2020年10月23日

初冬五首


老境
なぜかくも ふるさと恋しや 病みし夜は
父母友の 亡き里をなほ

旧友
秋の夜に 君のくれたる 栗食(は)みて
いかに在わすか 思いて寝入る

さるすべりの花
薄紅(うすべに)の 花を競うや さるすべり
つつがなきやと 君想う秋(とき)
  吾が庭前に友が植えたさるすべりの木。今年も花咲き競う。令和二年
 
磯笛
磯笛の 音(ね)聞きて思う 友のこと
天草(てんぐさ)採りを 競いし日々よ
昭和二十年代。三宅島は天草の産地であった。夏休みに友と競って天草採る。友の吹く磯笛。なつかしや
 
中秋の名月    
  平(たいら)らかな 御世を祈りて 大君(きみ)眠る
武蔵野御陵を 照らしゆく月
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2020年10月16日

 わが青春譜25

 ●レポ(情報)船を壊滅せよ
 平成30年、事務所へ、身元が知れない人物から、電話がかかってきた。
「わたしの祖父は、レポ船の船長をしていたのですが、あなたが出された『レポ船の裏側』という本のせいで、警察に逮捕されました。あなたに会うために版元の「日新報道」へ電話しましたが、廃業していたので、「ベストブック」という出版社に連絡をして、電話を教えてもらいました」
 日新報道もベストブックも、わたしが社長と懇意にしている出版社で、長い付き合いである。
 電話の主がいう「レポ船の裏側」は、正式には『新聞が見落としているレポ船の裏側』というタイトルで、「 北方領土をめぐる問題の核心を衝く」というリードがついている。
 古い話で、日新報道からの刊行が昭和57年の4月である。
 電話の主は、北海道の自宅に、レポ船に関する資料をもっているという。
 わたしは、丁重に、資料提供の申し出を断った。
 遠い昔の話で、出版も終って、いまさら、事件をむし返す気になれなかったからである。
 わたしがレポ船にかかわるようになったのは、北方領土問題の取材に訪れた北海道の根室などで「レポ船」なる耳慣れないことばを聞いたのがきっかけであった。
「レポ船」は、旧ソ連国境警備隊などの情報機関員からはたらきかけをうけた日本の漁船が、わが国の政治、外交、防衛などの情報や電気製品などの金品をロシア側に提供する見返りに、銃撃やだ捕を受けることなく、北方領土海域で自由に操業できる漁船のことをいう。
 若かったわたしは、この事実を明らかにして、レポ船を壊滅させ、旧ソ連の情報機関に一泡吹かせてやろうと意気ごんだ。
 日新報道と打ち合わせたのち、わたしが、北海道へ長期出張にでかけたのはいうまでもない。
 ちなみに、電話の青年は、その後、わたしが住所をつたえた事務所に訪れることはなかった。

 ●レポ(情報)船とは
 レポ船は、北方領土領海を警備するソ連の国境警備隊に自衛隊や警察関係の資料、北方領土返還運動をしている右翼名簿、在日米軍にかんする情報などを提供する見返りとして、拿捕などの心配なく、ソ連のいう北方領土領海で漁をおこなうスパイ船で、スパイ罪や国家反逆罪がある国家なら逮捕されて重刑を科されるはずである。
 ところが、日本では、摘発されても、窃盗や検疫法、漁業法(漁業調整規則)違反にひっかかる程度で、わずかな罰金ですんでしまう。
 魚市場や漁師らから噂が広がって、レポ船をやりたがる船まででてくる始末で、ソ連に提供するモノも、国家的な資料から電化製品、さらに漁獲高にたいする上納金までエスカレートして、地元では「赤い御朱印船」などの呼び名がつくほどだった。
 レポ船は、戦後、すぐからあったが、目立つようになったのは、米ソ冷戦が進行した昭和35年頃からという。
 ソ連が、図書館や自衛隊関係者から、日本の防衛に関する資料など収集しているという噂はあったが、内実は、知られることなく、長いあいだ伏せられていた。
 レポ船の存在が明らかになったのは、昭和43年、ベトナム戦争に従軍していたアメリカ兵士11人が「日本反戦米兵援助技術委員会(ジャステック)」を組織して、根室から脱出、ソ連警備艇からモスクワルートでストックホルムに脱走した世にいう「ジャステック事件(昭和55年)」からである。
 ジャステックの米兵を根室からソ連警備艇の運んだのがレポ船で、国内では知られることがなかったレポ船も、国際的には、すでに、公然たる存在だったのである。
 レポ船の摘発第一号は、昭和41年8月21日、国後島周辺でホタテ密漁をおこなって、釧路署に検挙された北島丸(北島徹)である。
 最高裁で密漁(漁業法違反)は有罪になったが、スパイ防止法のない日本では、レポ行為について、罪を問うことはできなかった。
 わたしは、昭和56年末、版元(日新報道)と打ち合わせて、仮名をすべて実名にきりかえて、原稿を書き直すことにきめた。
 実名報道は、版元も、名誉毀損罪などのリスクを負うが、かつて日新報道は大きな話題を呼んだ『創価学会を斬る/藤原弘達 (昭和44年年)を世に問うた度胸の座った出版社だった。
 実名報道になると、当然、警察がうごき、取材や出版への妨害も予想されたが、版元もわたしも意に介さなかった。
 問題が大きくなるほど、レポ船の壊滅がはやまるだけである。
 レポ船は、それまで、11隻、検挙されていたが、レポ活動を自供したのはそのなかのわずか1隻だった。
 その一隻、第11幸与丸 (昭和49年12月4日道警検挙)の沢田正剛船長の自供によると、第11幸与丸は、択捉島沖で操業中、ソ連警備艇に拿捕されたという。
 釈放と北方領海内の安全操業の見返りとして、沖縄返還に関する新聞記事や自衛隊(北海道駐留)および防衛庁、警察や在日米軍などの情報提供をもとめられて、第11幸与丸とソ連警備艇の洋上での接触回数は、11回におよんだ。
 沢田は、根室簡易裁判所で有罪判決をうけたが、検疫法と漁業法違反で罰金5万円を科せられただけだった。
 ソ連警備隊艇に拿捕されると、スパイ容疑で長期抑留生活となる一方、レポ船となって、スパイ行為をおこなって、警察に検挙されても、わずかな罰金ですむ。
 しかも、レポ船をひきうけると、ソ連のいう北方領海内で、カニや魚介類が採り放題である。
 レポ船問題は、安全保障や治安問題でもあったが、スパイ罪のない日本ではレポ行為に歯止めがきかず、対策の打ちようがなかった。
 これまで、検挙したレポ船は11隻だったが、自供したのは、第11幸与丸だけで、残り10隻は、容疑を否認、状況証拠だけでレポ船と断定することができず、放置されている。
 捜査当局は「根室のレポ船は20隻前後」と発表したが、この数字は憶測にすぎず、実態は闇のなかだった。

 ●拿捕という恐怖
 北方領土を占拠、警備しているのは、第114国境警備隊である。
 52年になると、北方領土の通称「三角水域(択捉・国後・色丹の三島からソ連海域12海里を線引きした領海)外の公海にまで、第114国境警備隊が出動してくるよう になった、拿捕される漁船の数がうのぎのぼりに急増した。
 ちなみに、わたしの取材時(昭和56年)までに拿捕された漁船は1179隻、捕まった漁民8395人で、すべて、シベリアや樺太の収容所に送られている。
 当時、漁民は、身の安全のため、漁船にソ連兵が欲しがりそうな物品を積みこんだという。はじめはボールペンやライター、腕時計などだったが、後にはテレビや冷蔵庫、ステレオなどの大型電化製品から乗用車までが積みこまれたという。
 後年、物品に、国家の機密情報がくわわって、わたしの取材時には、一種のスパイ戦の様相を呈するまでになっていた。
 レポ船は、船団を組み、情報収集担当者は、東京まで足を延ばしている。
 この頃、ソ連とつうじたレポ船団は、漁師たちから一目置かれる特権階級となっていたのである。

 ●レポ船のボス、清水一己
 55年1月9日、道警釧路方面本部と根室署は、第18和晃丸の船長とその配下を、レポ船の元締めとして、関税法と検疫法違反の容疑で逮捕した。
 毎日新聞(55年1月10日)は事件をこうつたえる。
「北方海域のソ連国境警備隊に情報提供する見返りにソ連の主張する領海内で操業していたレポ船≠フ船長ら3人が9日朝、根室署と道警釧路方面本部に逮捕された。首謀者はこの10数年間にわたって、レポ活動をつづけ、配下に数隻の船と漁業者十数人をかかえるレポ船団の元締めの一人として逮捕されたが、今後の取り調べによって、戦後すぐから、国境の海で展開されてきたレポ船の実態があぶり出される可能性がある。北方領土返還の悲願を食い物にしてきた暗黒のレポ船―その実態解明は戦後35年目にはじまろうとしている」
 レポ船が注目を浴びたのは、すでにのべたように、レポ船が脱走米兵をソ連国境警備員にひきわたした「ジャステック事件」が最初だった。
 以降、最初に脚光を浴びたのが第18和晃丸事件(清水事件)であった。
 逮捕されたのは清水一己(48歳)と坂下登(33歳)、坂下雄二(29歳)の3人である。
 坂下兄弟は、持ち船である底刺し網はえなわ漁船第十八和泉丸(九トン)に露文タイプライターやウイスキーなどを積みこんで、色丹島穴潤(あなま)の沖合で、ソ連国境警備隊に物品を渡して、操業させてもらっていた。
 昭和54年9月のことで、登が船長、雄二が機関長をつとめていた。
 家宅捜査では、兄弟がソ連側に渡した物品のリストなどが押収されている。
 以前から、地元では「レポ船太り」という風聞がつたわって、根室署は昭和42年頃から吉田兄弟をマークしていたという。
 清水は、昭和42年夏、北方海域でソ連側に拿捕され、一年間、サハリンの収容所に抑留されたが、帰国後、水揚げ高が目立ってふえはじめたという。
 昭和46年にカニの密漁、50年の6月と11月にも、漁業法検疫法違反で検挙されているが、日本には、スパイ防止法など、レポ行為を取り締まる法が整備されていないため、微罪で釈放されている。
 この間、価格の高いタラバガニ、ハナサキガニ、ウニなどの水揚げが他船に比較して、際立って多かったため、漁業者仲間から、清水は「レポの見返りで数億円稼いだ」と噂された。
 坂下兄弟も、昭和50年、ソ連国境警備隊に拿捕されて、漁船を没収されている。
 雄二は2か月後、登は4か月後に釈放されたが、52年に、再び拿捕されたときは、わずか18日で、船と共に帰されている。
 兄弟が、清水の配下に入ったのは、その直後である。
 清水が、ソ連国境警備隊の許可を得て、坂下兄弟を配下にして、レポ船団を組織したのである。
 清水は、当時、「関係船」「顔船」と称される七隻の漁船を持っていた。
 そして、漁船七隻の船体番号をソ連国境警備隊につたえ、密漁させていた。
 清水がレポ船団のボスであったことは、密猟していたレポ船一隻あたりから漁獲高の20%を上納させていたことからも明らかである。
 だが、清水や吉田兄弟は、処分保留のまま釈放されて、罰金30万円という微罪ですんでいる。

 ●公安調査局課長の自殺
 昭和55年2月2日、旭川公安調査局の船山春第二課長(51歳)が自宅のふろ場で首をつっているのを家人によって発見された。
 わたしが取材をはじめる一年ほど前の出来事である。
 船山が自殺した原因が、レポ船と密接なつながりを持っていたという疑いがかかったのが、件の清水一己の家宅捜査と取調べだった。
 家宅捜索で「大平内閣に対する右翼の見方」と題する文書など公安調査庁の内部資料が5〜6点みつかっている。
 清水は、入手先が船山課長だったことを自供、釧路地検は、船山を事情聴取したという。
 わたしが根室警察の関係者に取材すると、「みつかった資料は、秘密資料ではないが、だれもが入手できるものではない」という。
 船山のほかに、釧路、函館両地方公安調査局の現職課長二人も、事情聴取を受けている。
 3人とも清水にもとめられるまま、上司に無断で、公安調査局の内部資料を清水に提供、十数回にわたって、酒食のもてなしをうけていた。
 3人はいずれも地方公安調査局の外事、右翼関係担当の歴代課長で、清水に提供した資料はそのままソ連側に渡っていた。
 清水は、ソ連からの信用が厚く、レポ船を最初の一隻から五隻、七隻にまで増して、レポ船団の旗頭となっていた。

 ●どんぐりの店主伊藤が語る本当の大ボス
 わたしが根室に入ったのは、昭和56年9月からである。
 その前に、予備知識を入手するため、元レポ船の船長だったと称する人物に札幌で接触した。
 そのときの男の北海道弁が強烈で、しばらく、耳から離れなかった。
「レポ船の取材なんかムリだべ。半年や一年は根室に住みついて、漁師仲間にとけ込まなくちゃな。それでも、その内地弁で、根室をうろちょろすれば白い目で見られるのがオチだべ。警察や公安、マスコミが来たって、根室の人間はなにもしゃべんね」
 そのときの紹介者が、千歳で海獣の剥製業を商う横山始だった。
 職業柄、海に面した根室に知り合いが多い。
 もう一人、白老町で牧場と食堂を営む戸田三郎も、取材に協力してくれた。
 わたしたちは、根室で合流して、段取りを打ち合わせた。
 レポ船の事情に詳しい人物を探し出すのが先決で、それには、漁師が集まる飲食店にあたりをつけて、あたってみるしかなかった。
 横山は、根室の緑街にある喫茶店どんぐりの主人から地元の業者を紹介してもらうという。
 喫茶店どんぐりの主人伊藤正は「北方領土返還要求全国委員会」根室地区のメンバーである。
 伊藤は、にがわらいをうかべていう。「ロスケ船頭(レポ船船頭)は警戒してこの店には寄り付きませんや」
 その伊藤が、レポ船の専門家筋の人物と親交をもっているという。
 もっとも、その人物は、公職についているので、会えるかどうかわからないという。
 だが、伊藤は、アポの申し入れを快く請け負ってくれた。
 わたしたちは、ひとまず、根室市内の照月旅館に落ちついて、夜を待った。
 伊藤が紹介してくれるという専門家筋に会えるかどうか不明だったが、それまでに、一人でも多くの関係者に会って、データを集めておくにこしたことはない。
 夜になって、ロスケ船頭と称される漁師らが集まると噂される一杯飲み屋を訪ねた。
 ここでの最大の収穫は、地元紙の記者と会うことができたことである。
 道内紙の根室支局員で、十数年のキャリアがあり、レポ船についても情報をもっていそうだった。
「根室は町中が親戚みたいなところでネ。わたしがなにか喋ったことが分れば白い眼で見られる。新聞社名を告げると取材拒否される一方、個人的に親しくなれば、案外、なんでも話してくれる。根室はそんなところですよ」
 根室では、ロスケ船頭(レポ船)と呼ばれる陰の勢力が大きな勢力を占めており、その恩恵をうけている人々も少なくないという。根室のひとたちの口が固いのはそのせいだという。
 
 ●日ソ親善協会会員というお守り
 A記者と別れた夜半、わたしは、この夜、行くことになっていた小料理屋にむかった。
 戸田と横山がまっていて、女将と談笑していた。
 わたしも仲間入りしたが、女将からはなにも聞き出せなかった。
「ロスケ船頭のことだば、なんにも知らネ」という女将のことばにウソはなさそうだった。
 そばで、漁師とおぼしき客のグループが、数組み、大声で話をしていた。
 夜更けに旅館にもどると、二人は、わたしに紙切れをさしだした。
 小料理屋の女将の電話番号で、店では客の耳もあって話せないが、別の場所なら取材に応じるという。
 翌日、女将に電話をかけて、喫茶店「どんぐり」を待ち合わせることにした。
 ロスケ船頭が敬遠する店で、漁師らから、すがたをみられる懸念もない。
 女将がいうのは、羅臼に、昔からロスケ船頭のたまり場になっている白鷹という呑み屋があるという。
 そこの老主人なら、ロスケ船頭について、詳しい話が聞けるはずだという。
 数日後、わたしは、根室半島から知床半島の羅臼にむかった。
 根室から羅臼まで、国道で百数十キロあって、西に広がる根室海峡に国後島がつきでている。
 知床半島の羅臼は、その国後島から二十四キロ離れた人口9千人の漁師町で根室に次ぐレポ船の基地といわれている。
 羅臼には、戸田と知り合いの男がいて、コンブ漁を営んでいる。
 連絡をとりあい、その日の夜、羅臼の旅荘で、男と落ち合った。
 だが、めざした白鷹は、代替わりして、ちがう店になっていた。
 ニュースソースが跡形もなく消えて、わたしは気落ちしたが、男は、地元の羅臼漁業協同組合長を紹介するという。
 翌日、男とともに、羅臼漁協の中村春雄組合長を訪ねて、話を聞いた。
 羅臼漁協が根室漁協に次ぐ組合に急成長したのは、二百カイリ設定によって根室のスケソウ(カマボコ原料)漁獲量が急減する一方、羅臼のスケソウ漁が絶好調となったからだという。
 羅臼漁協のスケソウダラ水揚げは、56年の5万9千トン(66億円)から5年後の61年には7万4千トンにまではねあがった。
 出漁すればつねに大漁で、町には、造船業者や漁具会社など漁業関連業者や出稼ぎ漁師、魚の仲買・加工業者らがあふれ、スケソウを運ぶ大型トラックが道路を行き交い、次々と「スケソウ御殿」が新築されていった。
 羅臼がクローズアップされた事件として、日ソ親善協会(赤城宗徳会長)が羅臼の漁民に発行した親善協会の会員証があげられる。
 親善協会の会員証をもらえると、拿捕の心配なく、魚が獲れるという素朴な期待から、羅臼の漁民が、競って会員になったのはいうまでもない。
 この会員証の授与式にポリヤンスキー駐日ソ連大使が出席したことも大きな話題になった。
 もともと、二百カイリ設定後まで、羅臼では、三カイリ操業がみとめられていたが、53年秋から、それまで、安全だった操業地域で拿捕事件が相次いだ。
 羅臼海上保安署によると、54年に拿捕された同漁協所属の漁船は、7隻にのぼる。
 日ソ親善協会の会員証が発行されたのは、この厳しい締め付けの後である。
 羅臼の漁民は、この措置をよろこび、同漁協内に、羅臼日ソ友好親善協会を結成、日ソ親善資料室までつくっている。
 その後、羅臼漁協の漁船が拿捕される事件が減って、会員証をあたえられた漁民の水揚げ高が目立ってのびはじめた。
 一方、根室になんの恩恵もなかったのは、北方領土返還運動の拠点となっているからであったろう。
 羅臼漁民に、安全操業の許可証にあたる会員証を与えることによって、北方領土返還運動の全国的な基地となっている根室を孤立させるというソ連の露骨な戦略が、はしなくも、羅臼漁民のレポ船化をうみだしたのである。
 羅臼での取材を一泊二日で切り上げて、ふたたび、根室に帰った。

 ●レポ船は女性も運んでいた?
 わたしには、取材しているなかで、ある噂を耳にした。
 レポ船が女性を運んでいるというもので、警察にも何通かの投書があったというが、根室署にたずねても、なにも語ってくれなかった。
 その女性を知っている唯一の証人が、小料理屋の女将だった。
 女性の名前は「英子」で、根室から釧路へ移って、Mというキャバレー店に勤めたというが、その後、行方がわからなくなった。
 英子は、清水の船でソ連領海に入って、数時間、ソ連の監視艇内ですごしたあと、ふたたび、清水の船で帰還したという。
 どこからもれつたわってきた話か不明だが、英子が麻薬中毒で、その弱みを握られて、1出漁当たり10万円で船に乗せられたというが、確証はなかった。
 翌日、釧路のキャバレーMへ行って、英子らしき女性を探したが、みつからず、英子を知っているホステスもいなかった。 

 レポ船の 合羽かぶりた 女(め)郎花
       春をひさぎて 北風さぶし

 ●レポ船第一号が語る人脈図
 喫茶店「どんぐり」の伊藤から、東京の事務所に電話がかかってきた。
 伊藤がいう、レポ船の専門家筋の人物とようやくアポがとれたという。
 わたしは、東京の仕事を早々に切り上げて、7月の初旬、根室にむかった。
 伊藤から紹介された人物は、柔和だったが、信念のつよそうな紳士で、自己紹介の声にも張りがあった。
 わたしは、面談の謝礼をのべてから、もらった名刺を手にとった。
 水産会社の経営者で、漁業協同組合の幹部もつとめている。
 いくつかの団体役員を兼務しているほか、政党の根室支部にも関与していた。
 伊藤が、紳士の前歴をのべる前に、わたしに匿名の条件を申し入れた。
 わたしは、同意して、原稿には、かれをT氏と書かせてもらうことにした。
 伊藤は、思いがけなく、T氏を、根室におけるレポ船の第一号と紹介した。
 わたしは、意表をつかれて、T氏へ目をやった。
 T氏は、わたしを見て、ゆっくりと口をひらいた。
「わたしは、これまで、部外者に、レポ船についていちども語ったことはありません。なぜなら、私自身、過去に古い傷をもっているからです」
 終戦直後、国後島がソ連に占領されて、島民は、着のみ着のままで、同島を脱出、本土に引き揚げた。
 だが、昭和20年10月の統計によると、北方四島からの引揚者は、在住者の四〇%強にすぎない。
 国後島出身で、戦時中、南条機関という情報機関に所属する情報将校だったT氏は、戦後、肉親を救うため、単身で、野付半島から小さな漁船で国後島へ渡った。
 だが、肉親が住んでいる村落にたどりつく直前にソ連兵に捕まって、身柄を拘束された。
 厳しい取り調べのなかで、執拗に聞かれたのは、軍隊経験の有無であった。
 T氏が軍隊経験を頑強に否定したのは、情報機関の将校だったことが知れると処刑される可能性があったからだった。
 家族を目の前にして、むざむざ殺されてたまるかという気迫がソ連側につうじたものか、ある日、ソ連側から提案をもちかけられた。
 スパイをやれというのである。
 情報機関の将校だったT氏が国家を売ることなどできるはずはなかった。
 役場の資料はすでに処分されていたが、島民の口から軍人だったことがばれないという保証はなかった。
「国を売るなら処刑されたほうがましだ」
 覚悟をきめたものの、T氏は、そのとき、スパイの条件をたずねた。
 進駐米軍の動向探れという。
 だが、日本では、内偵機関が壊滅して、極秘情報がとれるはずはなかった。
「新聞記事や官報、GHQの配布資料があるはずだ」
 T氏はわらった。そんなものは、かんたんに入手できるばかりか、進駐軍とソ連警備のケンカなら高みの見物をするだけである。
 その役割をひきうけて、T氏には、代償として、レポ船のリーダーとしての権限をあたえられた。
 漁師と主張してきたので、その代償のつもりだったようだが、T氏には漁師の経験はなかった。
 だが、ソ連のお墨付きのもとで、いつのまにか、T氏を中心に、レポ船団ができあがっていった。
 わたしはT氏にたずねた。
「捜査当局や漁業関係者らによると、根室には、三系統・四天王といわれる元締めがいるといわれていますね。なかでも、清水一己は、大物で、レポ船団の旗頭と聞きます」
 T氏は、首をふって、遠くを見る目で、記憶をまさぐった。
「清水は傍流、わたしの後を継いだのは、村井寛で、レポ船の取材してきたのなら、名前くらい聞いたことがあるでしょう」
 村井寛は、オホーツク海の帝王と仲間内で畏敬された通称寛ちゃんで、戦時中、樺太で警察官をやっていただけに、ロシア語に堪能で、しかも、ソ連人の機微にもつうじて、ロスケにも人気があったという。
 
 ●T氏からはじまるボスの系譜
「寛ちゃんは、戦後、根室に引き揚げてきて、一介のヤシ衆からスタートしたが、レポ船の船主になってから、ソ連の信用をえて10年間でカニ船5ハイをもつロスケ船頭の 頂上にのし上がった。いまは引退しているが、その影響力はいまもかわらん」
 レポ船団のボスの座を村井からうけついだのが、八紘水産を経営していた石本登である。
 T氏から村井、村井から石本まで、レポ船団のボスがはっきりしているのはここまでである。
 レポ船団は、非合法で、闇の存在だが、やくざにはやくざのしきたりがあるように、一定のルールがあって、国家機密をもちだすなどのことはなかった。
 石本が死亡した後、レポ船の継承者となったのが木村文雄と北島茂である。
 2人とも、北海道新聞などのメディアにKというイニシャルで登場する。
 木村は島根県出身で、昭和35年頃、根室にきて鉄工所の工員を経て、八紘水産の漁船員になり、後に石本レポ船団の帳場を預かるようになった。
 そして、昭和49年には、持ち船や配下船を合わせて14隻を擁するボスになった。
 木村は、石本の寝首をかいて、のし上がったといわれるが、木村は、親分の石本をソ連のスパイと公言するような男で、レポ船団の結束はこのあたりから怪しくなってくる。
 石本の死後、木村は、その組織を奪って、船団のリーダーとなる。
 根室のレポ船団では、木村が、現在も、多くの船団や配下をもって、頂点に君臨している。
 北島は石本のいとこである。
 木村と同様、八紘水産の船員からのしあがって、二隻のレポ船をもつようになったが、木村の荒々しさとは反対のおとなしい男で、根室漁協の幹部としての活動以外、表立った行動はみられなかった。

 ●レポ船に釧路のヤクザが介入
 木村の粗暴な性格をあらわすのが「北海道新聞事件」である。
 木村の自宅へ取材にでかけた北海道新聞の記者が、日本刀で追い回されたというのである。
 後日、木村は「貴社社員のボタンをご送付申し上げます」という文書をつけて、ちぎれた記者のボタンを本社に送りつけている。
 そんな木村が、配下の船頭の独立をみとめるはずはなく、独立しようとすれば、威嚇や脅迫から、いやがらせまでおこなった。
 いやがらせは、根室海上保安部への密告は序の口で、ソ連警備隊に臨検までたのみこみ、あるいは、女房が浮気しているなどのデマを流した。
 だが、木村の配下だった田中が独立して、多くがそのあとを追った。
 一方、木村の船団から職業漁師がいなくなって、代わって、釧路のやくざが船に乗りこむようになった。
 レポ船が乱立するようになると、ソ連に渡す情報も高度なものなって、自衛隊や在日米軍のデータにくわえて、北方領土返還運動に関する情報や右翼団体の名簿までがソ連に流れるようになった。
 これにたいして日本側は、道警釧路本部外事課と釧路の公安調査局、自衛隊調査隊や海上保安部が取り締まりと情報収集をおこなった。
 だが、日本には、国家機密保護法もスパイ防止法もないため、スパイ行為を摘発しても、処罰することができない。
 事実、過去に検挙されたレポ船は、すべて、関税法や検疫法、漁業法違反や窃盗などの微罪で処理されている。
 わたしが、昭和57年、日新報道から「レポ船の裏側」を実名で出版したのは、スパイ禁止法がない日本の法律では、レポ行為が野放しになっているからであった。
 報道側が仮名やイニシャルをもちいるのは、人権侵害や名誉毀損をおそれてのことだが、さいわいにも、版元の日新報道は、万が一の場合、裁判を受けて立つ覚悟で、わたしを応援してくれた。
 この出版が一つのきっかけとなって、木村以下、レポ船の船長が検挙されて北の海からレポ船が壊滅した。
 レポ船と云うスパイ軍団の噂は、その後、耳にしたことはない。

 ●レポ船取材余話
 冒頭、赤坂の事務所に、30数年前に摘発されたレポ船の船長の孫と称する人物から電話がかかってきたとのべた。
 その人物が、木村の身内かどうか不明だが、木村が、当時、釧路のやくざとつるんでいたこともふれた。
 漁師に逃げられた木村が、やくざを船に乗せたのだが、これがやくざの資金源になって、レポ船団が、やくざのシノギ(稼ぎ)の場になってしまったのである。
 レポ船の乗組員は一隻当たり15人前後である。
 レポ船団が20隻としても300人前後となる。
 違法操業といっても、漁業中心の根室経済における影響は、けっして小さなものではなかった。
 なにしろ、禁猟区でカニなどをとるレポ船の漁獲高は、魚市場で注目されるほど大きかった。
 このレポ船による密漁は、漁業を主たる産業とする地元にとって、必要悪という面もあって、表立って、取り沙汰されることはなかった。
 レポ船壊滅によって、いちばん大きなダメージをうけたのが、資金源をつぶされた釧路のやくざだった。
 有吉という知り合いの青年から電話が入った。
 北海道釧路のやくざの組員が「レポ船の裏側」の著者である山本峯章の事務所の在所地をたずねてきたという。
 有吉は、国士舘大学の剣道部出身のやくざで、池田会のメンバーであった。
 池田会会長の池田烈とは、同窓で、身の危険がともなうフィリピン取材(ホナサンのクーデター事件/若王子事件)にはボディガードを兼ねてつきあってくれた。
 有吉が、偶然にも、釧路のやくざと知り合いだったせいで、難を逃れることができたが、そうでなければ、一悶着おきたかもしれなかった。
 余談だが、わたしは、フィリピン、マルコス時代の情報省センダニア大臣や情報省次官マニーモンティロと友好関係にあって、フィリピンばかりかアジア諸国の情報をやりとりしあった。
 有吉も、大臣らとの会食に同席して、フィリピンに興味をもったが、ガンであっけなく早逝してしまった。
 別項で詳述するが、フィリピンにおけるイエロー革命、ホナサンのクーデター、若王子誘拐事件など、先んじて、テレビなどでレポートできたのは、マルコス政権時代の情報省関係の要人との深い人間関係が役立ったのである。

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2020年09月16日

 晩夏 九首

盟友川島忠一都議(議長)早逝はや十年の日
   かの山の ふもとに眠る 君なれど
     吾がまなうらに 宿りて消えぬ

 秋に想う
   月かすみ すすき波打つ 風の音(と)に      
     いかに在(お)わすか 君想う秋(とき)

 重度障害を持つ吾が児、四十歳の日
   あが女童(めわら)幾歳へても 愛しきや
     ひねもす笑(え)みて 幸なるか 汝(な)は

 敗戦により虚脱と厭世観で山に籠りて炭を焼いた父想う
   あしびきの 山を仰ぐは 寂しけり
     炭焼く窯の 煙り立つ日は

 現役をリタイヤして帰郷せし友、庭前の柿の実たわわに実りたと便りあり
   干し柿を つくりて送ると 君の文
     よみて想うは 汝(な)の里の秋

 令和二年八月十五日 靖国神社 今年も親拝なし
   この杜(もり)の 静寂(しじま)をやぶる せみしぐれ
     親拝乞う 祈りなるかも

   英霊の 詠みたる遺歌(うた)の 雄々しさの
     心のそこや 神のみぞ知る

   誰(た)がために いのちすつるか 民草は
     守りしものは 国体なりや
                  
 令和二年九月十日 尊皇政治家村上正邦先生逝く、長きにわたる御指導、御交友ありがたく感謝
   み霊の 成仏祈る 今朝の秋
     君死にたまうと 悟りて侘しき

  







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2020年09月10日

 わが青春譜24

 ●TV局へいやがらせの投稿
 昭和53年ごろから、物価問題や食の安全などをテーマに、テレビの出演がふえ、これに関連して、雑誌や新聞などの取材や寄稿の機会も多くなった。
 テレビは、TV東京の「ザ・ロンゲストショー」、「おはよう東京」、「ハーイ二時です」などに数多く出演して、のちに週に一度、テレビ朝日の「危険がいっぱい」という15分コーナーでは、松島トモ子とともに番組を担当させてもらった。
 この頃は、アフタヌーンショーの全盛期で、宮尾すすむの「日本の社長」や馬場こういちの「納得いかないコーナー」などの番組が人気を博していた。
 俳優出身の司会者、川崎敬三のアフタヌーンショーも高視聴率で、わたしが週に一度、出演させてもらったのは、川崎氏とウマがあったせいだった。
 昭和54年頃、アフタヌーンショーの番組収録後、ディレクターがわたしに一枚のハガキをもってきた。
 テレビ朝日の社長に宛てたもので、わたしを中傷した文言が並んでいた。
 そのハガキをディレクターからあずかって、わたしは、ある知人を訪ねた。
 知人は、ハガキをもって奥にひっこみ、しばらくして、もう一枚のハガキを手にもどってきた。
 もう一枚のハガキは年賀状で、横にいやがらせのハガキを並べた。
 二枚のハガキは、同じ筆跡で、年賀状の差出人は、恩田貢だった。
 わたしが、恩田に抗議の電話をかけると、あっさりとみとめて、謝罪したいという。
 数日後、恩田が指定した新橋の料亭でまっていると、恩田は、精悍な風貌の男性といっしょにすがたをあらわした。
 のちに、自民党参議院会長や労働大臣をつとめる、若き日の村上正邦議員であった。
 村上議員は「恩田を勘弁してやってくれないか」といって頭を下げた。
 わたしは、水に流して、恩田にはなにも問わなかった。
 恩田は、わたしが「海部メモ」を世にだしたため、大きな迷惑をこうむったという。
 げんに、赤坂で暴漢に襲われて、眼部に重傷を負ってもいる。
 もともと「海部メモ」の出所は、有森―恩田ラインである。
 わたしが恩田から「海部メモ」をあずかったのは、日商岩井に巣食っているソ連スパイの追及のためで、FX商戦における政治家や商社の不正が発覚したのは、その情報収集の過程から生じた瓢箪から駒≠フような話であった。
 わたしは、事件追及に「海部メモ」を活用した事情について、恩田の了解をえており、恩田も承知していたはずだった。
 政治や財界の疑惑追及には、妨害や報復がつきもので事件屋≠ニ呼ばれる人々のなかには、疑惑を逆手にとって、金銭を要求する犯罪者もいる。
 不正や疑惑を追及する者は、二重三重のリスクにとりまかれているといってよいが、その意味で、恩田が襲われたことの責任の一端は、わたしにもあったことになる。
 後述するが、北方領土を占領しているソ連に、密漁と交換条件に情報提供をおこなっていた「レポ船」(情報船)の取材では、組織が道警の手入れをうけてを大打撃をうけたため、わたしは、連中からつけ狙われることになった。
 さて、恩田事件で、仲介の労をとられた村上議員とは、その後、伊豆七島の援助や防衛施設庁関係の陳情などでお世話になり、現在も、親しく交際させていただいている。
 
 ●日韓疑惑事件と大蔵省メモ
 亡くなったが、かつて、大泉一紀という友人がいた。
 元読売新聞の政治部の記者で、わたしと知り合ったときは、すでに、読売を退社して、経済や為替情報を発信する自由経済社という会社を経営していた。
 大蔵省や通産省にパイプをもち、折々、話題になったテーマの官庁情報をもたらしてくれた。
 当時、官庁の書類は、まだ、コンピュータ管理されておらず、大きな書棚に仕分けして、並べられていた。
 担当職員は、いつでも、閲覧できたが、顔がきいた大泉は、その書類をもちだし、コピーしたあと、なにくわぬ顔で返却するのだという。
 53年、長年、くすぶっていた日韓疑惑問題が表面化してきた。
 とりわけ、問題とされたのが、日本の援助で完成した「ソウル地下鉄」疑惑だった。
 事務所にやってくるマスコミ関係者の関心も「海部メモ」から徐々に「日韓疑惑」へと移っていった。
 そんな、折、大泉が大きなネタをもちこんできた。
 大蔵省の名入りの用紙に書き込まれた10ページのレポートであった。
 表題に「日韓経済協力関係に於ける問題点」とある。
 官僚が政治家に当てたものと思われたが、署名も宛名もなかった。
 内容は、世間の耳目を集めている「ソウル地下鉄」問題についてだった。
 レポートにはこうある。
 地下鉄三号線の計画案について、予算委員会で、諸先生から質問がなされているが、上記三案件プロジェクトと同様、逆献金の実態が細部にわたって追及されている。
 事実関係については、新聞報道されているとおりであるが、具体的に窓口となった商社メーカーのあいだで、当初、政府ベースで決定した協力金額をドルと円、ウォンで換算して、為替差益を計上して、その差額分を車輛の見積価格に上積みしていたものである。
 本件については、○○先生はじめ○○氏が介在しており、現在東京地検及び警視庁の方で調査中である。
 本件にまつわる本邦政治家への逆献金は2億6500万円で、○○銀行分が1億1500万円で、これらがスイス銀行及びFNCBニューヨーク支店口座へ振替入金されている
 このほか「1968年10月30日実行の第三期市外電話拡張事業について」という項目には、日韓政府間の経済協力のすべてのプロジェクトの対処状況が詳細に書かれている。(拙著「国益を無視してまで商売か」日新報道より抜粋)
 このメモに、当時、わたしの事務所に出入りしていたマスコミ関係者がとびついたのはいうまでもない。
 わたしは、週刊ポストをパートナーにえらび、記者にメモのコピーを渡した。
 レポートを書いた官僚は特定できなかったが、政治家は見当がついた。
 45年7月に開かれた日韓定期閣僚会議(ソウル)に、日本側の首席として福田蔵相(当時)が出席している。
 このとき、外務省をツンボ桟敷に置いて、一億ドルの借款が決定された。
 いわゆる政治判断で、このうち、政府借款の72億円については、韓国側の使用計画がないまま、交換文書で約束されたことから、疑惑の的になった。
 その翌年の大統領選をめぐる資金とも噂されたが、日韓両国のトップ同士の秘密事項で、明らかにならなかった。
 国税庁の調査が入った「ソウル地下鉄」問題も、発端は、橋本運輸大臣(昭和45年4月)の訪韓で、日本が、韓国からの請願をうけて、調査団派遣などの裏舞台のプロジェクトが立ちあがった。
 浦頃製鉄所プロジェクトも、ほぼ同じ時期にはじまっている。
 昭和40年、日韓条約が締結されて、以後、多くの日韓援助プロジェクトがうごきだしたが、一つとして、疑惑を生まなかった案件はなかったといってよい。

 ●李厚洛の愛人K子
 一連の日韓疑惑について、中心的な役割を演じたのが、当時、韓国の中枢にあった朴大統領側近のナンバーワン、KCIA部長の李厚洛であった。
 駐日大使をつとめた李の任務も、対日工作のパイプ役とささやかれていた。
 わたしの事務所には、たびたび、スキャンダルももちこまれる。
 そのスキャンダルの主が李厚洛とあって事務所は色めきたった。
 李厚洛の愛人だったというK子(赤坂芸者)はこううったえたという。
「わたし李厚洛の愛人でした。李さんと別れるとき、手切金として五千万円を小切手でいただきましたが、ある韓国企業の社長が、定期預金にしてあげるといってもっていき、返してくれない」
 李厚洛は、72億円不明金が大統領選挙に流れたと噂された朴政権の中枢にいて「金大中事件」をひきおこした韓国中央情報部の責任者(KCIA部長)だった人物である。
 わたしは、週刊ポストと東京タイムズの記者とともにK子と会った。
 K子は昭和23年、秋田で生まれ、中学を出て上京して洋裁学校にかよっていたが、色白の器量を見込まれて、千夏の芸名(半玉)で、座敷にでるようになったという。
 李厚洛と出逢ったのは赤坂の料亭「中川」で、李が駐日大使として、日本に赴任したのち、愛人の関係になったという。
 詳しい話は、当時の週刊ポストや東京タイムズに載っている。
 わたしが関心をもったのは、李が駐日大使からKCIA部長の要職にあった47年まで、K子との愛人関係がつづいていたことだった。
 この間、疑惑がもたれる日韓プロジェクトが多く組まれている。
 だが、K子の口から、疑惑にかかわった日本の政治家の名前を聞きだすことはできなかった。
 K子は李厚洛に会うため、20回以上、渡韓している。
 そして、その都度、200万円を受け取っていたという。
 K子が、李厚洛と別れたのは、金大中事件の直後だったという。
 金大中事件に深くかかわっていたとして、李が、中央情報部長を解任されたからで、その6年後、朴正煕が暗殺されると、李は政界を去った。
 李厚洛との別れをK子に告げたのは、ロッテ社長の重光武雄であった。
 K子が五千万円とりもどしてほしいと頼んで来た相手方の在日朝鮮人実業家はロッテの重光社長だったのである。
 手切金五千万円は、三和銀行新宿支店に定期預金するとして重光が預かった。
 その後、K子は、預金を全額、渡してくれるよう重光にかけあうが、もらったのは五百万円だけだったという。
 一方、国会や国税庁、マスコミが、大蔵省メモを追及したが、結局、疑惑の解明はならなかった。
 日韓疑惑の本質は、日本の韓国にたいする過度な贖罪意識と、韓国の甘えがつくりあげたもたれあいの構造で、双方の政府に、冷静な理性やルール意識が欠如していたのはいうまでもない。
 その後、K子の事件は、社会党の代議士が仲裁に入って、ロッテ重光社長からKに4500万円が支払われて一件落着となった。

 ●「日韓問題」余話
 わたしが、頭山立国氏と交友を深めたのは、昭和40年代で、当時、立国は、新橋に事務所を構えていた。
 その後、福岡県の県民紙、福岡新聞社の社長になって、会う機会も少なくなり、わたしとは疎遠になった。
 頭山立国は、歴史的なアジア主義者で、右翼の巨頭といわれた頭山満の三代目で、わたしたちは、黒龍会の内田良平ら快人物を育て、中国の孫文や朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボースらを支援した玄洋社の総帥として、頭山満の偉名を脳裏にきざみこんでいる。
 立国が名を上げたのは、インドネシアのスカルノ大統領が提唱した「ガネホ(新興国スポーツ大会)」に、日本選手団の団長として、日本体育協会の反対を押し切って参加したことであろう。
 スカルノ大統領は、アジア主義者頭山満翁の孫、頭山立国を心から歓迎したという。
 昭和51年頃、頭山事務所主催の講演会が催された。
 講師は民社党委員長の春日一幸代議士であった。
 春日は、日韓議員連盟の副会長で、会長は、岸信介がつとめていた。
 春日一幸は弁舌爽やかで経験豊かな政治家であった。
 その日の講演でも、日本と韓国の今後の在り方を熱っぽく説いた。
「韓国も新しい大統領全斗愌になって、いままで問題になってきた疑惑問題はなくなる。全斗愌政権から新しいパイプになって、きれいな水が流れてくる」
 祝賀会の挨拶ならそれでいいだろうが、その日は、講演会である。
 核心を突く問題提起や新しい展開がしめされなければ講演会とはいい難い。
 わたしは質問に立った。
「いま、韓国は新しい政権になって、日韓関係のパイプも新しくなるといわれた。そうであるなら、多くの疑惑が指摘されている日韓議員連盟会長の岸信介元首相も辞任して、新たな日韓関係を新しい人材で築くべきではないのか」
 春日一幸は血相を変えた。
「キミ、それは岸先輩に失礼だ」
「どんなにきれいな水が新しいパイプで流れて来ても受ける方が汚れていたらどうなりますか」
 そのとき、主催者の頭山立国がわたしの背後に立って、小声で声をかけた。
 わたしは、察して、質問をやめたが、少々、がっかりした。
 このとき、春日一幸が、心配にはおよばない、岸さんは反省するのが得意なひとだから、といなしてくれれば、満場の笑いを誘ったであろうし、りっぱな返答にもなっていたはずである。
 それから数か月後、川崎敬三氏のご子息の結婚式に招かれた。
 川崎はわたしがレギュラー出演していアフタヌーンショー(テレビ朝日)の司会者で、個人的にも親しくさせもらっていた。
 披露宴の席につき、新郎新婦の方に目を移すと、仲人の席に、春日一幸夫婦が座っておられた。
 わたしは、目礼をしたが、過日の講演会のことなどはすこしも念頭になかった。
 春日も政治家なら、そんなことをいちいち気にしているはずはない。
 だが、春日は、わたしの目礼を無視して、知らぬげであった。
 春日は、野党であるが、外交や防衛政策にかけては、自民党の陣笠議員よりはるかに国益にそって意見をのべるすぐれた治家であった。
 わたしは、自民党支持者だが、民社党には大きな期待を持っていた。
 チャンネル桜という有線テレビの討論会では、塚本民社党元委員長と何回となく議論したが、その主張に同感こそすれなんの違和感ももつことはなかった。
 宴たけなわの頃、川崎氏がわたしのテーブルに足を運び、他の来賓に挨拶をしながら、耳元で「春日先生が、どうして山本君がここにいるのか、あなたとはどういう関係なのかと尋ねられるので、わたし番組に出演してもらっているんです」と応えておきましたという。
 春日は「ああそう」と、それきり黙ってしまったというが、講演会のことを根にもっていたのだとしたら、あまりにも、ハラが小さい。
「おい、山本君」とわたし呼びつけ「過日はご苦労」といってのけるくらいの腹芸はできないものだろうか。
 大政治家、春日一幸イメージが、わたしのなかで、たちまち、萎んでいった。

 大人(おおびと)と尊(たっと)ぶ 人の小さきに
     宴(うたげ)の席で 寂しさ覚ゆ



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2020年08月28日

 わが青春譜23

 ●FX商戦と怪文書、海部メモ
 内部でソ連のスパイが活動しているという告発にたいして、当の日商岩井の反応は鈍かった。
「狸穴(ソ連大使館)が手狭なので、どこの商社も1〜2人のエージェントを預かっている」などと抗弁して、なんら対策を打とうとしないのである。
 わたしたちが、新たな情報入手作業に入った昭和52年の暮れ、FX戦線に新たな動きがでてきた。
 次期戦闘機F15の欠陥追及に忙しかったマスコミが、新たに米軍から要請されたAEW(早期警戒機)や海幕のPXL(対潜哨戒機)の導入問題へ視点を移しはじめたのである。
 日商岩井にも動きがあるようだったが、この段階で詳細はつかめていない。
 そんな折、知人の恩田貢(元週刊文春記者)が事務所にやってきた。
 恩田は、第二次FX商戦にからんで、41年2月、防衛関係者と政界に「防衛庁の黒い墓標」と題する怪文書をばらまいた犯人として警視庁に逮捕されている。
 怪文書は、防衛庁の実力者、海原治官房長をターゲットにしたもので、この後も「防衛庁の葬送行進曲」「防衛庁版 汚職の道教えます」など5通の怪文書が流された。
 怪文書の狙いは、河野一郎と伊藤忠の政商コンビの裏側で暗躍する海原治を叩くことにあって「佐藤総理大臣」に宛てた最後の怪文書には「海原官房長の斬首をお願い致します」とあった。
 5通の怪文書には3つの狙いがあるようだった。
 海原はこの怪文書の目的について、つぎように語っている。
 第1はT38の入手を阻止して、競合関係にあるF4ファントム導入の道を滑らかにすること。
 第2は陸上自衛隊の地対空ミサイル「ホーク」の国産化を三菱電機の手からもぎ取って三井グループの手に移すこと。
 そして、第3は、以上1、2の目的を達成するためにわたし(海原)を防衛庁から追い出そうとする勢力とたたかうことという。
「わたし(海原)が事務次官になると、第1と第2の目的が達成できなくなるおそれがある」からである。
 それには、海原が伊藤忠や三菱の代弁者で、河野系であるという烙印を押しておく必要があった。
 ちなみに、河野と対立していたのは、グラマン社に近い岸信介で、日商岩井を経由して、グラマン社から不正な資金をうけとったとされるが、このグラマン疑惑は、時効の壁に阻まれて事件になっていない。
 海原は41年10月、怪文書の発行主「ATOM」なる者を氏名および住所不詳のまま告訴した。
 翌年、元朝雲新聞(防衛庁の機関的新聞)記者の山辺利政と週刊文春の社外ライター恩田貢が逮捕された。
 だが、海原も、次官候補から外されて、国防会議事務局長の閑職に追いやられている。
 この人事に、岸の思惑がはたらいたと囁かれたのはいうまでもない。

 ●怪文書事件の底流をなすもの
 怪文書の作成者として逮捕された恩田は、週刊新潮(54年4月5日号)に「怪文書は有森国雄に頼まれてつくった」とする告白手記を書いている。
 有森は、日商岩井の副社長、海部八郎の秘書である。
 怪文書を仕掛けたのは、日商岩井の航空機部門を担当する海部軍団だったのである。
 51年9月。有森は、共同通信の斎藤茂男のインタビューにこう応えている。
「第2次FX商戦は、海部が中心となって、田中六助(衆院議員)らを介して岸信介元首相らに接近、岸事務所をつうじて、防衛庁工作をおこなった」
「岸事務所には新たにはたらきかけた。わたしはメッセンジャーで上のほうは海部しか知らない。海部はアメリカから帰国後、政治を利用しなければ仕事ができないという考えをもつようになっていた。池田内閣の時代、秘書グループに近づいて池田首相の秘書官だった田中六郎と親しくなって、わたしも海部に従って田中を訪ね、しばしば、酒席をともにした。岸事務所へ接近できたのは田中の紹介であった。松野頼三は岸直系で、松野と海部はなみのつきあいではなかった」
「当時の政治情勢下で、防衛庁に影響力をもつ政治勢力といえば、第一次『グラマン対ロッキード戦争(岸信介対河野一郎)』以来の確執があって、佐藤内閣以来、いちばん事情が解って、力を発揮できるのは『岸事務所』ということになった」
 二次防当時、伊藤忠のノースロップ社製FX(高等練習機)T38の導入を考えていた海原一派とF4Eファントムを売り込もうとしていた海部軍団は真っ向から対立していた。
 防衛庁には、すでに、河野―伊藤忠―海原ラインが確立されている。
 海部軍団は、なんとしても、海原を防衛庁から叩き出したかった。
 海部軍団の後ろ楯となった岸派には、第一次FX商戦で、倒閣を駆け引きに使った河野一郎から煮え湯を呑まされた苦い経験があった。
 この防衛庁の利権奪回は、岸・佐藤派にとって、遺恨十年の悲願であった。
 ところが、岸・佐藤派の前に防衛庁の天皇といわれた海原が立ちふさがっっていた。
 怪文書による海部軍団の謀略は時宜を得たもので、佐藤内閣改造で、佐藤派四天王の一人、松野頼三が防衛庁長官となった8ケ月後(40年6月)に配布されている。
 42年7月27日。佐藤内閣によって、海原の異動が発表された。
 海原が、防衛庁事務次官コースから外れて、内閣官房の国防会議事務局長へ転出したのである。
 海部が岸事務所にぴったりとくっつき、政治力を使う一方、ブラックジャーナリズムをうごかして裏工作をおこなった成果だった。
 第三次FX商戦は、事実上、F14(安宅産業)とF15(日商岩井)の一騎打ちになったが、この時代、FX商戦は、第一次から第三次に至るまで、政権争奪の道具だったのである。

 ●実在した「海部メモ」
 52年の暮れ、恩田貢が事務所へやってきた。
 恩田には、日商岩井の「スパイ事件」の調査で相談にのってもらった経緯もあって、単刀直入に、FX商戦にかんする情報の提供をもとめた。
 わたしは、恩田が決定的な材料をもっているとにらんでいる。
 というのも、恩田は、海原を叩いた怪文書「ATOM」で、警察に逮捕されているからである。
 50年の春、週刊ポストが特集を組んだFX商戦の記事に、恩田や有森らが関与した怪文書事件にかかるメモや書類のコピーが使用されていた。
 もっとも、ポストの記事では、海部メモはまだ表面化していない。
 記事の内容にふれると、恩田は「週刊ポストの記事のネタ元は有森ではないか」と核心にふれてきた。
 わたしは恩田にたずねた。
「怪文書事件の当時者は、有森ではなく、あなただ。週刊ポストに書類をもちこんだのはあなたではないのか」
 恩田はわたしの質問をはぐらかした。
「海部と喧嘩して日商岩井を辞めた有森は海部を恨んでいた。有森なら資料を(ポストに)流す動機がある」
 わたしは恩田にたたみかけた。
「週刊ポストにもちこんだ書類のコピーを見せてくれませんか」
 恩田は渋面をつくって黙りこんだ。
 わたしは、恩田がなにか決定的な書類をもっているとにらんだが、そのときは深追いせず、食事をして別れた。
 あくる日、恩田から「明日うかがう」という電話が入った。
 例の書類をみせてくれる気になったとかと期待を抱かせた。
 翌日、事務所へやってきた恩田は内ポケットから封筒をとりだした。
「表にだしたくないのだが」
 怪文書事件にかかるメモや書類どころか、後に大問題となる「海部メモ」のコピーであった。
 脚注/「海部メモ」F4ファントム戦闘機の導入がきまった第3次FX商戦で出回った怪文書。日商岩井の海部八郎が作成し。岸前総理と中村秘書、海部らが話し合った結果、ファントム導入が決まったこと、岸信介に謝礼として2万ドルが支払われたことなどが書かれている。のちに、松野代議士に5億円を贈ったことも判明した。海部メモから、政治家やブラックジャーナリズを利用してでも商戦を勝ちぬく海部商法が批判にさらされた

 ●幻の海部メモ入手!
「海部メモ」には二種類ある。
 一つは、岩井産業の合併する前の日商のメモ用紙に書かれたもので、内容は海部が当時の経理部長に宛てた「支払い願い書」である。
 @経理部長殿―海部㊞
 松野、福田両氏に対する支払い。岸氏より下記に支払い方連絡ありましたので、お手配方願います。$払いで願います。
 Aもう一つは、川崎重工の砂野所長に宛てた書き付けで、アメリカのホテルに備え付けの便箋(OLMPTCのロゴ)二枚が使用されている。
「7月23日午前9時より岸前総理中村秘書、海部他に日商社員一名を交えて次期戦闘機について懇談、四機輸入の件について、岸前総理より輸入する旨の確認。三次防として最低100機3年間に200機(50/50国産化)する旨の確認。同時にマクドネル・ダグラスより川重50%、PLA(三菱50%)異存なき旨、岸さんに回答。日商より岸氏に$20、000を支払いました」 
「4機輸入の場合の謝礼など、いずれ川重より、岸氏に挨拶して頂かねばならないかと存じます。小生今月末迄に帰国致します。敬白
 これが海部から川崎重工の砂野社長に宛てた便箋の書き付けである。
 これが、後にグラマン疑惑事件の解明の糸口となり、国会で追及された際にもちだされることになる。
 恩田によれば、海部の書類の整理をする立場にあった秘書の有森が、海部とトラブルをおこして会社を辞める際、コピーして、もちだしたという。

 ●海部の件から「手を引け」
 53年になって、海部メモの真偽確認のため、海部に内容証明をつきつけた。
 数日後、知人が、とつぜん、事務所にやってきて、「海部の件から黙って手を引いてほしい」という。
 わたしは友人でもある来訪者に「わたしが手を引くようあなたに依頼したのはだれか」たずねた。
 口を閉ざした友人に申し出を断ったのはいうまでもない。
「FX疑惑の解明はジャーナリストとしての仕事で、国益にもかかわっている。手を引けというのは無礼であろう」
 その後、日商岩井からなんの連絡もなかったが、代わりに、はじまったのがいやがらせや脅しの電話だった。
 罵声を浴びせ、あるいは、怪我をするぞなどの脅迫、無言電話もあった。
 わたしの事務所には、情報屋といわれるうさんくさい連中もやってくる。
 そのなかの一人が、わたしをつけ狙っている人物がいるという情報をくれたが、心当たりはなかった。
 日商岩井に近い筋の情報屋から、海部が側近に「ある人物に頼んであるから(海部メモ)は表に出ない」とうそぶいているという話も耳にした。
「ある人物とはだれか」とたずねたが、情報屋は、「いまにわかります」というだけだった。
 ある日、事務所のスタッフがわたしの代理で海部に面会をもとめると、女性秘書から海部の伝言がもたらされた。
 時間をつくるが、しばらく、待ってほしいという。
 近々、予定されている第四次防の閣議決定まで時間をかせぐつもりらしい。
 第4次防で、F15の採用が閣議決定されるのは、半ば、既成事実だった。
 第2次防のFX疑惑からすでに10年が経っている。
 1968年のダグラス・グラマン事件は、防衛庁の第2次防衛力整備計画における汚職事件だった。
 これが解明されずに、第4次防のFX商戦で、日商岩井のF15に決定することになれば、米戦闘機メーカーと日本の商社、政治家による三つ巴の汚職の連鎖≠ェなんの反省もなく踏襲されることになる。
 防衛力整備計画は、第1次(昭和33〜35年度)から第2次(昭和37〜41年度)、第3次(昭和42〜46年度)にいたるまで、戦闘機の機種決定が政治家の利権となって、1機当たり1千万から1億円のマージンが支払われていた。
 防衛力整備計画におけるFX疑惑は、米戦闘機メーカーと日本の商社、政治家のやりたい放題だったのである。
 わたしが、海部メモを世に問うたのは、米戦闘機メーカーからの賄賂もさることながら、防衛庁の事務方と自民党、大商社の癒着をあぶりだすことだったが、グラマン事件は、当時、報道が過熱していたロッキード事件の前では陰が薄かった。

 ●海部メモに群がった人々
 恩田が、苦渋の選択をして、わたしに「海部メモ」のコピーをよこした。
 わたしが、海部に「海部メモ」の真偽を質したのは、海部に会って、事件の本質を聞きたいと思ったからだった。
 その直後から、かかるようになった脅迫電話は、ことばづかいから、堅気の人物ではないと知れたが、わたしに打つ手はなかった。
 週刊ポストなどが報じるところでは、海部とケンカして日商岩井から去った有森が、他の書類とともに海部メモをもちだし、それが、恩田の手に渡ったという話になっている。
 問題はこのあとである。
 有森と恩田は、このコピーを右翼の大物、児玉誉士夫にもちこんでいる。
 児玉は、河野一郎と親しく、日商岩井の商売敵にあたる「伊藤忠―河野一郎―海原ルート」に近い。
 報道によると、有森が児玉から3000万、恩田が300万円の資金提供を受けている。
 以後、沈黙せよという意味合いではなかったろうか。
 海部メモが世に出て困るのは、海部ばかりか、メモに群がった人物である。
 わたしへのいやがらせや脅迫電話もこれらの事情を考えればうなずける。
 海部が時間稼ぎをしていたのも、いずれ、事件がいずれ沈静化するとみてのことであったろう。
 のちに恩田が警視庁の刑事から「恩田さん、あなたはバカだね。あのメモで大きなお金がうごいていたのに」とささやかれている。
 恩田は、社会正義のために海部メモわたしによこしたのではない。
 むろん、なんらかの経済的メリットがあったわけでもない。
 それどころか、得体の知れないグループから襲撃されて重傷を負っている。
 なぜ、恩田は、海部メモをわたしに渡したのであろうか。

●有森は二重スパイだった
 海部とのコンタクトはなかなか実現しなかった。
 一方、脅迫電話は、間絶なくつづき、取材活動は膠着状態に陥った。
 わたしは、朝日新聞記者B君と、東京タイムズ社会部の斎藤記者を事務所に呼んだ。
 メディアで攻勢をかけて、海部を交渉の場にひきだそうという作戦である。
それには、朝日と東京タイムズという硬軟両極の2紙はうってつけだった。
 朝日からは、海部メモの真偽をたしかめたのち、記事にしたいという連絡が入った。
 東京タイムズの斎藤記者からも、取材をすすめるという電話がかかった。
 53年3月18日、東京タイムズが核心をつくスクープ第一弾を打ち出した。
 東京タイムズらしい「FX機種選定に黒い献金」という五段抜きの大見出しである。
 記事は、有森がこれまでのFX商戦のなかでダグラス(日商)とロッキードの二重スパイをつとめてきたことや、防衛庁の一連の怪文書事件の内部事情を報じている。
 記事のなかで、ひときわ、耳目をひいたのが「ダグラス・グラマン疑惑」の真相に迫る部分で「日商グループが自民党最高幹部らに総額6億円の政治献金」「F5の採用を主張する防衛庁幹部の失脚」などの小見出しが躍っている。
 斎藤記者は、有森に面会をもとめたが、有森は応じなかった。
「日商を辞めてから10年もたっており、すべて昔のことだ。会って話すことはない」
 斎藤記者は、海部にも面談をもとめたが、多忙や「海外旅行中」などの理由で断られている。
 われわれの「ダグラス・グラマン疑惑」の追及は、米証券取引委員会が発表する一年前からはじまっていたのだが、不幸にも、ロッキード事件報道の陰に隠れて、世間の注目を浴びることはなかった。
「ダグラス・グラマン疑惑」が、大きな問題になっていれば、防衛力整備計画(1次〜3次)において、政治家の懐に、一機当たり単位で1千万〜1億円のバックマージンが払いこまれるダーティな仕組みが暴かれていたはずで、ソ連のスパイを自社ビルにかかえこむ危機管理能力の乏しい日商岩井も、4次防のFX商戦から排除されていたであろう。

 ●「ダグラス・グラマン疑惑」の表面化
 SEC(アメリカ証券取引委員会)に新たな動きがあると知人の情報関係者から連絡が入ったのが53年の晩秋だった。
 54年1月4日、SECは、グラマン社の不正な支払いを指摘した報告書を公表して、日本の政界に大きな衝撃をあたえた。
(1)1969年(昭和44年)、グラマン・インターナショナル社は、早期警戒機E2Cの日本政府への売り込みに関連して、日本政府当局者(単数)の示唆にもとづいて、日本の販売代理店を変更した。
(2)1975年(昭和50年)グラマン・インターナショナル社は、右の販売代理店が手数料の一部を日本政府当局者に支払った――というのである。
 ついに日商岩井が俎上に乗せられたのである。
 昭和54年1月4日。ダグラス社が、軍用機の売却にあたって、日本商社に計四十四万ドルコミッションリベートを支払ったとする「米ダグラス社の海外不正支払いに関する報告書」が公表された。
 1月5日、米国グラマン社の早期警戒機E2Cの対日売り込みの代理店を、伊藤忠商事から日商岩井への変更を提案した自民党高官名が、未公開資料に明記されていると発表。
 1月8日、グラマン社前副社長チータム氏が、介在した高官は、岸信介元首相、福田赳夫前首相、松野頼三元防衛庁元長官である発表した。
 この発表後、海部メモのコピーをもとめて、わたしの事務所に、マスコミ関係者が殺到したのはいうまでもない。
 わたしも、日商岩井のダグラス・グラマン疑惑(『国益を無視してまで商売か』日新報道)の執筆を開始したところで、事務所は、ときには、討論会のような騒ぎになった。
 
 ●国会で「海部メモ」追及へ
 昭和54年2月1日。 朝日新聞が「昭和41〜44年にかけて、戦闘機F4Eファントムを航空自衛隊に売り込むためマクダネル社が自民党の大物政治家に多額のカネを贈った」とする「海部メモ」について「同メモの作成経過を追求することが疑惑の謎を解くのに役立つ」と報じた。
 同じ日の2月1日。日商岩井航空機部門担当、島田三敬常務が赤坂の同社ビルから投身自殺した。
 2月14日。社会党の大出俊代議士が、衆議院予算委員会で、海部副社長、植田社長、有森元航空機課長代理に質問した。このとき、手が震えて字が書けなかった海部のすがたがテレビに映しだされた。
 海部は「関知しない」とつっぱねたが、有森は「刑事訴追の恐れがある」として証言を拒否して、逆に海部メモの真実性を高めてしまった。
 4月4日、海部メモの筆跡について、確認を拒否した海部が偽証罪で告発される。
 3月14日、航空機部門部長、次長、外為法違反で逮捕。
 3月31日、参院予算委員会で、海部は、衆議院での証言の重要部分すべてを訂正したが、疑惑の核心部分に関しては自殺した元常務に責任転換する。
 4月2日、外為法違反で海部逮捕
 5月15日、政治家の刑事責任は時効。職務権限の壁にはばまれて断念すると、検察首脳会議において確認される。日商岩井関係3名のみ起訴。
 5月24日、衆議院航空機輸入調査特別委員会が松野を証人喚問する。松野は五億円の授受をみとめたが「政治献金」と主張、検察側や野党が追及する「F4E」の売り込みの工作資金および成功報酬という認定を否定した。
 7月24日、東京地裁は海部八郎に懲役2年執行猶予3年の判決。
 同年8月7日、刑の確定。
 巨悪(政治家)は眠ったままなのである。

 ●グラマン疑惑余話/児玉誉志夫の紙爆弾
 昭和43年10月1日。防衛庁は、佐藤総理の了承を得て、航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX選定)に米マクダネル・ダグラス社のF4EファントムUを決定した。
 FX機種決定の前日、増田防衛庁長官は、参院決算委員会で「FX機種選定は、新しい問題ではないので、国防会議にかける必要はなく、行政主管大臣の責任においてきめる」と言明している。
 狙いは「1機20億かけて買う必要はなく、当面、F104Jかその改良型で充分」とする海原事務局長への対抗であった。
 海原(河野一郎―伊藤忠―海原)の主張は、岸―佐藤の主張と真っ向から対立してきた。
 もっとも、当時、海原は、防衛庁の官房長から、国防会議の事務局長に左遷されている。
 増田防衛庁長官の独断は、この人事をうけたもので、佐藤総理の了承のもとで、FXの機種選定という国家防衛にかんする重要案件を、国防会議の審議も経ず、防衛庁長官の権限だけで決めるのは、尋常な事態ではない。
 しかも、FXの機種選定後、機数や時期などの案件については、国防会議かそれに準ずる機会をつうじて決定したいという。
 怪文書による海原追い落としが成功して以降、再び、FX商戦についての情報戦がはじまった。
 なかに「過去の慣例に反して、ファントム採用に走ったのは、佐藤三選の資金をつくるため」という怪文書があった。
 国防会議にもかけずに、佐藤総理と増田長官の独断で、次期戦闘機をF4EJに決定をしたことと、総裁選は、かならずしも、無縁といいきることはできない。
 F4EJ導入の見返りとして、代理店である岸事務所をつうじて、佐藤側に1億8千万円(50万ドル)の支払いがおこなわれた疑いが濃厚だからである。
 その決定的証拠が、あるルートをつうじて、反佐藤派の黒幕の手に渡ったとつたえられた。
 昭和43年12月18日。第一次FX商戦で暗躍した黒幕が、ついに、公の場にすがたをあらわした。
 日本政治資料調査会の児玉誉志夫が、白井為雄と連名で、佐藤首相に「防衛庁主力戦闘機の機種決定に関する公開質問状」をつきつけたのである。
 趣旨は「FXの機種選定を国防会議で協議せず、機種だけF4Eに政府決定して、機数は未定という政府の異常な対応に疑惑を深めざるをえないというものであった。
 質問状の主旨は、アメリカの事故率は、ロッキードよりファントムの方が高く、米軍は、ファントム(F4EファントムU)の訓練を中止している。FXの機種は、ロッキード社のF104Jかその改良型で十分というものであった。
 しかし、第三次政権を発足させたばかりの佐藤は、強気で、児玉の質問状を歯牙にもかけなかった。
 佐藤が、もともと、児玉誉志夫がきらいだったことは、よく知られている。
 総理に就任した佐藤のもとへ、児玉の使いが首相官邸に書状をもってきたとき、佐藤は、書状をもってきた官房長官木村俊夫の目の前で、書状で、紙飛行機をつくってとばしたという。
佐藤の児玉にたいする嫌悪感は、児玉が、岸―佐藤の政敵である河野一郎、伊藤忠、海原治らのバックに控えていただけではなかったろう。
 佐藤栄作が一目おいていたのは、右翼であり歌人でもあった室町将軍こと三浦義一であった。
 三浦義一と児玉誉志夫では、同じ右翼でもまったく反対のタイプで、三浦は、作家や知識人から慕われる文化人なら、児玉は闇の人脈にもつうじる泥臭い実践家だった。
 三浦義一をよく知る佐藤栄作は、三浦の対極にある児玉をあまり評価していなかったのである。
 
 ●勝利の美酒に酔った日商岩井
 結局、第二次FXは、逆転もなく、44年1月、マクドネル・ダグラス社と三菱重工・川崎重工のあいだで、F4EJ機合計100機のライセンス生産の契約がなされることになった。
 アメリカの軍用機メーカーとわが国の商社、政治家が三つ巴の空中巴戦(怪文書他)を展開した第二次FX商戦で、勝利の美酒に酔ったのは、日商岩井の海部軍団だったのである。

 追記
 戦後から昭和20年代、共産党が合法化されて、共産主義の暴力革命論が大手をふった。
 そして、第六回全国協議会(昭和30年)で、平和路線変更した共産党に反発した反代々木系と呼ばれた極左集団が、昭和40年代、多くの暴力事件をおこした。
 だが「革命は銃口から」という極左冒険主義や暴力革命路線は、内ゲバのはて、衰退していった。
 一方、極左が滅びても、右翼や反共、尊王思想の団体や集団は、時代をこえて、いきのびてきた。
 日本の歴史や伝統、価値観や文化と、統治方法としての西洋の民主主義と共存してきたのである。
 右翼的な考えは、日本人の心性や民族性、文化や習俗に相つうじるところがあって、与党の自由民主党の底流に流れているのも、保守・右派の思想だった。
 ところが、大多数の日本人の支持をうける自民党が、防衛力整備計画(第1次〜第3次)や日韓疑惑などで、つぎつぎに、構造汚職に手を染めてゆく。
 その原因となったのが、黒幕政治で、当時、日本の政治状況は、左翼や労組、日本共産党などの革命勢力と、対抗する右翼団体や任侠、香具師や博徒、暴力団などに影響力をもつ黒幕が暗躍する未成熟で混沌としたものだった。
 財界が、黒幕を必要としたのは、労組のほか、反社会的勢力の攻撃にさらされていたからである。
 児玉の政界ルートは、河野一郎や中曾根康弘らだが、岸も、60年安保で、児玉に助力をもとめている。
 戦後、黒幕とよばれたのは、児玉だけではない。
 池田内閣に大きな影響力をもっていたのは、血盟団事件の四元義隆で、事件当時、四元は、東大生だった。
 近衛文麿と鈴木貫太郎首相秘書を務めた四元は、戦後、吉田茂以下、歴代首相の黒幕的な存在として鳴らし、細川護煕政権では「陰の指南役」とささやかれた。
 1955年から田中清玄の三幸建設工業の社長をつとめ、同社退任後、拓殖大学の理事となって、中曽根を総長として招いた。
 佐藤栄作に大きな影響力をもっていたのは尊王思想家であり歌人でもあった三浦義一である。
 三浦と児玉誉志夫の関係を象徴するエピソードがあるので紹介しておこう。
 40年代の半ば、大東亜戦争時に、中国大陸で、児玉誉志夫と共に活動していた猶存社の白垣一、吉田彦太郎という右翼人が三浦事務所にやってきた、
 三浦は二人にこういった。
「今朝、児玉君が、昨夜の釣果だといって、みごとな魚を届けてくれた」
 2人は、顔を見合わせて、こう応じた。
「今朝、児玉さん河岸で魚を買っていましたよ」
 そこで、三人は、呵呵大笑したという。
 事の真偽はわからないが、白垣ら一流のジョークであったろう。
 三浦は、生前、数冊の和歌集を出版している。
 そのなかの一冊「悲天」に、児玉に寄せるうたが載っている。

 寒鮒を 釣りて待つとふ 汝が文を
    ふたたび讀みてい 寝にけるかも

              児玉誉志夫兄に
                   義一
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2020年08月10日

 わが青春譜22

 ●「日商岩井にソ連のスパイと告発電話」
 わたしの「グラマン事件」は、ある日とつぜん、わたしの事務所にかかってきた一本の電話からはじまった。
 わたしの事務所には、当時、大勢のマスコミ関係者がやってきた。
 多くが情報をもとめてのことだが、逆に、重要な情報がもちこまれることもあった。
 電話で、要旨だけを短くつたえるケースが大半で、多くは、匿名だった。
 件の告発電話も、氏名は名乗らなかったが、論旨のほうは明快だった。
「赤坂にある日商岩井という商社をご存知のことと思う。この商社にはソ連のスパイがいる。次期戦闘機がF―15にきまった場合、関係書類がソ連の手に渡る可能性がある。国防上、由々しき問題である。あなたの手で、この疑惑を解明してもらいたい」
 わたしは、政治評論と保守思想をテーマにしているので、反共と国家防衛という問題意識をもつ一般の方々から、しばしば、意見や情報が寄せられる。
 米ソ冷戦のさなか、ソ連は、わが国にとって「仮想敵国」であった。
 告発者が指摘するように、次期戦闘機にかかる情報がソ連に漏洩するようなことになれば大問題である。
 だが、この告発には、もう一つ、大きな問題をはらんでいた。
 昭和51年2月4日、米上院多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード疑惑が浮上して、民間旅客機をめぐる日米商戦の裏舞台が明るみにでた。
 田中角栄元首相ら政治家や丸紅、全日空の幹部ら16人が逮捕、起訴されたかのロッキード事件である。
 そして、3年後の昭和53年12月25日、米証券取引委員会(SEC)でMD社(マクドネル・ダグラス)が自社戦闘機の売込みのため、日本政府高官に1万5000ドルの賄賂を渡していた事実が暴かれた。
 昭和54年1月4日、SECは、こんどは、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、代理店の日商岩井を介して、日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに不正な資金を渡したことを告発した。
 SECに資料提供を要請して、捜査を開始した東京地検特捜部は、日商岩井の幹部2人と海部八郎副社長を逮捕して、捜査がさらに政治家におよぶかどうかが焦点になってきた。
 ところが、検察は「時効、職務権限の壁に阻まれて政治家の刑事責任追及が困難になった」としてとつぜん捜査を終了、日商岩井の関係者3人を起訴するにとどまった。
 これは、ロッキード事件と比較して、異様なことといわねばならない。
 ロッキード事件では、田中角栄元首相のほか、丸紅や全日空の幹部ら16人が受託収賄、贈賄などの罪で起訴されている。
 そして、丸紅の檜山広元社長ら幹部3人は、田中元首相にたいする5億円の資金提供に関与したとして、95年2月に最高裁で有罪が言い渡された。
 一方、ダグラス・グラマン事件は、ロッキード事件と同じ内容の容疑だったにもかかわらず、検察は、岸元首相ら政治家に事情聴取さえしていない。
 海部は、F―4の売込みにたいする成功報酬として松野に5億円を支払ったと明言している。
 松野も5億円の授受をみとめる一方、日商岩井からの政治献金だったと主張して検察の追及をかわしている。
 わたしは、十数年前、田中角栄元首相の元秘書官だった榎本敏夫さんを訪ねて、直接、こんなことばを聞いている。
「わたしは、丸紅から政治献金として、5億円をうけとったとなんども検察に申し上げたのですが、そのたび、はぐらかされて、ついに、ロッキード社からの賄賂と筋書きにされてしまったのです」
 松野の5億円が追及されず、角栄の5億円が問題にされたのは、検察が名をあげるためには、角栄のビッグネームが必要だったからである。
 以後、検事総長人脈は、伊藤栄樹から吉永祐介、原田明夫、松尾邦弘らにつながるロッキード派≠ェ主流となってゆく。
 当時の新聞報道は、ロッキード疑惑一色に塗りつぶされて、ダグラス・グラマン事件は、忘れ去られたも同然だった。
 だが、事件性は、グラマン事件のほうがはるかに高い。
 なにしろ、田中角栄は、ロッキード社から賄賂をとっていないからである。

 ●「グラマン事件」の検察側の冒頭陳述
 グラマン事件の核心となるのが「海部メモ」である。
 日商岩井の海部八郎が作成したもので、岸信介前総理と中村秘書、海部らの話し合いによって、ファントム導入がきまったこと、そして、口きき料として岸に2万ドルが支払われたことなどが書かれている。
 昭和54年10月12日、東京地方裁判所でおこなわれた日商岩井不正事件(グラマン事件)にたいする検察側の冒頭陳述の一節に次のくだりがある。
「(前略)同53年1月ごろ 恩田(「国会タイムズ」)は有森(日商岩井航空機部課長代理)から受け取っていた右書面及び送金依頼のコピーを知人で各種団体の役員をしている山本峯章に手渡し、山本は更に知人の団体役員鈴木孝司に手渡し、鈴木は同年二月頃右コピーを新聞社等に郵送した。(後略)」
グラマン事件の解明の発端となった「海部メモ」が世間に公表された経緯がこれで、冒頭陳述には「海部メモのコピーが巷間に流布された経緯について」という但し書きがついている。
 2月14日、 衆議院予算委員会で、日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長、有森国雄航空課長らの証人喚問がおこなわれたが、このとき、手が震えて字が書けない海部の様子がテレビ中継された。
 海部は「記憶にない」の答弁をくり返して、政府高官への金銭支払い疑惑を否定したが、うごかぬ証拠となったのが「海部メモ」だった。
 海部逮捕の報をうけた伊藤栄樹法務省刑事局長(後の検事総長)は、「捜査の要諦はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある」とのべたが、その舌の根も乾かぬうち「時効、職務権限のカベにはばまれて政治家の刑事責任追及は断念」と、日商岩井関係者3人を起訴しただけで、ダグラス・グラマン事件の幕を引いたのは前述したとおりである。

 ●有力だった日商岩井のF15
 電話通報者のいうとおり、日本の主力戦闘機ロッキードF―4ファントムは数年内に寿命がくる。
 54年から新しい戦闘機を導入しなければならなかった。
 したがって、52年度の予算に計上されていなければならない。
 FX選定のタイムリミットは52年8月である。
 ちなみに、FXのFは、ファイター、戦闘機の頭文字で、Xは未来を表わす。
 FX選定とは、戦闘機が未定ということで、グラマン事件は、民間機のロッキード事件につづいておきたFX疑惑≠ナある。
 防衛庁は、第三次FX候補機として、グラマン社のF14、マクダネル・ダグラス社のF15、ゼネラル・ダイナミクス社のF16の三機種に絞ることを決定した。
 8月にはこの3機種のなかから最終的な選定が行われる予定であった。
 3機種のなかで、日商岩井が代理店契約しているF15が有力視されていることは衆目の一致するところであった。
 電話通報者の告発が真実なら、ソ連スパイの狙いはF15関連の情報入手ということになるであろう。
 日商岩井をとおして、F15の機種マニュアルや修理教本がソ連のスパイの手に渡ると大きな国益損失となる。


 ●ソ連のスパイはだれか
「ダグラス・グラマン事件」を別の角度から追った拙著「国益を無視してまで商売か」(1980年/日新報道)に「日商岩井に暗躍するソ連のスパイ〜おそるべきソ連の対日スパイ戦略の実態」という項立てがある。
 日本には、昔も今も、スパイ罪も国家反逆罪もない。
 国家機密を盗んで外国に売っても、窃盗罪にしかならない日本で、スパイを封じて、国益をまもることはむずかしい。
 当時、わたしは、ソ連のスパイを特定して、そのスパイ網を根こそぎにするという意図をもって、取材をすすめた。
 やがて、一人のロシア人がうかびあがった。
 赤坂の日商岩井ビルにオフィスをもつ男で、高輪のアパートからオフィスに出勤したのち、赤坂のオフィスから狸穴のソ連大使館に出かけて、終日、大使館で過ごしている。
 大使館員に準ずる立場にあるにちがいなかったが、公職の登録はなかった。
 男の本名は、ユーリ・マキシモビッチ・レービンで、モスクワ生まれの39才だった。
 モスクワのエネルギー大学を卒業後、工業省、電子機械工業大学に1970年まで勤務したのち、2年間、東京工業大学工学部電子工学科に留学している。
 その後、外国貿易省、全ソ貴金属輸出公団をへて、ソ連国家科学技術委員会に移って、1974年9月、同委員会から日本に派遣されている。
 レービンが日本に来たのは、ソ連国家科学技術委員会と日商岩井らによって締結された「科学技術協定」にもとづくもので、電子工学の専門家というふれこみだった。
 レービンの住所は、港区高輪伊皿子坂アパートで、高輪のアパートから日商岩井ビル内のオフィスに午前10時頃出社、30分から一時間後、狸穴のソ連大使館に出かけるのが日課だった。

 ●日商岩井の不誠実な対応
 電話通報者のいうソ連のスパイがレービンであることに疑いはなかった。
 あとは、日商岩井に、直接、事実関係を問いただすだけである。
 わたしは、日商岩井本社で、井上潔常務と山崎秀之開発部副本部長に面会をもとめて質した。
 以下、質問者はわたしで、返答者は山崎本部長である。
 質問 レービン氏が来日した目的は?
 返答 術協力のための技術員を交換で、ソ連が送ってきたのがレービンです。
 質問 身分は?
 返答 ソ連の大使館員でも通商部員でもなく、あくまでも、日商岩井の仕事をするためです。ソ連と科学技術協定をむすんだ13社に駐在するという条件がついているので、日商岩井のビルにデスクをもっています。
 質問 国家科学技術委員会との技術協定というのは?
 返答 1973年の「日ソ科学技術協力協定」にもとづくものでソ連科学技術委員会は、閣僚委に直結しています。
 質問 10時に出勤したレービンが、30分から1時間後、狸穴のソ連大使館に行ってしまうのはなぜか。
 返答 ソ連大使館へは日商岩井の用件で行っている。それが法にふれるという物的証拠があれば、日ソ関係がおかしくなるので、法務省でチェックしてもらう。
 質問 ソ連からやってくる人間は、大なり小なりエージェントといわれている。
 返答 それはまあ、そういう要素もあるでしょう。
 質問 レービン氏もエージェントといわれている。
 返答 それは知りません。
 質問 FXの有力商社として、スパイの嫌疑をうけるような人物を受け入れるのは問題ではないか。
 返答 われわれはむこう(ソ連)からもらった資料から判断している。そんなことをいいだしたらなにもできません。
 最後に、わたしは、もっとも気になるテーマにふれた。
 質問 ソ連の極東方面の第一線の戦闘機は「ミグ21フィシュペッド」だった。これなら自衛隊の「F4EJファントム」で十分、対抗できる。ところが、最近、ソ連は「ミグ25フォックスバット」を飛ばしている。マッハ3のミグ25には、F4ファントムやF14(トムキャット)、F15(イーグル)でも対抗できない。ミグ25に対抗できるのは「ファイヤー・コントロール・システム」だけである。ソ連が最終的に欲しいのはFCS装置のデータと思われる。レービン氏が電子工学の専門家であるなら、われわれはこの点で納得いくのですが。
 返答 わたしたちはFCS装置についてなにも知らない。
 質問 われわれが調査して、スパイ行為の確証をつかめたらレービン氏の国外退去に同意してもらえますか。
 返答 むずかしい問題だ。外務省できめる大使館員の人数には、制限があるので、ソ連の場合、各商社にさまざまな形で人材を派遣している。うちだけではなく、各商社も、一人や二人、ソ連から人材をうけいれています。

  以上が会見内容の抜粋で、ここから、国家防衛にたいする危機意識はみじんもかんじることはできなかった。
 その数日後、国会院内紙「国会タイムズ」が特集記事を組んだ。
 ▼FX商戦の影にソ連のスパイ工作員
 ▼総合商社に疑惑の人物
 ▼自衛隊調査隊、CIAもマーク
 軍事評論家の小名孝雄も「あり得ることだ」と指摘して、FX選定問題こそわが国の国防基本方針を左右する大問題と断じた。
 それ以後も、国会タイムズは、日商岩井をとりあげて、糾弾した。
 ▼FX商戦にひそむ電子工学の専門家 技術提携でソ連から来日
 ▼狙いはアメリカの「FCS装置」か
 ところが、当時は、ロッキード事件の報道が過熱して「ダグラス・グラマン事件」も日商岩井の「スパイ疑惑」も片隅においやられた。
 わたしたちは、日商岩井に、再度、調査をもとめたが、誠意ある返答はえられなかった。
「他の商社にもエージェントはいる。日商だけではない」
 言い逃れるだけで、スパイ行為や機密漏洩にたいする危機意識はなかった。
 わたしたちは、日商岩井から新たな情報を入手すべく、さらに、四方八方にアンテナをはりめぐらせた。(続)

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2020年08月05日

 わが青春譜21

 ●湾岸危機とイラク高官との独占インタビュー
1990年8月、イラクがクウェートに侵攻して、世界の石油埋蔵量の半分以上を有する中東・湾岸地区(8か国)でにわかに危機が生じた。
 翌年の1月9日、わたしは、国会タイムズの五味武らとともにイラク(バグダッド)に飛び、イラク赤十字社(イスラム圏では赤い三日月/レッド・クレッセント)の総裁やラマダン第一副首相に会って、インタビューをおこなった。
 詳細は週刊現代の特集「山本峯章/ラマダン第一副首相と特別会見(1991年2月2日号)」に詳しいが、論点は、2つあった。
 1つは、日本がアメリカとむすんで、イラクに敵対することへの疑問と反発であった。
 ラマダンはこのインタビューで「日本は唯一の被爆国であり、その加害者はアメリカだ。原爆を投下した残酷なアメリカと日本はなぜ組むのか。イラクは親日的な国だ。中立の立場をまもってほしい」と熱っぽくうったえた。
 もう1つは、イラクが、91年1月15日を撤退期限としたクウェートからの無条件撤退(国連安保理決議678)を重視していなかった点である。
 イラクのクェート侵攻・併合にたいして、国連安保理は、90年11月29日に678決議を採択して、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに攻撃をくわえると宣言、事実、この湾岸戦争で、多国籍軍が2月末にクウェート全土を解放している。
 だが、ラマダンは、6日後に迫った多国籍軍のイラク攻撃をハッタリとみているふしがあった。

 ●「2日後にフセインと引き合わせる」
 ラマダン副首相から、フセイン大統領と引き合わせるという意外な申し出があった。
 週刊現代とは、ラマダンとの会見記事を寄せる約束をしていたが、フセインとの会談記事なら編集部も歓迎するだろう。
「2日後にフセイン大統領とひきあわせる」
 あと2日滞在をのばすと、1月15日に想定されている多国籍軍の攻撃まで数日の余裕しかない。
 問題は、2日後、いかにイラクから隣国ヨルダンへ出国するかである。
 このとき、わたしの頭をよぎったのが、クェート占領で、イラク軍がとった「人間の盾」作戦だった
 このときすでに解放されていたが、イラク軍は、クウェートから逃げ遅れた英米独日らの外国人をイラク内の軍事施設や政府施設などに監禁して「人間の盾」とする作戦を実行している。
 逃げ遅れたらイラク軍の捕虜のなってしまう可能性もゼロではなかった。

 ●多国籍軍の攻撃を予測できなかったイラク
 ラマダンがアメリカの侵攻はない断言した根拠は、当時、イラクは、100万人の兵力、戦車5500両、戦闘機500機以上(ミラージュ64機やミグ25とミグ29をふくむ)軍事大国だったからである。
 だが、アメリカは、覇権主義を掲げる軍産複合体の戦争国家である。
 戦争がしたくて、イラク以上にうずうずしていたのである。
 ラマダンにあとで返答すると言い残して、わたしは、その夜、日本大使館に出向いて、大使と食事を共にした。
 大使館員はすでに全員避難をしていて、残っているのはインド人のコックと大使だけであった
 大使の意見は、多国籍軍の攻撃は必至で、翌日夜のヨルダン行きの飛行機が最終便となるというもので、2日後は、国外脱出の方法はなくなるという。
 わたしたちも、大使とともにヨルダン行き最終便に搭乗するためラマダンに断りの連絡をとったのち、バグダッド空港へむかった。
 ヨルダン空港に着くと、世界のマスコミがまちかまえていて、バグダッドの情勢を質問攻めにされた。
「アメリカの攻撃はない。2日後、フセイン大統領にひきあわせる」といったラマダン第一副首相の真意はどこにあったのか。
 その疑問は永遠に解けない。
 イラク戦争(2003年)後、フセインはアメリカに、ラマダンはシーア派に捕らえられ、死刑判決をうけて処刑されたからである。

 ●イラクがクウェートに侵攻した経緯
 イラクがクウェートに侵攻した経緯についてかんたんにふれておこう。
 1988年、イラクは、イランとの8年間におよんだ戦争に終止符を打った。
 しかし、6000憶ドルもの戦時債務をかかえ、国家経済は困窮していた。
 フセインは、国家経済再建のため、OPEC(石油輸出国機構)にたいして原油価格を一バーレル25ドルの値上げと減産を要請した。
 だが、サウジアラビアやクウェートなどは、OPECの割り当て量をこえた石油増産をおこない、イラク経済にダメージをあたえつづけた。
 石油以外の産業をもたないイラク経済は日に日にますます衰弱していった。
 1990年の革命記念日に、フセイン大統領は「一部のアラブ諸国が原油の価格を下落させて、イラクを背後から毒を塗った短剣で刺そうとしている」と警告を発し、警告が聞き入れられない場合、効果的手段をとらざるをえないと武力行使を匂わせている。
 この警告にたいして、湾岸諸国のうちアラブ首長国連邦などは増産縮小したが、これを拒否したクウェートは、国境へ軍を移動させるという挙にでた。
 クウェートとイラクは、国境をまたぐルマイラ油田の領有権問題をめぐって対立してきた経緯があって、軍事衝突は、時間の問題だったともいえる。
1990年8月2日、イラクはクウェート侵略を開始、6日後の8月8日にはクウェートを併合、イラクの19番目の県(クウェート県)に組み入れた。

 ●「人間の盾作戦」
 8月8日のクウェート併合時に、イラクは、クウェート国外に残留していた非イスラム系外国人、アメリカ人やアメリカと関係の深いイギリス人やドイツ人、日本をイラク内の軍事施設や政府の関連施設に監禁して、多国籍軍の攻撃にたいする「人間の盾」として使うと発表したが、国際社会からつよい反発をうけて、12月には全員解放した。

 ●「砂漠の嵐作戦」
 イラクのクウェート併合にたいして、諸外国は、一致結束した事態解決へのうごきをつよめ、国際連合(安全保障理事会)もイラクに即時、無条件撤退をもとめた。
 1991年1月17日、ブッシュ大統領(第41代)は、アメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開、一方、多国籍軍はイラクへの爆撃(砂漠の嵐作戦)を開始して、2月23日から陸上部隊による進攻がはじまった。
 陸上戦の開始から100時間後、多国籍軍は、圧倒的勝利をおさめてクウェートを解放した。
 この戦争でアメリカは世界最強の軍事力を誇示し、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。
 さらに、同年12月のソ連崩壊によって、アメリカは、世界唯一の超大国としての地位を確立するのである。
 アメリカは日本に「ブーツ・オン・グランド(地上部隊の派遣)」をもとめたが、憲法上、日本は、海外派兵ができないため、軍費の提供のみをおこなった。
 日本は、このとき、戦費610億ドル(米国防省発表)のうち、アメリカやドイツの70億ドルを大きくしのぐ130億ドルを負担した。
 だが、クウェートの感謝広告(新聞)に日本の国名はなかった。

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2020年07月29日

 わが青春譜20

 ●新たな課題「北方領土」問題
 小杉なるニセ弁護士から仕掛けられた「領収書偽造事件」によってわたしは国会議員へのみちを断たれた。
 小杉が、わたしの事務所に、右翼の児玉誉士夫から中曽根代議士が3億円をうけとったとするニセ領収書をもちこんだのが事件の発端だったが、領収書を偽造したのは小杉で、わたしは事件となんのかかわりもなかった。
 ところが、新聞は、わたしが共犯者であるかのように書き、友人でもあった戸川猪佐武(評論家)が「自民党公認ほしさ」などと事件との関連を匂わせる発言をしたため、次期衆議院選の大物候補といわれたわたしへの信頼や支持はたちまち失墜した。
「千載一遇(千年にいちどのよい機会)」が「好事魔多し(よいことには邪魔が入りやすい)」にしてやられたわけだが、もとの原因は、わたしの油断にあったわけで、代議士のみちはあきらめるしかなかった。
 当時、わたしは、40歳で「食糧自給連盟」のほか、10以上の団体役員をつとめていたが、選挙から離れて、いちばん最初にとりくんだのが、北方領土問題だった。
 当時、北方領土返還運動は、民族派や右翼団体らがデモ行動をくりひろげていたが、徒党を組んで、コブシをふりあげ、大声をあげるだけでなんの効果もあがっていないことはだれの目からも明らかだった。
 わたしは、のちに「島は還らない」(思想評論社)を著して、北方領土問題の論点を2つ挙げて、ソ連と膝詰め談判をすべきと論じるが、2つの論点というのが――
 @アメリカが、戦後、ソ連へ譲渡したクリルアイランズ18島(千島列島)に北方四島はふくまれない
 A日本降伏後にソ連が奪った北方4島占領は一方的侵略で戦利にあたらない

であった。

 ●「マッカーサー命令」のクリルアイランズ
 満洲と北緯38度以北の朝鮮、樺太及び千島諸島のソ連への帰属をもとめる「一般命令第一号(米国陸軍中将R・K・サザーランド)」のもととなったのがマッカーサー命令第一号だった。
 そこに「ソ連はクリルアイランズとサハリン(樺太)に進駐すべし」とある。
 ソ連軍は、マッカーサー命令にもとづき、日本がポツダム宣言をうけいれた8月15日から3日後の8月18日、北千島の占守島に総攻撃をかけている。
 そして、中千島の得撫島まで南進して、突如、軍事行動をやめて連合国軍の動向をうかがう。
 なぜなら、得撫島の南に位置する択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島の北方4島はクリルアイランズに属さない日本固有の領土だからである。
 アメリカがソ連に領有を密約したクリルアイランズに北方領土4島は入っていない。
 択捉島以南の4島が日本領と定められたのは1854年の「日露和親条約」で、クリルアイランズ18島が日本領となったのは、1875年の「樺太千島交換条約によってである。
 ソ連が、かつて、いちども、ソ連領になったことがない北方領土を侵略するのは、日本が、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において降伏文書に調印した翌日の9月3日である。
 ソ連は、第二次世界大戦の戦勝記念日を9月3日にとりおこなう。
 日本が降伏文書に署名した9月2日にすると、9月3日の北方4島の侵略が平時の軍事行動ということになって、戦利という大義名分がなりたたなくなるからである。
 北方領土問題の核心は「マッカーサー命令」でいうクリルアイランズに北方領土がふくまれるか否か、そして、終戦後におこなわれた北方4島の侵略および占有に正当性があるか否かに絞ることができる。

 ●法的根拠をもたないロシアの北方領土占領
 ソ連が、北方領土占領の根拠とする「ヤルタ秘密協定」は、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約だったとして、アメリカ政府はこれを認めていないが、3巨頭の一人として署名したチャーチルも、ルーズベルトとスターリンに騙されたとして、ソ連の対日侵攻の1か月前の1945年7月、カナダ、オーストラリアなど英連邦4か国首脳に同協定の無効と危険性をうったえている。
 戦後、日本を規制してきた連合国の宣言や協定には、ヤルタ秘密協定のほかにカイロ宣言やポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約などがあるが、いずれも、領土の取得禁止や不拡大を謳い、参戦の見返りに他国の領土を割譲するなどのクレージーな約定は例がない。
 1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島(クリル)列島18島を放棄させられたが、引渡先は未定で、本来なら、一定時期がすぎた段階で日本への返還されるべき性格のものである。
 少なくも、サンフランシスコ平和条約に署名していないソ連(ロシア)には帰属権なく、北方領土は、法的には、ルーズベルトとスターリンの個人的な密約の上にもとづいた不法占有のままである。
 ちなみに、ソ連の対日進攻の最終目的は、北海道東部で、アメリカが原爆をもっていなかったら、北方4島どころか北海道までがソ連領になっていたはずである。
 千島列島22島(クリル諸島18島+北方4島)の領有を正当化(戦争結果)するロシアは、近々、国内法を整備して、22島の領有を法制化する構えだという。
 ロシアが北方領土の法制化をめざす理由は、北方4島領有に法的根拠がないからで、現在、同4島は、係争関係のもとにある。
 唯一の法的根拠は「日ロ平和条約」になるはずだが、日本が、北方4島のみならず、サンフランシスコ平和条約で放棄した22島の返還をもとめて国連にうったえでると、領有権をもたないロシアは窮地に追いこまれる。
 鈴木宗男や佐藤優らが2島返還をいうのは、日本のためではなく、ロシアを助けるためだが、たとえ、2島であっても、日米安保があるかぎり、ロシアに返す気はない。
 そうならば、日本は、国連総会で、千島列島22島の潜在主権が日本にある旨の演説をおこなって、ロシアが、無法国家であることを訴えたほうがよほど国益にかなうのである。

 ●ソ連がもとめた対日参戦@v請
 1945年7月。スターリンは、モロトフ外相をトルーマン大統領のもとに派遣して、書面にもとづく、正式な対日参戦≠フ要請をおこなっている。
 米英らの名義をもとめたのは、一方的に「日ソ中立条約」を破って参戦する負い目を連合国側に負わせるためだった。
 モロトフとの会見に立ち会ったのはトルーマンの腹心バーンズ国務長官であった。
 バーンズ国務長官は、ヤルタ秘密協定について、トルーマン大統領からなにも聞いていなかった。
 ヤルタ秘密協定は、米・英が批准しておらず、大半の政治家がその存在すら知らなかった。
 バーンズ国務長官はミスター原爆≠ニいわれるほど原爆支持者で、ソ連の参戦をそれほど臨んではいなかった。
 原爆があれば、ソ連の参戦がなくても日本を降伏させられるはずだったからである。


 ●カーター大統領への手紙
 1956年の「対日覚書」でアメリカ国務省は「南千島は日本固有の領土である」と宣言している。
 国際法学者のあいだでも、クリルアイランズがカムチャッカ半島から中千島(ウルップ島)までの18島というのが共通の理解である。
 仮にマッカーサー命令を是としても、その範囲は中千島までである。
 わたしは、昭和47年6月7日、アメリカのジミー・カーター大統領に一通の手紙をしたためた。
 内容は、アメリカがソ連の占有をみとめたクリルアイランズの範囲である。
 カーター大統領への手紙で、わたしは、北方領土における日本の歴史・条約上の正当性をしめし、ヤルタ秘密協定を領有の根拠とするソ連の主張に法的な根拠がないことをうったえた。
 ソ連は「マッカーサー命令」にもとづいてクリルアイランズを占有した。
 そのなかに、北方4島がふくまれるか否か。
 カーター大統領もしくは米国務省が「ふくまれない」といえば、その言質をもって、ソ連と論争を立てることができる。
 北方領土を返せと空に叫ぶよりそのほうがよほどましなたたかいになる。

 ●アジア太平洋民主党大会に出席
 わたしは、アメリカ労働界の重鎮で「アジア太平洋民主党大会」の委員長を務めていた日系人ジョージ・コノシマ氏の計らいで、同大会にオブザーバーとして参加することがきまって、1980年5月17日、アメリカにむかった。
 胸ポケットに同大会の主賓であるカーター大統領への質問状を秘めていたのはいうまでもない。
 そのことを、当時、上梓した「国益を無視してまで商売か」(日新報道)の「はじめに」でふれているので引用する。
 ちなみに、この出版は、別項で詳説するように、昭和55年、ロッキード事件に次ぐスキャンダル「グラマン事件(日商岩井事件)」を東京タイムス社会部長と一緒に共同取材したもので、このとき「海部メモ」が大きな問題となった。

 現在、アメリカでは、大統領予備選のキャンペーンが、本番並みの激しさでくりひろげられているが、1980年5月22日、ワシントンヒルトンホテルで、アジアパシフィックアメリカン、デモクラシィパーティーという大会が開催された。
 アジア太平洋系の民族による民主党後援大会で、日本からの出席者はわたしだけであった。
 アメリカには、日本や中国、朝鮮その他のアジア太平洋系国家を祖国とする米国市民が人口の約一、五パーセント300万人いるといわれている。
 これらアジア太平洋系の米国市民が結束して大統領を招き大会を開いたのは今回が初めての試みであった。
 わたしはジョージ・コノシマの紹介で大統領と会い、握手と挨拶を交わしたものの、質問状を直接手渡すことは憚られた。
 だが、わたしの長年の友人、実業家貴戸氏(ロスアンゼルス在住)を介して、民主党上院議員スパーク松永(ハワイ州)、ジミー・ホワイト上院議員と意見を交換することができた。
 わたしは、外交官でも政治家でもなく、一介の言論人にすぎない。
 国家の外交や条約について、政治家や役人とやりあう資格はない。
 だが、言論人、評論家として、知恵を絞り、戦略を練ることはできる。
 国家的な問題を、外交権限をもたないわたしが問題提起しても、限界があるだろう。
 だが、言論人の言論と言論にともなう行動は、つねに、世の中や時代をうごかしつづける。
 北方領土問題でアメリカにまでわたった経験が、その後のわたしの政治・外交にかかる言論の土台になったのはいうまでもない。

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2020年07月27日

 わが青春譜19

 ●「山本君を後継指名から外す」
 菊池義郎先生が、自民党都連本部にみずから足を運んで「山本君を後継指名から外す」とつたえたのは、新聞記事を真にうけたからだった。
 わたしがその事実を知ったのも、新聞報道からだったが、「時すでに遅し」で事態は最悪の方向へとむかっていた。
 領収書を偽造した小杉らが逮捕されて、わたしが事件に無関係だったばかりか、被害者だったことが明らかになったが、新聞がわたしを共犯者であるかのように報じたあとでは、もはや、手の打ちようがなかった。
 新聞記者が、戸川猪佐武の不用意な発言をとらえて「公認ほしさ」と書いたが、これは、歪曲をこえたねつ造で、名誉毀損罪という犯罪行為にあたる。
 名誉や社会的信用は、築きあげるまでに長い時間がかかるが、毀損するにはわずか一晩で事足りる。
 わたしは、この一件で、国会議員への階段からまっさかさまにころげ落ちるのである。
 逮捕後、小杉がニセ弁護士とわかったが、わたしは、気がつかなかった。
 小杉の事務所には「小杉法律事務所」という表札がかかり、ドアには名義を借りてきた2人の弁護士の氏名が書かれていた。
 弁護士事務所なら弁護士法違反になるが、法律事務所なら、弁護士の資格がなくても開業、登録ができる。
 小杉は、なぜ、わたしに接近して、謀略をかけたのか、いまだにわからない。
 いずれにしても、わたしは、まともにそのとばっちりをうけて、政治生命を断たれるのである。
 わたしの後援会「山峯会」は、できたばかりの組織で、会員数も集票能力も菊池先生の「白菊会」に遠くおよばなかった。
 当時、新聞が、戸川談として、わたしが自民党の公認を欲しがっているかのようにつたえたが、これは、事実に反する。
 わたしは、この頃、自由民主党の品川支部青年部長のほか、都連青年部中央執行委員をつとめていて、都連青年部の部長が、保坂三蔵都議会議員(のちに参議員)であった。
 その保坂に『青年部の推薦くらいは下さい』と軽口を叩いたことはあるものの本気ではなかった。

 ●政治の激動と反共運動
 わたしが反共運動をはじめたのは、学生時代で、昭和30年代である。
 当時は、左右陣営や保革・労使がきびしく対立する政治の激動期であった。
 右翼活動が活発化した背景にあったのは、昭和26年の「五全協」で、日本共産党が暴力革命=武装闘争路線をとったからで、山村工作隊や地下トラック部隊、火炎ビン闘争などによって、日本は、革命前夜の緊張につつまれた。
 昭和30年の「六全協」で、日本共産党は、軍事主義から議会主義へ路線を変更したが、これに反発した反代々木系から革共同(核マル・中核)や共産同(ブント)、革労協や連合赤軍などの過激派がうまれる。
 70年安保以降、過激派は内ゲバで自滅してゆくが、その一方、大学教壇や日教組などの教育界や学会、法曹界や官界、マスコミの左傾化がすすみ、日本総左翼化の対抗軸となったのが右翼勢力であった。

 ●最大の理解者だった菊池義郎先生
 新島闘争(34年)や安保闘争(35年)で、先頭に立ってたたかってきたわたしの政治信条は、尊皇と反共で、その意味でも、自民党きっての反共主義者として知られる菊池先生はかけがえのないわたしの理解者であった。
 しかも「白菊会」という強力な後援会をつけていただいた。
 菊池先生との邂逅は、政治家をめざすわたしにとって、これ以上、望むべくもない天恵というべきものであった。
 といっても、わたしは、次回選挙で、一足飛びに当選と考えていたわけではなかった。
 白菊会の後援を得られれば、次点争いに食い込める。その実績を土台にして地道な活動をつづけてゆけば、かならず、先が見えてくるはずである。
 三段跳びを引き合いにすると、次の選挙はホップで、そのあとのステップやジャンプで飛躍が望めるのだ。
 わたしの選挙区、東京二区は、各党の幹部級の議員が議席を争ってきた。
 それまで、自民党は二議席を確保していたが、宇都宮議員が無所属となったため、石原議員一議席だけとなった。
 菊池先生が落選(次点)した選挙で、宇都宮議員は自民党を離党、無所属で当選したが、両先生とも明治生まれのご高齢で、後継者が取り沙汰された。
 当時、都連の会長は、宇都宮の盟友だった鯨岡兵輔衆議院議員であった。
 二人とも自民党左派で、かれら左派が、自民党が保守党へ脱皮できない最大の抵抗因子なのは、昔も今もかわらない。
 昭和51年頃、箱根山で、自民党都連の勉強会が開かれた折、挨拶に立った鯨岡都連会長が、自民党を批判して無所属へ転じた宇都宮議員を擁護する論をくりだしはじめた。
 わたしは、立ち上がって「たとえ、個人的な同志であろうと、自民党を批判して離れていった人物を擁護するのはおかしい」と大先輩の鯨岡議員に異義を申し立てた。
 このとき、とんできてわたしの発言を制し、場を取りなしたのは保坂議員であった。
 筋がとおらないこと、はなはだしいが、昔も今も、その体質はかわっていない。

 ●偽造事件「小杉の動機は謎のまま」
 わたしの選挙は、事実上、菊池義郎の後任選挙で、菊池の後援会「白菊会」も山本支援に総力をあげると意気が高かった。
 ところが、新聞の誤報によって、菊池先生は、後継指名を取り消してしまう。
「白菊会」も腰折れとなって、これでは、とうてい、選挙にならない。
 わたしは、信頼していた参議院議員長谷川仁先生に相談した。
 相談というより、撤退の報告のつもりだったのだが、長谷川先生は、意外なことを口にされた。
「いまここで逃げたら新聞報道をみとめることにならないか」
 わたしの後援会「山峯会」だけでたたかえる選挙ではなかったが、負け戦でも、敵前逃亡よりはるかにましである。
 打って出た選挙は惨敗で、次点にも遠くおよばず、家や蓄えも失った。
 だが、わたしは、すべてをあきらめたわけでは、むろん、なかった。
 わたしは、政治家のみちを捨てて、あらたな国家運動を模索する。
 その一つが、次項にしめす「北方領土問題の新提言」である。
 それはさておき、小杉なる人物が、いかなる動機からわたし近づき、なんの目的で罠を仕掛けたのか知りたいと思ったが、小杉は、警察に拘留されていたため会うことはできなかった。
 友人の大泉一紀(元読売新聞記者)が公判を傍聴したが、動機に関する小杉の証言は、終始、あいまいで、内容をつかみきれなかったという。
 それでも、偽造をみとめて、有罪判決をうけた。
 あのとき、小杉を突き放しておけば、わたしは、ちがった人生を歩んでいたはずである。
 ときどき、そういう思いが胸をよぎるのである。
 
 すぎし日の 師の恩いまも ありがたき
      吾は忘れず 朽ち果てるとも


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2020年07月17日

 わが青春譜18

 ●謀略「中曽根ニセ領収書事件」
 選挙準備が順調にすすみ、テレビ出演やマスコミ関係の仕事も捗っていた。
 このとき、わたしは、生涯、悔やむような災難が降ってわいてくると、想像すらしていなかった。
 好事魔多しというが、順風満帆だったあの時期、事務所に訪ねてきた小杉というニセ弁護士によって、わたしの人生は、おおいに狂わされることになる。
 選挙公示の数か月前、秘書の新井が、とつぜんの来客をとりついだ。
 新井は、石原慎太郎の浜渦秘書とキックボクサーから暴行を受けたわたしの秘書、押切から推薦をうけた新しい秘書である。
 来客は、小杉という人物で、名刺に、法律事務所代表の肩書きがあるという。
 わたしは、押切から紹介された新井を信頼していたので、代わって話を聞くようにつたえた。
 ところが、小杉という人物は、わたしに、直接、会って話をしたいという。
 自民党の大物議員、中曽根康弘が関与する極秘案件というふれこみだった。
 新井が、再度、代理で話を聞きたいと申し入れると、これを解決できるのは山本先生以外にはいないと、このとき、小杉は新井に熱弁をふるっている。
 わたしを知っている口ぶりだが、わたしは、小杉という人物を知らなかった。
 わたしと面識のない小杉が、なぜ、わたしに、政界の極秘案件をもちこんでくるのか。
 いまから思えば、わたしは、小杉にもっと警戒心をもつべきだったかもしれない。
 だが、当時は、若く、なんにたいしても自信があって、わたしにトラブルをおそれる怖気はあまりなかった。
 結局、新井に面談の日時をきめさせ、その日は、小杉にお引取りねがった。
 約束の当日、わたしは、品川区の大井町駅の近くの喫茶店で小杉と会った。
 名刺には小杉法律事務所の代表とあって、住所は、渋谷区の恵比寿だった。
 小杉は「大橋事件(京成電鉄の株不正取引事件)」の首謀者、大橋富重の会社整理をしているという。
 大橋事件というのは、池田首相の側近、黒金泰美官房長官を巻きこんで世を騒がした「吹原産業事件(昭和40年)」につづいておきた株の不正取引事件である。
 経緯をのべたあと、小杉は、おもむろに、1通のコピーをとりだした。
「大橋の未整理書類のなかからこんなものがでてきました」
 みると、中曽根が児玉から5億円を受領したとする領収書のコピーだった。
 昭和39年の自民党総裁選挙は3選をめざす池田勇人とこれを阻止しようとする佐藤栄作が激突して、当時のカネで100億円以上がうごいたといわれる史上もっともカネに汚れた総裁選挙となった。
 このとき、おきたのが「吹原産業事件」で、フィクサーの吹原弘宣や闇金融王の森脇将光らが暗躍した。
「大橋事件」でも、大野伴睦や河野一郎、児玉誉士夫などの有力政治家や黒幕の名前が取りざたされた。
 児玉は、黒金念書が問題となった吹原産業事件で、検察側証人として法廷に立っている。
 そして、大橋の未整理書類のなかから中曽根が児玉から5億円をうけとったとする「中曽根領収書」がでてきた。
 ジャーナリストならとびつきたくなるネタだが、わたしには次期衆院選挙という関門がひかえている。
 うかつにうごいて、ドロをかぶると選挙にさしつかえる。
 わたしは、協力を断って、マスコミに情報提供することをすすめた。
 領収書の真偽が不明なことと、扱いを誤ると恐喝事件にみなされる可能性がでてくるからだった。
 マスコミを一枚かませておけば、二重の意味で、安全弁になる。
 このとき、小杉は、意外なことを口にした。
「先生は大橋さんと面識ありますね」
 たしかに、わたしは、大橋と会ったことがある。
 大橋は、静岡県長岡で長岡カントリークラブというゴルフ場とホテルを経営する実業家で、わたしは、同ゴルフ場の会員権をもち、年に何度かプレーしていた。
 ただそれだけの関係だが、大橋が事件をおこしたのち会員権の値が下がって多少、迷惑をこうむった。
 その日、わたしは、領収書のコピーを預かり、後日、マスコミ関係者とともに小杉の事務所を訪ねる約束をして、別れた。
 小杉と再会を約したのは、マスコミを一枚かませて、裏をとるという提案をうけいれさせた以上、つっぱねるわけにいかなかったからである。
 わたしは、朝日新聞社会部のAと、共同通信編集委員のBを赤坂の事務所に呼んで、対策を練ったが、問題は、領収書の真偽だった。
 本物なら大スキャンダルだが、ニセ物なら「有印私文書変造罪」になる。
 ニセ領収書が恐喝などの犯罪にふれる可能性があれば、かかわりにならないにこしたことはない。
 ただ、朝日のAも共同通信のBも、事件性にはつよい関心をもった。
 3人で話しあった結果、小杉法律事務所を徹底的に取材して、領収書が本物という確信がとれたら、わたしが記事を書き、朝日や共同通信が報道や配信にうごくという合意にたっした。
 朝日のAと共同通信のB、そして、わたしの3人は、恵比寿の小杉法律事務所を訪ねた。
 ドアには「小杉法律事務所」と書かれ、弁護士3名の名が記されていた。
 わたしは、法律事務所の代表である小杉を弁護士と思いこんでいる。
 そうでなければ、わたしは、この手の事件に首をつっこまなかった。
 取材は難航した。小杉や小杉の同僚らは、大橋の事務所から運び込んできた書類の山から領収書がでてきた経緯を説明したが、裏づけとなる資料や関連の材料はなにもでてこなかった。
 その後、3人は、二度、小杉法律事務所へ足を運んで、書類を丹念に調べたが、中曽根領収書に関連づけられる決定的な資料はみつからなかった。
 特ダネとなる情報は、かならず裏づけがあって、エピソードやストーリーをもっている。
 たんに領収書や覚書が存在しても、それが、どういう性格のもので、だれの手をへたものかなどの物語性が明らかにならなければ、記事にもならず、世に出すこともできない。
 わたしは、このころから、ドキュメンタリー本や雑誌の執筆をはじめているが、一度も、事実誤認や名誉棄損などのトラブルをおこしたことはない。
 事実関係の報道について、臆病なほど慎重で、その代わり、確証がえられたらズバリと斬りこむスタイルをまもってきたせいと思っている。

 ●恩田貢(週刊文春元記者)の策謀
 わたしの事務所に、週刊誌や月刊誌、政・経・財界誌のライターや編集者がやってくるのは、昔も今も同じで、なかには、何十年の付き合いのひとたちもいる。
 わたしの事務所から世に出た大事件も少なくないが、いずれ、ふれるつもりである。
 恩田もわたしの事務所の常連だったが、当時は、文春を退社して、トップ屋として売り出し中であった。
 その恩田がやってきて、「中曽根領収書」を見せろという。
 この事件で、いまだわからないことが、2つある。
 1つは、なぜ、小杉がわたしのもとへ「中曽根領収書」をもちこんだのか。
 そして、もう一つが、なぜ、恩田が、わたしの事務所に「中曽根領収書」があることを知っていたのか、である。
 わたしは、すでに、朝日のAと共同通信のBをパートナーにしている。
 したがって、二人に断りなく、恩田を仲間に入れるわけにはいかなかった。
 恩田には断ったが、恩田は、その後も電話をかけてくるなど執拗だった。
 ある日、赤坂の事務所に大勢の新聞記者が押しかけて来た。
 警視庁記者クラブの新聞記者で、一様に「中曽根領収書」について、質問を浴びせてくる。
 これで、わからないことが1つふえた。
 新聞記者は、なぜ「中曽根領収書」がわたしの事務所にあると知っているのか。
 もっとも、この謎は、すぐに解けた。
 恩田が、中曽根事務所の上和田秘書に「中曽根領収書」のてん末をつたえていたのである。
 中曽根事務所の上和田秘書から訴えをうけた警視庁の動きは迅速だった。
 即日、小杉法律事務所に捜査に入り、小杉と共犯者らを逮捕している。
「中曽根領収書」は、案の定、偽造だったのである。
 警視庁の番記者が、このとき、大挙して、わたしの事務所におしかけてきたのは、警視庁のリークで、記者らにわたし事務所の住所を流したのである。
 わたしは、このとき、迷惑がかかることをおそれて、朝日のAや共同通信のBの名をだしていない。
 小杉の名前を伏せたのも、記者団に経緯を話す前に、小杉の了解をえようと思ったからだったが、これが裏目にでた。
 翌日の新聞各紙には、わたしが「中曽根領収証」の偽造犯として報道されていた。
「山本峯章 公認欲しさに偽造」という捏造記事まである。
 政治評論家で私の親しい戸川猪佐武の談話となっている。
 わたしが戸川に電話で真意を問いただすと、戸川は「いやそうじゃないんだよ」「山本君どうしたんだろう。公認の件でも絡んでいるのかなあ」と独り言をいっただけだと苦しい言い訳をした。
 だが、いったん記事になってしまえば、いくら地団駄を踏んでも後の祭りである。
 わたしは、警視庁に電話をかけて、事実関係をつたえた。
 朝日新聞と共同通信と共同取材して、どこから、偽造疑惑がでてくるだろう。
 新聞は、小杉逮捕を報じたが、わたしを「中曽根領収証」の偽造犯と報じた誤報の訂正記事は、朝日新聞以外、載らなかった。
 朝日が「中曽根領収書偽造事件には山本峯章は関係なかった」と訂正記事をのせたのは、朝日新聞社会部のAが関与していたからであろう。
 しかし、社会面の片隅の二行の訂正記事ではだれも気がつかない。
 わたしが新聞の誤報で大きなダメージをうけたのは、これだけではない。
 朝日新聞は「橋梁談合」の仲介に立ったわたしを「山本、明日、逮捕か」と大誤報するのだが、このときは、二行の訂正記事すらださなかった。
 この件については、後日、詳細をのべよう。

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2020年07月13日

わが青春譜17

 ●菊池義郎後援会「白菊会」
 国政選挙に打って出る覚悟を固めて、品川区に住居を移し、大田区の蒲田に事務所を開設したのが昭和49年のことであった。
 選挙区は、東京二区で、当時、自民党議員は、それまで、23年間、議席をまもってきた菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけだった。
 5人区の東京二区で、自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしが、菊池義郎に面談を申し入れて、後継者指名と「白菊会」の応援をえた経緯についてはすでにのべた。
「白菊会」は、長年、菊池義郎をささえてきた後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 昭和50年に入ると、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書のほか、「白菊会」や旧菊池事務所のスタッフらがうごきだした。
 わたしは、連日、稲見秘書の案内をうけて、後援会幹部のご自宅を訪ねた。
 すべてから支持をとりつけたわけではなかったが、反応は良好で、なかには「白菊会」の地区会員を集めて激励会を開いてくれたひともいた。
 活動が軌道にのってくると、菊池先生も、もちまえの元気をとりもどされて、後援会活動も熱をおびはじめた。
 50年6月10日。品川公会堂で「白菊会」と「山峯会」の共同後援による講演会「山本みねあき/鶴田浩二と語る憂国論」がひらかれた。
 後援活動の一環であったが、新聞が参加者3000人と報じた会場の大半は、白菊会の会員で、白菊会がなければ、成功はおぼつかなかった。
 鶴田浩二とわたしの関係は、学友をつうじてのもので、わたしが、特攻隊の生き残りである鶴田の「遺骨収集」に賛同して以来、意気投合していた。

 昭和50年初旬、石原慎太郎が都知事選に出馬するという噂が飛び交った。
「裕次郎が慎太郎に代わって、国政選挙に出馬するという情報がマスコミから流されると「週刊現代(3月13日号)」は「菊池義郎の東京二区の地盤を引き継いで、とむらい合戦と意気込んでいた山本陣営はカッカときた」などという憶測記事を書くなど、東京二区はにわかにキナくさくなってきた。
 月刊誌「全貌(4月号)」は「石原慎太郎の都知事選出馬で東京二区は大激戦区に!」という見出しを掲げて「前回、石原慎太郎に蹴落とされた菊池義郎が引退、地盤をひきついだ大型新人の山本峯章の動向に注目」などと書き、わたしのもとにもメディアの取材が相次いだ。
 結局、石原慎太郎は、このとき、都知事選出馬を見送った。
 すると今度は「ショックの山本陣営」という記事(内外タイムズ八月三日号)が流れるという具合で、どれも、うわさ話の域をでなかった。
 わたしが狙っていたのは、無所属の次点で、次々回の衆議院選挙を天王山とにらんでいた。
 それには、テレビのワイドショーなどで物価の山本≠フ名を売って、あとは、経験ゆたかな「白菊会」の力を借りで、時間をかけて、選挙区内での知名度や好感度を上げてゆく方法しかなかった。
 したがって、石原の都知事選への出馬には、まったく無関心だった。
 芥川作家で、マスコミの寵児。選挙に出るたびに記録的な大量票を獲得する石原慎太郎の票田と「白菊会」を中心とする主婦層の票田は、別だったからである。
 石原の票を食うことは不可能で、そんな気もなかったが、マスコミは、石原が危機感をもったがごとく、おもしろおかしく書き立てた。
 大型新人というキャッチフレーズは、わたしの人気や実力をさしたものではなく、長きにわたって、菊池義郎先生をささえてきた「白菊会」が山本峯章についたことへの評価で、わたしは、その事実を痛いほど知っていた。
 わたしの「山峯会」と菊池義郎「白菊会」では、大関と幕下ほどのちがいがあって、わたしは、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書に頭があがらなかったのである。

 ●鶴田はヤクザ、山本は右翼だ
 菊池義郎が、すでに、引退したにもかかわらず、51年3月、品川公会堂でおこなわれた「白菊会春季大会」は盛況で、新聞は、会場に入りきれないほどの3000人が集まったと報じた。
 事実上の山本峯章後援会の大会で、鶴田浩二も、バンドを率いて、かけつけてくれて、体験談を語り、ヒット曲である「街のサンドイッチマン」を歌って会場をわかしてくれた。
「白菊会」の活動がさかんになるにつれて、誹謗中傷や流言飛語に悩まされるようになった。
 そのなかの一つが、わたしを支援してくれた鶴田浩二にまつわるものだった。
 鶴田浩二は、東映映画で、やくざがはまり役の一流の映画スターである
 中傷というのは、鶴田はやくざだから、やくざの山本の応援に来ているという次元の低いものだったが、政治的デマゴギーは、低級なほどプロパガンダ効果が高いという法則がある。
 1984年の「三宅島官民共用空港」闘争では、反対派の「空港ができたらジェット機の爆音でブタが仔をうまなくなる」「魚がとれなくなる」というデマゴギーに多くの島民がダマされた。
 山本峯章は右翼という陰口も叩かれたが、これは、黙殺するほかなかった。
 わたしは、1660年前後、保革が激しくぶつかった新島闘争や安保闘争にくわわった。
 この経緯は、菊池先生もご存知だが、先生は、一言もふれらなかった。
 菊池先生自身も、自民党きっての反共主義の論客として知られていた。
 先生は、ともかく、後援会の会員が不信感をもった場合、わたしは、納得がゆくまで話し合うハラで、逃げ隠れする気は毛頭なかった。
 政治思想やイデオロギー、政治信条は、言論の上に成立するものである。
 したがって、政治運動をする場合、信念をもつと同時に最小限の理論武装がもとめられる。
 政治は、言論で、言論が放棄されると戦争となるであろうが、それが政治の破綻にほかならない。
 朝日や毎日のようなマスコミ左翼が、伝統主義や保守主義、民族主義などを右翼(あるいはネットウヨ)と差別的に色づけして、四つに組んだ議論しようとしないのは、大きな問題なのである(この件についてはいずれ詳しくふれる)。
 その後、「白菊会」と「山峯会」は、品川区と大田区で、連日、50人〜100人規模の会合をひらいて、順調に、組織固めと選挙の体制づくりがすすめられた。
 51年9月24日 大田区体育館で「山本みねあきを励ます一万人集会」が開催された。
 選挙にむかって、後援会の強化と臨戦最終体制に入るための大集会で、菊池義郎後援会「白菊会」と山本峯章後援会「山峯会」の共催となった。
 収容可能数5000人ほどの大田体育館で、あえて、一万人大集会を謳ったこの大会は、結果として、大成功であった。
 出席者の7〜80%は白菊会の長年の会員で、さすが、菊池先生を23年間にわたって、国会に送りこんできただけの大組織である。
 この日の大会は「白菊会」に「山峯会」にあやかった形で「白菊会」会長の菊池義郎先生も「山峯会」会長の今東光先生も、壇上で、満足げであった。

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2020年07月03日

 わが青春譜16

 ●石原慎太郎秘書 暴力事件
 国政選挙の準備中、わたしの秘書である押切が石原慎太郎の秘書、浜渦武生らから暴行をうける事件がおきた。
 昭和49年10月25日の夕刻、わたしは、赤坂の事務所で「日本食糧自給連盟(会長赤城宗徳/防衛庁長官・農林大臣)の会議を開いていた。
 食料自給率は、わたしの物価政策の目玉で、この日の会議には、城西大学の岩井主税教授や評論家の広瀬らいつものメンバーが顔を揃えていた。(この件については別項でのべる)
 そこへ、顔面から血を流した秘書の押切がはいってきた。
 聞くと「石原の秘書、浜渦とキックボクサーから暴行をうけた」という。
 わたしは岩井教授から紹介された赤坂の前田外科病院へ押切をむかわせた。
 診断書の結果は「左顔面、前胸部、左大腿部打撲 全治二週間」であった。
 浜渦らが押切を襲った理由は、むろん、衆院選挙がらみで、私怨であった。
 10数年、賀屋興宣衆院議員(東京三区)の秘書をやっていた押切は、参院から衆院へのりかえた石原慎太郎が、賀屋の地盤をひきついで三区から立候補する姿勢をみせたため、賀屋に指示にしたがって、石原の秘書についた。
 役割は、選挙参謀だったが、石原の心変わりで、選挙区が、急きょ、二区に変更されたため、石原の秘書を辞した。
 そして、東京二区で石原慎太郎の対抗馬になったわたしの秘書になった。
 これを、慎太郎に心酔する浜渦が裏切りとみて、先の襲撃事件となったのである。
 押切はインタビュー(内外タイムズ)にこう応えている。
「狂乱物価¢゙治を謳ってテレビで話題になっているばかりか、東京二区で長年議席をまもってきた菊池義郎衆院議員の地盤をひきつぎ、来春の統一選挙に立候補する山本氏を有望と見て、みずから、選挙参謀を買ってでた」
 週刊大衆(昭和49年11月14日号)にこうある。
「(暴行事件)のウラには、押切が秘書についた山本峯章が、石原慎太郎の東京二区から出馬する大型新人という事実が隠されている」「次回の衆院選で、石原は、前回のように、2位に大量差をつけてトップ当選というわけにはいかないだろう」
 第34回衆院選挙東京二区の下馬評で、わたしには、大型新人という形容詞がついていたのである。

 ●暴行事件の全容と経緯
 押切は事件についてこうのべている。(週刊大衆11月14日号)
「10月24日午後6時頃、石原さんがコミッショナーをしているキックボクシング協会のS(清水)から、協会の事務所に来てくれという電話がかかってきました。話なら電話ですませたいと申し入れると、来られないのならオレが行くという話になって、結局、25日の午後、ニューオータニのロビーにあるコーヒーショップで会う約束をしました。当日 事務所(山本峯章)の青年と二人で行くと、清水は「二人で話したいから席を外してくれ」と連れの青年を追い返しました。そこへ浜渦があらわれると、清水は、静かな場所で話そうとエレベーターホールむかいました」
 事件はその直後におきた。
 3人がエレベーターに乗ったとたん、清水が腹部に二発、そのあと、右から浜鍋、左から清水が顔、左脇に拳を撃ちこんできたのである。
 清水はキックボクサー出身で、浜鍋も、学生時代(関西大学)、空手をやっており、この2人の暴力は、素手でも凶器とみなされる。
 エレベーターが地下三階の駐車場につくと、押切は、通路で、二人からまた2、3発殴られた。
 膝から崩れ落ちた押切にむかって、清水と浜渦は事務所まで来いという。
 押切が行く必要はないとつっぱねると、浜鍋は、道義的にゆるせないということばを残して、車で去っていった。
 この事件の原因と経緯について押切は次のように語っている。
「石原議員の秘書になって、他の秘書やとりまきによる誹謗中傷に悩まされることになりましたが、そのなかに、石原が顧問をつとめる団体(10以上)の顧問料をわたしがネコババしているというものもありました。
 この件は、石原とわたしが直接話しあって、誤解は解けましたが、秘書らの邪推やいやがらせ、告げ口がやまないので、イヤ気がさして、公示一か月前に辞めさせてもらいました。
 もともと、東京三区で、賀屋議員の地盤をひきつぐ前提で、賀屋の秘書から石原の秘書になった経緯があって、辞職にためらいはありませんでした。
 ところが、石原は『秘書を何人もクビにしてきたが、秘書から首をきられるのは初めてだ』と怒ったそうです」

 ●被害届けを受理しない赤坂署
 押切秘書が赤坂署に被害届を提出する一方、わたしは、赤坂署にこの事件の厳重な取り調べを依頼した。
 押切は、赤坂署に「この種の傷害事件では、犯人はとっくに逮捕されているはず。犯人未逮捕どころか、事件の捜査がすすんでいないのはなぜですか」と詰め寄ったが、担当の係官は「ほかの事件で忙しくすすまない」「先方は現職議員が関係しているので」「上層部からの命令で」などと言を左右にして埒が明かない。
「共犯の清水はいつ呼ぶのですか」と聞いてもさっぱり要領をえない。
 事件への石原の関与について、内外タイムスは、わたしのコメントを載せている。
「この事件に石原先生が関与しているはずはない。石原さんはなにも知らないのでしょう」
 だが、わたしに、事件の幕を引く気はさらさらなかった。

 ●今東光和尚も仲裁を断った 
 昭和49年11月2日の内外タイムス紙の大見出しに「今東光和尚も仲裁を断った」とある。
 今東光はわたしの後援会会長である。
 週刊大衆に今東光の秘書、茎沢久孝の話が載っている。
「石原議員が、深夜、今東光先生に電話をかけてきたのは、山本峯章後援会の会長だったからで、電話の内容は、とりなしの依頼でした。穏便によろしくというものでしたが、今先生は耳を貸さなかった。すると、翌日、今度は第三者が、2人(浜鍋と清水)に詫び状を書かせるからとやってきましたが、これも断りました」

 ●住吉連合小林楠扶会長からの電話
 そんな折、一本の電話が事務所に入った。
 住吉連合小林会小林楠扶会長からである。
 小林楠扶は、住吉連合という日本最大級の任侠組織の会長で、日本青年社という右翼団体を主宰していた。
 日本青年社が、尖閣諸島上陸決死隊を結成して魚釣島に上陸、点滅式灯台を建設するのは、それから、4年後の昭和53年8月のことである。
 小林は開口一番、「石原の問題から手を引いてくれないか」という。
「暴力をふるわれて怪我をした秘書が告訴して白黒をつけたいといっているので、秘書の意思を尊重したいと答えると、小林はしばらく沈黙したあと、こう念を押した。
「等々力がいってきても聞かないつもりか」
 等々力とは右翼の大物、児玉誉志夫のことで、児玉は、世田谷区の等々力に居を構えている。
 小林の仲裁を断って、等々力の仲裁にのったら、小林の顔がつぶれる。
 やくざの世界では、相手の面子をつぶせば、血の雨が降ることになる。
「だれがいってこようとダメです。これは、わたしではなく、暴力事件の被害者であるわたしの秘書がきめることです」
 小林は、低い声で「わかった」といって、電話を切った。
 
 ●多摩川に沈めてしまうつもり?
 石原慎太郎の後援会の幹部である漆島秀幸から抗議の電話が入った。
「あなたはヤクザを使って、石原先生の秘書を痛めつけたと聞く。けしからんではないか」
 話がまったく逆で、あきれたが、そのあたりの事情を当時の内外タイムスがこう報じている。
「事実関係が逆であることを知った漆島は、石原の秘書内藤秀喜を自宅に呼びつけて、説明をもとめた。この席には、山本峯章後援会の古川亘明と塩満一が同席したが、内藤は二人の素性を知らない。
 このとき、内藤秘書はぬけぬけとこう言って、漆島の叱責をうけている。
「浜渦が個人的に気に入らないのでやったのでしょうが、押切は、殴られても仕方のないやつなのです。多摩川に沈めるという話もでたほどで」
 石原に心酔するのは結構だが、多摩川に沈めるというのでは狂気である。
 スター性のある石原慎太郎には、狂信的なとりまきや支援者がでてくる。
 第37回衆院選挙(昭和58年)の選挙活動中に、石原慎太郎の公設秘書が対立候補だった新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」というシールを貼る選挙違反がおこして、新井は落選した。
 この事件は、公職選挙法違反事件として、公設秘書の栗原俊記が逮捕されたにもかかわらず、石原自身に捜査がおよぶことはなかった。
 なお、新井は、同じ選挙区で、第38回衆院選挙に出馬し当選している。
 平成10年、新井将敬は、日興証券利益供与事件への関与が疑われて、逮捕許諾決議の直後、無実を主張したのち、ホテルパシフィック東京で自殺した。
 偶然だが、新井将敬を囲む中小企業や、上場をめざす「IT企業」の集団がいまも健在で、多くが上場をはたしている。
 このグループの中心的人物とは、いまも親交があって、年に数回、相談事をもって訪ねてこられる。

 ●浜渦副知事就任に「待った」
 押切の暴行事件は、結局、告訴状が受理されず、浜鍋秘書も暴行犯の清水も不問となった。
 警察が石原の政治力を忖度した結果であろう。
 だが、この暴力事件が、後日、石原慎太郎東京都知事が推挙した浜鍋副知事の就任に「待った」をかけることになる。
 1995年に議員辞職した石原慎太郎は、4年後の1999年、東京都知事に当選。以来、4期14年の長期政権を築きあげるが、その背後にいて、石原をささえてきたのが、浜鍋副知事だった、
 浜鍋の副知事就任に、最初に、異を唱えたのが自民党都議会だった。
 秘書を副知事という公職へ横滑りさせることへの違和感にくわえて、強面の浜渦にたいする抵抗もあった。
 わたしは、押切にたいする浜渦の暴力事件を報じた内外タイムスを東京都議会(自民党)に提供すると、内外タイムスも、浜鍋の副知事就任への疑問符を続報としてつたえた。
 一年後、後に衆院へ転出するM都議が訪ねてきた。
「先生、もういいですか」
 浜渦の副知事就任について、わたしに意見をはさむ資格などない。
 だが、このとき、一言、M都議にこうつたえた。
「石原の用心棒みたいな男なので、事件をおこさなければよいがね」
 案の定、浜渦は、その数か月後、目黒駅の近くでタクシーの運転手に暴力をふるって、警察沙汰の騒ぎをおこした。
 だが、不起訴になって、事件は、やがて、忘れられた。
 不起訴になったのは、警察(警視庁)の予算は東京都の「警務消防委員会」が握っているからである。
 権力は、政治や行政と癒着しながら勢力を拡大させてゆくのである。
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2020年06月29日

わが青春譜15

 ●山本峯章後援会「山峯会」発足
 冷蔵販売車を団地に展開する「動くスーパー」で狂乱物価≠ノ挑んできたわたしは、流通機構の改革によって、物価を下げられることを知った。
 物価は、国民にとって、生活に直結する切実な問題であった。
 北方領土も日米安保も、国家にとって、大事な政治的テーマである。
 同様に、物価も、国民にとって、重要な政治的テーマで、池田勇人の「所得倍増計画」は、国民に熱狂的に迎えられた。
 所得がふえるのと、物価が下がるのでは、結局、同じことである。
 わたしは、物価を下げる運動が、国政の争点になるとふんで、政治の世界に打って出るハラをきめた。
 昭和49年の春、わたしは、大田区蒲田に山本峯章後援会山峯会の事務所を設立した。
 目的は、国会議員選挙の立候補で、初回で次点にこぎつけ、二回目で当選という青写真を描いて、活動を開始した。
 わたしの後援会(山峯会)の初代会長には、直木賞作家にして参議院議員の今東光が就いてくれた。
 今先生は、中尊寺貫主として、国宝金色堂を再建した僧正としても知られていた。
 この頃(昭和40〜50年代)、衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で複数の議員が選出された。
 わたしが選挙事務所を構えた大田区は、東京二区で、大田区と品川区のほかわたしがうまれた三宅島の伊豆七島と小笠原諸島をかかえた日本一広い選挙区である。
 定数は5人で、ここで自民2、公明1、残りの2議席を民社、社会、共産が議席を分け合い、あるいは、争っていた。
 わたしが大田区に事務所を構えた昭和49年当時、自民党議員は、それまで常連だった菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけであった。
 自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしは、品川区に自宅を移して、品川区を中心に、後援会の組織づくりに精をだした。
 友人や知人のコネを頼りに、品川・大田両区を回ると「菊池先生の御子息が出馬しないのなら応援してもよい」という声が少なくなかった。
 菊池先生というのは、23年間、東京二区で議席を確保してきた菊池義郎前議員のことで、1972年の第33回衆議院選挙で苦杯をなめていた。
 賀屋興宣の後継者として、参議院から鞍替えして、東京三区から出馬すると噂されていた石原慎太郎が、突然、東京二区から出馬しためであった。
 菊池義郎は、引退を表明したが、後援者のあいだで、子息が後を継ぐという噂が流れていた。
 菊池義郎を支えてきたのは「白菊会」という後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 白菊会のメンバーの多くは主婦で、だれもが、気さくで人情家の菊池夫人を慕い、夫人の手料理、芋の煮っころがしのもてなしをうけたひとたちも少なくなかった。
 わたしの生まれは三宅島で、父母から親戚にいたるまで、八丈島出身の菊池義郎の支持者でもあった。
 当時、わたしは、自由民主党品川支部青年部長と東京都連合会(都連)青年部の中央執行委員という役職をえていた。
 都連青年部の部長は、保坂三蔵都議(のち参議院議員)で、一定の影響力をもっていたが、東京二区は広く、新人のわたしが、都連青年部の肩書きだけで当選圏内にのしあがってゆくのは容易なことではなかった。
 わたしは、白菊会のキーマンといわれた稲見秘書を訪ね、菊池夫人、そして菊池義郎先生との面談に漕ぎつけて、単刀直入に、協力を頼みこんだ。
 菊池義郎は、政界でも指折りの一本気な性格で、戦時中、時局講演会で中国大陸からの即時撤退を主張して憲兵隊に拘引され、日大教員の職を棒にふった経験をもつ猛者で、反共主義の一言居士としても知られていた。
 菊池義郎は、わたしの申し入れを快諾して、後継者指名と「白菊会」の応援をひきうけてくれた。
 わたしは、いまでも、菊池義郎先生と夫人の恩を深く胸に刻みこんでいる。

 ●パロディ狂乱物価葬儀 テレビ放映”
 昭和49年10月24日、東京大田区の池上本門寺境内で、インフレによる高物価に挑戦と謳って「物価葬儀」なるイベントを挙行した。
 祭壇の上に棺桶を置き、池上本門寺の僧侶による読経にあわせて、参加者が大根や茄子、カボチャなどの野菜を棺桶に放りこみ、高物価に決別を告げるという趣向で、白菊会の会員が中心に、エプロン姿の主婦1500人以上が参加した。
 模擬葬儀のあと、産直野菜の大安売りをおこなうこのイベントは、マスコミからも注目された。
 ▼読売新聞(夕刊)は、写真2枚付きの報道で、見出しにこうある。「本物の棺桶に大根やキャベツ、人参などをどっさりつめて/生鮮食品狂乱物価葬儀/本日急逝いたしました」「式の後は産地直送の野菜十数トン/主婦ら約1500人」(昭和49年10月24日)
 ▼東京新聞は「ストップザ狂乱物価/生鮮食品葬儀」というタイトルに記事がこうつづく。「東京大田区の池上本門寺境内で同日午前9時半から狂乱物価の告別式と青森農協とのタイアップによる産地直送野菜の安売りがおこなわれた。
 境内に設けられた祭壇には棺桶や「狂乱物価」と戒名が書かれた位牌、「貧困者一同」から贈られた花輪などが並べられ、賛同者として「傍観者代表―橋本自民党幹事長、なにもできないしない代表―美濃部東京都知事、評論家として各党幹事長の名前が貼りだされていた」(10月24日)
 ▼週刊大衆は「狂乱物価葬儀/安いことはいいことだ」という見出しに写真2ページをもちいて「おちゃらかしの葬儀は、物価問題に無策の政府・野党をひっくるめてからかおうという挑戦的な内容」(11月14日号)と評価した。
 そのほか、いくつかのメディアが好意的に報じてくれたため、池上本門寺を舞台にした狂乱物価阻止♂^動は、一応の成功をおさめることができた。

 ●フジテレビ「三時のあなた」にゲスト出演
 狂乱物価に無策な政府の無策を批判した池上本門寺の狂乱物価葬儀は、フジテレビ「三時のあなた(司会/扇千景)でもとりあげられた。
 同番組にゲスト出演したわたしと小渕恵三(のち総理大臣)は、狂乱物価の原因となっている産業構造や流通機構について、意見を交し合ったが、小渕とわたしは、のちに、田中角栄の政策研究会「新総合政策研究会」で一緒に学ぶこととなる。
 別項でのべるが、三宅島の「官民共用空港問題」でともにうごいた山下元利(防衛庁長官)もこの研究会で出会い、意気投合した仲である。
 2人とも故人になって、久しいが、このお2人ばかりか、かつで、自民党を築きあげた功労者で、存命されている方たちは、年々、少なくなってゆく。

 ●「山本さん 最近の右翼はどうかね」と田原総一朗
 右翼活動家の前歴を捨て、国会議員候補あるいは政治評論家としての活動を本格化させはじめたわたしにとって、右翼という呼称は、ありがたいものではなかった。
 右翼活動を否定するものではないが、国政選挙や社会運動、テレビ出演には決定的に不利にはたらく。
 世間は、不正が目に余ると、右翼はなにをやっているのかと待望論をのべるが、右翼を善良で小市民的な国民と同列に見ているわけではなかった。
 むしろ、国民にとって、牙や毒のある存在で、だからこそ、右翼には、存在価値があるともいえるのである。
 わたしは、のちに、川崎敬三の「アフタヌーンショー」など多くのテレビやラジオの番組に出演させてもらうことになるが、田原総一朗が司会する「サンデープロジェクト」にも、ゲストとして、10回以上、呼ばれている。
 番組が終了すると、テレビ朝日の近くの全日空ホテルで、出演したゲストやスタッフが食事をしながら雑談する。
 反省会と慰労会を兼ねたような集まりで、スタジオとはちがってなごやかな雰囲気である。
 とつぜん、田原が、テーブル越しに、大声でわたしに声をかけてきた。
「山本さん 最近の右翼はどうかね」
 まるで、景気の動向でもたずねる調子で、これでは、返答のしようがない。
 右翼をまともにとりあげるなら、議題に掲げて、左右から大論陣を張るべきテーマで、食堂の片隅で、もののついでにもちだしてくる問題ではない。
 勘が鋭いジャーナリストの田原がそんなことに気づかないわけはなかった。
 周囲には、番組スタッフや他の出演者がいて、田原に注意をむけている。
 田原のことばから周囲につたわったのは、山本峯章が右翼の関係者であるということだけで、おそらく、田原の意図もそこにあったのだろう。
「田原さん、右翼動向が知りたければ、あなたの友人の野村秋介さんに聞いてはいかがか。最近の右翼のことなど、わたしが知るわけがない」

 ●小渕恵三と「金丸事件」
 このとき、わたしの隣に座っていた小渕恵三が、気まずい雰囲気を察したのか、他に用件があったためか、「出ましょう」とわたしをうながした。
 小渕とわたしは、同じ全日空ホテルの喫茶店に入った。
 小渕がわたしを喫茶店に誘ったのは、当時、小渕は、自民党をめぐる大きな問題に頭を悩ませていたからだった。
 金丸信副総裁が東京佐川急便から5億円のヤミ献金をうけていたとされる「金丸問題」であった。
 竹下派内では、裁判で徹底抗戦を主張する小沢一郎と、略式起訴での決着を主張する梶山静六が対立して、派閥分裂に危機に瀕していた。
 小渕の相談は、マスコミ対策で、金丸と一心同体の竹下派も、明確な方針が立っているわけではなかった。
「マスコミにはノーコメントでおしきるべきです。なにかいえば、誤解や曲解をまねき、あるいは、真意をねじまげられて、口は災いの元ということになりかねません」
 金丸事件は、上申書提出と20万円の罰金刑ですんだが、小沢一郎が自民党から去って、1955年の保守合同以後、38年におよんだ自民党の長期単独政権に終止符が打たれることになった。
 小渕恵三内閣(第一次)は、細川護煕から羽田孜、村山富市、橋本龍太郎とつづいてきた保革連立から脱した5年ぶりの自民単独政権だったが、総理大臣在任中、小渕恵三は、この世を去った。
 小渕は、総理大臣のとき、わたしが談合事件の黒幕と朝日新聞に誤報された折、共通の知人をとおして「心配している」というあたたかいことばをつたえてくれた。
 総理大臣の役も終えたらゆっくり会うことができるだろうと期待していたのだが、それもかなわぬ夢となった。

 いつの日か またあいみむと 契りたる
     君の訃報の 聞くは侘しき


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2020年06月24日

 わが青春譜14

 ●流通機構改革「動くスーパー構想」
 列島改造景気によるインフレや地価上昇、オイルショックによる消費物価の高騰は、当時、狂乱物価といわれて、社会問題化しつつあった。
 経済成長率が年平均10%をこえ、石炭から石油への転換(エネルギー革命)や石油化学コンビナートなど大型化、合成繊維やプラスチック、家庭電器など各種の技術革新やモータリゼーション、スーパーマーケットなどの流通革命もすすんだ。
 経済成長はゆたかな国民生活をもたらしたが、一方、物価上昇や大都市圏の過密と農村などの過疎、そして、公害などの負の遺産もうんだ。
 忠岡とわたしがめざしたのは、旧態依然たる流通機構の改革で、生鮮三品を中心とした産地直売だった。
 冷蔵車による移動販売だったところから「動くスーパー」と名乗った。
 いまでは、別段、珍しいことではないが、昭和40年代には、まだ、前例のない目新しい発想であった。
 日産自動車と冷蔵販売車の委託契約をおこない、取引銀行を大和銀行ときめて、始動体制を整えた。
 昭和48年10月1日に制定された大規模小売店舗法によって町の商店街に大型スーパーの出店がはじまった。
 これらのスーパーにも、一部、野菜などの産直を目玉とするところもあったが、流通経路の簡素化までには至らず、狂乱物価の沈静に大きな役割は果たすことはできなかった。
 戦後、再建された生協(CO・OP)も、消費者が組合員に共済事業であるが、産直などにつながる大きな動きはなかった。

 ●酒は値切って買う?
 明治以降、日本の国税の主たる対象は、塩・酒・タバコである。
 塩やタバコは、かつて、専売公社が元締めで、公定価格だった。
 酒税も、国家の重要な税収の一つで、国税庁から「酒類の販売事業免許」の許可をとらなければ、販売することはできない。
 わたしと忠岡は、蔵出しの時点で課税される酒が、流通過程では自由価格であることに着目した。
 現在、酒の販売は、完全自由化されてコンビニでも買える。
 だが、40年代は、酒類の販売業免許はきびしく、販売免許はかんたんには下りなかった。
 そこで、免許をもっている知り合いの酒屋を口説いて、出張販売であつかう酒を卸してもらうことにした。
 そして、自由価格で販売して、このとき、「酒は値切って買いなさい」というキャッチフレーズを謳った。
 狙いは、消費者に「流通を簡素化すれば物価が下がる」という認識をもってもらうためだった。
 仕入れた酒(日本酒のみ)をライトバンに積んで「物価高に挑戦!」という旗を立てて、わたしたちは、団地に乗りこみ、日本酒の安売りを開始した。
 酒は公定価格と思っている主婦の多くは、酒屋で酒を値切るなど思いもよらなかった。
 売り口上で、蔵出し酒税の仕組みを教え、日本酒が自由価格で買えることをつたえ、「今晩は二級酒の値段で、旦那に一級酒を飲ませてあげてください」とうったえると、ライトバンに満載してきた酒がたちまち売り切れた。
 あるとき、団地で、日本酒を安売りしていると、国税庁の役人があらわれた。
「免許はあるのか」と聞く。
 わたしは、友人の酒屋の免許で、出張販売をやっていると応えた。
 国税庁の役人は、出張販売にも許可が必要というが、申請しても許可がでるはずはなかった。
 押し問答しているうち、集まっていた主婦が役人に「帰れコール」を浴びせはじめた。
 どうやら潮時で、これ以上役人に逆らえば、友人の酒屋に迷惑がおよぶ。
 わたしたちは、ライトバンの出店をたたんで、団地から引き上げた。
 酒税は、国家の三大税源の一つで、役所によって完全に保護されている。
 翌日、事務所にやってきた酒屋の友人が、国税事務所から、きついお叱りを受けたとこぼした。
「免許取り上げられると店が潰れてしまうよ」と青息吐息である。
 わたしは、国税庁に顔の利く代議士に頼み、始末書を提出して事なきをえた。
 挑戦は挫折したが、物価高への抵抗運動については、十分に手応えがあった。
 旧い流通体制を改革することは簡単なことではない。
 因習やなれあいに利権構造が複雑にからんで、排除には相当の抵抗がある。
 必要なのは、意識改革で、消費者が立ち上がらなければなにも変わらない。
 続いて、肉の流通に挑戦した。東北で購入した牛を解体処理後、流通経路を省略して、店頭販売する計画だった。
 ところが、埼玉でも東京でも、解体処理場が仕事をうけてくれない。
 同和と称する者から、事務所に「われわれの商売を潰す気か」と脅迫電話が入るなど、嫌がらせもあった。
 肉の流通は閉鎖的な体質で、これが、改善されたのは、自由化などの流れにそって、消費者が立ち上がったからである。
 現在は、国内の流通機構も改革され、外国産の牛・豚・鶏が安く輸入されるようになって、市場は、当時では、想像もできないほど開放的になっている。

 ●動くスーパーが不渡り
 酒や肉の流通に取り組んでいた動くスーパー社に大きな災難が降りかかってきた。
 不注意から手形の不渡り事故をおこしてしまったのである。
「動くスーパー社」は日産自動車と冷蔵販売車の改造契約を結んでいた。
 車両数は、業務の拡張に合わせて、今後、数十台にもなる予定だった。
 不渡り事故というのは、日産自動車に渡してあった手形の決済期日に当座の預金残高が不足していたのである。
 忠岡は、普通預金に残高があるので安心していたというが、当座は不足していた。
 このようなケースでは、担当者が連絡をとって、普通口座から当座への資金移動を指導する。
 普通口座から当座預金に資金を振り替えればそれで済む話だからである。
 ところが、取引銀行の大和銀行本店は、忠岡に電話さえよこさなかった。
 そして、銀行に責任はないという一点張りである。
 銀行は、大蔵省の管轄下にあって「動くスーパー社」は、流通機構改革運動で国税庁に喧嘩を売り、肉その他の流通機構改革における法規の解釈や手続きで、役所としばしば悶着をおこしている。
「動くスーパー社」は、権力にとって、目の上のこぶだったのである。

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 わが青春譜13

 ●反共運動前線を去る
 昭和40年代になって、左右の思想的対決に大きな変化が生じる。
 60年安保における左陣営の大衆動員や右翼団体から暴力団まで駆り立てた右陣営の反共戦線が鳴りをひそめて、政治的無風状態がうまれるのである。
 理由の1つは、左右対決の焦点となるべき日米安保条約が自動延長となったためで、左陣営は、日米安保反対を煽って、大衆を動員する争点を失った。
 左翼が沈静化すれば、右陣営も、反共戦線を立てる必要はなかった。
 もう1つの理由は、かつて、安保闘争の主役を演じた全学連が過激派へ変容したことで、学生運動は、国民から遊離した犯罪グループへ転落していった。
 一連の極左暴力事件やゲリラ的な70年安保闘争、学園闘争は警察力で十分に対応できた。
 70年安保で、反代々木系といわれた極左暴力集団は、右翼(反共団体)と衝突するまでもなく、結局、40年代末には自滅してゆく。
 全学連の分派活動の一つにすぎなかった学園の民主化闘争も収束する。
 生き残ったのは、議会主義と平和路線を唱えた日本共産党だけだった。
 天皇や憲法、自衛隊などの問題を棚上げして、革命政党としての正体を隠しているが、日本共産党は、民主主義革命と共産主義革命の「二段階革命論」を唱える革命政党で、いまもなお、破防法における調査対象団体の指定をうけている。
 といっても、日本で、革命がおこる可能性はなく、日本共産党は、反自民のもとに群れる野党勢力の一つにすぎないものになっている。
 戦後体制の残滓、極左暴力革命の危機を回避して、日本が、高度経済成長にむかったのが、所得倍増計画の池田勇人内閣(1960年)からで、池田からはじまる経済優先政策は、その後の佐藤栄作内閣を経て、田中角栄内閣の列島改造論で大きな山場を迎える。
 田中角栄の列島改造計画で日本中がわき立ち、マスコミは、角栄を今太閤ともちあげた。
 国民が目をむけたのは、日米安保や沖縄返還、日中国交回復などの政治課題より、経済問題で、そのなかで、池田勇人の所得倍増計画と並んで国民の心をとらえたのが、田中角栄の列島改造計画だった。
 列島改造景気によって、高速道路や新幹線、本州四国連絡橋、地方の工業化促進候補地が脚光を浴びることになったが、これらの地域で、投機家によって土地の買い占めがおこなわれて、1973年には、インフレや物価上昇などが社会問題化した。
 政府は「物価安定七項目」を打ち出すなど、生活関連物資などの買い占めや売り惜しみ対策を取ったが、インフレはいっこうに収まらず、家計をあずかる主婦はやりくりに悩まされた。
 そのさなかにおきたのが「狂乱物価」で、原因は、第四次中東戦争が発端になったオイルショックだった。
 この頃、むつ小川原開発選挙で行動を共にした忠岡とわたしが、流通革命というべき「動くスーパー」構想を立ち上げたのは、福田赳夫が命名したという「狂乱物価」に挑戦するためだった。
 現在なら、珍しくもない「産地直送」だが、当時は、まだ、流通機構が保守的で、狂乱物価という社会現象に正面からとりくむ機運もなかった。
 わたしは、40年から45年まで、一流の講師を招いて、講演会を主催する大衆啓蒙運動をおこない、45年からは、西山幸輝からひきうけた昭和維新で実践的な政治運動を展開してきた。
 わたしは、反共運動から身をひき、大衆に密着したソフトな社会運動へ方向転換するため、昭和維新連盟の会長を薗田新に譲って、港区赤坂に新たに事務所を構えた。
 昭和48年の初頭で、忠岡とともに流通機構改革運動にとりくもうというのである。


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2020年06月04日

わが青春譜12

 ●むつ小川原開発の影武者
 昭和48年初秋、わたしの事務所に、小川原湖温泉社長の忠岡武重が訪ねてきた。
 忠岡は、わたしの旧い友人で、青森県の小川原湖の湖畔で温泉宿を経営しているが、旅館のほうは人任せで、本人は東京に住んでいる。
 のちに、わたしと共に社会事業をおこなうことになるが、その件については後述しよう。
 このとき、わたしは、忠岡から、六ヶ所村の村長選挙への協力を頼まれる。
 六ヶ所村は、田中角栄の日本列島改造論で、一躍、有名になったむつ小川原開発の中心となった地区で、現在、原子燃料サイクル施設などの原子力施設や国家石油備蓄基地、風力発電基地などエネルギー関連施設が集中している。
 だが、当時は、ワカサギやシラウオなどの漁獲量が豊富な小川原湖を擁する以外、これといった売り物がない、青森県下北半島の太平洋岸に位置する半農半漁の村でしかなかった。
 忠岡の話によると、開発賛成派と反対派がしのぎをけずっている村長選挙の背景には、自民党がすすめてきた新全国総合開発計画という国家プロジェクトがあるという。
 六ヶ所村は、国・自治体・財界が一体となった大型の国家事業(新全国総合開発計画)における苫小牧に次ぐ目玉で、村長選で開発推進派が負けるようなことになれば、当時、数兆円規模といわれたむつ小川原開発が後退して、六ヶ所村は、経済発展の恩恵に浴することができない。
 六ヶ所村村長選挙が、開発計画に大きな影響をあたえるとあって、提唱者である自民党が全力をあげると思いきや、忠岡の話では、かならずしもそうではなかった。
 忠岡は、わたしに、ある財界人に会ってもらいたいという。
 忠岡に案内されたのは東京駅の近くにある日本ビルディングに入居している「むつ小川原開発株式会社」という第三セクター(官民共同事業体)だった。
「新全国総合開発計画」におけるむつ小川原開発は、トロイカ方式と呼ばれるもので、財団や企業らが土地買収と工業用地の造成分譲、計画や調査の業務をそれぞれ分担しあっている。
 むつ小川原開発株式会社の資金30億円も、北海道東北開発公庫と青森県が50% 残る50%は経団連傘下の150社の共同出資によるものだった。
 社長室で待っていたのはむつ小川原開発の社長をつとめる安藤豊禄(元小野田セメントの社長)だった。
 長年、経団連の理事をつとめている財界の大物だが、気さくで率直、驕ったところがなかった。
 忠岡と安藤のやりとりから、六ヶ所村の村長候補の一本化に難航しているとわかった。
 安藤が忠岡にたずねた。「県連(自民党青森県連)で調整できないものだろうか」
 村長選で開発推進派が負けるようなことになると、大幅な計画縮小どころか六ヶ所村の開発計画が頓挫しかねない。
 忠岡と安藤の懸念はそこにあった。安藤がずばりと切りこんできた。
「あなたは中川さんと近いとうかがっているが」
 安藤がいう中川とは衆議員議員の中川一郎のことである。
 だが、福田に私淑する中川は、福田の緊縮財政論に近く、大規模開発による土地価格の高騰やインフレを招く田中角栄の積極財政には批判的だった。
 一方、中川は、青嵐会の代表として、多くの右派議員に支持されている実力者で、将来の総理候補として頭角をあらわしつつあった。
 安藤から、直接、協力をもとめられて、わたしは、忠岡と共に開発推進派の力になろうと意を決めて、その日、むつ小川原開発株式会社を後にした。
 
 ●出稼ぎ村 むつ小川原六ヶ所村
 青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備する計画がもちあがったのは昭和30年代末頃だった。
 その計画が、昭和四十四年五月 田中角栄内閣の「新全国総合開発計画」として閣議決定されて、実行段階に移された。
 対象地域は、むつ市やなど16市町村におよんだが、開発の中心は、青森県の下北半島太平洋岸に位置するむつ小川原港の六ヶ所村が中心であった。
 六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所、火力発電などを建設する世界最大の開発といわれたむつ小川原開発計画は、石油危機などによって、縮小を余儀なくされる一方、原子力関連施設が進出してきて、今日のすがたになった。
 開発の中心となった六ヶ所村や周辺の地域は、半農半漁で、毎年2〜3千人の人々が、家族と離れて、出稼ぎで現金収入をもとめる土地柄であった。
 秋の刈り入れが終わると、家族と別れて都会へ出稼ぎに行き、春の雪解けに帰って、田植え作業するケース、一年をとおして出稼ぎに出るケースと事情はさまざま異なっても、この時代、むつ小川原および六ヶ所村は、貧しい北国の出稼ぎの村であった。

 どじょっこやふなっこが遊ぶ 雪解けに
      おどうは帰る 手みやげもって


 ●戊辰戦争で敗れた会津の斗南藩
 青森県の東北部、下北地方に位置するむつ市は、かつて、斗南藩と呼ばれた地域と重なる。
 斗南藩は、戊辰戦争に敗れて、領地を没収された会津藩が再興をゆるされて移住した藩で、多くの旧藩士が移住して開墾にあたったが、痩せた土地と寒冷による不作や飢饉によって、多くの死者を出し、次第に離散していった。
 北辺の地で、薩長政府への復仇を誓って斗南「南(薩長)と斗(戦)う」と名乗った斗南藩士だったが、その誓いはたっせられなかった。
 その後、明治4年の廃藩置県で斗南県となったが、同年九月、青森県に編入されて、その名も消えた。
 廃藩置県が敷かれても、戊辰戦争で朝敵となった会津藩士が住む北の果てに薩長政府の恩恵はおよぶことがなく、文明開化と呼ばれる近代化もこの地には無縁だった。
 むつ小川原開発計画は、明治維新以降、時代から取り残されて、半農半漁と出稼ぎで成り立っていた斗南という因縁の地にようやく訪れてきた恵みの風であった。

 尊皇の 武士共(もののふ)が 朝敵と
    なりておちゆく 北の地の果て


 ●開発派、選挙とリコールで敗ける
 出稼ぎという労働形態から抜け出して、一年をとおして、家族がいっしょに暮らせる環境をつくるのが六ヶ所村の願いで、青森県政や県議会も同じ思いをもっていたのはいうまでもない。
 昭和44年5月30日、列島改造論にもとづく田中角栄の「新全国総合開発計画」が閣議決定されると、開発地区に指定されたむつ小川原および六ヶ所村はわきたった。
 ところが、左翼が、むつ小川原および六ヶ所村開発の反対に回った。
 左翼の反対は、正当な根拠や理由にもとづくものではない。
 反対が先にあって、これを合理化するために、根拠や理由をこじつけるのである。
 むつ小川原および六ヶ所村開発反対の理由が、企業公害であった。
 誘致された企業が廃液を垂れ流して、人間が住めないほど自然が破壊されるというのである。
 昭和44年12月、六ヶ所村の村長選挙がおこなわれた。
 六ヶ所村助役と自民党県連事務局長の一騎打ちとなったが、助役の寺下力三も県連事務局長の沼尾秀夫も同じ保守系で、開発問題について、両者に大きな見解のちがいはなかった。
 選挙の結果、寺下力三が当選した。
 ところが、選挙が終わると、寺下が反対派に豹変して、開発反対をうったえるという想定外の事態が発生した。
 これに呼応して、反対派が、六ヶ所村開発反対同盟を結成すると、賛成派も立ち上がって、六ヶ所村は、開発反対同盟と開発賛成派が対立する政治闘争の場と化していった。
 三宅島の防衛施設庁の官民共同空港誘致や新島ミサイル試射場設置闘争でも経験したことだが、住民をまきこんだ政治闘争には、左翼(日本共産党ら)がオルグ団を送りこんでくる。
 デマゴギーで住民を煽るなどは序の口で、思想的洗脳やイデオロギー教化をおこない、その結果、地域のみならず、親子や兄弟までが対立するハメになる。
 雑誌『世界(1986年6月号』)に鎌田慧が「暗躍するフィクサー」という記事(183〜196P)でわたしを誹謗しているが、鎌田は成田空港闘争の当事者で「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめる左翼作家である。
 その鎌田の著作に『六ヶ所村の記録』というノンフィクションがある。
 同書の内容紹介に「冷害や凶作が相次ぐ不毛の土地、下北半島の六ヶ所村に次々とみまう開発の波」とある。
 これが左翼の論理で、開発で多くの人々がうける恩恵には目をむけず、自然破壊という大衆受けするスローガンを立てて、貧しさや後進性から抜けだそうとする人々のねがいを踏みにじるのである。
 左翼オルグ団は、選挙が終わると、六ヶ所村を去って行く。
 あとに残るのは、イデオロギー対立の傷痕と両派の不信と憎しみ、反目だけである。
 左翼は、村民の対立を煽り、闘争実績を誇るが、あとは野となれ山となれの論理で、村の発展や人々の幸などは端から眼中になかった。
 反対同盟は、社会・共産両党に公明党をくわえた野党共闘体制に青森県下の労組や公害反対をスローガンとする左翼系の団体が総動員された磐石の体制であった。
 これに対抗するのが自民党県連と六ヶ所村の「五派協議会」だった。
 左右対立構造のなかで、賛成派村議による寺下村長のリコール運動がおきたが、結果は、小差で開発派が負け、反対運動に勢いがついた。

 ●一本化ならずば青嵐会動けず
 昭和48年にはいって、村長選挙(12月)の運動が加熱してきた。
 むつ小川原開発は、田中内閣が政治生命をかける国家的な大事業である。
 村長選は、その成否を左右しかねない大事な選挙である
 自民党青森県連にとっても、是が非でも、勝利をもぎとらなければならない小さい村の大きな選挙だった。
 だが、障害が立ちはだかった。
 共に賛成派の沼尾秀夫と古川伊勢松が互いに一歩も譲らないのである。
 候補を一本化しなければ、反対派に漁夫の利を奪われるのは目にみえている。
 だが、地元の有力者で、共に多くの公職に名を連ねる著名人である両人とも譲る気はなかった。
 背景にあるのが、青森県県政における二大派閥の勢力争いだった。
 一つは、知事とその子息である衆議院議員竹内黎一(県連会長)が形成する多数派の竹内派である。
 もう一つは、小派閥ながら、大平派の幹部で、中央政界で大きな力をもっている田沢吉郎衆議院議員の影響をうけるグループである。
 青森県政では、竹内派と田沢グループが主導権争いをくりひろげていた。
 県連は、48年6月頃から、一本化工作にのりだしたが、難航した。
 結局、竹内派と田沢グループの調整がつかないまま村長選挙を迎えるはめになる。
 わたしと忠岡は、のちに知事となる北村副知事やむつ小川原地方を選挙地盤とする菊池・岡山両県議と幾度か会って、候補一本化の案を練った。
 この選挙に負ければ、貧困や出稼ぎによる家族崩壊など、六ヶ所村の悲劇が将来へもちこされることになる。
 当時、ケガで松葉杖をついていた北村副知事も、菊池・岡山両県議も悲壮な覚悟で候補の一本化にあたったが、沼尾・古川両候補は一歩も譲らず、ついに11月25日の告示日を迎えることになる。

 ●中川一郎(青嵐会)と密議
 忠岡がわたしを訪ねてきて、「むつ小川原開発会社」の安藤豊禄社長に会った折、青嵐会代表の中川一郎代議士の名が出たのは、わたしが、中川と個人的に親しかったからだった。
 わたしが、この件で、中川一郎議員に協力をもとめたのはいうまでもない。
 六ヶ所村は、国家的事業である田中角栄の「列島改造論」の目玉というべきむつ小川原開発の中心地である。
 むつ小川原開発の浮沈がかかっている六ヶ所村の村長選挙が、自民党はむろんのこと、自民党若手中堅議員の集まりである青嵐会の関心を呼ばないわけはなかった。
 だが、青森県連では、竹内黎一と田沢吉郎という地元選出の2人の国会議員が、長年、勢力をもっていて、自民党本部も、普通選挙法の原則から、うかつに干渉することができない。
 まして、青嵐会が、青森県連の意向を無視してうごくわけにはいかなかった。
 そもそも、候補が一本化されていない以上、応援にかけつけることすらできないのである。
 沼尾と古川という保守系両候補の背後にいるのが、竹内と田沢の派閥だった。

 ●出稼ぎ労働者に投票を
 わたしと忠岡らがすすめてきた保守系候補の一本化は暗礁にのりあげた。
 あとは、保守系候補のどちらかを勝たせる次善の策に頼るほかなかった。
 開発反対派を退けるには、開発推進派の共倒れという最悪の事態を避けなければならないのである。
 立候補は3人である。
 寺下力三郎(現職反対派)
 沼尾秀夫(保守賛成派)
 古川伊勢松(保守賛成派)
 寺下力三郎には、全野党が反対同盟をつくって、労組らの支援体制も万全であった。
 開発賛成派は、開発反対派の優位に立っているが、候補者が2人に分裂しているので、2位、3位となって、1位を開発反対派に奪われる。
 下馬評は、寺下力三郎が当選で、次点が古川伊勢松だった。
 賛成派の村議21人のうち、沼尾支持派が8人 古川支持派が13人だった。
 反対派を退けるには、古川伊勢松に勝たせる以外、方法はなかった。
 わたしは、中川一郎と知恵を絞って、一つ、妙案を思いついた。
 投票日に、2〜3千人といわれる出稼ぎ人の一部を一時帰郷させるというアイデアだった。
 六ヶ所村の村長選において、2〜3千人有権者数は圧倒的である。
 そのうち一部が帰郷しただけで、現職反対派の寺下力三郎の優位がひっくり返る。
 当初、忠岡とわたしが現地に入って、選挙運動をする計画もあったが、身内意識がつよい村組織のなかで、よそ者が画策すれば、かえって、反発をまねきかねなかった。
 それに比べると、出稼ぎ人の一時帰郷は、灯台下暗しの名案だった。
 青森にもどって、忠岡の小川原湖温泉ホテルで会議を持ち、菊池県議や岡山県議らに表の選挙対策本部を任せ、わたしと忠岡は裏選対≠ノあたることとした。
 裏選対というのは、出稼ぎ人を一時帰郷させ、投票用紙に古川伊勢松の名を書かせることである。
 むつ小川原開発は、第三セクターで、株主が、国や県、財界(150社)の三者で構成されている。
 六ヶ所村村長選の勝敗は、株主であるゼネコンの利害を大きく左右する。
 わたしは、ゼネコン各社に赴いて、12月の投票日に、出稼ぎ人帰郷させるよう説いて回った。
 そのなかで、とりわけ協力的だったのは、国際興業の小佐野賢治社主だった。
 北海道や東北で鉄道やバスなどの運輸交通事業を営む国際興業は、不動産や土地開発にも力を注ぎ、むつ小川原の開発予定地に大規模な投資をおこなっていた。
 小佐野は田中角栄の盟友でもあり、大手ゼネコンにも人脈をもっている。
 六ヶ所村の村長選で古川が落選すれば、開発の縮小や延期を免れないばかりか、投資効果が下がって、むつ小川原開発の株主でもあるゼネコンにとっても大きな損失となる。
 出稼ぎ人に一時帰郷にめどが立って、あとは、投票用紙に「古川伊勢松」と書かせるだけだったが、出稼ぎ人は、もとより、開発に賛成で、なにより、開発反対派の当選をおそれていた。
 12月2日 投票の結果、古川伊勢松が当選した。
 獲得票は2566票で、反対派の寺下力三郎と79票の差であった。
 3位の沼尾の得票1683票と合わせると、賛成派が、全村民の3分の2を占めたことになるが、それにしても、2位の寺下との差がわずか79票だったことを思うと薄氷の勝利だったといえよう。
 こうして、田中角栄の列島改造論で最重要政策だった巨大開発「むつ小川原開発」は開始された。
 
 武士(もののふ)の大義に奉じた 子孫らに
      文明開化の音 いま聞こゆ


 ●むつ小川原開発の影の部分
 月刊誌「二〇世紀」(昭和49年2月号)に「むつ小川原開発の影の部分」という特集記事があって、ジャーナリストの猪野健治が執筆している。
 記事には小見出しが五本立っている。@出稼ぎ村の悲劇A着々進む土地買収B一本化ならずCきらわれた外人部隊D古川支援の影武者――である。
 猪野は、忠岡に取材をかけて、わたしの情報にかんしても、忠岡談となっている。
「古川氏を支援した開発派の忠岡武重氏(むつ小川原湖温泉社長)が舞台裏をぶちまける」とあるのは、六ヶ所村村長選の古川当選が、当時、売れっ子ジャーナリストだった猪野の意表をつくものだったからであろう。
 忠岡は、遊説中のわたしとむつ小川原で出会ったとのべているが、なにかのまちがいで、忠岡とわたしは、旧知の間柄にあって、共に、むつ小川原開発の安藤豊禄社長のほか多くの政界人や財界人と会っている。
 そして、この選挙ののちも、共同で、流通機構改革運動に取り組んでいる(別の項で述べる)。
 忠岡はこうのべている。
「古川・沼尾の一本化工作については、山本さんをとおして、古川支援工作をN先生にお願いした。N先生は青嵐会にはたらきかけ、青嵐会は、古川支援をきめた。ここまでが第一段階です」
 N先生とは中川一郎衆議院議員である。
 記事にはこうある。
「N先生は、忠岡氏に青嵐会の渡辺美智雄、浜田幸一氏らを引き合わせているが、渡辺氏らは、その際、候補を一本化した上て、青森県連の要請があれば」と古川支援に条件を付けた。
 しかし、前述したように、県連の一本化工作は失敗に終って、ビラまでつくりながら青嵐会の古川支援は実現しなかった。

 ●なにもしなかった自民党
 記事にはこうある。
「山本峯章氏は、青森県連に、幾度か足を運んで、候補の一本化をと要請したが、県連には、危機感がなく、山本氏はあきれた」
 危機感がなかったのではなく、青森県連には、打つ手がなかったのである。
 忠岡はこう続ける。
「N先生は国際興業東北グループにはたらきかけ六ヶ所村出身者の帰郷運動をやってくれた」
 これも、忠岡の誤認か猪野の曲解で、N先生こと中川一郎は、わたしの人脈で、国際興業と数社のゼネコンに六ヶ所村出身者の帰郷運動をはたらきかけたのはわたしである。
 国際興業は、第三セクターの株主ではなかったが、むつ小川原開発に多大の先行投資をおこなって、大きな利害関係を持っていた。
 わたしは、これに目をつけて、小佐野を口説いたのである。
 そして、出稼ぎ者にジェット機で帰郷してもらい、投票させるという奇策を実行に移すのである。
 猪野はこう分析する。
 実際、自民党は、この選挙でほとんどなにもしなかった。竹下登副幹事長が来県しているが、これは参院に出馬する鳩山威一郎、佐藤信二両氏の表割りの根回しのためであった。
 そして、猪野は、最後に、わたしのコメントでしめくくる。
「むつ小川原開発は新全総―列島改造論にもとづく巨大開発であり、その成否は、自民党―田中内閣の浮沈にかかわるものだ。県連段階で調整がつかなければ総裁権限で候補一本化をはかってでも必勝を期するべきだった。田中総理はそれをしなかった。勝ったからよかったものの負けていたら、青森県連などは総辞職ものだ。いい加減にしろといいたい」
 六ヶ所村の村長選挙は、薄氷の勝利で、選挙態勢はお粗末の一言につきた。
 自民党本部から、多くの代議士が青森県連に馳せ参じたが、候補の一本化ができなかった県連は、選対本部も設置できない有様だった。
 象徴的だったのが、自民党佐藤寿県議が宣伝カーで、開発推進候補へ投票を呼びかけた珍光景である。
 これでは、有権者は、二人いる開発派のどちらに投票すればよいのかわからない。
 投票開票が終わったその夜、地元の有志の家でささやかな祝杯を挙げた。

 北国の ことば訛りは あたたかき
    いろり囲んで じょんからを謡う 


 あれから50年、今でも菊池県議のご子息 菊池茂さん、青森市の町田さんから地元の名産を送ってこられる。人情衰えずである。

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2020年05月25日

わが青春譜11

 ●連盟会長を継いでくれないか
 西山幸輝から、昭和維新連盟の会長をひきうけてもらえないかと相談をもちかけられた。
 昭和44年の春のことである。
 西山は、政治結社「昭和維新連盟」のほか、財団法人「日本政治文化研究所」や出版事業「日本及日本人社」などの文化的事業を手がけており、大学教授や評論家、作家ら多くの文化人が研究所や財団の理事や顧問を務めていた。
 昭和維新連盟は、反共と国体護持を旗印にする実践的な右翼団体である。
 昭和維新連盟が、学者や文化人がくわわっている「日本政治文化研究所」や「日本及日本人社」の関係団体というのでは、世間の通りがよくなかった。
 西山が、昭和維新連盟から距離をおこうとしたのは無理からぬことであった。
 西山がわたしに白羽の矢を立てたのは、新島闘争と安保闘争を体験してきた経歴をふまえてのことだったと思うが、わたしにも、反共・尊皇思想をきわめたいという気概があった。
 わたしは「日本政治文化研究所」の理事と「日本及日本人社」の役員を辞任して、いわば、身一つとなって、政治運動にのりだしてゆく。
 昭和維新連盟は、新宿大久保通りに面したビル(科研ビル)ワンフロアーを借りきって、そこへ本部を移して、活動を開始した。
 昭和維新連盟の活動については、いずれのべるが、ここでは、独自の活動を展開する異色の存在だったとだけ記しておく。
 この時点で、昭和維新連盟は、三浦義一が顧問をしていた全日本愛国者団体会議(全愛会議)から37年の独立した青年思想研究会(青思会)に加入していた。
 青思会は、児玉誉士夫の影響がつよく、児玉軍団といわれた。

 ●西山、児玉門下に馳せ参じる
 昭和46年4月10日、三浦義一が逝去する。
 三浦の葬儀を終えた数日後、西山幸輝から食事の誘いがあった。
 財団や雑誌社を退職して以来、久々の邂逅であった。
 その席で、わたしは、西山から、思いがけないことを聞かされる。
 三浦義一が、生前、じぶんが死んだ後、児玉誉士夫に相談しなさいといっていたというのである。
 わたしは、三浦義一門下であることを誇りに思っていた。
 昭和維新連盟をひきうけたのも、心のどこかに三浦義一の反共・尊皇思想があったからで、わたしの右翼思想の根幹に三浦がいたことを否定できない。
 西山も、わたし以上、三浦にたいして畏敬の念をもっているはずだった。
 その西山が「児玉門下となる」という。
「三浦義一亡き後、児玉誉士夫が、政財界に大きな影響力をもつことになるでしょう。しかし、児玉には、児玉軍団の青思会を率いる高橋議長ほか、多くの直参がいます。いまから、児玉門下に馳せ参じても、所詮、外様です」
 だが、西山の意思は固く、三浦義一門下をつらぬくべきというわたしの意見は容れられなかった。
 数日後、わたしは、上野の青思会本部に高橋議長を訪ね、脱会を申し入れた。
 その足で、同じ上野にあった全愛会議の本部を訪れ、萩島峯五郎議長と岸本力男事務長に脱退を告げた。
 萩島峯五郎議長とは気が合い、岸本力男事務長は、安保闘争・北海道遠征の戦友である。
 両者からつよく翻意を促されたが、わたしに枉げる気はなかった。
 以後、昭和維新連盟は、どこの組織にも属さない団体として、独自の運動を展開してゆくのはのべたとおりである。
 これら一連の行動は、わたしが独断でおこなったことで、西山は、関与していない。

 ●遠謀の策か、高等な処世術か
 その後、西山は、青思会の事務局に永井龍、全愛会議に吉村法俊を送りこんでいる。
 それが、西山の政治力で、わたしの独断専行で、多少、波風が立った関係を修復したばかりか、児玉の死後、直参の猛者をさしおいて、政財界に影響力をもつ最後の黒幕といわれる存在となった。
 昭和維新連盟時代のわたしが、硬派の力尽くなら、西山は柔軟な知恵尽くのひとで、長いものには巻かれても、ひと扱いや処世術の巧さからのし上がってゆく遠謀の策士であった。
 もともと参議院議員松本治一郎(社会党最高顧問)の秘書として上京、三浦の高弟、関山義人との縁から三浦門下になったひとで、思想的にはわたしよりはるかに柔軟なところがあって、現実的な対応力にもすぐれていた。
 わたしは、昭和49年に、右翼活動から引退して、評論や講演、執筆などの大衆啓蒙運動を開始したので、西山と、やや疎遠になった。
 仄聞するに、晩年の西山は児玉門下ではなく、三浦義一門下を名乗っていたという。
 児玉の軍門に下ったのは、やはり、遠謀の策か、高等な処世術だったようである。
 高杉晋作は倒幕の決意をこう詠んだ。

 西へ行く 人を慕いて 東行く
     わが心をば 神や知るらむ


 西山の心情が少し理解できるような気がする。
 だが、わたしは、頑なに、三浦にこだわった。
 尊王攘夷の志士、平野国臣は、桜島に向かってこう詠じた。

 わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば
     煙はうすし 桜島山


 わたしは、国臣の尊皇の心のはげしさにひかれるのである。


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2020年05月17日

わが青春譜10

 ●三浦義一先生余話
 昭和40年初旬から、中川一郎(衆議院議員)とともに講演・公開討論会を開始した。
 国民啓蒙運動と銘打ち、わたしが経営にくわわった雑誌「日本及日本人」がこの活動の後援に立った。
 この講演・公開討論会が、事実上、わたしの社会運動の第一歩だった。
 この頃、三浦事務所の内田秘書から三浦義一先生のお世話役を仰せつかった。
 三浦先生は、足が少々不自由で、葬儀など外出時に介添え役が必要だった。
 ボディガード的な要素もあって、体格がよかったわたしが目をつけられたのであろう。
 三浦義一は、GHQ参謀第2部(G2)とつながりをもっていた。
 キャノン機関で知られるG2は、反共防諜機関で、日本解体をすすめていた左翼的なGHQ民政局(GS)と対立していた。
 民政局を仕切っていたのが容共派のチャールズ・ケーディスで、反共主義のチャールス・ウィロビー(G2部長)と敵対関係にあった。
 ケーディスを追い落とした女性スキャンダルの裏にいたのが三浦義一だった。
 東京裁判に反対した日本好きのウィロビーと、尊皇思想家である三浦義一の友情の深さは知る人ぞ知る。
 三浦義一は、戦後復興に際して、裏面から日本の政界や財界をささえてきた。
 したがって、三浦先生のお供にあたって、多くの財界人や政界人、文化人と出会うことができたが、終始、「見ざる聞かざる言わざる」を信条としてきたのは、供人の分を忘れたくなかったからである。
 三浦先生が逝去して、約50年、半世紀の歳月が過ぎた。
 戦後の焼け野原からから70年、日本は、世界に類のない復興を成し遂げたが、今日の繁栄や発展が、歴史書に書かれたきれいごとだけで達成されたわけではない。
 若い人は、現在の日本の平和は、憲法9条によってもたらされたという。
 だが、60年安保をたたかった保守派は、日米安保が日本の安全をまもっているというきびしい現実を知っている。
 物事には表と裏がある。格好の良い背広が、けっして表にでてこない裏地にささえられているように、裏地には、裏地の役割がある。
 戦後、占領軍の支配下におかれて、危機に瀕した国体や伝統文化、国家機能をまもってきたのは、保守派で、外国に媚びをうる国際派・容共派ではなかった。
 その保守派の裏側にいたのが、裏地いわゆる黒幕で、三浦がその一人だった。
 明治維新においても、薩長にたいして、会津藩や庄内藩、奥羽列藩同盟以下31藩が敵対したが、国家を思う気持ちにかわりはなかった。
 歴史書には「朝敵」と書かれるが、薩長は天皇を政治利用しただけで、会津藩以下、朝敵と呼ばれた33藩こそ尊皇的だった。
 歴史は、かくも、表面的なもので、昭和史も例外ではない。
 戦後、黒幕と呼ばれた三浦義一が、日本の復興にいかに貢献したいか、いかに政財界に大きな力をもっていたか、かつての側近が、「見ざる 聞かざる 言わざる」を破って その片鱗を語っても、今なら、三浦先生は、わらってゆるしてくださるだろう。

 ●建国記念日の成立について
 昭和25年、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本は独立国家となった。
 その翌年から、国家の誕生日である紀元節復活のうごきが出てきた。
 といっても、紀元節は、昭和23年占領軍によって廃止されている。
 昭和32年、自由民主党は、議員立法として、紀元節に代わる「建国記念日法案」を提出した。
 だが、これを「反動的法案」とする社会党の反対によって、参議院で廃案となった。
 その後、自民党は、建国記念日法案を9回にわたって提出するが、ことごとく、社会党の反対でつぶされる。
 昭和38年、社会党は「建国記念日」にの≠入れる「建国記念の日」の改定案で妥協した。
 社会党が法案にの≠挿入することで妥協したのは、世論の批判があったからである。
「建国記念日」を「建国記念の日」へ修正して、政党の面子をたもとうというのであろう。
 昭和41年、佐藤内閣で「建国記念の日」の祝日法改正案が成立した。
 あとは、建国記念の日を「いつ」にするかだけで、日にちの決定は、有識者による審議会にゆだねられた。

 ●「幹事長、2月11日でなければ責任をとれんぞ」
 昭和41年11月頃、田中角栄幹事長が室町の三浦事務所を訪れた。
 三浦と会談後、部屋の出口で、三浦が田中に念をおした。
「2月11日でなければ責任取れんよ。いいかね、総理にそうつたえてくれんかね」
 田中は、黙って、頭を下げて退出した。
 三浦は、うなずき「うん。これできまった」とつぶやいて、自室に消えた。
 佐藤政権の背後に三浦がいたことは、当時、政界通ならだれもが知るところで、歴代総理大臣にも、これまで、黒幕人脈が隠然たる力をもっていた。
 総理府に設置された「建国記念日審議会」では、6月頃から建国記念の日をいつにするか審議された。
 だが、野党案には、日本の終戦記念日8月15日をあてるべきという国辱的な意見まであって、収拾がつかなかった。
 野党の多くが、日本を否定することが正義というGHQ仕込みの反日主義に立っているので、昭和23年、GHQが否定した紀元節にもとづく2月11日案はどこからもでてこなかった。
 紀元節は、古事記や日本書紀が、日本の初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、神武天皇元年の1月1日 (旧暦)を新暦に換算すると2月11日になる。
 尊皇思想家 三浦にとって、日本の建国記念日は2月11日以外あろうはずがなかった。
 三浦が田中につたえた「責任取れんよ」は右翼の動向だったと思われる。
 40年代初めの右翼陣営は、60安保闘争が終わって間もなく、依然として大きな組織力と行動力をもっていた。
 政府も、右翼の存在を無視して、紀元節=建国記念日という民族的テーマをおざなりに扱うわけにはいかなかったのである。
 戦後、占領軍によって廃止された紀元節は、佐藤内閣によって「建国記念の日」として復活して、2月11日が、晴れて、国民の祝日となった。

 ●「永田を車に入れておけ」
 昭和40年代、大相撲の人気力士だった北葉山の結婚披露宴が帝国ホテルの宴会場でおこなわれた。
 三浦は、双葉山会の顧問を務め、相撲界では著名人であった。
 昔は、夜の11時、NHKで「大相撲ダイジェスト」という番組がその日の取り組みを放映したものである。
 その映像に、土俵近くのマス席で観戦する三浦の姿がよく見られた。
 北葉山の結婚披露宴に出席する三浦に、昭和維新連盟の西山幸輝とわたしが同席した。
 三浦は、大好物のスコッチウイスキー「オールドパー」の水割を飲みながら挨拶にくる人々と挨拶を交わし、談笑していた。
 三浦の隣席に座っているのは、銀座の最高級クラブといわれたAのオーナーママで、オールドパーの小瓶をハンドバッグに入れている。
 三浦のグラスが空になると、ママが、ハンドバッグからオールドパーの小瓶をとりだして、水割りをつくって、三浦の前に置く。
 そのうち、大映映画社長の永田雅一が挨拶にやって来た。
 永田は、顔の広い実業家で、政界にも広い人脈をもち、河野一郎衆議院議員や右翼の児玉誉志夫とも近しい怪人物として知られていた。
 女優を妾にしながら「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と言い放つ映画界の父、プロ野球の名物コミッショナーで、大言壮語するところから「永田ラッパ」の異名もあった。
 その永田が三浦の脇のママを相手にラッパを吹きはじめた。
 それが、長時間におよんで、だんだん三浦の機嫌がわるくなった。
 わるいことに、三浦のグラスが空になったのを見たホテルのボーイが三浦のグラスを宴会用のウイスキーの入ったグラスと差し替えてしまった。
 とっさのことで、わたしもママも、そのことに気づかなかった。
「これはわたしのとちがうよ」
 三浦の一言で、ママは、あわてて、オールドパーをとりだして三浦の水割をつくった。
 永田は、様子を察して立ち去って、西山のすがたも見当たらない。
 三浦は、憮然として、わたしに命じる。
「永田を車に入れておけ」
 仕方なく、永田社長のところに行くと、永田は「おじいちゃん(三浦のこと)は怒っているか」と聞く。
 わたしがうなずくと、永田は、肩をすくめて宴会場の奥へ消え、わたしは、後姿を見送るほかなかった。
 宴が終わって、わたしが三浦の身体を支えて歩きはじめると、三浦は「永田を車に入れているな」とたずねた。
「すいません。帰しました」
「バカ者、車に乗せておけといったはずだ」
 わたしは謝りながら、ホテルの玄関で待っていた車に三浦を乗せて見送った。
 そのとき、わたしは、エラい人の世界ははかり知れないと思ったものである。
 翌日、日本及日本人社に出社して、もっと驚いた。
 西山によると、その朝、永田が帝国ホテルの総支配人といっしょに、室町の三浦の事務所へ謝罪にきたというのである。
 帝国ホテルの総支配人をつれて謝罪にいった永田もさることながら、天下の永田をそこまで縮みあがらせる三浦義一とは何者なのであろうか。

 ●厚生大臣を一喝
 昔の政治家は、料亭や銀座の高級クラブを利用して、交流を深めた。
料亭政治というのは、赤坂や新橋、神楽坂などの一流料亭を舞台にした政治形態で、政治家の政策や利害の調整から政治家と官僚の交流、大物政治家同士の談合と、これまで、政界史の裏面を飾ってきた。
 議場で多数決を争うだけが政治ではない。
 三浦義一とウィロビーが組んで、GHQ民政局のケーディスを追い落としていなければ、日本は「逆コース(1948年以降、アメリカが対日占領政策を容共から反共へ転換)」へ舵を切ることができず、中国化していた可能性が高い。
 マッカーサー総司令官や民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスらが逆コースに反対したのは、日本の民主化が道半ばと思ったからだった。
 だが、ウィロビーは、直接、国務省に共産主義の脅威をうったえて、本国で「占領軍のマッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風)とまで呼ばれた。
 ウィロビーのおかげで、日本は、社会主義化を免れたといってよい。
 政治は、いつの世も、議場を超越した次元で、うごくのである。
 三浦も、財界・政界、文化人と一流の料亭で交流した。
 昭和四十年代初め、佐藤内閣において、新潟県選出の渡辺良夫衆議院議員が厚生大臣となった。
 ある日、三浦の供をして、銀座の高級クラブに入った。
 銀座のクラブは8時にオープンするが、客で賑わうのは8時30分をすぎた頃からである。
 一流のホステスは、客と食事にも同伴する。その門限が8時30分である。
 三浦が足を運んだのは、客も疎らな8時頃であった。
 三浦が店内に入ると、奥の席でホステスに囲まれていた渡辺厚生大臣が三浦に気がつき、座ったまま、右手を軽く上げた。
 田中角栄が右手をあげて「よお!」とやるあのポーズである。
 いくら、政治家の場所に不慣れなわたしでも、まずいことになった直感した。
 三浦は、渡辺を無視して、いつもの座る席に座るとわたしに命じた。
「渡辺を呼べ」
「先生、三浦が呼んでいます」
 と告げると渡辺は立ち上がり、三浦の席に歩み寄った。
「お前いつからそんなにエラくなったのだ」
 恐縮している渡辺にむかって、三浦はたたみかけた。
「だれのお陰で大臣になれたのじゃ」
 しばらくして、カウンターの隅からみると、渡辺が、三浦の脇の席に座って談笑していた。
 それが三浦の人柄で、叱るが、からりとして、根を残さない。
 三浦義一が、佐藤栄作内閣に大きな影響力を持っていたことは、政治通ならだれでも知っている。
 焼け野原から、占領時代をへて、独立国家として独自のみちを歩みはじめるまで、きれいごとの民主政治だけで、日本は、はたして、やってこれたであろうか。
 三浦が、戦後政治のなかで、黒幕として、影響力を発揮できたのは、時代の要請だったとしかいいようがないのである。
(この件については別項で述べる)

 ●「岸さん後で電話をくれないか」
 昭和四十四年頃、渋谷の松濤のお寺で、ある政治家の葬儀があった。
 門から葬儀がおこなわれている寺院の建物まで距離があった。
 わたしは、いつものように、三浦の身体をささえて、式場へ向かった。
 そのとき、焼香を終えて戻ってくる岸総理が三浦と鉢合わせになった。
 会釈を交わして、とおりすぎようとしたとき、三浦が立ち止まった。
「岸さん、後で、電話をかけてくれないか」
 岸は、軽くうなずき、そして、三浦も岸も、そのまま、歩き去った。
 そのあと、岸元総理から電話がかかってきたことはいうまでもない。
 戦後の混乱期から経済復興、高度経済成長期にかけて、黒幕と呼ばれる人々が存在したのは事実である。
 岸は、安保闘争の折、児玉誉志夫に、暴力団・テキヤの動員を依頼している。
 池田内閣でも、血盟団事件の実行犯の一人四元義隆が大きな影響力を持っているといわれた。
 昭和25年 日本共産党五全協の暴力革命路線に危機感をつよめた自由党の木村篤太郎法務大臣が、国粋会などを動員して、反共抜刀隊の組織化を図ったが、吉田茂が予算を組まず、結局、流れてしまった経緯についてはすでにふれた。
 60年安保闘争についても、別項で、別働隊について詳細をのべた。
 三浦は、政財界に大きな影響力をもっていたが、力や組織を背景に威を誇るというタイプの人間ではなく、むしろ、歌人や文化人としての品格をただよわせていた。
 34年、右翼が結集した「全愛会議」の最高顧問となって、戦後の右翼界の重鎮となったが、個々の団体と深い関係をむすぼうとはしなかった。
 直接、三浦の影響を受けた団体も、多くはなかった。
 そのうちの一つが、歌道の修業や人格の陶冶、徳性の練磨を重視した大東塾で、顧問をつとめたほか、塾長の影山正治が主宰した「新国学協会」には保田與重郎や林房雄、尾崎士郎らとともに同人として参加した。
 門下生である関山義人の興論社や西山幸輝の昭和維新連盟、そして豊田一夫の殉国青年隊も役職には就かなかった。
 室町の事務所には重苦しさや威圧を感じる堅苦しさはまったくなかった。
 事務所には、内田秘書のほか、側近の大場先生、運転手だけだったが、来客は、財界や政界の大物、文化人らひきもきらなかった。

 ●「指を落として棺に入れる」
 三浦は情に厚く思いやりのある人であった。
『征塵録』などの著者小山田剣南が晩年病床にあったとき、三浦に命じられて赤坂の料亭茄子のスッポン料理をよく運んだ。
 剣南は、大アジア主義を掲げた頭山満の玄洋社の海外工作を担った内田良平の黒龍会の七人衆といわれた人物である。
 部屋は蔵書に埋もれていた。
 わたしは、その内の一冊を手にとって、無遠慮に、これ読みましたかと尋ねたものである。
 剣南は微笑をうかべてうなずいた。
 わたしが手にとったのはマルクスの「資本論」であった。
 このとき、反共右翼は、腕力だけではなく、左翼との論戦にも勝たなければならないと痛感したものである。
 三浦が、血盟団事件の井上日召を、晩年、援助していた話は知る人ぞ知る。
 昭和46年4月 三浦義一は逝去した。
 葬儀のとき、わたしと豊田一夫が、霊柩車まで柩をはこんだ。
 出棺直前に左手に包帯をして、涙をいっぱいためた男が土色に変わった指の一部を棺に納めた。
 男は大東塾の塾生であった。
 三浦は大東塾の顧問でもあった。
 わたしは、神道右翼にそのようなしきたりがあることを初めて知った。
 三浦家の墓は青山墓地にある。
 だが、三浦個人の霊は、国文学者の保田与重郎と共に再建して、滋賀県の史跡となっている義仲寺に眠る。
 この寺には、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉の墓がある。
 毎年、芭蕉忌がおこなわれ、句会も催されている。
 今でも変わりないことと思う。
 境内には保田与重郎と三浦義一の石文が建立されている。
 三浦の石文にはこんな一首が刻まれている。
 
 としつきは 過ぎにしと思ふ 近江野の
    みずうみのうへを わたりゆく月
 義一

 後年、わたしは、友と京都で一夜を過ごし、一人、翌日、琵琶湖のほとりに建つ義仲寺に足を運んだ。
 そして、三浦義一の石文の前に立って、過ぎ去った歳月を想った。
 
 義仲寺の 尊師義一の 石文を
    よみて寂しき 近江野の秋

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2020年05月07日

わが青春譜9

『魚が逃げる』『いえ、逃げません』
 神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
 平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
 神津島に防災無線を設置したいというのである。
 神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
 過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
 佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
 このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
 伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
 その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
 聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
 わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
 佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
 ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
 わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
 ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
 このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
 わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
 ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。

 数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
 そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
 佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
 局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
 魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
 だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
 わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
 そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
 その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。

 沖合の イカ釣り船の漁火が 
    明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり


 新島闘争(その後)
 昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
 その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
 それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
 新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
 議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
 ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
 一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
 問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
 防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
 ところが、その約束がはたされていない。
 新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
 わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
 下で部長に逢ってくれ?
 わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
 用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
 わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
 先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
 わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
 局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
 それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
 局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
 新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
 大きな政治問題に発展する。
 局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
 国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
 政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
 新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
 ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
 わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
 役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
 権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
 一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
 わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
 役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
 役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
 すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
 陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
 政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
 わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
 いずれ、そのことにもふれることにしよう。

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わが青春譜8

 言論出版妨害事件
 明治大学教授をつとめ、政治評論家となってから、攻撃的で、右翼的な政治論評で一世を風靡した藤原弘達先生と知りあったのは、国民討論会のゲストにお迎えした縁からであった。
 藤原先生の政治論は明快で、根本の考え方は、二元論であった。
 政治家と官僚、国家と国民を二元論で論じて、永遠に争いをくり返す一元論をバッサリと切って捨てた。
 わたしの「国体と政体」「権力と権威」「軍事と文化」の二元論も、多分に藤原先生の影響をうけているはずで、その意味において、わたしの恩師といえる。
 藤原先生は、官僚制や元老政治の研究者で、『官僚/日本の政治を動かすもの(講談社/1964年)『官僚の構造(講談社)1974年』などの著作のほか研究論文に「最後の元老/西園寺公望論」がある。
 わたしの『役人よ驕るな〈官僚がこの国を滅ぼす〉光人社/2004年』や『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道 /2010年)も、土台に藤原イズムがあったように思う。
 国民討論会以後、わたしと藤原先生をふたたびむすびつけてくれたのは、日新報道の遠藤留治社長であった
 藤原弘達先生の推薦文を付けるので、創価学会の批判本を書いてもらいたいというのである。
『創価学会を斬る』(藤原弘達著/日新報道/1969年)が世に出てからすでに26年の歳月が流れていた。
 若干の躊躇もあったが、わたしは、藤原先生の意向に応えるべく、ひきうけた。
 それが『池田創価学会の政権略奪を斬る(日新報道/1995年)』だった。
 そこで、わたしは、基礎票をもつ創価学会が自民党にくいこんで、日本の保守政治を骨抜きにするだろうと予言しておいたが、現在、そのとおりになっている。
 遠藤社長との付き合いは古く、1980年代からである。
『国益を無視してまで商売か(グラマン事件と謎のボストンバック)日新報道 /1980年』)『猛毒農薬が日本人を蝕んでいる(日新報道/1981年)』『レポ船の裏側(北方領土問題の核心)日新報道/1982』など、事件がらみの出版が多く、圧力もあったが、遠藤社長はすこしも臆するところがなかった。
『創価学会を斬る』を企画したのも遠藤社長で、このとき、著者の藤原弘達と版元の日新報道にかかった言論弾圧は熾烈なものだった。
 遠藤社長はこうふりかえる。
「組織ぐるみの運動だったのは明らかで、抗議の手紙やハガキがダンボールに何箱にもなった。藤原先生は、執筆中、都内のホテルを転々として、われわれも異動しながら編集作業をおこなった。藤原の自宅には「地獄に堕ちろ」「殺す」などの脅迫電話や手紙が殺到して、警察が家族の警備にあたったほどだった」
 妨害だけではなく、学会側から初版本10万部相当を丸ごと買い取るという条件もだされたというが、遠藤社長も藤原先生も、一顧だにしなかった。
 さらに、公明党の竹入義勝委員長(当時)の依頼を受けた田中角栄が、藤原先生に直接電話をかけ、赤坂の高級料亭で、2度にわたる交渉がおこなわれたという。
 遠藤社長はこう述懐する。
「藤原先生は、料亭で、角栄にむかって『総理総裁をめざしている男が、一言論人、一出版社の表現の自由を奪い、特定の勢力の利益のためにうごいてよいのか』とタンカを切りました。このとき、角栄は『よし、わかった』と潔く仲介役を降りたのです」
 それが、取次店まで巻きこんだ「創価学会・公明党による言論出版妨害事件」の核心で、超ベストセラー、池田大作の「人間革命」を売らせてもらっている取次店も、聖教新聞を印刷させてもらっている三大紙(朝毎読)も創価学会には逆らうことができなかったのである。
 TBS「時事放談」で、病気で降りた小汀利得に代わって、藤原弘達が細川隆元と辛口毒舌をくりだして国民的な人気を博すのはその後のことである。

 藤原先生とともに九州講演
 言論出版妨害事件の騒ぎが冷めやらない昭和四十七年の秋であった。
 九州の蓮尾国政から講演依頼が舞い込んできた。
 藤原弘達先生とわたしに政治問題について語ってもらいたいというのである。
 蓮尾は、福岡県大牟田市の工務店経営者で、のちに福岡県土木組合連合会理事長をつとめることになる有力者で、地元の人望も厚かった。
 愛国者で、わたしが西山広輝からあずけられた「政治結社昭和維新連盟」の九州総本部長を統括していた。
 講演当日、藤原先生は、TBSテレビの番組に出演しておられた。
 わたしの秘書の寺井という青年がテレビ局に迎えに行き、九州大牟田市まで案内して、わたしは、消防署から注意が出るほど満員となった大牟田市民会館で藤原先生をお迎えした。
 講演は大成功で、主催者の蓮尾国政は、講演を終えた食事会で、藤原先生と歓談して、おおいに満足げであった。
 蓮尾は、西山広輝の人脈の一人だが、そのなかで、忘れてはならない人物がいる。
 松本英一(元参議院議員/社会党顧問)先生である。
 部落解放同盟を選挙基盤としたため、社会党党籍だったが、人格識見や政治信条においては保守主義者で、なによりもわが国の歴史や伝統、文化を尊んだ。
 自由主義や民主主義を信奉して、伝統の維持や相続に無関心な自民党の議員に比べて、松本は、はるかに保守的な政治家であった。

 脚注「松本治一郎」/参議院議員・社会党最高顧問/部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟から「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれて親しまれた。元参議院副議長。

 松本治一郎先生が現職の頃、一緒に上京した英一先生のお伴をして、赤坂の飲食店やクラブで、語り合ったのがよい思い出である。
 治一郎先生亡き後、英一先生は、参議院議員となると同時に、地元の福岡県建設事業協会の会長に就任、同職を長期間つとめた。
 九州へ出張すると、事務所に招かれて、ステーキ定食をご馳走になった。
 じゃが芋を残すと「山ちゃん、じゃが芋は肉の毒を消してくれるよ」と諭すようにいってくれたものである。
 いまは、みな み霊となって、わたしは、過ぎ去った日々を想って、感慨にふけるばかりである。

 うつし世は 生者必滅 会者定離 
    悟らんとしてなほ 侘しさ覚ゆ


 九州講演 その二
 鹿児島県に加藤天界と云う反共尊皇運動家がいた。
 大牟田市の講演から数か月のち、加藤天界が、鹿児島県で、藤原弘達先生とわたしの講演会を開催したいと連絡があった。
 藤原先生にスケジュールを調整してもらい、その日、先生とわたしは、同じ飛行機で鹿児島空港に降り立った。
 空港ロビーから玄関を出ようとすると先生の足がピタッと止まった。
「山本君、あれは」
 玄関口の前で、二十人ほどの青年が隊列を組み、こちらをジーッと見ている。
 加藤天界が迎えに遣わした者たちだったのだが、藤原先生には、正体不明な不気味な集団にしか見えていない。
 豪放磊落にみえても、藤原先生は、東京大学で丸山眞男に師事した学窓育ちである。
 わたしは、藤原先生をロビーの椅子席に待機させ、玄関まで迎えに来ていた加藤天界のグループの解散をたのみ、それから、タクシーで、藤原先生をホテルへ案内した。
 そして、ホテルで、なにくわぬ顔で、藤原先生と加藤天界を引き合わせた。
 先生は、終始、にこやかに微笑をうかべておられたが、空港ロビーでみせた緊張した面持ちは、いまでも、わたしの脳裏に残っている。
 その夜、ホテルの大広間でおこなわれた講演会は、千人近い聴衆で埋まって大盛況で、会場から、会場から多くの激励の声が飛んだ。
「あんた殺されるよ」
 わたしが、しばしば、出版妨害に見舞われたのは、単行本から週刊誌に至るまで、告発記事が多かったせいで、乗組員を装ったやくざがソ連と秘密取引をおこなっていた実態を暴いた『レポ船の裏側』では、出版後、レポ船が一網打尽になって、やくざの恨みを買った。
『要人誘拐(三井物産マニラ支店長誘拐事件)/晩声社/1987年』『佐川急便の犯罪/ぱる出版 1992年)』『富士銀行の犯罪/ぱる出版/1992年』
『橋梁談合の謀略を暴く/ぱる出版/1995年』、では、背後でうごめく暴力団の存在を暴き、「真珠宮ビル事件」では取材にでかけたフィリピンで被害者の一族を救出するという想定外の取材までおこない、JR東日本のスキャンダルでは告発者の身柄を革マル松崎一派からまもった。
 あるとき、わたしの赤坂の事務所に5人の男が乗り込んで来た。
 取材を中止して、いますぐ、書きかけの原稿をひきわたせという。
 断ると「あんた、そのうち殺されるよ」と捨て台詞を残して立ち去った。
 ジャーナリズムにおいて、暴露という表現の自由がゆるされているが、その自由によって、たとえそれが、社会的善であっても、かならず、傷つき損害を被るひとがでてくる。
 事件モノから本格評論へ、わたしがスタンスをかえたのは、ちょうど、そのころだったことを白状しておこう。
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