1960年(昭和35年)1月、岸首相以下全権団が訪米、アイゼンハワー大統領と会談して、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。
社会党や総評系労働組合は「安保改定阻止国民会議」を結成して、全国的な反対運動を展開、全学連も大規模な動員をかけて、反対運動は大きな高まりをみせた。
全学連が機動隊と衝突をくり返して、多くの逮捕者を出すにいたって、公安調査庁は、全学連や共産主義者同盟(ブント)傘下の社会主義学生同盟、六全協(三〇年)以後、共産党と袂を分かった過激派などを、破壊活動容疑団体とみとめ、取り締まり体制を強化した。
昭和35年1月19日、ホワイトハウスで新日米安保条約が調印された。
しかし、これで条約改定は終わったわけではない。
日本国における国会採決と承認(批准)を経なければ条約は発効しない。
日の本の 結びし 安保条約は
平和をまもる 国のいしずえ
強行採決
新安全保障条約がホワイトハウスで調印されて以降、日本国内では、国論が二分されて、世情は騒然となった。
国会では、審議拒否や乱闘騒ぎがくり返され、反対運動は、学者や市民団体の署名運動から全学連よる反対決起大会まで、日に日に高まりを見せて、デモ隊は数十万人規模にたっした。
外国の干渉もくわわって、1960年1月27日、社会党や共産党、総評の安保反対活動を支援してきたソ連は、日本に外国軍が駐留する限り歯舞・色丹島は返還しないと表明、中国も、同年5月9日、北京で、日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会を開催して、100万人が参加した。
5月19日、政府与党は「新安保条約」の強行採決にふみきった。
そして、5月20日、衆議院本会議を通過した。
委員会採決の際、自民党は、座り込みの社会党議員を排除するため右翼などから屈強な青年を公設秘書として動員している。
左右両陣営の運動激化
5月19日の強行採決後、6月19日の自然承認にかけて、デモの参加者は増え、抗議行動も全学連を中心に過激になってゆく。
この頃、右翼の治安確立同志会の坂本勇ら4名が社会党の浅沼委員長にアンモニア入りのビンを投げつける事件もおきている(5月26日)
当時の事件を時系列に羅列してみよう。
1960年(昭和35年)
1月19日・日米政府間で条約調印
4月 全学連が警官隊と衝突
5月20日・衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む
6月10日・ハガチー事件(ホワイトハウス報道官が来日。羽田でデモ隊に包囲されて、海兵隊のヘリコプターで脱出)
6月15日・全学連と警察隊の衝突で、東大学生の樺美智子が転倒した学生らの下敷きとなって死亡。国会周辺で、デモ隊と右翼百数十人と大乱闘、双方で二十六人が検挙
6月16日・政府はアイゼンハウワー大統領の訪日招待延期を発表
6月17日・在京新聞7社が共同声明発表。デモ隊の暴力を批判、社会党に国会審議復帰を呼びかける。自民党の強行採決を批判して、反対運動を煽ってきた新聞マスコミが、アイゼンハウワー大統領の訪日延期後、一転して、全学連らの批判に回った
6月17日・社会党河上丈太郎、右翼に刺され負傷
6月19日・日米新安保条約が自然成立(23日に発効)。反対派デモ30万人が国会を取り巻く。
空前の規模となったデモは、一部、暴徒化して、警察力だけで鎮圧することが不可能なのは明らかであった。
岸首相は、赤城宗徳防衛庁長官に、陸上自衛隊の治安出動を要請した。
赤城長官は、辞表を懐に「出動要請に応じれば、国民に銃口を向けることになる。自衛隊に国民を撃てと命じることはできない」と岸の要請を断った。
60年安保に自衛隊が治安出動していれば、国家と国民の一体感が害われることになって、池田内閣の国を挙げての経済成長政策も失敗に終わっていたであろう。
赤城長官の決断は正しかったのである。
警察と右翼団体だけでデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、自民党の「アイク歓迎実行委員会」の橋本登美三郎委員長を暴力団関係者の会合に派遣して、児玉誉士夫を筆頭に松葉会の藤田卯一郎、錦政会の稲川角二、住吉会の磧上義光、関東尾津組の尾津喜之助ら多くの任侠や博徒、テキヤ団体の協力をとりつけた。
「アイク歓迎実行委員会」が、このとき想定した動員数は、全日本愛国者団体会議や1958年に岸が発案して木村篤太郎が率いる新日本協議会ら右翼団体4000人余とその数倍にもおよぶ任侠、博徒ら数万人で、アイゼンハワーの来日が実現していたら、デモ隊と、暴力団員をふくむ右陣営の未曾有の激突が実現していたはずである。
6月23日・白金の外相公邸で批准書の交換など日米新安保条約の全手続きを終了。
岸内閣は「人心一新」「政局転換」を名目に総辞職を発表
全学連のデモや野党の激しい抵抗は、岸退陣によって、休息に終息へむかう。
新安保は、アメリカが一方的におしつけた旧安保の抜本的な改正で、内乱の鎮圧や第三国への軍事的便宜提供禁止などの内政干渉が削除されている。
だが、当時、新安保の内容にふれたメディアはなかった。
旧安保は、そもそも、日本に軍事力がなかった時代の条約で、治安も防衛もアメリカに依存する一方、日本防衛が明文化されていなかった。
新条約では、日本が他国から攻撃された場合、日本とアメリカが共同防衛にあたるほか、日本国内のアメリカ軍基地の利用には事前協議が必要となる。
新安保条約は、日本の安全保障と国際的パートナーシップをアメリカにもとめるもので、左翼がこれに反対したのは、ロシアや中国から革命を輸入しようという革命軍だったからで、もともと、反米・反日だったのである。
全学連の母体である共産主義者同盟(ブント)はマルクス・レーニン主義やプロレタリア国際主義、世界革命を掲げて、これが三派全学連(成島忠夫)やのちのよど号ハイジャック事件(田宮高麿ら)、日本赤軍(重信房子)、共産同赤軍派(塩見孝也)、連合赤軍(森恒夫)、12人の同志を殺害したあさま山荘事件(永田洋子)へつながってゆく。
70年安保が大きな騒動にならなかったのは学生運動が死んだからである。
日本共産党からブントが分裂したように、日本共産党から革命的共産主義者同盟(革共同)が分裂、さらに分裂して、革マル派と中核派がうまれた。
内ゲバで100人以上の死者をだした革マル派と中核派、三菱重工爆破事件の東アジア反日武装戦線に大衆動員の能力はなく、全共闘の東大安田講堂事件(山本義隆)も日大紛争(秋田明大)も政治的な波及効果はなかった。
全学連をふくめた極左が滅びたのは政権(政体)奪取を狙ったからである。
国家は、権力(政体)と文化(国体)の二元構造で、権力は一過性で交代をくり返すが、文化や文明は、歴史の永遠性と連続性に拠って立つ。
暴力で政体を脅かすことはできても、国体たる文化や文明はびくともしない。
のちにのべるように、60年安保騒動の際、自民党に利用された暴力団系の右翼(任侠や博徒、テキヤ団体)がすがたを消すのは、政治や権力に関与したからである。
ソ連崩壊後、反共という金看板を失ったが、本来、右翼は、国体護持が使命である。
頭山満の玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の3つの社則を掲げたが、政治には一言もふれていない。
頭山満は盟友の犬養毅(第29代内閣総理大臣)からなんども入閣の誘いをうけたが首を縦にふらなかった。
右翼は国体の防人で、政体の番兵ではない。
日米安保条約も、北方領土と同様、国体ではなく、政体の問題で、問われるのは、国益と国家の安全である。
日米安保体制が日米両国にとって有益だったのは、アメリカは、対ソ冷戦に勝利して、日本も、すべてを失った敗戦国から世界の6大強国へのしあがったことからも明らかである。
かつて、日英同盟は20年で破棄されて、日本は、ワシントン会議における四カ国条約に翻弄される。
そして、アジア・太平洋地域のワシントン体制とヨーロッパのヴェルサイユ体制が、やがて、日独を戦争へ駆り立ててゆく。
日米は、自由と民主主義を共有する同盟国だが、伝統国家と革命国家というちがいもあって、同盟の維持が、相互理解と利害の共有、双方の努力にあるのはいうまでもない。
国家は共に闘うことはあるが、運命は共にしない。(ド・ゴール フランス大統領)
国家は永続する友好関係もなければ永続なる敵もいない 。永久に存続するのは国益のみだ(ヘンリー パーマストン 英国首相)
けだし名言である。
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