●TV局へいやがらせの投稿 昭和53年ごろから、物価問題や食の安全などをテーマに、テレビの出演がふえ、これに関連して、雑誌や新聞などの取材や寄稿の機会も多くなった。
テレビは、TV東京の「ザ・ロンゲストショー」、「おはよう東京」、「ハーイ二時です」などに数多く出演して、のちに週に一度、テレビ朝日の「危険がいっぱい」という15分コーナーでは、松島トモ子とともに番組を担当させてもらった。
この頃は、アフタヌーンショーの全盛期で、宮尾すすむの「日本の社長」や馬場こういちの「納得いかないコーナー」などの番組が人気を博していた。
俳優出身の司会者、川崎敬三のアフタヌーンショーも高視聴率で、わたしが週に一度、出演させてもらったのは、川崎氏とウマがあったせいだった。
昭和54年頃、アフタヌーンショーの番組収録後、ディレクターがわたしに一枚のハガキをもってきた。
テレビ朝日の社長に宛てたもので、わたしを中傷した文言が並んでいた。
そのハガキをディレクターからあずかって、わたしは、ある知人を訪ねた。
知人は、ハガキをもって奥にひっこみ、しばらくして、もう一枚のハガキを手にもどってきた。
もう一枚のハガキは年賀状で、横にいやがらせのハガキを並べた。
二枚のハガキは、同じ筆跡で、年賀状の差出人は、恩田貢だった。
わたしが、恩田に抗議の電話をかけると、あっさりとみとめて、謝罪したいという。
数日後、恩田が指定した新橋の料亭でまっていると、恩田は、精悍な風貌の男性といっしょにすがたをあらわした。
のちに、自民党参議院会長や労働大臣をつとめる、若き日の村上正邦議員であった。
村上議員は「恩田を勘弁してやってくれないか」といって頭を下げた。
わたしは、水に流して、恩田にはなにも問わなかった。
恩田は、わたしが「海部メモ」を世にだしたため、大きな迷惑をこうむったという。
げんに、赤坂で暴漢に襲われて、眼部に重傷を負ってもいる。
もともと「海部メモ」の出所は、有森―恩田ラインである。
わたしが恩田から「海部メモ」をあずかったのは、日商岩井に巣食っているソ連スパイの追及のためで、FX商戦における政治家や商社の不正が発覚したのは、その情報収集の過程から生じた瓢箪から駒≠フような話であった。
わたしは、事件追及に「海部メモ」を活用した事情について、恩田の了解をえており、恩田も承知していたはずだった。
政治や財界の疑惑追及には、妨害や報復がつきもので事件屋≠ニ呼ばれる人々のなかには、疑惑を逆手にとって、金銭を要求する犯罪者もいる。
不正や疑惑を追及する者は、二重三重のリスクにとりまかれているといってよいが、その意味で、恩田が襲われたことの責任の一端は、わたしにもあったことになる。
後述するが、北方領土を占領しているソ連に、密漁と交換条件に情報提供をおこなっていた「レポ船」(情報船)の取材では、組織が道警の手入れをうけてを大打撃をうけたため、わたしは、連中からつけ狙われることになった。
さて、恩田事件で、仲介の労をとられた村上議員とは、その後、伊豆七島の援助や防衛施設庁関係の陳情などでお世話になり、現在も、親しく交際させていただいている。
●日韓疑惑事件と大蔵省メモ 亡くなったが、かつて、大泉一紀という友人がいた。
元読売新聞の政治部の記者で、わたしと知り合ったときは、すでに、読売を退社して、経済や為替情報を発信する自由経済社という会社を経営していた。
大蔵省や通産省にパイプをもち、折々、話題になったテーマの官庁情報をもたらしてくれた。
当時、官庁の書類は、まだ、コンピュータ管理されておらず、大きな書棚に仕分けして、並べられていた。
担当職員は、いつでも、閲覧できたが、顔がきいた大泉は、その書類をもちだし、コピーしたあと、なにくわぬ顔で返却するのだという。
53年、長年、くすぶっていた日韓疑惑問題が表面化してきた。
とりわけ、問題とされたのが、日本の援助で完成した「ソウル地下鉄」疑惑だった。
事務所にやってくるマスコミ関係者の関心も「海部メモ」から徐々に「日韓疑惑」へと移っていった。
そんな、折、大泉が大きなネタをもちこんできた。
大蔵省の名入りの用紙に書き込まれた10ページのレポートであった。
表題に「日韓経済協力関係に於ける問題点」とある。
官僚が政治家に当てたものと思われたが、署名も宛名もなかった。
内容は、世間の耳目を集めている「ソウル地下鉄」問題についてだった。
レポートにはこうある。
地下鉄三号線の計画案について、予算委員会で、諸先生から質問がなされているが、上記三案件プロジェクトと同様、逆献金の実態が細部にわたって追及されている。
事実関係については、新聞報道されているとおりであるが、具体的に窓口となった商社メーカーのあいだで、当初、政府ベースで決定した協力金額をドルと円、ウォンで換算して、為替差益を計上して、その差額分を車輛の見積価格に上積みしていたものである。
本件については、○○先生はじめ○○氏が介在しており、現在東京地検及び警視庁の方で調査中である。
本件にまつわる本邦政治家への逆献金は2億6500万円で、○○銀行分が1億1500万円で、これらがスイス銀行及びFNCBニューヨーク支店口座へ振替入金されている
このほか「1968年10月30日実行の第三期市外電話拡張事業について」という項目には、日韓政府間の経済協力のすべてのプロジェクトの対処状況が詳細に書かれている。(拙著「国益を無視してまで商売か」日新報道より抜粋)
このメモに、当時、わたしの事務所に出入りしていたマスコミ関係者がとびついたのはいうまでもない。
わたしは、週刊ポストをパートナーにえらび、記者にメモのコピーを渡した。
レポートを書いた官僚は特定できなかったが、政治家は見当がついた。
45年7月に開かれた日韓定期閣僚会議(ソウル)に、日本側の首席として福田蔵相(当時)が出席している。
このとき、外務省をツンボ桟敷に置いて、一億ドルの借款が決定された。
いわゆる政治判断で、このうち、政府借款の72億円については、韓国側の使用計画がないまま、交換文書で約束されたことから、疑惑の的になった。
その翌年の大統領選をめぐる資金とも噂されたが、日韓両国のトップ同士の秘密事項で、明らかにならなかった。
国税庁の調査が入った「ソウル地下鉄」問題も、発端は、橋本運輸大臣(昭和45年4月)の訪韓で、日本が、韓国からの請願をうけて、調査団派遣などの裏舞台のプロジェクトが立ちあがった。
浦頃製鉄所プロジェクトも、ほぼ同じ時期にはじまっている。
昭和40年、日韓条約が締結されて、以後、多くの日韓援助プロジェクトがうごきだしたが、一つとして、疑惑を生まなかった案件はなかったといってよい。
●李厚洛の愛人K子 一連の日韓疑惑について、中心的な役割を演じたのが、当時、韓国の中枢にあった朴大統領側近のナンバーワン、KCIA部長の李厚洛であった。
駐日大使をつとめた李の任務も、対日工作のパイプ役とささやかれていた。
わたしの事務所には、たびたび、スキャンダルももちこまれる。
そのスキャンダルの主が李厚洛とあって事務所は色めきたった。
李厚洛の愛人だったというK子(赤坂芸者)はこううったえたという。
「わたし李厚洛の愛人でした。李さんと別れるとき、手切金として五千万円を小切手でいただきましたが、ある韓国企業の社長が、定期預金にしてあげるといってもっていき、返してくれない」
李厚洛は、72億円不明金が大統領選挙に流れたと噂された朴政権の中枢にいて「金大中事件」をひきおこした韓国中央情報部の責任者(KCIA部長)だった人物である。
わたしは、週刊ポストと東京タイムズの記者とともにK子と会った。
K子は昭和23年、秋田で生まれ、中学を出て上京して洋裁学校にかよっていたが、色白の器量を見込まれて、千夏の芸名(半玉)で、座敷にでるようになったという。
李厚洛と出逢ったのは赤坂の料亭「中川」で、李が駐日大使として、日本に赴任したのち、愛人の関係になったという。
詳しい話は、当時の週刊ポストや東京タイムズに載っている。
わたしが関心をもったのは、李が駐日大使からKCIA部長の要職にあった47年まで、K子との愛人関係がつづいていたことだった。
この間、疑惑がもたれる日韓プロジェクトが多く組まれている。
だが、K子の口から、疑惑にかかわった日本の政治家の名前を聞きだすことはできなかった。
K子は李厚洛に会うため、20回以上、渡韓している。
そして、その都度、200万円を受け取っていたという。
K子が、李厚洛と別れたのは、金大中事件の直後だったという。
金大中事件に深くかかわっていたとして、李が、中央情報部長を解任されたからで、その6年後、朴正煕が暗殺されると、李は政界を去った。
李厚洛との別れをK子に告げたのは、ロッテ社長の重光武雄であった。
K子が五千万円とりもどしてほしいと頼んで来た相手方の在日朝鮮人実業家はロッテの重光社長だったのである。
手切金五千万円は、三和銀行新宿支店に定期預金するとして重光が預かった。
その後、K子は、預金を全額、渡してくれるよう重光にかけあうが、もらったのは五百万円だけだったという。
一方、国会や国税庁、マスコミが、大蔵省メモを追及したが、結局、疑惑の解明はならなかった。
日韓疑惑の本質は、日本の韓国にたいする過度な贖罪意識と、韓国の甘えがつくりあげたもたれあいの構造で、双方の政府に、冷静な理性やルール意識が欠如していたのはいうまでもない。
その後、K子の事件は、社会党の代議士が仲裁に入って、ロッテ重光社長からKに4500万円が支払われて一件落着となった。
●「日韓問題」余話 わたしが、頭山立国氏と交友を深めたのは、昭和40年代で、当時、立国は、新橋に事務所を構えていた。
その後、福岡県の県民紙、福岡新聞社の社長になって、会う機会も少なくなり、わたしとは疎遠になった。
頭山立国は、歴史的なアジア主義者で、右翼の巨頭といわれた頭山満の三代目で、わたしたちは、黒龍会の内田良平ら快人物を育て、中国の孫文や朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースらを支援した玄洋社の総帥として、頭山満の偉名を脳裏にきざみこんでいる。
立国が名を上げたのは、インドネシアのスカルノ大統領が提唱した「ガネホ(新興国スポーツ大会)」に、日本選手団の団長として、日本体育協会の反対を押し切って参加したことであろう。
スカルノ大統領は、アジア主義者頭山満翁の孫、頭山立国を心から歓迎したという。
昭和51年頃、頭山事務所主催の講演会が催された。
講師は民社党委員長の春日一幸代議士であった。
春日は、日韓議員連盟の副会長で、会長は、岸信介がつとめていた。
春日一幸は弁舌爽やかで経験豊かな政治家であった。
その日の講演でも、日本と韓国の今後の在り方を熱っぽく説いた。
「韓国も新しい大統領全斗愌になって、いままで問題になってきた疑惑問題はなくなる。全斗愌政権から新しいパイプになって、きれいな水が流れてくる」
祝賀会の挨拶ならそれでいいだろうが、その日は、講演会である。
核心を突く問題提起や新しい展開がしめされなければ講演会とはいい難い。
わたしは質問に立った。
「いま、韓国は新しい政権になって、日韓関係のパイプも新しくなるといわれた。そうであるなら、多くの疑惑が指摘されている日韓議員連盟会長の岸信介元首相も辞任して、新たな日韓関係を新しい人材で築くべきではないのか」
春日一幸は血相を変えた。
「キミ、それは岸先輩に失礼だ」
「どんなにきれいな水が新しいパイプで流れて来ても受ける方が汚れていたらどうなりますか」
そのとき、主催者の頭山立国がわたしの背後に立って、小声で声をかけた。
わたしは、察して、質問をやめたが、少々、がっかりした。
このとき、春日一幸が、心配にはおよばない、岸さんは反省するのが得意なひとだから、といなしてくれれば、満場の笑いを誘ったであろうし、りっぱな返答にもなっていたはずである。
それから数か月後、川崎敬三氏のご子息の結婚式に招かれた。
川崎はわたしがレギュラー出演していアフタヌーンショー(テレビ朝日)の司会者で、個人的にも親しくさせもらっていた。
披露宴の席につき、新郎新婦の方に目を移すと、仲人の席に、春日一幸夫婦が座っておられた。
わたしは、目礼をしたが、過日の講演会のことなどはすこしも念頭になかった。
春日も政治家なら、そんなことをいちいち気にしているはずはない。
だが、春日は、わたしの目礼を無視して、知らぬげであった。
春日は、野党であるが、外交や防衛政策にかけては、自民党の陣笠議員よりはるかに国益にそって意見をのべるすぐれた治家であった。
わたしは、自民党支持者だが、民社党には大きな期待を持っていた。
チャンネル桜という有線テレビの討論会では、塚本民社党元委員長と何回となく議論したが、その主張に同感こそすれなんの違和感ももつことはなかった。
宴たけなわの頃、川崎氏がわたしのテーブルに足を運び、他の来賓に挨拶をしながら、耳元で「春日先生が、どうして山本君がここにいるのか、あなたとはどういう関係なのかと尋ねられるので、わたし番組に出演してもらっているんです」と応えておきましたという。
春日は「ああそう」と、それきり黙ってしまったというが、講演会のことを根にもっていたのだとしたら、あまりにも、ハラが小さい。
「おい、山本君」とわたし呼びつけ「過日はご苦労」といってのけるくらいの腹芸はできないものだろうか。
大政治家、春日一幸イメージが、わたしのなかで、たちまち、萎んでいった。
大人(おおびと)と尊(たっと)ぶ 人の小さきに
宴(うたげ)の席で 寂しさ覚ゆ