国政選挙の準備中、わたしの秘書である押切が石原慎太郎の秘書、浜渦武生らから暴行をうける事件がおきた。
昭和49年10月25日の夕刻、わたしは、赤坂の事務所で「日本食糧自給連盟(会長赤城宗徳/防衛庁長官・農林大臣)の会議を開いていた。
食料自給率は、わたしの物価政策の目玉で、この日の会議には、城西大学の岩井主税教授や評論家の広瀬らいつものメンバーが顔を揃えていた。(この件については別項でのべる)
そこへ、顔面から血を流した秘書の押切がはいってきた。
聞くと「石原の秘書、浜渦とキックボクサーから暴行をうけた」という。
わたしは岩井教授から紹介された赤坂の前田外科病院へ押切をむかわせた。
診断書の結果は「左顔面、前胸部、左大腿部打撲 全治二週間」であった。
浜渦らが押切を襲った理由は、むろん、衆院選挙がらみで、私怨であった。
10数年、賀屋興宣衆院議員(東京三区)の秘書をやっていた押切は、参院から衆院へのりかえた石原慎太郎が、賀屋の地盤をひきついで三区から立候補する姿勢をみせたため、賀屋に指示にしたがって、石原の秘書についた。
役割は、選挙参謀だったが、石原の心変わりで、選挙区が、急きょ、二区に変更されたため、石原の秘書を辞した。
そして、東京二区で石原慎太郎の対抗馬になったわたしの秘書になった。
これを、慎太郎に心酔する浜渦が裏切りとみて、先の襲撃事件となったのである。
押切はインタビュー(内外タイムズ)にこう応えている。
「狂乱物価¢゙治を謳ってテレビで話題になっているばかりか、東京二区で長年議席をまもってきた菊池義郎衆院議員の地盤をひきつぎ、来春の統一選挙に立候補する山本氏を有望と見て、みずから、選挙参謀を買ってでた」
週刊大衆(昭和49年11月14日号)にこうある。
「(暴行事件)のウラには、押切が秘書についた山本峯章が、石原慎太郎の東京二区から出馬する大型新人という事実が隠されている」「次回の衆院選で、石原は、前回のように、2位に大量差をつけてトップ当選というわけにはいかないだろう」
第34回衆院選挙東京二区の下馬評で、わたしには、大型新人という形容詞がついていたのである。
●暴行事件の全容と経緯
押切は事件についてこうのべている。(週刊大衆11月14日号)
「10月24日午後6時頃、石原さんがコミッショナーをしているキックボクシング協会のS(清水)から、協会の事務所に来てくれという電話がかかってきました。話なら電話ですませたいと申し入れると、来られないのならオレが行くという話になって、結局、25日の午後、ニューオータニのロビーにあるコーヒーショップで会う約束をしました。当日 事務所(山本峯章)の青年と二人で行くと、清水は「二人で話したいから席を外してくれ」と連れの青年を追い返しました。そこへ浜渦があらわれると、清水は、静かな場所で話そうとエレベーターホールむかいました」
事件はその直後におきた。
3人がエレベーターに乗ったとたん、清水が腹部に二発、そのあと、右から浜鍋、左から清水が顔、左脇に拳を撃ちこんできたのである。
清水はキックボクサー出身で、浜鍋も、学生時代(関西大学)、空手をやっており、この2人の暴力は、素手でも凶器とみなされる。
エレベーターが地下三階の駐車場につくと、押切は、通路で、二人からまた2、3発殴られた。
膝から崩れ落ちた押切にむかって、清水と浜渦は事務所まで来いという。
押切が行く必要はないとつっぱねると、浜鍋は、道義的にゆるせないということばを残して、車で去っていった。
この事件の原因と経緯について押切は次のように語っている。
「石原議員の秘書になって、他の秘書やとりまきによる誹謗中傷に悩まされることになりましたが、そのなかに、石原が顧問をつとめる団体(10以上)の顧問料をわたしがネコババしているというものもありました。
この件は、石原とわたしが直接話しあって、誤解は解けましたが、秘書らの邪推やいやがらせ、告げ口がやまないので、イヤ気がさして、公示一か月前に辞めさせてもらいました。
もともと、東京三区で、賀屋議員の地盤をひきつぐ前提で、賀屋の秘書から石原の秘書になった経緯があって、辞職にためらいはありませんでした。
ところが、石原は『秘書を何人もクビにしてきたが、秘書から首をきられるのは初めてだ』と怒ったそうです」
●被害届けを受理しない赤坂署
押切秘書が赤坂署に被害届を提出する一方、わたしは、赤坂署にこの事件の厳重な取り調べを依頼した。
押切は、赤坂署に「この種の傷害事件では、犯人はとっくに逮捕されているはず。犯人未逮捕どころか、事件の捜査がすすんでいないのはなぜですか」と詰め寄ったが、担当の係官は「ほかの事件で忙しくすすまない」「先方は現職議員が関係しているので」「上層部からの命令で」などと言を左右にして埒が明かない。
「共犯の清水はいつ呼ぶのですか」と聞いてもさっぱり要領をえない。
事件への石原の関与について、内外タイムスは、わたしのコメントを載せている。
「この事件に石原先生が関与しているはずはない。石原さんはなにも知らないのでしょう」
だが、わたしに、事件の幕を引く気はさらさらなかった。
●今東光和尚も仲裁を断った
昭和49年11月2日の内外タイムス紙の大見出しに「今東光和尚も仲裁を断った」とある。
今東光はわたしの後援会会長である。
週刊大衆に今東光の秘書、茎沢久孝の話が載っている。
「石原議員が、深夜、今東光先生に電話をかけてきたのは、山本峯章後援会の会長だったからで、電話の内容は、とりなしの依頼でした。穏便によろしくというものでしたが、今先生は耳を貸さなかった。すると、翌日、今度は第三者が、2人(浜鍋と清水)に詫び状を書かせるからとやってきましたが、これも断りました」
●住吉連合小林楠扶会長からの電話
そんな折、一本の電話が事務所に入った。
住吉連合小林会小林楠扶会長からである。
小林楠扶は、住吉連合という日本最大級の任侠組織の会長で、日本青年社という右翼団体を主宰していた。
日本青年社が、尖閣諸島上陸決死隊を結成して魚釣島に上陸、点滅式灯台を建設するのは、それから、4年後の昭和53年8月のことである。
小林は開口一番、「石原の問題から手を引いてくれないか」という。
「暴力をふるわれて怪我をした秘書が告訴して白黒をつけたいといっているので、秘書の意思を尊重したいと答えると、小林はしばらく沈黙したあと、こう念を押した。
「等々力がいってきても聞かないつもりか」
等々力とは右翼の大物、児玉誉志夫のことで、児玉は、世田谷区の等々力に居を構えている。
小林の仲裁を断って、等々力の仲裁にのったら、小林の顔がつぶれる。
やくざの世界では、相手の面子をつぶせば、血の雨が降ることになる。
「だれがいってこようとダメです。これは、わたしではなく、暴力事件の被害者であるわたしの秘書がきめることです」
小林は、低い声で「わかった」といって、電話を切った。
●多摩川に沈めてしまうつもり?
石原慎太郎の後援会の幹部である漆島秀幸から抗議の電話が入った。
「あなたはヤクザを使って、石原先生の秘書を痛めつけたと聞く。けしからんではないか」
話がまったく逆で、あきれたが、そのあたりの事情を当時の内外タイムスがこう報じている。
「事実関係が逆であることを知った漆島は、石原の秘書内藤秀喜を自宅に呼びつけて、説明をもとめた。この席には、山本峯章後援会の古川亘明と塩満一が同席したが、内藤は二人の素性を知らない。
このとき、内藤秘書はぬけぬけとこう言って、漆島の叱責をうけている。
「浜渦が個人的に気に入らないのでやったのでしょうが、押切は、殴られても仕方のないやつなのです。多摩川に沈めるという話もでたほどで」
石原に心酔するのは結構だが、多摩川に沈めるというのでは狂気である。
スター性のある石原慎太郎には、狂信的なとりまきや支援者がでてくる。
第37回衆院選挙(昭和58年)の選挙活動中に、石原慎太郎の公設秘書が対立候補だった新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」というシールを貼る選挙違反がおこして、新井は落選した。
この事件は、公職選挙法違反事件として、公設秘書の栗原俊記が逮捕されたにもかかわらず、石原自身に捜査がおよぶことはなかった。
なお、新井は、同じ選挙区で、第38回衆院選挙に出馬し当選している。
平成10年、新井将敬は、日興証券利益供与事件への関与が疑われて、逮捕許諾決議の直後、無実を主張したのち、ホテルパシフィック東京で自殺した。
偶然だが、新井将敬を囲む中小企業や、上場をめざす「IT企業」の集団がいまも健在で、多くが上場をはたしている。
このグループの中心的人物とは、いまも親交があって、年に数回、相談事をもって訪ねてこられる。
●浜渦副知事就任に「待った」
押切の暴行事件は、結局、告訴状が受理されず、浜鍋秘書も暴行犯の清水も不問となった。
警察が石原の政治力を忖度した結果であろう。
だが、この暴力事件が、後日、石原慎太郎東京都知事が推挙した浜鍋副知事の就任に「待った」をかけることになる。
1995年に議員辞職した石原慎太郎は、4年後の1999年、東京都知事に当選。以来、4期14年の長期政権を築きあげるが、その背後にいて、石原をささえてきたのが、浜鍋副知事だった、
浜鍋の副知事就任に、最初に、異を唱えたのが自民党都議会だった。
秘書を副知事という公職へ横滑りさせることへの違和感にくわえて、強面の浜渦にたいする抵抗もあった。
わたしは、押切にたいする浜渦の暴力事件を報じた内外タイムスを東京都議会(自民党)に提供すると、内外タイムスも、浜鍋の副知事就任への疑問符を続報としてつたえた。
一年後、後に衆院へ転出するM都議が訪ねてきた。
「先生、もういいですか」
浜渦の副知事就任について、わたしに意見をはさむ資格などない。
だが、このとき、一言、M都議にこうつたえた。
「石原の用心棒みたいな男なので、事件をおこさなければよいがね」
案の定、浜渦は、その数か月後、目黒駅の近くでタクシーの運転手に暴力をふるって、警察沙汰の騒ぎをおこした。
だが、不起訴になって、事件は、やがて、忘れられた。
不起訴になったのは、警察(警視庁)の予算は東京都の「警務消防委員会」が握っているからである。
権力は、政治や行政と癒着しながら勢力を拡大させてゆくのである。
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