2020年05月25日

わが青春譜11

 ●連盟会長を継いでくれないか
 西山幸輝から、昭和維新連盟の会長をひきうけてもらえないかと相談をもちかけられた。
 昭和44年の春のことである。
 西山は、政治結社「昭和維新連盟」のほか、財団法人「日本政治文化研究所」や出版事業「日本及日本人社」などの文化的事業を手がけており、大学教授や評論家、作家ら多くの文化人が研究所や財団の理事や顧問を務めていた。
 昭和維新連盟は、反共と国体護持を旗印にする実践的な右翼団体である。
 昭和維新連盟が、学者や文化人がくわわっている「日本政治文化研究所」や「日本及日本人社」の関係団体というのでは、世間の通りがよくなかった。
 西山が、昭和維新連盟から距離をおこうとしたのは無理からぬことであった。
 西山がわたしに白羽の矢を立てたのは、新島闘争と安保闘争を体験してきた経歴をふまえてのことだったと思うが、わたしにも、反共・尊皇思想をきわめたいという気概があった。
 わたしは「日本政治文化研究所」の理事と「日本及日本人社」の役員を辞任して、いわば、身一つとなって、政治運動にのりだしてゆく。
 昭和維新連盟は、新宿大久保通りに面したビル(科研ビル)ワンフロアーを借りきって、そこへ本部を移して、活動を開始した。
 昭和維新連盟の活動については、いずれのべるが、ここでは、独自の活動を展開する異色の存在だったとだけ記しておく。
 この時点で、昭和維新連盟は、三浦義一が顧問をしていた全日本愛国者団体会議(全愛会議)から37年の独立した青年思想研究会(青思会)に加入していた。
 青思会は、児玉誉士夫の影響がつよく、児玉軍団といわれた。

 ●西山、児玉門下に馳せ参じる
 昭和46年4月10日、三浦義一が逝去する。
 三浦の葬儀を終えた数日後、西山幸輝から食事の誘いがあった。
 財団や雑誌社を退職して以来、久々の邂逅であった。
 その席で、わたしは、西山から、思いがけないことを聞かされる。
 三浦義一が、生前、じぶんが死んだ後、児玉誉士夫に相談しなさいといっていたというのである。
 わたしは、三浦義一門下であることを誇りに思っていた。
 昭和維新連盟をひきうけたのも、心のどこかに三浦義一の反共・尊皇思想があったからで、わたしの右翼思想の根幹に三浦がいたことを否定できない。
 西山も、わたし以上、三浦にたいして畏敬の念をもっているはずだった。
 その西山が「児玉門下となる」という。
「三浦義一亡き後、児玉誉士夫が、政財界に大きな影響力をもつことになるでしょう。しかし、児玉には、児玉軍団の青思会を率いる高橋議長ほか、多くの直参がいます。いまから、児玉門下に馳せ参じても、所詮、外様です」
 だが、西山の意思は固く、三浦義一門下をつらぬくべきというわたしの意見は容れられなかった。
 数日後、わたしは、上野の青思会本部に高橋議長を訪ね、脱会を申し入れた。
 その足で、同じ上野にあった全愛会議の本部を訪れ、萩島峯五郎議長と岸本力男事務長に脱退を告げた。
 萩島峯五郎議長とは気が合い、岸本力男事務長は、安保闘争・北海道遠征の戦友である。
 両者からつよく翻意を促されたが、わたしに枉げる気はなかった。
 以後、昭和維新連盟は、どこの組織にも属さない団体として、独自の運動を展開してゆくのはのべたとおりである。
 これら一連の行動は、わたしが独断でおこなったことで、西山は、関与していない。

 ●遠謀の策か、高等な処世術か
 その後、西山は、青思会の事務局に永井龍、全愛会議に吉村法俊を送りこんでいる。
 それが、西山の政治力で、わたしの独断専行で、多少、波風が立った関係を修復したばかりか、児玉の死後、直参の猛者をさしおいて、政財界に影響力をもつ最後の黒幕といわれる存在となった。
 昭和維新連盟時代のわたしが、硬派の力尽くなら、西山は柔軟な知恵尽くのひとで、長いものには巻かれても、ひと扱いや処世術の巧さからのし上がってゆく遠謀の策士であった。
 もともと参議院議員松本治一郎(社会党最高顧問)の秘書として上京、三浦の高弟、関山義人との縁から三浦門下になったひとで、思想的にはわたしよりはるかに柔軟なところがあって、現実的な対応力にもすぐれていた。
 わたしは、昭和49年に、右翼活動から引退して、評論や講演、執筆などの大衆啓蒙運動を開始したので、西山と、やや疎遠になった。
 仄聞するに、晩年の西山は児玉門下ではなく、三浦義一門下を名乗っていたという。
 児玉の軍門に下ったのは、やはり、遠謀の策か、高等な処世術だったようである。
 高杉晋作は倒幕の決意をこう詠んだ。

 西へ行く 人を慕いて 東行く
     わが心をば 神や知るらむ


 西山の心情が少し理解できるような気がする。
 だが、わたしは、頑なに、三浦にこだわった。
 尊王攘夷の志士、平野国臣は、桜島に向かってこう詠じた。

 わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば
     煙はうすし 桜島山


 わたしは、国臣の尊皇の心のはげしさにひかれるのである。




posted by office YM at 03:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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