2020年06月29日

わが青春譜15

 ●山本峯章後援会「山峯会」発足
 冷蔵販売車を団地に展開する「動くスーパー」で狂乱物価≠ノ挑んできたわたしは、流通機構の改革によって、物価を下げられることを知った。
 物価は、国民にとって、生活に直結する切実な問題であった。
 北方領土も日米安保も、国家にとって、大事な政治的テーマである。
 同様に、物価も、国民にとって、重要な政治的テーマで、池田勇人の「所得倍増計画」は、国民に熱狂的に迎えられた。
 所得がふえるのと、物価が下がるのでは、結局、同じことである。
 わたしは、物価を下げる運動が、国政の争点になるとふんで、政治の世界に打って出るハラをきめた。
 昭和49年の春、わたしは、大田区蒲田に山本峯章後援会山峯会の事務所を設立した。
 目的は、国会議員選挙の立候補で、初回で次点にこぎつけ、二回目で当選という青写真を描いて、活動を開始した。
 わたしの後援会(山峯会)の初代会長には、直木賞作家にして参議院議員の今東光が就いてくれた。
 今先生は、中尊寺貫主として、国宝金色堂を再建した僧正としても知られていた。
 この頃(昭和40〜50年代)、衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で複数の議員が選出された。
 わたしが選挙事務所を構えた大田区は、東京二区で、大田区と品川区のほかわたしがうまれた三宅島の伊豆七島と小笠原諸島をかかえた日本一広い選挙区である。
 定数は5人で、ここで自民2、公明1、残りの2議席を民社、社会、共産が議席を分け合い、あるいは、争っていた。
 わたしが大田区に事務所を構えた昭和49年当時、自民党議員は、それまで常連だった菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけであった。
 自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしは、品川区に自宅を移して、品川区を中心に、後援会の組織づくりに精をだした。
 友人や知人のコネを頼りに、品川・大田両区を回ると「菊池先生の御子息が出馬しないのなら応援してもよい」という声が少なくなかった。
 菊池先生というのは、23年間、東京二区で議席を確保してきた菊池義郎前議員のことで、1972年の第33回衆議院選挙で苦杯をなめていた。
 賀屋興宣の後継者として、参議院から鞍替えして、東京三区から出馬すると噂されていた石原慎太郎が、突然、東京二区から出馬しためであった。
 菊池義郎は、引退を表明したが、後援者のあいだで、子息が後を継ぐという噂が流れていた。
 菊池義郎を支えてきたのは「白菊会」という後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 白菊会のメンバーの多くは主婦で、だれもが、気さくで人情家の菊池夫人を慕い、夫人の手料理、芋の煮っころがしのもてなしをうけたひとたちも少なくなかった。
 わたしの生まれは三宅島で、父母から親戚にいたるまで、八丈島出身の菊池義郎の支持者でもあった。
 当時、わたしは、自由民主党品川支部青年部長と東京都連合会(都連)青年部の中央執行委員という役職をえていた。
 都連青年部の部長は、保坂三蔵都議(のち参議院議員)で、一定の影響力をもっていたが、東京二区は広く、新人のわたしが、都連青年部の肩書きだけで当選圏内にのしあがってゆくのは容易なことではなかった。
 わたしは、白菊会のキーマンといわれた稲見秘書を訪ね、菊池夫人、そして菊池義郎先生との面談に漕ぎつけて、単刀直入に、協力を頼みこんだ。
 菊池義郎は、政界でも指折りの一本気な性格で、戦時中、時局講演会で中国大陸からの即時撤退を主張して憲兵隊に拘引され、日大教員の職を棒にふった経験をもつ猛者で、反共主義の一言居士としても知られていた。
 菊池義郎は、わたしの申し入れを快諾して、後継者指名と「白菊会」の応援をひきうけてくれた。
 わたしは、いまでも、菊池義郎先生と夫人の恩を深く胸に刻みこんでいる。

 ●パロディ狂乱物価葬儀 テレビ放映”
 昭和49年10月24日、東京大田区の池上本門寺境内で、インフレによる高物価に挑戦と謳って「物価葬儀」なるイベントを挙行した。
 祭壇の上に棺桶を置き、池上本門寺の僧侶による読経にあわせて、参加者が大根や茄子、カボチャなどの野菜を棺桶に放りこみ、高物価に決別を告げるという趣向で、白菊会の会員が中心に、エプロン姿の主婦1500人以上が参加した。
 模擬葬儀のあと、産直野菜の大安売りをおこなうこのイベントは、マスコミからも注目された。
 ▼読売新聞(夕刊)は、写真2枚付きの報道で、見出しにこうある。「本物の棺桶に大根やキャベツ、人参などをどっさりつめて/生鮮食品狂乱物価葬儀/本日急逝いたしました」「式の後は産地直送の野菜十数トン/主婦ら約1500人」(昭和49年10月24日)
 ▼東京新聞は「ストップザ狂乱物価/生鮮食品葬儀」というタイトルに記事がこうつづく。「東京大田区の池上本門寺境内で同日午前9時半から狂乱物価の告別式と青森農協とのタイアップによる産地直送野菜の安売りがおこなわれた。
 境内に設けられた祭壇には棺桶や「狂乱物価」と戒名が書かれた位牌、「貧困者一同」から贈られた花輪などが並べられ、賛同者として「傍観者代表―橋本自民党幹事長、なにもできないしない代表―美濃部東京都知事、評論家として各党幹事長の名前が貼りだされていた」(10月24日)
 ▼週刊大衆は「狂乱物価葬儀/安いことはいいことだ」という見出しに写真2ページをもちいて「おちゃらかしの葬儀は、物価問題に無策の政府・野党をひっくるめてからかおうという挑戦的な内容」(11月14日号)と評価した。
 そのほか、いくつかのメディアが好意的に報じてくれたため、池上本門寺を舞台にした狂乱物価阻止♂^動は、一応の成功をおさめることができた。

 ●フジテレビ「三時のあなた」にゲスト出演
 狂乱物価に無策な政府の無策を批判した池上本門寺の狂乱物価葬儀は、フジテレビ「三時のあなた(司会/扇千景)でもとりあげられた。
 同番組にゲスト出演したわたしと小渕恵三(のち総理大臣)は、狂乱物価の原因となっている産業構造や流通機構について、意見を交し合ったが、小渕とわたしは、のちに、田中角栄の政策研究会「新総合政策研究会」で一緒に学ぶこととなる。
 別項でのべるが、三宅島の「官民共用空港問題」でともにうごいた山下元利(防衛庁長官)もこの研究会で出会い、意気投合した仲である。
 2人とも故人になって、久しいが、このお2人ばかりか、かつで、自民党を築きあげた功労者で、存命されている方たちは、年々、少なくなってゆく。

 ●「山本さん 最近の右翼はどうかね」と田原総一朗
 右翼活動家の前歴を捨て、国会議員候補あるいは政治評論家としての活動を本格化させはじめたわたしにとって、右翼という呼称は、ありがたいものではなかった。
 右翼活動を否定するものではないが、国政選挙や社会運動、テレビ出演には決定的に不利にはたらく。
 世間は、不正が目に余ると、右翼はなにをやっているのかと待望論をのべるが、右翼を善良で小市民的な国民と同列に見ているわけではなかった。
 むしろ、国民にとって、牙や毒のある存在で、だからこそ、右翼には、存在価値があるともいえるのである。
 わたしは、のちに、川崎敬三の「アフタヌーンショー」など多くのテレビやラジオの番組に出演させてもらうことになるが、田原総一朗が司会する「サンデープロジェクト」にも、ゲストとして、10回以上、呼ばれている。
 番組が終了すると、テレビ朝日の近くの全日空ホテルで、出演したゲストやスタッフが食事をしながら雑談する。
 反省会と慰労会を兼ねたような集まりで、スタジオとはちがってなごやかな雰囲気である。
 とつぜん、田原が、テーブル越しに、大声でわたしに声をかけてきた。
「山本さん 最近の右翼はどうかね」
 まるで、景気の動向でもたずねる調子で、これでは、返答のしようがない。
 右翼をまともにとりあげるなら、議題に掲げて、左右から大論陣を張るべきテーマで、食堂の片隅で、もののついでにもちだしてくる問題ではない。
 勘が鋭いジャーナリストの田原がそんなことに気づかないわけはなかった。
 周囲には、番組スタッフや他の出演者がいて、田原に注意をむけている。
 田原のことばから周囲につたわったのは、山本峯章が右翼の関係者であるということだけで、おそらく、田原の意図もそこにあったのだろう。
「田原さん、右翼動向が知りたければ、あなたの友人の野村秋介さんに聞いてはいかがか。最近の右翼のことなど、わたしが知るわけがない」

 ●小渕恵三と「金丸事件」
 このとき、わたしの隣に座っていた小渕恵三が、気まずい雰囲気を察したのか、他に用件があったためか、「出ましょう」とわたしをうながした。
 小渕とわたしは、同じ全日空ホテルの喫茶店に入った。
 小渕がわたしを喫茶店に誘ったのは、当時、小渕は、自民党をめぐる大きな問題に頭を悩ませていたからだった。
 金丸信副総裁が東京佐川急便から5億円のヤミ献金をうけていたとされる「金丸問題」であった。
 竹下派内では、裁判で徹底抗戦を主張する小沢一郎と、略式起訴での決着を主張する梶山静六が対立して、派閥分裂に危機に瀕していた。
 小渕の相談は、マスコミ対策で、金丸と一心同体の竹下派も、明確な方針が立っているわけではなかった。
「マスコミにはノーコメントでおしきるべきです。なにかいえば、誤解や曲解をまねき、あるいは、真意をねじまげられて、口は災いの元ということになりかねません」
 金丸事件は、上申書提出と20万円の罰金刑ですんだが、小沢一郎が自民党から去って、1955年の保守合同以後、38年におよんだ自民党の長期単独政権に終止符が打たれることになった。
 小渕恵三内閣(第一次)は、細川護煕から羽田孜、村山富市、橋本龍太郎とつづいてきた保革連立から脱した5年ぶりの自民単独政権だったが、総理大臣在任中、小渕恵三は、この世を去った。
 小渕は、総理大臣のとき、わたしが談合事件の黒幕と朝日新聞に誤報された折、共通の知人をとおして「心配している」というあたたかいことばをつたえてくれた。
 総理大臣の役も終えたらゆっくり会うことができるだろうと期待していたのだが、それもかなわぬ夢となった。

 いつの日か またあいみむと 契りたる
     君の訃報の 聞くは侘しき


posted by office YM at 03:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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