーであった。
 脚注/「海部メモ」F4ファントム戦闘機の導入がきまった第3次FX商戦で出回った怪文書。日商岩井の海部八郎が作成し。岸前総理と中村秘書、海部らが話し合った結果、ファントム導入が決まったこと、岸信介に謝礼として2万ドルが支払われたことなどが書かれている。のちに、松野代議士に5億円を贈ったことも判明した。海部メモから、政治家やブラックジャーナリズを利用してでも商戦を勝ちぬく海部商法が批判にさらされた

 ●幻の海部メモ入手!
「海部メモ」には二種類ある。
 一つは、岩井産業の合併する前の日商のメモ用紙に書かれたもので、内容は海部が当時の経理部長に宛てた「支払い願い書」である。
 @経理部長殿―海部㊞
 松野、福田両氏に対する支払い。岸氏より下記に支払い方連絡ありましたので、お手配方願います。$払いで願います。
 Aもう一つは、川崎重工の砂野所長に宛てた書き付けで、アメリカのホテルに備え付けの便箋(OLMPTCのロゴ)二枚が使用されている。
「7月23日午前9時より岸前総理中村秘書、海部他に日商社員一名を交えて次期戦闘機について懇談、四機輸入の件について、岸前総理より輸入する旨の確認。三次防として最低100機3年間に200機(50/50国産化)する旨の確認。同時にマクドネル・ダグラスより川重50%、PLA(三菱50%)異存なき旨、岸さんに回答。日商より岸氏に$20、000を支払いました」 
「4機輸入の場合の謝礼など、いずれ川重より、岸氏に挨拶して頂かねばならないかと存じます。小生今月末迄に帰国致します。敬白
 これが海部から川崎重工の砂野社長に宛てた便箋の書き付けである。
 これが、後にグラマン疑惑事件の解明の糸口となり、国会で追及された際にもちだされることになる。
 恩田によれば、海部の書類の整理をする立場にあった秘書の有森が、海部とトラブルをおこして会社を辞める際、コピーして、もちだしたという。

 ●海部の件から「手を引け」
 53年になって、海部メモの真偽確認のため、海部に内容証明をつきつけた。
 数日後、知人が、とつぜん、事務所にやってきて、「海部の件から黙って手を引いてほしい」という。
 わたしは友人でもある来訪者に「わたしが手を引くようあなたに依頼したのはだれか」たずねた。
 口を閉ざした友人に申し出を断ったのはいうまでもない。
「FX疑惑の解明はジャーナリストとしての仕事で、国益にもかかわっている。手を引けというのは無礼であろう」
 その後、日商岩井からなんの連絡もなかったが、代わりに、はじまったのがいやがらせや脅しの電話だった。
 罵声を浴びせ、あるいは、怪我をするぞなどの脅迫、無言電話もあった。
 わたしの事務所には、情報屋といわれるうさんくさい連中もやってくる。
 そのなかの一人が、わたしをつけ狙っている人物がいるという情報をくれたが、心当たりはなかった。
 日商岩井に近い筋の情報屋から、海部が側近に「ある人物に頼んであるから(海部メモ)は表に出ない」とうそぶいているという話も耳にした。
「ある人物とはだれか」とたずねたが、情報屋は、「いまにわかります」というだけだった。
 ある日、事務所のスタッフがわたしの代理で海部に面会をもとめると、女性秘書から海部の伝言がもたらされた。
 時間をつくるが、しばらく、待ってほしいという。
 近々、予定されている第四次防の閣議決定まで時間をかせぐつもりらしい。
 第4次防で、F15の採用が閣議決定されるのは、半ば、既成事実だった。
 第2次防のFX疑惑からすでに10年が経っている。
 1968年のダグラス・グラマン事件は、防衛庁の第2次防衛力整備計画における汚職事件だった。
 これが解明されずに、第4次防のFX商戦で、日商岩井のF15に決定することになれば、米戦闘機メーカーと日本の商社、政治家による三つ巴の汚職の連鎖≠ェなんの反省もなく踏襲されることになる。
 防衛力整備計画は、第1次(昭和33〜35年度)から第2次(昭和37〜41年度)、第3次(昭和42〜46年度)にいたるまで、戦闘機の機種決定が政治家の利権となって、1機当たり1千万から1億円のマージンが支払われていた。
 防衛力整備計画におけるFX疑惑は、米戦闘機メーカーと日本の商社、政治家のやりたい放題だったのである。
 わたしが、海部メモを世に問うたのは、米戦闘機メーカーからの賄賂もさることながら、防衛庁の事務方と自民党、大商社の癒着をあぶりだすことだったが、グラマン事件は、当時、報道が過熱していたロッキード事件の前では陰が薄かった。

 ●海部メモに群がった人々
 恩田が、苦渋の選択をして、わたしに「海部メモ」のコピーをよこした。
 わたしが、海部に「海部メモ」の真偽を質したのは、海部に会って、事件の本質を聞きたいと思ったからだった。
 その直後から、かかるようになった脅迫電話は、ことばづかいから、堅気の人物ではないと知れたが、わたしに打つ手はなかった。
 週刊ポストなどが報じるところでは、海部とケンカして日商岩井から去った有森が、他の書類とともに海部メモをもちだし、それが、恩田の手に渡ったという話になっている。
 問題はこのあとである。
 有森と恩田は、このコピーを右翼の大物、児玉誉士夫にもちこんでいる。
 児玉は、河野一郎と親しく、日商岩井の商売敵にあたる「伊藤忠―河野一郎―海原ルート」に近い。
 報道によると、有森が児玉から3000万、恩田が300万円の資金提供を受けている。
 以後、沈黙せよという意味合いではなかったろうか。
 海部メモが世に出て困るのは、海部ばかりか、メモに群がった人物である。
 わたしへのいやがらせや脅迫電話もこれらの事情を考えればうなずける。
 海部が時間稼ぎをしていたのも、いずれ、事件がいずれ沈静化するとみてのことであったろう。
 のちに恩田が警視庁の刑事から「恩田さん、あなたはバカだね。あのメモで大きなお金がうごいていたのに」とささやかれている。
 恩田は、社会正義のために海部メモわたしによこしたのではない。
 むろん、なんらかの経済的メリットがあったわけでもない。
 それどころか、得体の知れないグループから襲撃されて重傷を負っている。
 なぜ、恩田は、海部メモをわたしに渡したのであろうか。

●有森は二重スパイだった
 海部とのコンタクトはなかなか実現しなかった。
 一方、脅迫電話は、間絶なくつづき、取材活動は膠着状態に陥った。
 わたしは、朝日新聞記者B君と、東京タイムズ社会部の斎藤記者を事務所に呼んだ。
 メディアで攻勢をかけて、海部を交渉の場にひきだそうという作戦である。
それには、朝日と東京タイムズという硬軟両極の2紙はうってつけだった。
 朝日からは、海部メモの真偽をたしかめたのち、記事にしたいという連絡が入った。
 東京タイムズの斎藤記者からも、取材をすすめるという電話がかかった。
 53年3月18日、東京タイムズが核心をつくスクープ第一弾を打ち出した。
 東京タイムズらしい「FX機種選定に黒い献金」という五段抜きの大見出しである。
 記事は、有森がこれまでのFX商戦のなかでダグラス(日商)とロッキードの二重スパイをつとめてきたことや、防衛庁の一連の怪文書事件の内部事情を報じている。
 記事のなかで、ひときわ、耳目をひいたのが「ダグラス・グラマン疑惑」の真相に迫る部分で「日商グループが自民党最高幹部らに総額6億円の政治献金」「F5の採用を主張する防衛庁幹部の失脚」などの小見出しが躍っている。
 斎藤記者は、有森に面会をもとめたが、有森は応じなかった。
「日商を辞めてから10年もたっており、すべて昔のことだ。会って話すことはない」
 斎藤記者は、海部にも面談をもとめたが、多忙や「海外旅行中」などの理由で断られている。
 われわれの「ダグラス・グラマン疑惑」の追及は、米証券取引委員会が発表する一年前からはじまっていたのだが、不幸にも、ロッキード事件報道の陰に隠れて、世間の注目を浴びることはなかった。
「ダグラス・グラマン疑惑」が、大きな問題になっていれば、防衛力整備計画(1次〜3次)において、政治家の懐に、一機当たり単位で1千万〜1億円のバックマージンが払いこまれるダーティな仕組みが暴かれていたはずで、ソ連のスパイを自社ビルにかかえこむ危機管理能力の乏しい日商岩井も、4次防のFX商戦から排除されていたであろう。

 ●「ダグラス・グラマン疑惑」の表面化
 SEC(アメリカ証券取引委員会)に新たな動きがあると知人の情報関係者から連絡が入ったのが53年の晩秋だった。
 54年1月4日、SECは、グラマン社の不正な支払いを指摘した報告書を公表して、日本の政界に大きな衝撃をあたえた。
(1)1969年(昭和44年)、グラマン・インターナショナル社は、早期警戒機E2Cの日本政府への売り込みに関連して、日本政府当局者(単数)の示唆にもとづいて、日本の販売代理店を変更した。
(2)1975年(昭和50年)グラマン・インターナショナル社は、右の販売代理店が手数料の一部を日本政府当局者に支払った――というのである。
 ついに日商岩井が俎上に乗せられたのである。
 昭和54年1月4日。ダグラス社が、軍用機の売却にあたって、日本商社に計四十四万ドルコミッションリベートを支払ったとする「米ダグラス社の海外不正支払いに関する報告書」が公表された。
 1月5日、米国グラマン社の早期警戒機E2Cの対日売り込みの代理店を、伊藤忠商事から日商岩井への変更を提案した自民党高官名が、未公開資料に明記されていると発表。
 1月8日、グラマン社前副社長チータム氏が、介在した高官は、岸信介元首相、福田赳夫前首相、松野頼三元防衛庁元長官である発表した。
 この発表後、海部メモのコピーをもとめて、わたしの事務所に、マスコミ関係者が殺到したのはいうまでもない。
 わたしも、日商岩井のダグラス・グラマン疑惑(『国益を無視してまで商売か』日新報道)の執筆を開始したところで、事務所は、ときには、討論会のような騒ぎになった。
 
 ●国会で「海部メモ」追及へ
 昭和54年2月1日。 朝日新聞が「昭和41〜44年にかけて、戦闘機F4Eファントムを航空自衛隊に売り込むためマクダネル社が自民党の大物政治家に多額のカネを贈った」とする「海部メモ」について「同メモの作成経過を追求することが疑惑の謎を解くのに役立つ」と報じた。
 同じ日の2月1日。日商岩井航空機部門担当、島田三敬常務が赤坂の同社ビルから投身自殺した。
 2月14日。社会党の大出俊代議士が、衆議院予算委員会で、海部副社長、植田社長、有森元航空機課長代理に質問した。このとき、手が震えて字が書けなかった海部のすがたがテレビに映しだされた。
 海部は「関知しない」とつっぱねたが、有森は「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否して、逆に海部メモの真実性を高めてしまった。
 4月4日、海部メモの筆跡について、確認を拒否した海部が偽証罪で告発される。
 3月14日、航空機部門部長、次長、外為法違反で逮捕。
 3月31日、参院予算委員会で、海部は、衆議院での証言の重要部分すべてを訂正したが、疑惑の核心部分に関しては自殺した元常務に責任転換する。
 4月2日、外為法違反で海部逮捕
 5月15日、政治家の刑事責任は時効。職務権限の壁にはばまれて断念すると、検察首脳会議において確認される。日商岩井関係3名のみ起訴。
 5月24日、衆議院航空機輸入調査特別委員会が松野を証人喚問する。松野は五億円の授受をみとめたが「政治献金」と主張、検察側や野党が追及する「F4E」の売り込みの工作資金および成功報酬という認定を否定した。
 7月24日、東京地裁は海部八郎に懲役2年執行猶予3年の判決。
 同年8月7日、刑の確定。
 巨悪(政治家)は眠ったままなのである。

 ●グラマン疑惑余話/児玉誉志夫の紙爆弾
 昭和43年10月1日。防衛庁は、佐藤総理の了承を得て、航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX選定)に米マクダネル・ダグラス社のF4EファントムUを決定した。
 FX機種決定の前日、増田防衛庁長官は、参院決算委員会で「FX機種選定は、新しい問題ではないので、国防会議にかける必要はなく、行政主管大臣の責任においてきめる」と言明している。
 狙いは「1機20億かけて買う必要はなく、当面、F104Jかその改良型で充分」とする海原事務局長への対抗であった。
 海原(河野一郎―伊藤忠―海原)の主張は、岸―佐藤の主張と真っ向から対立してきた。
 もっとも、当時、海原は、防衛庁の官房長から、国防会議の事務局長に左遷されている。
 増田防衛庁長官の独断は、この人事をうけたもので、佐藤総理の了承のもとで、FXの機種選定という国家防衛にかんする重要案件を、国防会議の審議も経ず、防衛庁長官の権限だけで決めるのは、尋常な事態ではない。
 しかも、FXの機種選定後、機数や時期などの案件については、国防会議かそれに準ずる機会をつうじて決定したいという。
 怪文書による海原追い落としが成功して以降、再び、FX商戦についての情報戦がはじまった。
 なかに「過去の慣例に反して、ファントム採用に走ったのは、佐藤三選の資金をつくるため」という怪文書があった。
 国防会議にもかけずに、佐藤総理と増田長官の独断で、次期戦闘機をF4EJに決定をしたことと、総裁選は、かならずしも、無縁といいきることはできない。
 F4EJ導入の見返りとして、代理店である岸事務所をつうじて、佐藤側に1億8千万円(50万ドル)の支払いがおこなわれた疑いが濃厚だからである。
 その決定的証拠が、あるルートをつうじて、反佐藤派の黒幕の手に渡ったとつたえられた。
 昭和43年12月18日。第一次FX商戦で暗躍した黒幕が、ついに、公の場にすがたをあらわした。
 日本政治資料調査会の児玉誉志夫が、白井為雄と連名で、佐藤首相に「防衛庁主力戦闘機の機種決定に関する公開質問状」をつきつけたのである。
 趣旨は「FXの機種選定を国防会議で協議せず、機種だけF4Eに政府決定して、機数は未定という政府の異常な対応に疑惑を深めざるをえないというものであった。
 質問状の主旨は、アメリカの事故率は、ロッキードよりファントムの方が高く、米軍は、ファントム(F4EファントムU)の訓練を中止している。FXの機種は、ロッキード社のF104Jかその改良型で十分というものであった。
 しかし、第三次政権を発足させたばかりの佐藤は、強気で、児玉の質問状を歯牙にもかけなかった。
 佐藤が、もともと、児玉誉志夫がきらいだったことは、よく知られている。
 総理に就任した佐藤のもとへ、児玉の使いが首相官邸に書状をもってきたとき、佐藤は、書状をもってきた官房長官木村俊夫の目の前で、書状で、紙飛行機をつくってとばしたという。
佐藤の児玉にたいする嫌悪感は、児玉が、岸―佐藤の政敵である河野一郎、伊藤忠、海原治らのバックに控えていただけではなかったろう。
 佐藤栄作が一目おいていたのは、右翼であり歌人でもあった室町将軍こと三浦義一であった。
 三浦義一と児玉誉志夫では、同じ右翼でもまったく反対のタイプで、三浦は、作家や知識人から慕われる文化人なら、児玉は闇の人脈にもつうじる泥臭い実践家だった。
 三浦義一をよく知る佐藤栄作は、三浦の対極にある児玉をあまり評価していなかったのである。
 
 ●勝利の美酒に酔った日商岩井
 結局、第二次FXは、逆転もなく、44年1月、マクドネル・ダグラス社と三菱重工・川崎重工のあいだで、F4EJ機合計100機のライセンス生産の契約がなされることになった。
 アメリカの軍用機メーカーとわが国の商社、政治家が三つ巴の空中巴戦(怪文書他)を展開した第二次FX商戦で、勝利の美酒に酔ったのは、日商岩井の海部軍団だったのである。

 追記
 戦後から昭和20年代、共産党が合法化されて、共産主義の暴力革命論が大手をふった。
 そして、第六回全国協議会(昭和30年)で、平和路線変更した共産党に反発した反代々木系と呼ばれた極左集団が、昭和40年代、多くの暴力事件をおこした。
 だが「革命は銃口から」という極左冒険主義や暴力革命路線は、内ゲバのはて、衰退していった。
 一方、極左が滅びても、右翼や反共、尊王思想の団体や集団は、時代をこえて、いきのびてきた。
 日本の歴史や伝統、価値観や文化と、統治方法としての西洋の民主主義と共存してきたのである。
 右翼的な考えは、日本人の心性や民族性、文化や習俗に相つうじるところがあって、与党の自由民主党の底流に流れているのも、保守・右派の思想だった。
 ところが、大多数の日本人の支持をうける自民党が、防衛力整備計画(第1次〜第3次)や日韓疑惑などで、つぎつぎに、構造汚職に手を染めてゆく。
 その原因となったのが、黒幕政治で、当時、日本の政治状況は、左翼や労組、日本共産党などの革命勢力と、対抗する右翼団体や任侠、香具師や博徒、暴力団などに影響力をもつ黒幕が暗躍する未成熟で混沌としたものだった。
 財界が、黒幕を必要としたのは、労組のほか、反社会的勢力の攻撃にさらされていたからである。
 児玉の政界ルートは、河野一郎や中曾根康弘らだが、岸も、60年安保で、児玉に助力をもとめている。
 戦後、黒幕とよばれたのは、児玉だけではない。
 池田内閣に大きな影響力をもっていたのは、血盟団事件の四元義隆で、事件当時、四元は、東大生だった。
 近衛文麿と鈴木貫太郎首相秘書を務めた四元は、戦後、吉田茂以下、歴代首相の黒幕的な存在として鳴らし、細川護煕政権では「陰の指南役」とささやかれた。
 1955年から田中清玄の三幸建設工業の社長をつとめ、同社退任後、拓殖大学の理事となって、中曽根を総長として招いた。
 佐藤栄作に大きな影響力をもっていたのは尊王思想家であり歌人でもあった三浦義一である。
 三浦と児玉誉志夫の関係を象徴するエピソードがあるので紹介しておこう。
 40年代の半ば、大東亜戦争時に、中国大陸で、児玉誉志夫と共に活動していた猶存社の白垣一、吉田彦太郎という右翼人が三浦事務所にやってきた、
 三浦は二人にこういった。
「今朝、児玉君が、昨夜の釣果だといって、みごとな魚を届けてくれた」
 2人は、顔を見合わせて、こう応じた。
「今朝、児玉さん河岸で魚を買っていましたよ」
 そこで、三人は、呵呵大笑したという。
 事の真偽はわからないが、白垣ら一流のジョークであったろう。
 三浦は、生前、数冊の和歌集を出版している。
 そのなかの一冊「悲天」に、児玉に寄せるうたが載っている。

 寒鮒を 釣りて待つとふ 汝が文を
    ふたたび讀みてい 寝にけるかも

              児玉誉志夫兄に
                   義一
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2020年08月10日

 わが青春譜22

 ●「日商岩井にソ連のスパイと告発電話」
 わたしの「グラマン事件」は、ある日とつぜん、わたしの事務所にかかってきた一本の電話からはじまった。
 わたしの事務所には、当時、大勢のマスコミ関係者がやってきた。
 多くが情報をもとめてのことだが、逆に、重要な情報がもちこまれることもあった。
 電話で、要旨だけを短くつたえるケースが大半で、多くは、匿名だった。
 件の告発電話も、氏名は名乗らなかったが、論旨のほうは明快だった。
「赤坂にある日商岩井という商社をご存知のことと思う。この商社にはソ連のスパイがいる。次期戦闘機がF―15にきまった場合、関係書類がソ連の手に渡る可能性がある。国防上、由々しき問題である。あなたの手で、この疑惑を解明してもらいたい」
 わたしは、政治評論と保守思想をテーマにしているので、反共と国家防衛という問題意識をもつ一般の方々から、しばしば、意見や情報が寄せられる。
 米ソ冷戦のさなか、ソ連は、わが国にとって「仮想敵国」であった。
 告発者が指摘するように、次期戦闘機にかかる情報がソ連に漏洩するようなことになれば大問題である。
 だが、この告発には、もう一つ、大きな問題をはらんでいた。
 昭和51年2月4日、米上院多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード疑惑が浮上して、民間旅客機をめぐる日米商戦の裏舞台が明るみにでた。
 田中角栄元首相ら政治家や丸紅、全日空の幹部ら16人が逮捕、起訴されたかのロッキード事件である。
 そして、3年後の昭和53年12月25日、米証券取引委員会(SEC)でMD社(マクドネル・ダグラス)が自社戦闘機の売込みのため、日本政府高官に1万5000ドルの賄賂を渡していた事実が暴かれた。
 昭和54年1月4日、SECは、こんどは、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、代理店の日商岩井を介して、日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに不正な資金を渡したことを告発した。
 SECに資料提供を要請して、捜査を開始した東京地検特捜部は、日商岩井の幹部2人と海部八郎副社長を逮捕して、捜査がさらに政治家におよぶかどうかが焦点になってきた。
 ところが、検察は「時効、職務権限の壁に阻まれて政治家の刑事責任追及が困難になった」としてとつぜん捜査を終了、日商岩井の関係者3人を起訴するにとどまった。
 これは、ロッキード事件と比較して、異様なことといわねばならない。
 ロッキード事件では、田中角栄元首相のほか、丸紅や全日空の幹部ら16人が受託収賄、贈賄などの罪で起訴されている。
 そして、丸紅の檜山広元社長ら幹部3人は、田中元首相にたいする5億円の資金提供に関与したとして、95年2月に最高裁で有罪が言い渡された。
 一方、ダグラス・グラマン事件は、ロッキード事件と同じ内容の容疑だったにもかかわらず、検察は、岸元首相ら政治家に事情聴取さえしていない。
 海部は、F―4の売込みにたいする成功報酬として松野に5億円を支払ったと明言している。
 松野も5億円の授受をみとめる一方、日商岩井からの政治献金だったと主張して検察の追及をかわしている。
 わたしは、十数年前、田中角栄元首相の元秘書官だった榎本敏夫さんを訪ねて、直接、こんなことばを聞いている。
「わたしは、丸紅から政治献金として、5億円をうけとったとなんども検察に申し上げたのですが、そのたび、はぐらかされて、ついに、ロッキード社からの賄賂と筋書きにされてしまったのです」
 松野の5億円が追及されず、角栄の5億円が問題にされたのは、検察が名をあげるためには、角栄のビッグネームが必要だったからである。
 以後、検事総長人脈は、伊藤栄樹から吉永祐介、原田明夫、松尾邦弘らにつながるロッキード派≠ェ主流となってゆく。
 当時の新聞報道は、ロッキード疑惑一色に塗りつぶされて、ダグラス・グラマン事件は、忘れ去られたも同然だった。
 だが、事件性は、グラマン事件のほうがはるかに高い。
 なにしろ、田中角栄は、ロッキード社から賄賂をとっていないからである。

 ●「グラマン事件」の検察側の冒頭陳述
 グラマン事件の核心となるのが「海部メモ」である。
 日商岩井の海部八郎が作成したもので、岸信介前総理と中村秘書、海部らの話し合いによって、ファントム導入がきまったこと、そして、口きき料として岸に2万ドルが支払われたことなどが書かれている。
 昭和54年10月12日、東京地方裁判所でおこなわれた日商岩井不正事件(グラマン事件)にたいする検察側の冒頭陳述の一節に次のくだりがある。
「(前略)同53年1月ごろ 恩田(「国会タイムズ」)は有森(日商岩井航空機部課長代理)から受け取っていた右書面及び送金依頼のコピーを知人で各種団体の役員をしている山本峯章に手渡し、山本は更に知人の団体役員鈴木孝司に手渡し、鈴木は同年二月頃右コピーを新聞社等に郵送した。(後略)」
グラマン事件の解明の発端となった「海部メモ」が世間に公表された経緯がこれで、冒頭陳述には「海部メモのコピーが巷間に流布された経緯について」という但し書きがついている。
 2月14日、 衆議院予算委員会で、日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長、有森国雄航空課長らの証人喚問がおこなわれたが、このとき、手が震えて字が書けない海部の様子がテレビ中継された。
 海部は「記憶にない」の答弁をくり返して、政府高官への金銭支払い疑惑を否定したが、うごかぬ証拠となったのが「海部メモ」だった。
 海部逮捕の報をうけた伊藤栄樹法務省刑事局長(後の検事総長)は、「捜査の要諦はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある」とのべたが、その舌の根も乾かぬうち「時効、職務権限のカベにはばまれて政治家の刑事責任追及は断念」と、日商岩井関係者3人を起訴しただけで、ダグラス・グラマン事件の幕を引いたのは前述したとおりである。

 ●有力だった日商岩井のF15
 電話通報者のいうとおり、日本の主力戦闘機ロッキードF―4ファントムは数年内に寿命がくる。
 54年から新しい戦闘機を導入しなければならなかった。
 したがって、52年度の予算に計上されていなければならない。
 FX選定のタイムリミットは52年8月である。
 ちなみに、FXのFは、ファイター、戦闘機の頭文字で、Xは未来を表わす。
 FX選定とは、戦闘機が未定ということで、グラマン事件は、民間機のロッキード事件につづいておきたFX疑惑≠ナある。
 防衛庁は、第三次FX候補機として、グラマン社のF14、マクダネル・ダグラス社のF15、ゼネラル・ダイナミクス社のF16の三機種に絞ることを決定した。
 8月にはこの3機種のなかから最終的な選定が行われる予定であった。
 3機種のなかで、日商岩井が代理店契約しているF15が有力視されていることは衆目の一致するところであった。
 電話通報者の告発が真実なら、ソ連スパイの狙いはF15関連の情報入手ということになるであろう。
 日商岩井をとおして、F15の機種マニュアルや修理教本がソ連のスパイの手に渡ると大きな国益損失となる。


 ●ソ連のスパイはだれか
「ダグラス・グラマン事件」を別の角度から追った拙著「国益を無視してまで商売か」(1980年/日新報道)に「日商岩井に暗躍するソ連のスパイ〜おそるべきソ連の対日スパイ戦略の実態」という項立てがある。
 日本には、昔も今も、スパイ罪も国家反逆罪もない。
 国家機密を盗んで外国に売っても、窃盗罪にしかならない日本で、スパイを封じて、国益をまもることはむずかしい。
 当時、わたしは、ソ連のスパイを特定して、そのスパイ網を根こそぎにするという意図をもって、取材をすすめた。
 やがて、一人のロシア人がうかびあがった。
 赤坂の日商岩井ビルにオフィスをもつ男で、高輪のアパートからオフィスに出勤したのち、赤坂のオフィスから狸穴のソ連大使館に出かけて、終日、大使館で過ごしている。
 大使館員に準ずる立場にあるにちがいなかったが、公職の登録はなかった。
 男の本名は、ユーリ・マキシモビッチ・レービンで、モスクワ生まれの39才だった。
 モスクワのエネルギー大学を卒業後、工業省、電子機械工業大学に1970年まで勤務したのち、2年間、東京工業大学工学部電子工学科に留学している。
 その後、外国貿易省、全ソ貴金属輸出公団をへて、ソ連国家科学技術委員会に移って、1974年9月、同委員会から日本に派遣されている。
 レービンが日本に来たのは、ソ連国家科学技術委員会と日商岩井らによって締結された「科学技術協定」にもとづくもので、電子工学の専門家というふれこみだった。
 レービンの住所は、港区高輪伊皿子坂アパートで、高輪のアパートから日商岩井ビル内のオフィスに午前10時頃出社、30分から一時間後、狸穴のソ連大使館に出かけるのが日課だった。

 ●日商岩井の不誠実な対応
 電話通報者のいうソ連のスパイがレービンであることに疑いはなかった。
 あとは、日商岩井に、直接、事実関係を問いただすだけである。
 わたしは、日商岩井本社で、井上潔常務と山崎秀之開発部副本部長に面会をもとめて質した。
 以下、質問者はわたしで、返答者は山崎本部長である。
 質問 レービン氏が来日した目的は?
 返答 術協力のための技術員を交換で、ソ連が送ってきたのがレービンです。
 質問 身分は?
 返答 ソ連の大使館員でも通商部員でもなく、あくまでも、日商岩井の仕事をするためです。ソ連と科学技術協定をむすんだ13社に駐在するという条件がついているので、日商岩井のビルにデスクをもっています。
 質問 国家科学技術委員会との技術協定というのは?
 返答 1973年の「日ソ科学技術協力協定」にもとづくものでソ連科学技術委員会は、閣僚委に直結しています。
 質問 10時に出勤したレービンが、30分から1時間後、狸穴のソ連大使館に行ってしまうのはなぜか。
 返答 ソ連大使館へは日商岩井の用件で行っている。それが法にふれるという物的証拠があれば、日ソ関係がおかしくなるので、法務省でチェックしてもらう。
 質問 ソ連からやってくる人間は、大なり小なりエージェントといわれている。
 返答 それはまあ、そういう要素もあるでしょう。
 質問 レービン氏もエージェントといわれている。
 返答 それは知りません。
 質問 FXの有力商社として、スパイの嫌疑をうけるような人物を受け入れるのは問題ではないか。
 返答 われわれはむこう(ソ連)からもらった資料から判断している。そんなことをいいだしたらなにもできません。
 最後に、わたしは、もっとも気になるテーマにふれた。
 質問 ソ連の極東方面の第一線の戦闘機は「ミグ21フィシュペッド」だった。これなら自衛隊の「F4EJファントム」で十分、対抗できる。ところが、最近、ソ連は「ミグ25フォックスバット」を飛ばしている。マッハ3のミグ25には、F4ファントムやF14(トムキャット)、F15(イーグル)でも対抗できない。ミグ25に対抗できるのは「ファイヤー・コントロール・システム」だけである。ソ連が最終的に欲しいのはFCS装置のデータと思われる。レービン氏が電子工学の専門家であるなら、われわれはこの点で納得いくのですが。
 返答 わたしたちはFCS装置についてなにも知らない。
 質問 われわれが調査して、スパイ行為の確証をつかめたらレービン氏の国外退去に同意してもらえますか。
 返答 むずかしい問題だ。外務省できめる大使館員の人数には、制限があるので、ソ連の場合、各商社にさまざまな形で人材を派遣している。うちだけではなく、各商社も、一人や二人、ソ連から人材をうけいれています。

  以上が会見内容の抜粋で、ここから、国家防衛にたいする危機意識はみじんもかんじることはできなかった。
 その数日後、国会院内紙「国会タイムズ」が特集記事を組んだ。
 ▼FX商戦の影にソ連のスパイ工作員
 ▼総合商社に疑惑の人物
 ▼自衛隊調査隊、CIAもマーク
 軍事評論家の小名孝雄も「あり得ることだ」と指摘して、FX選定問題こそわが国の国防基本方針を左右する大問題と断じた。
 それ以後も、国会タイムズは、日商岩井をとりあげて、糾弾した。
 ▼FX商戦にひそむ電子工学の専門家 技術提携でソ連から来日
 ▼狙いはアメリカの「FCS装置」か
 ところが、当時は、ロッキード事件の報道が過熱して「ダグラス・グラマン事件」も日商岩井の「スパイ疑惑」も片隅においやられた。
 わたしたちは、日商岩井に、再度、調査をもとめたが、誠意ある返答はえられなかった。
「他の商社にもエージェントはいる。日商だけではない」
 言い逃れるだけで、スパイ行為や機密漏洩にたいする危機意識はなかった。
 わたしたちは、日商岩井から新たな情報を入手すべく、さらに、四方八方にアンテナをはりめぐらせた。(続)

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2020年08月05日

 わが青春譜21

 ●湾岸危機とイラク高官との独占インタビュー
1990年8月、イラクがクウェートに侵攻して、世界の石油埋蔵量の半分以上を有する中東・湾岸地区(8か国)でにわかに危機が生じた。
 翌年の1月9日、わたしは、国会タイムズの五味武らとともにイラク(バグダッド)に飛び、イラク赤十字社(イスラム圏では赤い三日月/レッド・クレッセント)の総裁やラマダン第一副首相に会って、インタビューをおこなった。
 詳細は週刊現代の特集「山本峯章/ラマダン第一副首相と特別会見(1991年2月2日号)」に詳しいが、論点は、2つあった。
 1つは、日本がアメリカとむすんで、イラクに敵対することへの疑問と反発であった。
 ラマダンはこのインタビューで「日本は唯一の被爆国であり、その加害者はアメリカだ。原爆を投下した残酷なアメリカと日本はなぜ組むのか。イラクは親日的な国だ。中立の立場をまもってほしい」と熱っぽくうったえた。
 もう1つは、イラクが、91年1月15日を撤退期限としたクウェートからの無条件撤退(国連安保理決議678)を重視していなかった点である。
 イラクのクェート侵攻・併合にたいして、国連安保理は、90年11月29日に678決議を採択して、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに攻撃をくわえると宣言、事実、この湾岸戦争で、多国籍軍が2月末にクウェート全土を解放している。
 だが、ラマダンは、6日後に迫った多国籍軍のイラク攻撃をハッタリとみているふしがあった。

 ●「2日後にフセインと引き合わせる」
 ラマダン副首相から、フセイン大統領と引き合わせるという意外な申し出があった。
 週刊現代とは、ラマダンとの会見記事を寄せる約束をしていたが、フセインとの会談記事なら編集部も歓迎するだろう。
「2日後にフセイン大統領とひきあわせる」
 あと2日滞在をのばすと、1月15日に想定されている多国籍軍の攻撃まで数日の余裕しかない。
 問題は、2日後、いかにイラクから隣国ヨルダンへ出国するかである。
 このとき、わたしの頭をよぎったのが、クェート占領で、イラク軍がとった「人間の盾」作戦だった
 このときすでに解放されていたが、イラク軍は、クウェートから逃げ遅れた英米独日らの外国人をイラク内の軍事施設や政府施設などに監禁して「人間の盾」とする作戦を実行している。
 逃げ遅れたらイラク軍の捕虜のなってしまう可能性もゼロではなかった。

 ●多国籍軍の攻撃を予測できなかったイラク
 ラマダンがアメリカの侵攻はない断言した根拠は、当時、イラクは、100万人の兵力、戦車5500両、戦闘機500機以上(ミラージュ64機やミグ25とミグ29をふくむ)軍事大国だったからである。
 だが、アメリカは、覇権主義を掲げる軍産複合体の戦争国家である。
 戦争がしたくて、イラク以上にうずうずしていたのである。
 ラマダンにあとで返答すると言い残して、わたしは、その夜、日本大使館に出向いて、大使と食事を共にした。
 大使館員はすでに全員避難をしていて、残っているのはインド人のコックと大使だけであった
 大使の意見は、多国籍軍の攻撃は必至で、翌日夜のヨルダン行きの飛行機が最終便となるというもので、2日後は、国外脱出の方法はなくなるという。
 わたしたちも、大使とともにヨルダン行き最終便に搭乗するためラマダンに断りの連絡をとったのち、バグダッド空港へむかった。
 ヨルダン空港に着くと、世界のマスコミがまちかまえていて、バグダッドの情勢を質問攻めにされた。
「アメリカの攻撃はない。2日後、フセイン大統領にひきあわせる」といったラマダン第一副首相の真意はどこにあったのか。
 その疑問は永遠に解けない。
 イラク戦争(2003年)後、フセインはアメリカに、ラマダンはシーア派に捕らえられ、死刑判決をうけて処刑されたからである。

 ●イラクがクウェートに侵攻した経緯
 イラクがクウェートに侵攻した経緯についてかんたんにふれておこう。
 1988年、イラクは、イランとの8年間におよんだ戦争に終止符を打った。
 しかし、6000憶ドルもの戦時債務をかかえ、国家経済は困窮していた。
 フセインは、国家経済再建のため、OPEC(石油輸出国機構)にたいして原油価格を一バーレル25ドルの値上げと減産を要請した。
 だが、サウジアラビアやクウェートなどは、OPECの割り当て量をこえた石油増産をおこない、イラク経済にダメージをあたえつづけた。
 石油以外の産業をもたないイラク経済は日に日にますます衰弱していった。
 1990年の革命記念日に、フセイン大統領は「一部のアラブ諸国が原油の価格を下落させて、イラクを背後から毒を塗った短剣で刺そうとしている」と警告を発し、警告が聞き入れられない場合、効果的手段をとらざるをえないと武力行使を匂わせている。
 この警告にたいして、湾岸諸国のうちアラブ首長国連邦などは増産縮小したが、これを拒否したクウェートは、国境へ軍を移動させるという挙にでた。
 クウェートとイラクは、国境をまたぐルマイラ油田の領有権問題をめぐって対立してきた経緯があって、軍事衝突は、時間の問題だったともいえる。
1990年8月2日、イラクはクウェート侵略を開始、6日後の8月8日にはクウェートを併合、イラクの19番目の県(クウェート県)に組み入れた。

 ●「人間の盾作戦」
 8月8日のクウェート併合時に、イラクは、クウェート国外に残留していた非イスラム系外国人、アメリカ人やアメリカと関係の深いイギリス人やドイツ人、日本をイラク内の軍事施設や政府の関連施設に監禁して、多国籍軍の攻撃にたいする「人間の盾」として使うと発表したが、国際社会からつよい反発をうけて、12月には全員解放した。

 ●「砂漠の嵐作戦」
 イラクのクウェート併合にたいして、諸外国は、一致結束した事態解決へのうごきをつよめ、国際連合(安全保障理事会)もイラクに即時、無条件撤退をもとめた。
 1991年1月17日、ブッシュ大統領(第41代)は、アメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開、一方、多国籍軍はイラクへの爆撃(砂漠の嵐作戦)を開始して、2月23日から陸上部隊による進攻がはじまった。
 陸上戦の開始から100時間後、多国籍軍は、圧倒的勝利をおさめてクウェートを解放した。
 この戦争でアメリカは世界最強の軍事力を誇示し、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。
 さらに、同年12月のソ連崩壊によって、アメリカは、世界唯一の超大国としての地位を確立するのである。
 アメリカは日本に「ブーツ・オン・グランド(地上部隊の派遣)」をもとめたが、憲法上、日本は、海外派兵ができないため、軍費の提供のみをおこなった。
 日本は、このとき、戦費610億ドル(米国防省発表)のうち、アメリカやドイツの70億ドルを大きくしのぐ130億ドルを負担した。
 だが、クウェートの感謝広告(新聞)に日本の国名はなかった。

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