1990年8月、イラクがクウェートに侵攻して、世界の石油埋蔵量の半分以上を有する中東・湾岸地区(8か国)でにわかに危機が生じた。
翌年の1月9日、わたしは、国会タイムズの五味武らとともにイラク(バグダッド)に飛び、イラク赤十字社(イスラム圏では赤い三日月/レッド・クレッセント)の総裁やラマダン第一副首相に会って、インタビューをおこなった。
詳細は週刊現代の特集「山本峯章/ラマダン第一副首相と特別会見(1991年2月2日号)」に詳しいが、論点は、2つあった。
1つは、日本がアメリカとむすんで、イラクに敵対することへの疑問と反発であった。
ラマダンはこのインタビューで「日本は唯一の被爆国であり、その加害者はアメリカだ。原爆を投下した残酷なアメリカと日本はなぜ組むのか。イラクは親日的な国だ。中立の立場をまもってほしい」と熱っぽくうったえた。
もう1つは、イラクが、91年1月15日を撤退期限としたクウェートからの無条件撤退(国連安保理決議678)を重視していなかった点である。
イラクのクェート侵攻・併合にたいして、国連安保理は、90年11月29日に678決議を採択して、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに攻撃をくわえると宣言、事実、この湾岸戦争で、多国籍軍が2月末にクウェート全土を解放している。
だが、ラマダンは、6日後に迫った多国籍軍のイラク攻撃をハッタリとみているふしがあった。
●「2日後にフセインと引き合わせる」
ラマダン副首相から、フセイン大統領と引き合わせるという意外な申し出があった。
週刊現代とは、ラマダンとの会見記事を寄せる約束をしていたが、フセインとの会談記事なら編集部も歓迎するだろう。
「2日後にフセイン大統領とひきあわせる」
あと2日滞在をのばすと、1月15日に想定されている多国籍軍の攻撃まで数日の余裕しかない。
問題は、2日後、いかにイラクから隣国ヨルダンへ出国するかである。
このとき、わたしの頭をよぎったのが、クェート占領で、イラク軍がとった「人間の盾」作戦だった
このときすでに解放されていたが、イラク軍は、クウェートから逃げ遅れた英米独日らの外国人をイラク内の軍事施設や政府施設などに監禁して「人間の盾」とする作戦を実行している。
逃げ遅れたらイラク軍の捕虜のなってしまう可能性もゼロではなかった。
●多国籍軍の攻撃を予測できなかったイラク
ラマダンがアメリカの侵攻はない断言した根拠は、当時、イラクは、100万人の兵力、戦車5500両、戦闘機500機以上(ミラージュ64機やミグ25とミグ29をふくむ)軍事大国だったからである。
だが、アメリカは、覇権主義を掲げる軍産複合体の戦争国家である。
戦争がしたくて、イラク以上にうずうずしていたのである。
ラマダンにあとで返答すると言い残して、わたしは、その夜、日本大使館に出向いて、大使と食事を共にした。
大使館員はすでに全員避難をしていて、残っているのはインド人のコックと大使だけであった
大使の意見は、多国籍軍の攻撃は必至で、翌日夜のヨルダン行きの飛行機が最終便となるというもので、2日後は、国外脱出の方法はなくなるという。
わたしたちも、大使とともにヨルダン行き最終便に搭乗するためラマダンに断りの連絡をとったのち、バグダッド空港へむかった。
ヨルダン空港に着くと、世界のマスコミがまちかまえていて、バグダッドの情勢を質問攻めにされた。
「アメリカの攻撃はない。2日後、フセイン大統領にひきあわせる」といったラマダン第一副首相の真意はどこにあったのか。
その疑問は永遠に解けない。
イラク戦争(2003年)後、フセインはアメリカに、ラマダンはシーア派に捕らえられ、死刑判決をうけて処刑されたからである。
●イラクがクウェートに侵攻した経緯
イラクがクウェートに侵攻した経緯についてかんたんにふれておこう。
1988年、イラクは、イランとの8年間におよんだ戦争に終止符を打った。
しかし、6000憶ドルもの戦時債務をかかえ、国家経済は困窮していた。
フセインは、国家経済再建のため、OPEC(石油輸出国機構)にたいして原油価格を一バーレル25ドルの値上げと減産を要請した。
だが、サウジアラビアやクウェートなどは、OPECの割り当て量をこえた石油増産をおこない、イラク経済にダメージをあたえつづけた。
石油以外の産業をもたないイラク経済は日に日にますます衰弱していった。
1990年の革命記念日に、フセイン大統領は「一部のアラブ諸国が原油の価格を下落させて、イラクを背後から毒を塗った短剣で刺そうとしている」と警告を発し、警告が聞き入れられない場合、効果的手段をとらざるをえないと武力行使を匂わせている。
この警告にたいして、湾岸諸国のうちアラブ首長国連邦などは増産縮小したが、これを拒否したクウェートは、国境へ軍を移動させるという挙にでた。
クウェートとイラクは、国境をまたぐルマイラ油田の領有権問題をめぐって対立してきた経緯があって、軍事衝突は、時間の問題だったともいえる。
1990年8月2日、イラクはクウェート侵略を開始、6日後の8月8日にはクウェートを併合、イラクの19番目の県(クウェート県)に組み入れた。
●「人間の盾作戦」
8月8日のクウェート併合時に、イラクは、クウェート国外に残留していた非イスラム系外国人、アメリカ人やアメリカと関係の深いイギリス人やドイツ人、日本をイラク内の軍事施設や政府の関連施設に監禁して、多国籍軍の攻撃にたいする「人間の盾」として使うと発表したが、国際社会からつよい反発をうけて、12月には全員解放した。
●「砂漠の嵐作戦」
イラクのクウェート併合にたいして、諸外国は、一致結束した事態解決へのうごきをつよめ、国際連合(安全保障理事会)もイラクに即時、無条件撤退をもとめた。
1991年1月17日、ブッシュ大統領(第41代)は、アメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開、一方、多国籍軍はイラクへの爆撃(砂漠の嵐作戦)を開始して、2月23日から陸上部隊による進攻がはじまった。
陸上戦の開始から100時間後、多国籍軍は、圧倒的勝利をおさめてクウェートを解放した。
この戦争でアメリカは世界最強の軍事力を誇示し、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。
さらに、同年12月のソ連崩壊によって、アメリカは、世界唯一の超大国としての地位を確立するのである。
アメリカは日本に「ブーツ・オン・グランド(地上部隊の派遣)」をもとめたが、憲法上、日本は、海外派兵ができないため、軍費の提供のみをおこなった。
日本は、このとき、戦費610億ドル(米国防省発表)のうち、アメリカやドイツの70億ドルを大きくしのぐ130億ドルを負担した。
だが、クウェートの感謝広告(新聞)に日本の国名はなかった。