菊池義郎先生が、自民党都連本部にみずから足を運んで「山本君を後継指名から外す」とつたえたのは、新聞記事を真にうけたからだった。
わたしがその事実を知ったのも、新聞報道からだったが、「時すでに遅し」で事態は最悪の方向へとむかっていた。
領収書を偽造した小杉らが逮捕されて、わたしが事件に無関係だったばかりか、被害者だったことが明らかになったが、新聞がわたしを共犯者であるかのように報じたあとでは、もはや、手の打ちようがなかった。
新聞記者が、戸川猪佐武の不用意な発言をとらえて「公認ほしさ」と書いたが、これは、歪曲をこえたねつ造で、名誉毀損罪という犯罪行為にあたる。
名誉や社会的信用は、築きあげるまでに長い時間がかかるが、毀損するにはわずか一晩で事足りる。
わたしは、この一件で、国会議員への階段からまっさかさまにころげ落ちるのである。
逮捕後、小杉がニセ弁護士とわかったが、わたしは、気がつかなかった。
小杉の事務所には「小杉法律事務所」という表札がかかり、ドアには名義を借りてきた2人の弁護士の氏名が書かれていた。
弁護士事務所なら弁護士法違反になるが、法律事務所なら、弁護士の資格がなくても開業、登録ができる。
小杉は、なぜ、わたしに接近して、謀略をかけたのか、いまだにわからない。
いずれにしても、わたしは、まともにそのとばっちりをうけて、政治生命を断たれるのである。
わたしの後援会「山峯会」は、できたばかりの組織で、会員数も集票能力も菊池先生の「白菊会」に遠くおよばなかった。
当時、新聞が、戸川談として、わたしが自民党の公認を欲しがっているかのようにつたえたが、これは、事実に反する。
わたしは、この頃、自由民主党の品川支部青年部長のほか、都連青年部中央執行委員をつとめていて、都連青年部の部長が、保坂三蔵都議会議員(のちに参議員)であった。
その保坂に『青年部の推薦くらいは下さい』と軽口を叩いたことはあるものの本気ではなかった。
●政治の激動と反共運動
わたしが反共運動をはじめたのは、学生時代で、昭和30年代である。
当時は、左右陣営や保革・労使がきびしく対立する政治の激動期であった。
右翼活動が活発化した背景にあったのは、昭和26年の「五全協」で、日本共産党が暴力革命=武装闘争路線をとったからで、山村工作隊や地下トラック部隊、火炎ビン闘争などによって、日本は、革命前夜の緊張につつまれた。
昭和30年の「六全協」で、日本共産党は、軍事主義から議会主義へ路線を変更したが、これに反発した反代々木系から革共同(核マル・中核)や共産同(ブント)、革労協や連合赤軍などの過激派がうまれる。
70年安保以降、過激派は内ゲバで自滅してゆくが、その一方、大学教壇や日教組などの教育界や学会、法曹界や官界、マスコミの左傾化がすすみ、日本総左翼化の対抗軸となったのが右翼勢力であった。
●最大の理解者だった菊池義郎先生
新島闘争(34年)や安保闘争(35年)で、先頭に立ってたたかってきたわたしの政治信条は、尊皇と反共で、その意味でも、自民党きっての反共主義者として知られる菊池先生はかけがえのないわたしの理解者であった。
しかも「白菊会」という強力な後援会をつけていただいた。
菊池先生との邂逅は、政治家をめざすわたしにとって、これ以上、望むべくもない天恵というべきものであった。
といっても、わたしは、次回選挙で、一足飛びに当選と考えていたわけではなかった。
白菊会の後援を得られれば、次点争いに食い込める。その実績を土台にして地道な活動をつづけてゆけば、かならず、先が見えてくるはずである。
三段跳びを引き合いにすると、次の選挙はホップで、そのあとのステップやジャンプで飛躍が望めるのだ。
わたしの選挙区、東京二区は、各党の幹部級の議員が議席を争ってきた。
それまで、自民党は二議席を確保していたが、宇都宮議員が無所属となったため、石原議員一議席だけとなった。
菊池先生が落選(次点)した選挙で、宇都宮議員は自民党を離党、無所属で当選したが、両先生とも明治生まれのご高齢で、後継者が取り沙汰された。
当時、都連の会長は、宇都宮の盟友だった鯨岡兵輔衆議院議員であった。
二人とも自民党左派で、かれら左派が、自民党が保守党へ脱皮できない最大の抵抗因子なのは、昔も今もかわらない。
昭和51年頃、箱根山で、自民党都連の勉強会が開かれた折、挨拶に立った鯨岡都連会長が、自民党を批判して無所属へ転じた宇都宮議員を擁護する論をくりだしはじめた。
わたしは、立ち上がって「たとえ、個人的な同志であろうと、自民党を批判して離れていった人物を擁護するのはおかしい」と大先輩の鯨岡議員に異義を申し立てた。
このとき、とんできてわたしの発言を制し、場を取りなしたのは保坂議員であった。
筋がとおらないこと、はなはだしいが、昔も今も、その体質はかわっていない。
●偽造事件「小杉の動機は謎のまま」
わたしの選挙は、事実上、菊池義郎の後任選挙で、菊池の後援会「白菊会」も山本支援に総力をあげると意気が高かった。
ところが、新聞の誤報によって、菊池先生は、後継指名を取り消してしまう。
「白菊会」も腰折れとなって、これでは、とうてい、選挙にならない。
わたしは、信頼していた参議院議員長谷川仁先生に相談した。
相談というより、撤退の報告のつもりだったのだが、長谷川先生は、意外なことを口にされた。
「いまここで逃げたら新聞報道をみとめることにならないか」
わたしの後援会「山峯会」だけでたたかえる選挙ではなかったが、負け戦でも、敵前逃亡よりはるかにましである。
打って出た選挙は惨敗で、次点にも遠くおよばず、家や蓄えも失った。
だが、わたしは、すべてをあきらめたわけでは、むろん、なかった。
わたしは、政治家のみちを捨てて、あらたな国家運動を模索する。
その一つが、次項にしめす「北方領土問題の新提言」である。
それはさておき、小杉なる人物が、いかなる動機からわたし近づき、なんの目的で罠を仕掛けたのか知りたいと思ったが、小杉は、警察に拘留されていたため会うことはできなかった。
友人の大泉一紀(元読売新聞記者)が公判を傍聴したが、動機に関する小杉の証言は、終始、あいまいで、内容をつかみきれなかったという。
それでも、偽造をみとめて、有罪判決をうけた。
あのとき、小杉を突き放しておけば、わたしは、ちがった人生を歩んでいたはずである。
ときどき、そういう思いが胸をよぎるのである。
すぎし日の 師の恩いまも ありがたき
吾は忘れず 朽ち果てるとも
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