小杉なるニセ弁護士から仕掛けられた「領収書偽造事件」によってわたしは国会議員へのみちを断たれた。
小杉が、わたしの事務所に、右翼の児玉誉士夫から中曽根代議士が3億円をうけとったとするニセ領収書をもちこんだのが事件の発端だったが、領収書を偽造したのは小杉で、わたしは事件となんのかかわりもなかった。
ところが、新聞は、わたしが共犯者であるかのように書き、友人でもあった戸川猪佐武(評論家)が「自民党公認ほしさ」などと事件との関連を匂わせる発言をしたため、次期衆議院選の大物候補といわれたわたしへの信頼や支持はたちまち失墜した。
「千載一遇(千年にいちどのよい機会)」が「好事魔多し(よいことには邪魔が入りやすい)」にしてやられたわけだが、もとの原因は、わたしの油断にあったわけで、代議士のみちはあきらめるしかなかった。
当時、わたしは、40歳で「食糧自給連盟」のほか、10以上の団体役員をつとめていたが、選挙から離れて、いちばん最初にとりくんだのが、北方領土問題だった。
当時、北方領土返還運動は、民族派や右翼団体らがデモ行動をくりひろげていたが、徒党を組んで、コブシをふりあげ、大声をあげるだけでなんの効果もあがっていないことはだれの目からも明らかだった。
わたしは、のちに「島は還らない」(思想評論社)を著して、北方領土問題の論点を2つ挙げて、ソ連と膝詰め談判をすべきと論じるが、2つの論点というのが――
@アメリカが、戦後、ソ連へ譲渡したクリルアイランズ18島(千島列島)に北方四島はふくまれない
A日本降伏後にソ連が奪った北方4島占領は一方的侵略で戦利にあたらない
であった。
●「マッカーサー命令」のクリルアイランズ
満洲と北緯38度以北の朝鮮、樺太及び千島諸島のソ連への帰属をもとめる「一般命令第一号(米国陸軍中将R・K・サザーランド)」のもととなったのがマッカーサー命令第一号だった。
そこに「ソ連はクリルアイランズとサハリン(樺太)に進駐すべし」とある。
ソ連軍は、マッカーサー命令にもとづき、日本がポツダム宣言をうけいれた8月15日から3日後の8月18日、北千島の占守島に総攻撃をかけている。
そして、中千島の得撫島まで南進して、突如、軍事行動をやめて連合国軍の動向をうかがう。
なぜなら、得撫島の南に位置する択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島の北方4島はクリルアイランズに属さない日本固有の領土だからである。
アメリカがソ連に領有を密約したクリルアイランズに北方領土4島は入っていない。
択捉島以南の4島が日本領と定められたのは1854年の「日露和親条約」で、クリルアイランズ18島が日本領となったのは、1875年の「樺太千島交換条約によってである。
ソ連が、かつて、いちども、ソ連領になったことがない北方領土を侵略するのは、日本が、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において降伏文書に調印した翌日の9月3日である。
ソ連は、第二次世界大戦の戦勝記念日を9月3日にとりおこなう。
日本が降伏文書に署名した9月2日にすると、9月3日の北方4島の侵略が平時の軍事行動ということになって、戦利という大義名分がなりたたなくなるからである。
北方領土問題の核心は「マッカーサー命令」でいうクリルアイランズに北方領土がふくまれるか否か、そして、終戦後におこなわれた北方4島の侵略および占有に正当性があるか否かに絞ることができる。
●法的根拠をもたないロシアの北方領土占領
ソ連が、北方領土占領の根拠とする「ヤルタ秘密協定」は、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約だったとして、アメリカ政府はこれを認めていないが、3巨頭の一人として署名したチャーチルも、ルーズベルトとスターリンに騙されたとして、ソ連の対日侵攻の1か月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4か国首脳に同協定の無効と危険性をうったえている。
戦後、日本を規制してきた連合国の宣言や協定には、ヤルタ秘密協定のほかにカイロ宣言やポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約などがあるが、いずれも、領土の取得禁止や不拡大を謳い、参戦の見返りに他国の領土を割譲するなどのクレージーな約定は例がない。
1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島(クリル)列島18島を放棄させられたが、引渡先は未定で、本来なら、一定時期がすぎた段階で日本への返還されるべき性格のものである。
少なくも、サンフランシスコ平和条約に署名していないソ連(ロシア)には帰属権なく、北方領土は、法的には、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約の上にもとづいた不法占有のままである。
ちなみに、ソ連の対日進攻の最終目的は、北海道東部で、アメリカが原爆をもっていなかったら、北方4島どころか北海道までがソ連領になっていたはずである。
千島列島22島(クリル諸島18島+北方4島)の領有を正当化(戦争結果)するロシアは、近々、国内法を整備して、22島の領有を法制化する構えだという。
ロシアが北方領土の法制化をめざす理由は、北方4島領有に法的根拠がないからで、現在、同4島は、係争関係のもとにある。
唯一の法的根拠は「日ロ平和条約」になるはずだが、日本が、北方4島のみならず、サンフランシスコ平和条約で放棄した22島の返還をもとめて国連にうったえでると、領有権をもたないロシアは窮地に追いこまれる。
鈴木宗男や佐藤優らが2島返還をいうのは、日本のためではなく、ロシアを助けるためだが、たとえ、2島であっても、日米安保があるかぎり、ロシアに返す気はない。
そうならば、日本は、国連総会で、千島列島22島の潜在主権が日本にある旨の演説をおこなって、ロシアが、無法国家であることを訴えたほうがよほど国益にかなうのである。
●ソ連がもとめた対日参戦@v請
1945年7月。スターリンは、モロトフ外相をトルーマン大統領のもとに派遣して、書面にもとづく、正式な対日参戦≠フ要請をおこなっている。
米英らの名義をもとめたのは、一方的に「日ソ中立条約」を破って参戦する負い目を連合国側に負わせるためだった。
モロトフとの会見に立ち会ったのはトルーマンの腹心バーンズ国務長官であった。
バーンズ国務長官は、ヤルタ秘密協定について、トルーマン大統領からなにも聞いていなかった。
ヤルタ秘密協定は、米・英が批准しておらず、大半の政治家がその存在すら知らなかった。
バーンズ国務長官はミスター原爆≠ニいわれるほど原爆支持者で、ソ連の参戦をそれほど臨んではいなかった。
原爆があれば、ソ連の参戦がなくても日本を降伏させられるはずだったからである。
●カーター大統領への手紙
1956年の「対日覚書」でアメリカ国務省は「南千島は日本固有の領土である」と宣言している。
国際法学者のあいだでも、クリルアイランズがカムチャッカ半島から中千島(ウルップ島)までの18島というのが共通の理解である。
仮にマッカーサー命令を是としても、その範囲は中千島までである。
わたしは、昭和47年6月7日、アメリカのジミー・カーター大統領に一通の手紙をしたためた。
内容は、アメリカがソ連の占有をみとめたクリルアイランズの範囲である。
カーター大統領への手紙で、わたしは、北方領土における日本の歴史・条約上の正当性をしめし、ヤルタ秘密協定を領有の根拠とするソ連の主張に法的な根拠がないことをうったえた。
ソ連は「マッカーサー命令」にもとづいてクリルアイランズを占有した。
そのなかに、北方4島がふくまれるか否か。
カーター大統領もしくは米国務省が「ふくまれない」といえば、その言質をもって、ソ連と論争を立てることができる。
北方領土を返せと空に叫ぶよりそのほうがよほどましなたたかいになる。
●アジア太平洋民主党大会に出席
わたしは、アメリカ労働界の重鎮で「アジア太平洋民主党大会」の委員長を務めていた日系人ジョージ・コノシマ氏の計らいで、同大会にオブザーバーとして参加することがきまって、1980年5月17日、アメリカにむかった。
胸ポケットに同大会の主賓であるカーター大統領への質問状を秘めていたのはいうまでもない。
そのことを、当時、上梓した「国益を無視してまで商売か」(日新報道)の「はじめに」でふれているので引用する。
ちなみに、この出版は、別項で詳説するように、昭和55年、ロッキード事件に次ぐスキャンダル「グラマン事件(日商岩井事件)」を東京タイムス社会部長と一緒に共同取材したもので、このとき「海部メモ」が大きな問題となった。
現在、アメリカでは、大統領予備選のキャンペーンが、本番並みの激しさでくりひろげられているが、1980年5月22日、ワシントンヒルトンホテルで、アジアパシフィックアメリカン、デモクラシィパーティーという大会が開催された。
アジア太平洋系の民族による民主党後援大会で、日本からの出席者はわたしだけであった。
アメリカには、日本や中国、朝鮮その他のアジア太平洋系国家を祖国とする米国市民が人口の約一、五パーセント300万人いるといわれている。
これらアジア太平洋系の米国市民が結束して大統領を招き大会を開いたのは今回が初めての試みであった。
わたしはジョージ・コノシマの紹介で大統領と会い、握手と挨拶を交わしたものの、質問状を直接手渡すことは憚られた。
だが、わたしの長年の友人、実業家貴戸氏(ロスアンゼルス在住)を介して、民主党上院議員スパーク松永(ハワイ州)、ジミー・ホワイト上院議員と意見を交換することができた。
わたしは、外交官でも政治家でもなく、一介の言論人にすぎない。
国家の外交や条約について、政治家や役人とやりあう資格はない。
だが、言論人、評論家として、知恵を絞り、戦略を練ることはできる。
国家的な問題を、外交権限をもたないわたしが問題提起しても、限界があるだろう。
だが、言論人の言論と言論にともなう行動は、つねに、世の中や時代をうごかしつづける。
北方領土問題でアメリカにまでわたった経験が、その後のわたしの政治・外交にかかる言論の土台になったのはいうまでもない。
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