神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
神津島に防災無線を設置したいというのである。
神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。
数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。
沖合の イカ釣り船の漁火が
明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり
新島闘争(その後)
昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
ところが、その約束がはたされていない。
新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
下で部長に逢ってくれ?
わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
大きな政治問題に発展する。
局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
いずれ、そのことにもふれることにしよう。
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