フキノトウは、春になって、最初にでてくる山菜である。
雪解けを待たずに、地面から顔を出すフキノトウは、苞につつまれたツボミで、茎が伸び、花が咲き、地下茎でつながっている葉が出てくるのは、そのあとである。
特有の苦味と風味が春らしい味覚で、ふき味噌は、家庭料理として知られる。
採ったばかりのフキノトウを熱湯でゆでて水にさらし、みじん切りにして、甘味噌にからめる。
つくり方は、家々によってちがうので、わが家のふき味噌は、母親の記憶につながる。
春先、店頭にでてきたフキノトウを見て、つくってみる気になった。
おふくろの味がなつかしくなったのである。
だが、舌がおぼえていた昔の味には、遠くおよばない。
ふきのとうは、あくまでも、ホロ苦いのである。
立春や 一輪残る 返り花
帰り花とも書く、返り花は、本来、季節外れの開花で、狂い咲きともいう。
冬に咲く梅や桜、小春日和の秋に花をつける春の野草などを指すが、わが庭では、冬に一輪、ぽつんと咲くバラである。
冬といっても、そろそろ、立春で、急ぎ咲きである。
遅れて咲くのが忘れ花、時節がずれて咲くのが時忘れ、いずれも、とぼけていて、どこかものさびしい。
老いらくの恋は、冬に咲いた一輪の紅いバラであろうか。
さびしくもあり、たのしくもあり、おかしくもある。
西吹きて 東を向くや 藪椿
春の彼岸の頃、西から吹いてくるあたたかい風は、涅槃西風や彼岸西風ともよばれる。
元気をくれる風とも、迎えの風とも、悟りを誘う風ともいわれるが、春風駘蕩の春風でもあるので、のんびり、おおらかにかまえたい。
東風(こち)も春の風だが、時節は、西風(にし)よりはやく、山で吹く雪解け風のイメージである。
東風が山のものなら、西風には、春が来て、人々が活発にうごきだす下町のかんじがする。
西と東は、左右や彼岸此岸、硬軟の対照で、合わせて、分別である。
春の西風が吹いて、寒椿が、東からのぼる陽を向いている。
おだやかな春の一日が、いま、はじまろうとしている。
降りつづく 弥生の雨や 山笑う
雨は、季節によって、表情を変える。
冬の雨は冷たく、秋の雨は物憂い。夏の雨は豪快で、春の雨はのどかである。
春は、低気圧と高気圧が交互にやってくるため、天気が変わりやすい。
春の嵐や春一番のように荒れ模様になるかと思えば、風光る、うららかな日もつづく。
春雨は濡れて参ろう、というほど弱々しく、あたたかい。
冬篭りからさめた春の山にとって、春雨は、いのちの恵みである。
一雨ごと、山の緑は色濃くなってゆく。
昔の俳人は、これを山笑うと表現して、春の季語となった。
山眠るは、冬の季語で、これまた、言いえて妙である。
空が明るい春雨を見て、山が笑っているさまが思いうかぶ。
目借時 水面の浮きも ゆらゆらと
目借時というのは、蛙の声を聞いていると眠くなるさまで、春眠暁をおぼえずの類である。
かまい時という言い方もあって、獣や鳥のさかりの時期、抱卵期をいう。
生命活動が活発になる春の一日は、長い。
うららかや 日暮れて帰る 子らの声
その春の日が暮れて間もないのが春の宵で、春宵一刻値千金という詩句もある。
花の香がただよい、おぼろ月がうかぶ春の宵は、一刻千金に値する
昼間にぎやかだった楼台や中庭に人影はなく
夜はひっそりと更けてゆく――
千鳥足 弥生の風や 頬ぬくし
こんな宵は、つい、杯をかさねてしまう。
春宵(しゅんよう)は、過ぎてゆく時間が風流で、肴はいらない。
ついこのあいだまで恋しかった暖もいらない。
日中温度が25度をこえる日が多くなると、そろそろ、晩春である。
焚く炭火 火勢も弱し 春火鉢
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