列島改造景気によるインフレや地価上昇、オイルショックによる消費物価の高騰は、当時、狂乱物価といわれて、社会問題化しつつあった。
経済成長率が年平均10%をこえ、石炭から石油への転換(エネルギー革命)や石油化学コンビナートなど大型化、合成繊維やプラスチック、家庭電器など各種の技術革新やモータリゼーション、スーパーマーケットなどの流通革命もすすんだ。
経済成長はゆたかな国民生活をもたらしたが、一方、物価上昇や大都市圏の過密と農村などの過疎、そして、公害などの負の遺産もうんだ。
忠岡とわたしがめざしたのは、旧態依然たる流通機構の改革で、生鮮三品を中心とした産地直売だった。
冷蔵車による移動販売だったところから「動くスーパー」と名乗った。
いまでは、別段、珍しいことではないが、昭和40年代には、まだ、前例のない目新しい発想であった。
日産自動車と冷蔵販売車の委託契約をおこない、取引銀行を大和銀行ときめて、始動体制を整えた。
昭和48年10月1日に制定された大規模小売店舗法によって町の商店街に大型スーパーの出店がはじまった。
これらのスーパーにも、一部、野菜などの産直を目玉とするところもあったが、流通経路の簡素化までには至らず、狂乱物価の沈静に大きな役割は果たすことはできなかった。
戦後、再建された生協(CO・OP)も、消費者が組合員に共済事業であるが、産直などにつながる大きな動きはなかった。
●酒は値切って買う?
明治以降、日本の国税の主たる対象は、塩・酒・タバコである。
塩やタバコは、かつて、専売公社が元締めで、公定価格だった。
酒税も、国家の重要な税収の一つで、国税庁から「酒類の販売事業免許」の許可をとらなければ、販売することはできない。
わたしと忠岡は、蔵出しの時点で課税される酒が、流通過程では自由価格であることに着目した。
現在、酒の販売は、完全自由化されてコンビニでも買える。
だが、40年代は、酒類の販売業免許はきびしく、販売免許はかんたんには下りなかった。
そこで、免許をもっている知り合いの酒屋を口説いて、出張販売であつかう酒を卸してもらうことにした。
そして、自由価格で販売して、このとき、「酒は値切って買いなさい」というキャッチフレーズを謳った。
狙いは、消費者に「流通を簡素化すれば物価が下がる」という認識をもってもらうためだった。
仕入れた酒(日本酒のみ)をライトバンに積んで「物価高に挑戦!」という旗を立てて、わたしたちは、団地に乗りこみ、日本酒の安売りを開始した。
酒は公定価格と思っている主婦の多くは、酒屋で酒を値切るなど思いもよらなかった。
売り口上で、蔵出し酒税の仕組みを教え、日本酒が自由価格で買えることをつたえ、「今晩は二級酒の値段で、旦那に一級酒を飲ませてあげてください」とうったえると、ライトバンに満載してきた酒がたちまち売り切れた。
あるとき、団地で、日本酒を安売りしていると、国税庁の役人があらわれた。
「免許はあるのか」と聞く。
わたしは、友人の酒屋の免許で、出張販売をやっていると応えた。
国税庁の役人は、出張販売にも許可が必要というが、申請しても許可がでるはずはなかった。
押し問答しているうち、集まっていた主婦が役人に「帰れコール」を浴びせはじめた。
どうやら潮時で、これ以上役人に逆らえば、友人の酒屋に迷惑がおよぶ。
わたしたちは、ライトバンの出店をたたんで、団地から引き上げた。
酒税は、国家の三大税源の一つで、役所によって完全に保護されている。
翌日、事務所にやってきた酒屋の友人が、国税事務所から、きついお叱りを受けたとこぼした。
「免許取り上げられると店が潰れてしまうよ」と青息吐息である。
わたしは、国税庁に顔の利く代議士に頼み、始末書を提出して事なきをえた。
挑戦は挫折したが、物価高への抵抗運動については、十分に手応えがあった。
旧い流通体制を改革することは簡単なことではない。
因習やなれあいに利権構造が複雑にからんで、排除には相当の抵抗がある。
必要なのは、意識改革で、消費者が立ち上がらなければなにも変わらない。
続いて、肉の流通に挑戦した。東北で購入した牛を解体処理後、流通経路を省略して、店頭販売する計画だった。
ところが、埼玉でも東京でも、解体処理場が仕事をうけてくれない。
同和と称する者から、事務所に「われわれの商売を潰す気か」と脅迫電話が入るなど、嫌がらせもあった。
肉の流通は閉鎖的な体質で、これが、改善されたのは、自由化などの流れにそって、消費者が立ち上がったからである。
現在は、国内の流通機構も改革され、外国産の牛・豚・鶏が安く輸入されるようになって、市場は、当時では、想像もできないほど開放的になっている。
●動くスーパーが不渡り
酒や肉の流通に取り組んでいた動くスーパー社に大きな災難が降りかかってきた。
不注意から手形の不渡り事故をおこしてしまったのである。
「動くスーパー社」は日産自動車と冷蔵販売車の改造契約を結んでいた。
車両数は、業務の拡張に合わせて、今後、数十台にもなる予定だった。
不渡り事故というのは、日産自動車に渡してあった手形の決済期日に当座の預金残高が不足していたのである。
忠岡は、普通預金に残高があるので安心していたというが、当座は不足していた。
このようなケースでは、担当者が連絡をとって、普通口座から当座への資金移動を指導する。
普通口座から当座預金に資金を振り替えればそれで済む話だからである。
ところが、取引銀行の大和銀行本店は、忠岡に電話さえよこさなかった。
そして、銀行に責任はないという一点張りである。
銀行は、大蔵省の管轄下にあって「動くスーパー社」は、流通機構改革運動で国税庁に喧嘩を売り、肉その他の流通機構改革における法規の解釈や手続きで、役所としばしば悶着をおこしている。
「動くスーパー社」は、権力にとって、目の上のこぶだったのである。
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