平成30年、事務所へ、身元が知れない人物から、電話がかかってきた。
「わたしの祖父は、レポ船の船長をしていたのですが、あなたが出された『レポ船の裏側』という本のせいで、警察に逮捕されました。あなたに会うために版元の「日新報道」へ電話しましたが、廃業していたので、「ベストブック」という出版社に連絡をして、電話を教えてもらいました」
日新報道もベストブックも、わたしが社長と懇意にしている出版社で、長い付き合いである。
電話の主がいう「レポ船の裏側」は、正式には『新聞が見落としているレポ船の裏側』というタイトルで、「 北方領土をめぐる問題の核心を衝く」というリードがついている。
古い話で、日新報道からの刊行が昭和57年の4月である。
電話の主は、北海道の自宅に、レポ船に関する資料をもっているという。
わたしは、丁重に、資料提供の申し出を断った。
遠い昔の話で、出版も終って、いまさら、事件をむし返す気になれなかったからである。
わたしがレポ船にかかわるようになったのは、北方領土問題の取材に訪れた北海道の根室などで「レポ船」なる耳慣れないことばを聞いたのがきっかけであった。
「レポ船」は、旧ソ連国境警備隊などの情報機関員からはたらきかけをうけた日本の漁船が、わが国の政治、外交、防衛などの情報や電気製品などの金品をロシア側に提供する見返りに、銃撃やだ捕を受けることなく、北方領土海域で自由に操業できる漁船のことをいう。
若かったわたしは、この事実を明らかにして、レポ船を壊滅させ、旧ソ連の情報機関に一泡吹かせてやろうと意気ごんだ。
日新報道と打ち合わせたのち、わたしが、北海道へ長期出張にでかけたのはいうまでもない。
ちなみに、電話の青年は、その後、わたしが住所をつたえた事務所に訪れることはなかった。
●レポ(情報)船とは
レポ船は、北方領土領海を警備するソ連の国境警備隊に自衛隊や警察関係の資料、北方領土返還運動をしている右翼名簿、在日米軍にかんする情報などを提供する見返りとして、拿捕などの心配なく、ソ連のいう北方領土領海で漁をおこなうスパイ船で、スパイ罪や国家反逆罪がある国家なら逮捕されて重刑を科されるはずである。
ところが、日本では、摘発されても、窃盗や検疫法、漁業法(漁業調整規則)違反にひっかかる程度で、わずかな罰金ですんでしまう。
魚市場や漁師らから噂が広がって、レポ船をやりたがる船まででてくる始末で、ソ連に提供するモノも、国家的な資料から電化製品、さらに漁獲高にたいする上納金までエスカレートして、地元では「赤い御朱印船」などの呼び名がつくほどだった。
レポ船は、戦後、すぐからあったが、目立つようになったのは、米ソ冷戦が進行した昭和35年頃からという。
ソ連が、図書館や自衛隊関係者から、日本の防衛に関する資料など収集しているという噂はあったが、内実は、知られることなく、長いあいだ伏せられていた。
レポ船の存在が明らかになったのは、昭和43年、ベトナム戦争に従軍していたアメリカ兵士11人が「日本反戦米兵援助技術委員会(ジャステック)」を組織して、根室から脱出、ソ連警備艇からモスクワルートでストックホルムに脱走した世にいう「ジャステック事件(昭和55年)」からである。
ジャステックの米兵を根室からソ連警備艇の運んだのがレポ船で、国内では知られることがなかったレポ船も、国際的には、すでに、公然たる存在だったのである。
レポ船の摘発第一号は、昭和41年8月21日、国後島周辺でホタテ密漁をおこなって、釧路署に検挙された北島丸(北島徹)である。
最高裁で密漁(漁業法違反)は有罪になったが、スパイ防止法のない日本では、レポ行為について、罪を問うことはできなかった。
わたしは、昭和56年末、版元(日新報道)と打ち合わせて、仮名をすべて実名にきりかえて、原稿を書き直すことにきめた。
実名報道は、版元も、名誉毀損罪などのリスクを負うが、かつて日新報道は大きな話題を呼んだ『創価学会を斬る/藤原弘達 (昭和44年年)を世に問うた度胸の座った出版社だった。
実名報道になると、当然、警察がうごき、取材や出版への妨害も予想されたが、版元もわたしも意に介さなかった。
問題が大きくなるほど、レポ船の壊滅がはやまるだけである。
レポ船は、それまで、11隻、検挙されていたが、レポ活動を自供したのはそのなかのわずか1隻だった。
その一隻、第11幸与丸 (昭和49年12月4日道警検挙)の沢田正剛船長の自供によると、第11幸与丸は、択捉島沖で操業中、ソ連警備艇に拿捕されたという。
釈放と北方領海内の安全操業の見返りとして、沖縄返還に関する新聞記事や自衛隊(北海道駐留)および防衛庁、警察や在日米軍などの情報提供をもとめられて、第11幸与丸とソ連警備艇の洋上での接触回数は、11回におよんだ。
沢田は、根室簡易裁判所で有罪判決をうけたが、検疫法と漁業法違反で罰金5万円を科せられただけだった。
ソ連警備隊艇に拿捕されると、スパイ容疑で長期抑留生活となる一方、レポ船となって、スパイ行為をおこなって、警察に検挙されても、わずかな罰金ですむ。
しかも、レポ船をひきうけると、ソ連のいう北方領海内で、カニや魚介類が採り放題である。
レポ船問題は、安全保障や治安問題でもあったが、スパイ罪のない日本ではレポ行為に歯止めがきかず、対策の打ちようがなかった。
これまで、検挙したレポ船は11隻だったが、自供したのは、第11幸与丸だけで、残り10隻は、容疑を否認、状況証拠だけでレポ船と断定することができず、放置されている。
捜査当局は「根室のレポ船は20隻前後」と発表したが、この数字は憶測にすぎず、実態は闇のなかだった。
●拿捕という恐怖
北方領土を占拠、警備しているのは、第114国境警備隊である。
52年になると、北方領土の通称「三角水域(択捉・国後・色丹の三島からソ連海域12海里を線引きした領海)外の公海にまで、第114国境警備隊が出動してくるよう になった、拿捕される漁船の数がうのぎのぼりに急増した。
ちなみに、わたしの取材時(昭和56年)までに拿捕された漁船は1179隻、捕まった漁民8395人で、すべて、シベリアや樺太の収容所に送られている。
当時、漁民は、身の安全のため、漁船にソ連兵が欲しがりそうな物品を積みこんだという。はじめはボールペンやライター、腕時計などだったが、後にはテレビや冷蔵庫、ステレオなどの大型電化製品から乗用車までが積みこまれたという。
後年、物品に、国家の機密情報がくわわって、わたしの取材時には、一種のスパイ戦の様相を呈するまでになっていた。
レポ船は、船団を組み、情報収集担当者は、東京まで足を延ばしている。
この頃、ソ連とつうじたレポ船団は、漁師たちから一目置かれる特権階級となっていたのである。
●レポ船のボス、清水一己
55年1月9日、道警釧路方面本部と根室署は、第18和晃丸の船長とその配下を、レポ船の元締めとして、関税法と検疫法違反の容疑で逮捕した。
毎日新聞(55年1月10日)は事件をこうつたえる。
「北方海域のソ連国境警備隊に情報提供する見返りにソ連の主張する領海内で操業していたレポ船≠フ船長ら3人が9日朝、根室署と道警釧路方面本部に逮捕された。首謀者はこの10数年間にわたって、レポ活動をつづけ、配下に数隻の船と漁業者十数人をかかえるレポ船団の元締めの一人として逮捕されたが、今後の取り調べによって、戦後すぐから、国境の海で展開されてきたレポ船の実態があぶり出される可能性がある。北方領土返還の悲願を食い物にしてきた暗黒のレポ船―その実態解明は戦後35年目にはじまろうとしている」
レポ船が注目を浴びたのは、すでにのべたように、レポ船が脱走米兵をソ連国境警備員にひきわたした「ジャステック事件」が最初だった。
以降、最初に脚光を浴びたのが第18和晃丸事件(清水事件)であった。
逮捕されたのは清水一己(48歳)と坂下登(33歳)、坂下雄二(29歳)の3人である。
坂下兄弟は、持ち船である底刺し網はえなわ漁船第十八和泉丸(九トン)に露文タイプライターやウイスキーなどを積みこんで、色丹島穴潤(あなま)の沖合で、ソ連国境警備隊に物品を渡して、操業させてもらっていた。
昭和54年9月のことで、登が船長、雄二が機関長をつとめていた。
家宅捜査では、兄弟がソ連側に渡した物品のリストなどが押収されている。
以前から、地元では「レポ船太り」という風聞がつたわって、根室署は昭和42年頃から吉田兄弟をマークしていたという。
清水は、昭和42年夏、北方海域でソ連側に拿捕され、一年間、サハリンの収容所に抑留されたが、帰国後、水揚げ高が目立ってふえはじめたという。
昭和46年にカニの密漁、50年の6月と11月にも、漁業法検疫法違反で検挙されているが、日本には、スパイ防止法など、レポ行為を取り締まる法が整備されていないため、微罪で釈放されている。
この間、価格の高いタラバガニ、ハナサキガニ、ウニなどの水揚げが他船に比較して、際立って多かったため、漁業者仲間から、清水は「レポの見返りで数億円稼いだ」と噂された。
坂下兄弟も、昭和50年、ソ連国境警備隊に拿捕されて、漁船を没収されている。
雄二は2か月後、登は4か月後に釈放されたが、52年に、再び拿捕されたときは、わずか18日で、船と共に帰されている。
兄弟が、清水の配下に入ったのは、その直後である。
清水が、ソ連国境警備隊の許可を得て、坂下兄弟を配下にして、レポ船団を組織したのである。
清水は、当時、「関係船」「顔船」と称される七隻の漁船を持っていた。
そして、漁船七隻の船体番号をソ連国境警備隊につたえ、密漁させていた。
清水がレポ船団のボスであったことは、密猟していたレポ船一隻あたりから漁獲高の20%を上納させていたことからも明らかである。
だが、清水や吉田兄弟は、処分保留のまま釈放されて、罰金30万円という微罪ですんでいる。
●公安調査局課長の自殺
昭和55年2月2日、旭川公安調査局の船山春第二課長(51歳)が自宅のふろ場で首をつっているのを家人によって発見された。
わたしが取材をはじめる一年ほど前の出来事である。
船山が自殺した原因が、レポ船と密接なつながりを持っていたという疑いがかかったのが、件の清水一己の家宅捜査と取調べだった。
家宅捜索で「大平内閣に対する右翼の見方」と題する文書など公安調査庁の内部資料が5〜6点みつかっている。
清水は、入手先が船山課長だったことを自供、釧路地検は、船山を事情聴取したという。
わたしが根室警察の関係者に取材すると、「みつかった資料は、秘密資料ではないが、だれもが入手できるものではない」という。
船山のほかに、釧路、函館両地方公安調査局の現職課長二人も、事情聴取を受けている。
3人とも清水にもとめられるまま、上司に無断で、公安調査局の内部資料を清水に提供、十数回にわたって、酒食のもてなしをうけていた。
3人はいずれも地方公安調査局の外事、右翼関係担当の歴代課長で、清水に提供した資料はそのままソ連側に渡っていた。
清水は、ソ連からの信用が厚く、レポ船を最初の一隻から五隻、七隻にまで増して、レポ船団の旗頭となっていた。
●どんぐりの店主伊藤が語る本当の大ボス
わたしが根室に入ったのは、昭和56年9月からである。
その前に、予備知識を入手するため、元レポ船の船長だったと称する人物に札幌で接触した。
そのときの男の北海道弁が強烈で、しばらく、耳から離れなかった。
「レポ船の取材なんかムリだべ。半年や一年は根室に住みついて、漁師仲間にとけ込まなくちゃな。それでも、その内地弁で、根室をうろちょろすれば白い目で見られるのがオチだべ。警察や公安、マスコミが来たって、根室の人間はなにもしゃべんね」
そのときの紹介者が、千歳で海獣の剥製業を商う横山始だった。
職業柄、海に面した根室に知り合いが多い。
もう一人、白老町で牧場と食堂を営む戸田三郎も、取材に協力してくれた。
わたしたちは、根室で合流して、段取りを打ち合わせた。
レポ船の事情に詳しい人物を探し出すのが先決で、それには、漁師が集まる飲食店にあたりをつけて、あたってみるしかなかった。
横山は、根室の緑街にある喫茶店どんぐりの主人から地元の業者を紹介してもらうという。
喫茶店どんぐりの主人伊藤正は「北方領土返還要求全国委員会」根室地区のメンバーである。
伊藤は、にがわらいをうかべていう。「ロスケ船頭(レポ船船頭)は警戒してこの店には寄り付きませんや」
その伊藤が、レポ船の専門家筋の人物と親交をもっているという。
もっとも、その人物は、公職についているので、会えるかどうかわからないという。
だが、伊藤は、アポの申し入れを快く請け負ってくれた。
わたしたちは、ひとまず、根室市内の照月旅館に落ちついて、夜を待った。
伊藤が紹介してくれるという専門家筋に会えるかどうか不明だったが、それまでに、一人でも多くの関係者に会って、データを集めておくにこしたことはない。
夜になって、ロスケ船頭と称される漁師らが集まると噂される一杯飲み屋を訪ねた。
ここでの最大の収穫は、地元紙の記者と会うことができたことである。
道内紙の根室支局員で、十数年のキャリアがあり、レポ船についても情報をもっていそうだった。
「根室は町中が親戚みたいなところでネ。わたしがなにか喋ったことが分れば白い眼で見られる。新聞社名を告げると取材拒否される一方、個人的に親しくなれば、案外、なんでも話してくれる。根室はそんなところですよ」
根室では、ロスケ船頭(レポ船)と呼ばれる陰の勢力が大きな勢力を占めており、その恩恵をうけている人々も少なくないという。根室のひとたちの口が固いのはそのせいだという。
●日ソ親善協会会員というお守り
A記者と別れた夜半、わたしは、この夜、行くことになっていた小料理屋にむかった。
戸田と横山がまっていて、女将と談笑していた。
わたしも仲間入りしたが、女将からはなにも聞き出せなかった。
「ロスケ船頭のことだば、なんにも知らネ」という女将のことばにウソはなさそうだった。
そばで、漁師とおぼしき客のグループが、数組み、大声で話をしていた。
夜更けに旅館にもどると、二人は、わたしに紙切れをさしだした。
小料理屋の女将の電話番号で、店では客の耳もあって話せないが、別の場所なら取材に応じるという。
翌日、女将に電話をかけて、喫茶店「どんぐり」を待ち合わせることにした。
ロスケ船頭が敬遠する店で、漁師らから、すがたをみられる懸念もない。
女将がいうのは、羅臼に、昔からロスケ船頭のたまり場になっている白鷹という呑み屋があるという。
そこの老主人なら、ロスケ船頭について、詳しい話が聞けるはずだという。
数日後、わたしは、根室半島から知床半島の羅臼にむかった。
根室から羅臼まで、国道で百数十キロあって、西に広がる根室海峡に国後島がつきでている。
知床半島の羅臼は、その国後島から二十四キロ離れた人口9千人の漁師町で根室に次ぐレポ船の基地といわれている。
羅臼には、戸田と知り合いの男がいて、コンブ漁を営んでいる。
連絡をとりあい、その日の夜、羅臼の旅荘で、男と落ち合った。
だが、めざした白鷹は、代替わりして、ちがう店になっていた。
ニュースソースが跡形もなく消えて、わたしは気落ちしたが、男は、地元の羅臼漁業協同組合長を紹介するという。
翌日、男とともに、羅臼漁協の中村春雄組合長を訪ねて、話を聞いた。
羅臼漁協が根室漁協に次ぐ組合に急成長したのは、二百カイリ設定によって根室のスケソウ(カマボコ原料)漁獲量が急減する一方、羅臼のスケソウ漁が絶好調となったからだという。
羅臼漁協のスケソウダラ水揚げは、56年の5万9千トン(66億円)から5年後の61年には7万4千トンにまではねあがった。
出漁すればつねに大漁で、町には、造船業者や漁具会社など漁業関連業者や出稼ぎ漁師、魚の仲買・加工業者らがあふれ、スケソウを運ぶ大型トラックが道路を行き交い、次々と「スケソウ御殿」が新築されていった。
羅臼がクローズアップされた事件として、日ソ親善協会(赤城宗徳会長)が羅臼の漁民に発行した親善協会の会員証があげられる。
親善協会の会員証をもらえると、拿捕の心配なく、魚が獲れるという素朴な期待から、羅臼の漁民が、競って会員になったのはいうまでもない。
この会員証の授与式にポリヤンスキー駐日ソ連大使が出席したことも大きな話題になった。
もともと、二百カイリ設定後まで、羅臼では、三カイリ操業がみとめられていたが、53年秋から、それまで、安全だった操業地域で拿捕事件が相次いだ。
羅臼海上保安署によると、54年に拿捕された同漁協所属の漁船は、7隻にのぼる。
日ソ親善協会の会員証が発行されたのは、この厳しい締め付けの後である。
羅臼の漁民は、この措置をよろこび、同漁協内に、羅臼日ソ友好親善協会を結成、日ソ親善資料室までつくっている。
その後、羅臼漁協の漁船が拿捕される事件が減って、会員証をあたえられた漁民の水揚げ高が目立ってのびはじめた。
一方、根室になんの恩恵もなかったのは、北方領土返還運動の拠点となっているからであったろう。
羅臼漁民に、安全操業の許可証にあたる会員証を与えることによって、北方領土返還運動の全国的な基地となっている根室を孤立させるというソ連の露骨な戦略が、はしなくも、羅臼漁民のレポ船化をうみだしたのである。
羅臼での取材を一泊二日で切り上げて、ふたたび、根室に帰った。
●レポ船は女性も運んでいた?
わたしには、取材しているなかで、ある噂を耳にした。
レポ船が女性を運んでいるというもので、警察にも何通かの投書があったというが、根室署にたずねても、なにも語ってくれなかった。
その女性を知っている唯一の証人が、小料理屋の女将だった。
女性の名前は「英子」で、根室から釧路へ移って、Mというキャバレー店に勤めたというが、その後、行方がわからなくなった。
英子は、清水の船でソ連領海に入って、数時間、ソ連の監視艇内ですごしたあと、ふたたび、清水の船で帰還したという。
どこからもれつたわってきた話か不明だが、英子が麻薬中毒で、その弱みを握られて、1出漁当たり10万円で船に乗せられたというが、確証はなかった。
翌日、釧路のキャバレーMへ行って、英子らしき女性を探したが、みつからず、英子を知っているホステスもいなかった。
レポ船の 合羽かぶりた 女(め)郎花
春をひさぎて 北風さぶし
●レポ船第一号が語る人脈図
喫茶店「どんぐり」の伊藤から、東京の事務所に電話がかかってきた。
伊藤がいう、レポ船の専門家筋の人物とようやくアポがとれたという。
わたしは、東京の仕事を早々に切り上げて、7月の初旬、根室にむかった。
伊藤から紹介された人物は、柔和だったが、信念のつよそうな紳士で、自己紹介の声にも張りがあった。
わたしは、面談の謝礼をのべてから、もらった名刺を手にとった。
水産会社の経営者で、漁業協同組合の幹部もつとめている。
いくつかの団体役員を兼務しているほか、政党の根室支部にも関与していた。
伊藤が、紳士の前歴をのべる前に、わたしに匿名の条件を申し入れた。
わたしは、同意して、原稿には、かれをT氏と書かせてもらうことにした。
伊藤は、思いがけなく、T氏を、根室におけるレポ船の第一号と紹介した。
わたしは、意表をつかれて、T氏へ目をやった。
T氏は、わたしを見て、ゆっくりと口をひらいた。
「わたしは、これまで、部外者に、レポ船についていちども語ったことはありません。なぜなら、私自身、過去に古い傷をもっているからです」
終戦直後、国後島がソ連に占領されて、島民は、着のみ着のままで、同島を脱出、本土に引き揚げた。
だが、昭和20年10月の統計によると、北方四島からの引揚者は、在住者の四〇%強にすぎない。
国後島出身で、戦時中、南条機関という情報機関に所属する情報将校だったT氏は、戦後、肉親を救うため、単身で、野付半島から小さな漁船で国後島へ渡った。
だが、肉親が住んでいる村落にたどりつく直前にソ連兵に捕まって、身柄を拘束された。
厳しい取り調べのなかで、執拗に聞かれたのは、軍隊経験の有無であった。
T氏が軍隊経験を頑強に否定したのは、情報機関の将校だったことが知れると処刑される可能性があったからだった。
家族を目の前にして、むざむざ殺されてたまるかという気迫がソ連側につうじたものか、ある日、ソ連側から提案をもちかけられた。
スパイをやれというのである。
情報機関の将校だったT氏が国家を売ることなどできるはずはなかった。
役場の資料はすでに処分されていたが、島民の口から軍人だったことがばれないという保証はなかった。
「国を売るなら処刑されたほうがましだ」
覚悟をきめたものの、T氏は、そのとき、スパイの条件をたずねた。
進駐米軍の動向探れという。
だが、日本では、内偵機関が壊滅して、極秘情報がとれるはずはなかった。
「新聞記事や官報、GHQの配布資料があるはずだ」
T氏はわらった。そんなものは、かんたんに入手できるばかりか、進駐軍とソ連警備のケンカなら高みの見物をするだけである。
その役割をひきうけて、T氏には、代償として、レポ船のリーダーとしての権限をあたえられた。
漁師と主張してきたので、その代償のつもりだったようだが、T氏には漁師の経験はなかった。
だが、ソ連のお墨付きのもとで、いつのまにか、T氏を中心に、レポ船団ができあがっていった。
わたしはT氏にたずねた。
「捜査当局や漁業関係者らによると、根室には、三系統・四天王といわれる元締めがいるといわれていますね。なかでも、清水一己は、大物で、レポ船団の旗頭と聞きます」
T氏は、首をふって、遠くを見る目で、記憶をまさぐった。
「清水は傍流、わたしの後を継いだのは、村井寛で、レポ船の取材してきたのなら、名前くらい聞いたことがあるでしょう」
村井寛は、オホーツク海の帝王と仲間内で畏敬された通称寛ちゃんで、戦時中、樺太で警察官をやっていただけに、ロシア語に堪能で、しかも、ソ連人の機微にもつうじて、ロスケにも人気があったという。
●T氏からはじまるボスの系譜
「寛ちゃんは、戦後、根室に引き揚げてきて、一介のヤシ衆からスタートしたが、レポ船の船主になってから、ソ連の信用をえて10年間でカニ船5ハイをもつロスケ船頭の 頂上にのし上がった。いまは引退しているが、その影響力はいまもかわらん」
レポ船団のボスの座を村井からうけついだのが、八紘水産を経営していた石本登である。
T氏から村井、村井から石本まで、レポ船団のボスがはっきりしているのはここまでである。
レポ船団は、非合法で、闇の存在だが、やくざにはやくざのしきたりがあるように、一定のルールがあって、国家機密をもちだすなどのことはなかった。
石本が死亡した後、レポ船の継承者となったのが木村文雄と北島茂である。
2人とも、北海道新聞などのメディアにKというイニシャルで登場する。
木村は島根県出身で、昭和35年頃、根室にきて鉄工所の工員を経て、八紘水産の漁船員になり、後に石本レポ船団の帳場を預かるようになった。
そして、昭和49年には、持ち船や配下船を合わせて14隻を擁するボスになった。
木村は、石本の寝首をかいて、のし上がったといわれるが、木村は、親分の石本をソ連のスパイと公言するような男で、レポ船団の結束はこのあたりから怪しくなってくる。
石本の死後、木村は、その組織を奪って、船団のリーダーとなる。
根室のレポ船団では、木村が、現在も、多くの船団や配下をもって、頂点に君臨している。
北島は石本のいとこである。
木村と同様、八紘水産の船員からのしあがって、二隻のレポ船をもつようになったが、木村の荒々しさとは反対のおとなしい男で、根室漁協の幹部としての活動以外、表立った行動はみられなかった。
●レポ船に釧路のヤクザが介入
木村の粗暴な性格をあらわすのが「北海道新聞事件」である。
木村の自宅へ取材にでかけた北海道新聞の記者が、日本刀で追い回されたというのである。
後日、木村は「貴社社員のボタンをご送付申し上げます」という文書をつけて、ちぎれた記者のボタンを本社に送りつけている。
そんな木村が、配下の船頭の独立をみとめるはずはなく、独立しようとすれば、威嚇や脅迫から、いやがらせまでおこなった。
いやがらせは、根室海上保安部への密告は序の口で、ソ連警備隊に臨検までたのみこみ、あるいは、女房が浮気しているなどのデマを流した。
だが、木村の配下だった田中が独立して、多くがそのあとを追った。
一方、木村の船団から職業漁師がいなくなって、代わって、釧路のやくざが船に乗りこむようになった。
レポ船が乱立するようになると、ソ連に渡す情報も高度なものなって、自衛隊や在日米軍のデータにくわえて、北方領土返還運動に関する情報や右翼団体の名簿までがソ連に流れるようになった。
これにたいして日本側は、道警釧路本部外事課と釧路の公安調査局、自衛隊調査隊や海上保安部が取り締まりと情報収集をおこなった。
だが、日本には、国家機密保護法もスパイ防止法もないため、スパイ行為を摘発しても、処罰することができない。
事実、過去に検挙されたレポ船は、すべて、関税法や検疫法、漁業法違反や窃盗などの微罪で処理されている。
わたしが、昭和57年、日新報道から「レポ船の裏側」を実名で出版したのは、スパイ禁止法がない日本の法律では、レポ行為が野放しになっているからであった。
報道側が仮名やイニシャルをもちいるのは、人権侵害や名誉毀損をおそれてのことだが、さいわいにも、版元の日新報道は、万が一の場合、裁判を受けて立つ覚悟で、わたしを応援してくれた。
この出版が一つのきっかけとなって、木村以下、レポ船の船長が検挙されて北の海からレポ船が壊滅した。
レポ船と云うスパイ軍団の噂は、その後、耳にしたことはない。
●レポ船取材余話
冒頭、赤坂の事務所に、30数年前に摘発されたレポ船の船長の孫と称する人物から電話がかかってきたとのべた。
その人物が、木村の身内かどうか不明だが、木村が、当時、釧路のやくざとつるんでいたこともふれた。
漁師に逃げられた木村が、やくざを船に乗せたのだが、これがやくざの資金源になって、レポ船団が、やくざのシノギ(稼ぎ)の場になってしまったのである。
レポ船の乗組員は一隻当たり15人前後である。
レポ船団が20隻としても300人前後となる。
違法操業といっても、漁業中心の根室経済における影響は、けっして小さなものではなかった。
なにしろ、禁猟区でカニなどをとるレポ船の漁獲高は、魚市場で注目されるほど大きかった。
このレポ船による密漁は、漁業を主たる産業とする地元にとって、必要悪という面もあって、表立って、取り沙汰されることはなかった。
レポ船壊滅によって、いちばん大きなダメージをうけたのが、資金源をつぶされた釧路のやくざだった。
有吉という知り合いの青年から電話が入った。
北海道釧路のやくざの組員が「レポ船の裏側」の著者である山本峯章の事務所の在所地をたずねてきたという。
有吉は、国士舘大学の剣道部出身のやくざで、池田会のメンバーであった。
池田会会長の池田烈とは、同窓で、身の危険がともなうフィリピン取材(ホナサンのクーデター事件/若王子事件)にはボディガードを兼ねてつきあってくれた。
有吉が、偶然にも、釧路のやくざと知り合いだったせいで、難を逃れることができたが、そうでなければ、一悶着おきたかもしれなかった。
余談だが、わたしは、フィリピン、マルコス時代の情報省センダニア大臣や情報省次官マニーモンティロと友好関係にあって、フィリピンばかりかアジア諸国の情報をやりとりしあった。
有吉も、大臣らとの会食に同席して、フィリピンに興味をもったが、ガンであっけなく早逝してしまった。
別項で詳述するが、フィリピンにおけるイエロー革命、ホナサンのクーデター、若王子誘拐事件など、先んじて、テレビなどでレポートできたのは、マルコス政権時代の情報省関係の要人との深い人間関係が役立ったのである。
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