2020年06月24日

 わが青春譜13

 ●反共運動前線を去る
 昭和40年代になって、左右の思想的対決に大きな変化が生じる。
 60年安保における左陣営の大衆動員や右翼団体から暴力団まで駆り立てた右陣営の反共戦線が鳴りをひそめて、政治的無風状態がうまれるのである。
 理由の1つは、左右対決の焦点となるべき日米安保条約が自動延長となったためで、左陣営は、日米安保反対を煽って、大衆を動員する争点を失った。
 左翼が沈静化すれば、右陣営も、反共戦線を立てる必要はなかった。
 もう1つの理由は、かつて、安保闘争の主役を演じた全学連が過激派へ変容したことで、学生運動は、国民から遊離した犯罪グループへ転落していった。
 一連の極左暴力事件やゲリラ的な70年安保闘争、学園闘争は警察力で十分に対応できた。
 70年安保で、反代々木系といわれた極左暴力集団は、右翼(反共団体)と衝突するまでもなく、結局、40年代末には自滅してゆく。
 全学連の分派活動の一つにすぎなかった学園の民主化闘争も収束する。
 生き残ったのは、議会主義と平和路線を唱えた日本共産党だけだった。
 天皇や憲法、自衛隊などの問題を棚上げして、革命政党としての正体を隠しているが、日本共産党は、民主主義革命と共産主義革命の「二段階革命論」を唱える革命政党で、いまもなお、破防法における調査対象団体の指定をうけている。
 といっても、日本で、革命がおこる可能性はなく、日本共産党は、反自民のもとに群れる野党勢力の一つにすぎないものになっている。
 戦後体制の残滓、極左暴力革命の危機を回避して、日本が、高度経済成長にむかったのが、所得倍増計画の池田勇人内閣(1960年)からで、池田からはじまる経済優先政策は、その後の佐藤栄作内閣を経て、田中角栄内閣の列島改造論で大きな山場を迎える。
 田中角栄の列島改造計画で日本中がわき立ち、マスコミは、角栄を今太閤ともちあげた。
 国民が目をむけたのは、日米安保や沖縄返還、日中国交回復などの政治課題より、経済問題で、そのなかで、池田勇人の所得倍増計画と並んで国民の心をとらえたのが、田中角栄の列島改造計画だった。
 列島改造景気によって、高速道路や新幹線、本州四国連絡橋、地方の工業化促進候補地が脚光を浴びることになったが、これらの地域で、投機家によって土地の買い占めがおこなわれて、1973年には、インフレや物価上昇などが社会問題化した。
 政府は「物価安定七項目」を打ち出すなど、生活関連物資などの買い占めや売り惜しみ対策を取ったが、インフレはいっこうに収まらず、家計をあずかる主婦はやりくりに悩まされた。
 そのさなかにおきたのが「狂乱物価」で、原因は、第四次中東戦争が発端になったオイルショックだった。
 この頃、むつ小川原開発選挙で行動を共にした忠岡とわたしが、流通革命というべき「動くスーパー」構想を立ち上げたのは、福田赳夫が命名したという「狂乱物価」に挑戦するためだった。
 現在なら、珍しくもない「産地直送」だが、当時は、まだ、流通機構が保守的で、狂乱物価という社会現象に正面からとりくむ機運もなかった。
 わたしは、40年から45年まで、一流の講師を招いて、講演会を主催する大衆啓蒙運動をおこない、45年からは、西山幸輝からひきうけた昭和維新で実践的な政治運動を展開してきた。
 わたしは、反共運動から身をひき、大衆に密着したソフトな社会運動へ方向転換するため、昭和維新連盟の会長を薗田新に譲って、港区赤坂に新たに事務所を構えた。
 昭和48年の初頭で、忠岡とともに流通機構改革運動にとりくもうというのである。


posted by office YM at 11:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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