2018年02月08日

晩冬3首

【独居老人】
病みし夜や 老いて独居の 侘しさよ
明日の目覚を 神に祈らむ

【春の兆し】
なごり雪 梅の上枝(ほつえ)で 華となり
春の兆しを 告ぐるは嬉しき

【演歌】
なつかしき 昭和演歌が 聞こえ来る
すぎし青春 心に温(ぬく)し


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2017年11月07日

秋の六首

【故里】
父母(ちちはは)の 縁(えにし)あるひと また逝きて
  故里なほも 遠くなりけり

【秋】
むさしのの 夕空そめる 茜ぐも
  候鳥(こちょう)去り行き 秋深くなり

【青春のマドンナ逝く】
青春の 淡き想いの マドンナが
  逝きしと聞きし 夜半は寂しき

【金木犀】
庭前の 金木犀の 花の香に
  歩みをとめて 微笑みし女(ひと)あり 

【靖国神社】(戦後七十年)
杖つきて 参道歩む 老い人の
  背に負いたるは 過ぎし時かも

【秋紅葉】
彩づきて 萌え盛りたる 紅葉が
  初木枯らしに 散りゆきて舞う



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2017年07月28日

初夏7首

【八十路にて友逝く】
うつし世の 定めなりやと 思ひしも
 君の訃報を 聞くは寂しき

【老梅】
庭前の こけのむしたる 老梅の
 こずえに春の きざしをみたり

【井の頭の池 三十数年ぶりに掻掘を行う】
かい掘りで 水澄み渡る 井の頭
 上弦の月 水面に揺るる

【靖国祈り】
神前で ぬかずきたりた 老いびとが
 背でなきたるを 見るは悲しき

【靖国鎮魂】
この杜に ねむりしみたま やすけくは
 すめらみことの 万世のいのり

【天皇の被災地行幸】
大君の 被災地みゆき ありがたき
 かたじけなさに 心ふるえん

【被災地行幸】
ひざを折り 民と語れる 大君の
 おおみごころに なみだおとしむ
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2017年05月17日

短歌四首

(伊豆の山荘にて)
山荘の 木々も芽ぶきて 春装い
鳴くうぐいすの 声澄み渡る

(春浅き日に兄逝く)
法華堂 君が植えたる 桜木の
初花咲くを 見るはさびしき

(東京の桜 開花宣言)
靖国の そめいよしのの 初花が
咲きて都は 開花宣言

(傘寿)
老いたるや 八十路の坂の わが齢(よわい) 
父を越えたり 母をも越えんや
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短歌十二首

(闘病一)
まなうらに 浮かびて消えぬ 逝きし友
病んで伏せたる しずけき夜半よ

(闘病二)
看護師の 脈をとる手の 温もりで
病みたる吾れの 心和(なご)みぬ

(傘寿)
老いたりて 迎える今朝(けさ)は 嬉しかり
明日も生きたし そのまたあすも

(浜千鳥)
夕凪の 波音(はおと)寂(しず)けき 伊豆の海
夕日に染まりて 浜千鳥舞う

(神田川 春)
水ゆるみ 瀬音やさしき 神田川
岸辺に青き 若草萌ゆる

(春)
庭前の 梅の梢に 花咲きて
うぐいす鳴くは のどかなりけり

(北国)
北国の 訛りはどこか あたたかき
吹雪きた夜に 囲炉裏かこんで

(追憶)
ふと想う 君と歩んだ ふるさとの
わすれなぐさの 咲きたる小道

(輪廻転生)
迎え火や 祖霊を迎えた 庭前に
輪廻転生 蝶の群舞ふ

(尊王)
尊王を あつく敬う わが想い
ただやみくもの 恋慕に似たり

(靖国)
靖国の 英霊称えん 鎮守の杜の
すめらみことの 大御の祈り

(祈り)
畏(かしこ)くも 民安かれと 祈る大君(きみ)
その御心が 国体なりや
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2017年02月11日

 短歌三首

冴えかえり 淡雪溶ける 庭前の
梅のこずえに 春は宿りぬ

愛(かな)しぶて なおも恋しき 絵島さま
生島の叫び 波間に聞こゆ
(絵島生島の悲恋/大奥の絵島は高遠、歌舞伎役者の生島は三宅島に流罪)
 
卒業の 記念写真の その笑顔
幾歳すぎても 君はマドンナ
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2016年11月15日

短歌集

すめらみこと

民のさち 国の弥栄 すめらぎが 
皇祖(かみ)に祈れる 葦原の国

民のさち 神に祈れる すめらぎを 
神にみたてて 永久の国体

すめらぎは 民の竈に 思い馳せ 
政事(まつり)の者は その威を畏る

人の世の 徳にはあらぬ すめらぎの 
貴きものは 万世の祈り

民のさち 祈るすめらぎ 二千年 
恋慕に似たり 君への思ひ

降る雪や 静寂厳 このやしろ 
高天原へ 白き神籬(ひもろび)

神々が 天地(あめつち)ひらき 尊らが 
国土をつくりし 葦原の国 

君が代の 君は我が君 いにしへは 
恋しきひとを さしても言へり

コスモスの 花絨毯や 武蔵陵 
すめらみことよ 千代に八千代に

君臣が 一つとなりて 栄えたる 
大和島根に 在わすよろこび

八十路なる この身ははてて 朽ちるとも
すめらみことよ 千代に八千代に

憂国

敷島の やまとおのこを 祀る杜 
すめらみことの こぬはかなしき

老いゆきて すめらみことの 退位をば 
しずかに聴くも ただただ寂ぶし

御國と 赤子(たみ)を思ふ 大御言 
君の御心 民に知らしむ

いにしえに みかどが在わせし 吉野山 
さくら競いて 儚き栄華

うたかたの うつしこの世を いかにせむ
すめらみことの 道は一すじ

戦犯と 呼ばれし七士の 隠れ墓 
訪なふ人の なきぞかなしき

竜aと 云う大丈夫が たずねきて 
われら語りぬ 国を憂いて

友在わす まほろばの里 たずねゆき
酒をぬくめて 譲位をかたる

四季と自然

いにしへの 人も詠みたる 梅の花 
咲きたる庭に 競う花なく

わが庵の いま盛りなり 梅の花 
春告ぐ鳥の 声と競えよ

武蔵野の 雲高き空 鳥帰る 
忘れるなかれ 雲の路筋

紅葉の 燃え焦がれたる 木連れ川
想い届けよ 獄窓の師に

紅白の 梅の小枝の いろづきて 
春告げ鳥の 鳴くを待ちわぶ

萌えいずる 水草の間を 流れ行く 
せせらぎの音 春の琴歌

さつき空 垣根の薔薇を 揺らす風 
この香をはこべ あの窓辺まで

わが庵の 梅は競いて 咲きたれど
春告鳥を 待ちてひさしき

かっこうの ひねもす鳴くや 木曽の道 
苔むすしるべ 君棲むところ 

神田川 水辺で遊ぶ 子等の背に 
よわきこもれび 秋はしのびぬ

せせらぎの 音をかき消す せみしぐれ 
神田川の 夏のおわりに

あかあかと 迎え火たきて 子等は待つ 
見えぬ祖霊に 手を合わせつつ

さむざむと たださむざむと さざれたつ 
湖面に浮かび 流れゆく月

一片(ひら)が 肩をたたきて 秋はゆく 
武蔵野宮の 木々もいろづき

子等遊ぶ 流れ優しき 神田川 
やんまが一尾 秋を告げ飛ぶ 

初雪や 上枝(ほつえ)で華と なりにけり 
水面さざれて 冬鳥遊ぶ

いにしえに 家康が汲みし 茶の水は 
いまもやさしく せおとをたてて

渓流の 漱に立つ泡の 消えゆくを 
しずかに見てり 秋あさき日に

こもれびを 背にして歩む 古き道 
いにしえ人の 足の音きこゆ

わが庭の 梢にとまりて ホロホロと 
山鳥なくを 聞くは侘しき

ホロホロと 山鳥なきて 武蔵野の
木々は彩づき 秋を装いぬ

秋なれや かなたこなたに 鈴虫のこえ 
長月の夜半 なぜか寂(しず)けき

君と往く なもなき小径は たのしかり
山鳥なきて(寂かに暮れる

いつくしき 武蔵野の空に ひとひらの
雲なかるるは のどかなりけり

むさしのの 空にたなびく 夕雲は 
あかねに染まり 寂かに暮れり

君と往く なもなき小径 たのしかり
山鳥なきて 寂かに暮れる

いつくしき 武蔵野の空に ひとひらの
雲なかるるは のどかなりけり

晩秋や 庭前の梢 色づきて
鰯雲うく 武蔵野の空

ふるさと

星霜を こえてけなげや ふるさとの 
荒れたる山は 芽吹き忘れぬ

老いてなほ まなうらに宿る ふるさとへ 
いま帰り来て なみだおとしむ

まなかいに うかぶ ふるさと 薄らぎて 
追憶の日々 慕いて かなし

寂ぶしきや 吾が身の内で ありひ人 
逝きてふるさと また遠くなり

ふるさとの 真砂の浜は かなしぶて 
すぎさりし日々 慕いて 恋し

たらちねの 母のつくりし ふきみそを 
真似たる夜半は なぜかわびしき

哀しぶて なほ恋しきや ふるさとを 
目を閉じて想う  夏の終わりに

海原の 彼方に在りし ふるさとに 
眠りし父母を 想うは哀し

吾れ俺と 訛りなつかし 竹芝の
待合室に ふるさとが在る

遠き空 その下にある 古里を
病みたる夜半は なほも恋しき

りんりんと 鈴虫なきて 寂けき夜
父母の眠れる ふる里想う

竹芝の 船着きのりばに 飛び交ひし 
こころに温し ふるさとなまり

吾が胸に 宿るふるさと あたたかき
父の和(なご)みと 母のぬくもり

想い

弁天へ かけたる願の かひもなく 
友は逝きたり 春を待たずに

此岸とは はかなきものと 身に沁むる 
逝きせし友を 偲ぶ夜半こそ

また一人 友去り逝きて わが齢
指折り数える 夜半無情(かなし)

神仏の いずこにありや 大津波
二万幾多の 命はかなし

荒魂の 残せる傷に たちむかふ
わが同胞の 心は一つ

ふるさとの 被災の苦難 のりこえて
東北球児 意気高らかに

まほろばの 熊野古道の けわしきを 
古(いにしえ)人と なりて歩むや

病む床の 窓をゆすぶる 虎落笛 
激しき北風(ならい)止むことしらず

窓をさす 月の光の やわらかき 
鳴く虫の声 冴えわたる夜半よ

この胸の いきどおるおもい いかにせむ 
怒涛となりて 天をつけ

スワンをば 踏みこぎ遊ぶ 親子あり 
子等の歓声(よろこび)聴くもたのしき

賽銭は 一紙半銭 願いは多く 
弁天様は 笑って見てる

いつの日か またあいみむと 別れたる 
友の訃報 聞くはかなしき

老いずきて うつしこの身を ひきづりて 
散りゆくさくら 見るも寂ぶしき

新島の 白き真砂の 砂浜に 
いとしきひとの名 書きてまた消す

旧き家に 縁者つどりて 親しみて
本家分家と 呼び合う温さ

りんりんと なる風鈴の 音を聞きて
逝きし吾が子を 偲びし夜半よ

老いずきて なほよき年をと 祈る吾れ 
百と八つの 鐘のまにまに

ちはやぶる 護国神社の 神々よ 
吾がおたけび 聞こえたまいしか

あがたなる 大人が開きし学び舎で
臣は集りてあつく語りぬ

煙り立つ 三原の山の そのふもと
六十路なかばで 君は眠りぬ
(都会議員 故川島忠一 古里に眠る)
 
さざれ波 海鳥遊ぶ 波浮港
君は眠れり 小高き丘に
(学生時代の友人、松下寧故里に眠る)

足腰の 弱りを愚痴る 君なれど
孫を背負えば たちまち健脚

蟻ん子の 背負いた重荷に くらぶれば
吾が煩悩の 凡下なるかも

煮しめをば 作れば聞こゆ 除夜の鐘
真似たる母の 味にとどかず

ほほえみて またあいみむと ちぎりたる
君の笑顔が 宿りて消えぬ

あきる野に 眠りし吾子の 墓標にも
青き苔むす 吾れも老いしか

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2014年12月04日

 師走3題 

 被災地の 人なき里に 紅葉燃ゆ

 東日本大震災の翌年、元参院議員の村上正邦先生らと被災地を巡った。
 そのときの印象が強烈で、いまでも、大津波の深い爪痕を残す被災地の光景が目に浮かぶ。
原発事故の避難区域までは、足をのばせなかったが、全町避難がつづく福島県浪江町小丸地区の高瀬川渓谷など、かつて、紅葉狩りでにぎわった阿武隈山地の景勝地では、今年も、紅葉がみごとだったという。
 避難区域へ住民がもどれるのは、いつのことになるのだろう。
 
 散り敷きて なほ舞い散りぬ 落葉山

 武蔵野の湧水池から流れ出して、都内を流れる川に、神田川、石神井川、善福寺川の三川がある。
 三川の源流になっている湧水池は、井の頭公園(神田川)、石神井公園(石神井川)、和田堀公園(善福寺川)と、それぞれ、木々がゆたかな公園になっている。
 秋には、紅葉が見られるが、わたしが散歩コースにしている井の頭公園や石神井公園は、都民に親しまれているモミジの隠れた名所で、わたしも、シーズンには、石神井公園まで足を運ぶ。
 紅葉山は、季語で、秋の山道も、落ち葉が舞い散る公園の道も、紅葉山である。
 落ち葉の道を歩き、見上げると、なお、空中で、落ち葉が舞っている。
 秋が、日々、深まってゆくのである。

 慶福を 祈る煩悩 除夜の鐘

 除夜の鐘は108回撞かれる。 
 この108回には諸説あって、人間の煩悩説から、一年間(十二月+二十四節+七十二候)の厄を払うという説、四苦八苦(4×9+8×9)を除くという説まであるが、わたしは、四苦八苦説をとって、毎年、来る年の慶福を祈る。
 108つのうち107回は、旧年のうちに撞き、残りの1回を新年に撞くという。
 107回までが除夜の鐘で、残りの1つが初夜の鐘(そやのかね)になるらしいが、俗説というひともいる。
 除夜は、水に流す文化でもあるだろう。
 新年は、新しい気持ちで迎えたいものである。
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2014年09月29日

 夏から秋へ簾(すだれ)三題

 せみしぐれ 警策の音 ちいさかり
 
 赤坂日枝神社の神殿裏の部屋で、毎週、有志と座禅を組んでいる。
 警策を打つのは、山岡鉄舟が、幕末・明治維新の国事に殉じた人々の菩提を弔うために建てた谷中の名刹、全生庵の和尚で、同寺は、歴代首相がかよった座禅の名門でもある。
 木々に囲まれた赤坂日枝神社は、夏の盛りになると、蝉時雨(せみしぐれ)につつまれる。
 肩に警策を打たれても、耳には、せみの声が響くばかりである。
 夏が去って、日枝神社の空が高くなったが、耳に、まだ、せみの声が残っているのである。

 一垂や 踊りてすぎる 夏嵐
 
 一垂の ゆれてほのかな 秋を知る

 一垂は、日よけのために吊るす簾(すだれ)の数え方で、ひとたれと読む。
 すだれは、竹やヨシなどを編んだ夏の風物詩で、昔は、どこの家にもあったが、最近は、あまり、みかけない。
 簾には、ちょっと、粋な風情があって、編んだヨシをとおして見えるひとのすがたは、どこか、なまめかしい。
 簾を躍らせて、過ぎていったのが、夏の嵐なら、いま、しずかに簾を揺らしているのは、秋の風である。
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2014年04月13日

春浅し三題

 ひだまりや 三寒四温 窓辺かな 

 今年は、冬の終わりから春先にかけて、寒のきびしい日とゆるんだ日が、交互にやってきた。
 寒い春という長期予報どおり、三寒は、冷え込み、四温といっても、春まだ遠しの感が深かった。
 それでも、窓辺のひだまりには、春の気配が漂っている。
 今年の冬は、いつもより、長かったような気がする。
 陽だまりで、その冬が去ったことを、ようやく、知るのである。

 散る花の しずけき音や 春浅し 

 今年は、盛りに雨が降ったこともあって、あらたまって、花見にでかけなかった。
 気づくと、いつのまにか、花が散りはじめている。
 しずけき音は、花を散らした、春にしては冷たい雨の音だったかもしれない。

 一片を 川面に浮かべて 花終わる

 一片と書いて、音読みは、ひとひらである。
 ひとひらは、小さく、はかないが、深く印象に残る何かである。
 ひとひらの雪、ひとひらの風、そして、一片の花弁は、移り変わる季節を雄弁に物語っている。
 水面に浮かんだひとひらの花弁に、時節の移り変わりを知ったのである。
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2013年11月06日

中秋三題

 名月を 湖面に浮かべ 独り酌む

 中秋の名月が、今年以降は、8年後の2021年まで、完全な満月にならないという。
 8年後といえば、次の東京オリンピックの翌年である。
 それまで、完全な満月を拝めないのなら、今年の中秋の名月が、わたしの人生の最後の中秋の満月になるやもしれぬ。
 そんな思いから、井の頭池の畔の料亭の一室を借りて、一人、月見の宴をもった。
 宴といっても、ささやかなものだが、小座敷の窓から井の頭池が望める。
 湖面に浮かぶ名月とは、井の頭池に移った中秋の満月のことである。
 漢詩風に流れたが、わが心境にぴったりで、他に言い回しが思いつかなかった。

 流れゆく 湖上の月や 秋深し

 流れゆくのは、井の頭池の水面に浮かぶ月影だけではない。
 何もかも、流れ行き、流れ去って、ふたたび、還ることがない。
 それが人生で、井伏鱒二の「さよならだけが人生さ」という詩の一節が頭にうかぶ。
 原典は、中国の五言絶句で、「花に嵐のたとえもある、人生は別離ばかりだ、せいぜい、この出会いを大事に、一献傾けよう」という意味合いである。
 秋には、盛りを過ぎる、終わりに向かう、時という意味がある。
 湖上に浮かぶ月に、流れゆくものの哀歓を思い重ねて、秋が深い。

 秋雨の 去りて夕べの そぞろ寒

 女心にたとえられるように、秋の空は、変わりやすい。
 朝、青い空が見えていたのに、午後から降りだすことも、その逆もある。
 秋雨は、梅雨のように長くつづかないが、熱帯性低気圧や台風と合体して、大雨をもたらすことがある。
 その秋雨が上がって、夕刻から、冷え込んできた。
 そぞろ寒いのそぞろは、漫ろで、うそ寒いのうそは、薄である。
 冬の本格的な寒さではなく、冷気をうっすらとかんじる程度である。
 カーディガンを羽織って、雨雲の去った秋の夜空を見上げたのである。
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2013年09月05日

 猛暑二題

 禅林や 命のかぎり せみ時雨
 今年の夏の暑さは、例年にないきびしさで、連日、35度超えの猛暑日がつづいた。
 フィリピン周辺の海水温度が上がったせいで、この辺りで低気圧が発生すると、その北側の太平洋で高気圧が発達する。
 この高気圧が、日本をすっぽり包んで、各地で、観測史上最高の猛暑となった。
 記録破りの集中豪雨や竜巻などの異常気象も、そのせいで、今年の夏は、荒魂が居座り、とおりすぎていった荒ぶる夏だった。
 だが、セミの声は、例年どおりで、都心でも、炎天下、セミの合唱がうるさいほどだった。
 事務所の近くに、豊川稲荷と江戸三大祭の一つ、山王祭がおこなわれる日枝神社がある。
 八月はお休みしたが、毎週、日枝神社の境内を借りて、村上正邦元参院議員や国会議員らと座禅を組んでいる。
 豊川稲荷は、豊川市の曹洞宗妙巌寺と所縁が深い禅林で、禅林は、禅宗の寺院のことである。
 曹洞宗と臨済宗大応派を一括して、叢林とも呼ばれる。
 無念無想の禅の寺院で、セミが、いのちのかぎり鳴いている。
 セミは、一週間のはかないいのちだが、その鳴き声は、8年間の土中生活を終えた最期の雄たけびで、子孫を残したあと、虫としては長い一生を終える。
 寺院の森のセミの声が、無念無想を突き破って、夏の空へ響きわたるのである。

 空蝉が 幹に踏ん張る 生き様や
 空蝉(うつせみ)は、古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、この世に生きている人間のことである。
 転じて、現世(うつそみ)で、生きている人間の世界をいう。
 空蝉ということばには、この世も、この世を生きる人間も、セミの一生のように空しいという諦観がにじんでいる。
 山路で、木の幹にしがみついている蝉を見つけた。
 小さな体から発せられるとは思えない大音量である。
 鳴くのは、オスで、メスを呼んでいる。
 一斉に鳴くのは、そのほうが、鳥などの捕獲動物から逃れて、生き残る可能性が高いからだという。
 蝉の一生は、はかないが、生のすさまじさが凝縮されている。
 この世を空しく思うのは、人間の諦観で、世界は、あらゆる生物が、いのちのかぎり、生の賛歌をうたっている。


 
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2013年06月15日

 初夏三題

 水面映ゆ 静けき梅雨(あめ)や 花筏

 花筏は、散った桜の花びらが水面に浮かび、流れてゆくさまである。
 幽玄な春の風情だが、いま、水面を飾っているのは、梅雨空の照り返しである。
 雨が細やかに水面を叩いている。梅雨雲は明るい。その空が水面に乱反射している。
 水面の細かい光の乱舞が、まるで、花筏のようだ。
 花筏は、春の季語だが、この句の季語は、梅雨(あめ)で、花筏は、あくまで、情景の比喩である。
 雨のなかで、こまやかに光る水面が、水にうかんだ桜の花びらを連想させたのである。

 神田川 瀬の音やわらぐ 卯の花月
 卯月は四月だが、新暦では、四月下旬から六月上旬ごろにあたる。
 この頃、卯の花が咲くので、卯月、 卯の花月の名がある。
 入梅の頃なので、雨月でもある。
 語源に雨月(うづき=卯月)とした説はないが、ことばの語呂から、雨月という文字が連想される。
 梅雨時の神田川は、目立って、水量が増すわけではないが、せせらぎが耳に快い。
 卯の花の花期は、五月から七月。枝先に円錐花序をつけ、花弁が五枚の白い花を咲かせる。
 唱歌「夏は来ぬ」にこうある。
 卯の花の におうかきねに 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて しのび音もらす 夏は来ぬ
 卯の花は、春というより、もう、初夏の風物なのである。

 郭公の 声をさがして 高みかな

 郭公(カッコウ)は、閑古鳥ののことで、木々のあいだからつたわってくる郭公の声は、意外に、ものさびしい。
 松尾芭蕉も、「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」と詠んだ。
 郭公は、託卵することで、有名な鳥である。
 つまり、本当の親を知らない鳥である。
 カッコーという、途切れ途切れのさびしい響きは、そのせいであろうか。
 さびれているさまを「閑古鳥が鳴く」というが、初夏の林で、一日中、その閑古鳥が鳴いてる。
 夏の訪れと閑古鳥、なんとも、意外な、取り合わせなのである。



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2013年03月26日

 春のきざし3題

 うたかたの 橋をわたるや 寒の川  

 井の頭池に源を発して、東へ流れ、両国橋の近くで隅田川に合流する神田川は、かつれ、平川と呼ばれた。
 徳川家康は、江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。
 二代将軍徳川秀忠の時代に、小石川から南流していた平川の流路が東につけかえられ、神田台と呼ばれる台地を掘り割って、現在の御茶の水に人工の谷を造成し、神田台の掘割に水道橋が架けられた。
 この改修工事ののち、平川は、神田川と呼ばれるようになった。
 井の頭池から神田川沿いの旧街道が、わたしは、散歩コースで、歩きながら、ときおり、徳川三百年の江戸を想う。
 明治維新から百五十年、あと百年後、日本は、どんな時代を迎えているだろう。
 うつし世は、現し世で、この世のことだが、移し世でもあって、うたかた(泡)である。
 日々は、流れる川なら、日々の出来事は、流れに浮かぶうたかたであろうか。
 
 立ちて消ゆ 水泡に春の きざしかな

 春が待ち遠しいのは、庭のおもりをしているせいで、ようやく、庭の草花や木々が芽吹きはじめた。
 川にも、春のきざしがあるもので、流れに水のぬるみが見てとれる。
 つよまった陽射しのせいで、水面が、きらめいている。
 神田川の水泡に、一人、春のきざしを見ているのである。

 やわらぎて 瀬の音に春の 音を聞く

 やわらぎは、寒気や風がやわらぎ、陽射しがやわらかいことで、全長二十五キロ、江戸を潤し、東京の縦走する神田川が、いま、目の前で、薄日を返している。
 やは(わ)らぎは、おだやかになることでもあって、心のやはらぎは、安らぎ、憩いである。
 和は、大和の和、和をもって尊しの和で、やはらぎこそが、日本人の心であろう。
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2013年02月28日

 春まだ遠し五題

 浮かびては 消えゆく水泡(みなわ)春きざす

 わたしの散歩コースは、井の頭池から神田川にそった木立のある路で、何十年もかわらない。
 一年中、同じ路を歩いていると、季節の移ろいが、おのずと、目に入ってくる。
 神田川の風景も、その一つで、風が冷たい川辺は、緑も消えて、寒々しい。
 冬の神田川に浮かび、漂い、消えてゆく水の泡――。
 わたしは、そこに、春の兆しを見ようとしている。
 水泡(みなわ)は、みなあわの音変化で、すべて、泡のようにはかない。
 日々の出来事も、一過性で、水泡のようなものである。
 そんな水の泡も、浮かんで消えて、明日へつながってゆく。
 よく見ると、川辺の木々が、新芽をはらんで、春を待っている。

 初雪や 上つ枝(ほつえ)で華と なりにける

 上つ枝は、上の方にある枝で、中つ枝や下つ枝(しずえ)という類語もある。
 天皇を讃える歌に由来したことばで、上つ枝は天(あめ)を覆(お)へり、中つ枝は東(あづま)を覆へり、下づ枝は鄙(ひな)を覆へりというのは、天皇の威が、天に届き、東国にまでのび、地方にまで至っているという意味である。
 俳句で上つ枝という場合、空に近い枝で、陽を浴び、新芽をはらんでいる。
 その上つ枝に雪の花が咲いている。
 そのコントラストがおもしろかった。
 関東の初雪は、たいてい、年明けで、年が明ければ、新春である。

 笹鳴きや 上つ枝(ほつえ)で寒き 日暮かな

 笹鳴(ささなき)は、冬の季語で、若い鴬が、里近くの笹藪などのなかに身をひそめて、チチチと鳴く風情。
 そこから、鴬の子は、笹子と呼ばれる。
 笹子は、雌雄とも、地鳴きをするが、春になると雄だけが、上つ枝に飛び移って、ホーホケキョと鳴く。
 だが、いまは、寒風に笹が鳴り、上つ枝が、寒々しく冬の空にかかっているだけである。

 老いづきて 月も寒がる 霜夜かな

 夜空に浮かんでいるのは、老月で、下弦の月である。
 その三日月が、いかにも、寒々しい。
 霜夜は、空が晴れて、地上に霜が降りる夜で、底冷えがする。
 年齢のせいか、最近、めっきり、寒さに弱くなった。
 老い就きを老月にひっかけて、鼻水をすすっているのである。

 冬川や 枯葉澱みて 細りけり

 秋の落葉が、川に澱んで、小さなダムをつくっている。
 神田川の周辺は、落葉樹が多く、冬は、川の水量が少ない。
 そのせいでもあるまいが、流れが細って見える。
 散歩の途中でみつけたそんな風景も、一つの冬の風物なのである。
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2012年12月21日

 年の瀬4題

 風に舞う 落葉の街 一人歩む

 舞い落ちた紅葉が、野一面にうちかさなって、ときおり、風にのって空へ舞いあがる。
 木々は、丸裸で、地面の紅葉も、この時期は、紅色を失って、林は、モノトーンにつつまれる。
 それが、武蔵野の冬の風情で、わたしの散歩コースである。
 この寂れた風景に、わたしは、安らぎをかんじる。
 冬は、休憩の季節で、すべてが、じっと息をひそめているからである。
 数か月もすれば、木々が芽吹き、野が若緑色に包まれる。
 枯葉を踏みながら、来年の春まで、この灰色の景色をながめることになる。

 木枯らしや 川面を走る 落ち葉舟

 落葉が、風に吹かれて、つむじを巻いている。
 川面の落葉が走っているのは、流れがはやいからではない。
 木枯らしに吹かれて、川面を滑っている。
 冬の風は、北風、寒風などのほかに、北ならいなどという言い方もある。
 木枯らしも、特有な言い方の一つで、春一番が春の兆しなら、木枯らし一号は、冬の到来である。
 襟巻きをして、足早に歩いている神田川の辺からふとみると、枯葉が、木枯らしに巻かれて、笹舟のように漂っている。
 思わず足をとめて、ながめたのである。

 逝き人を 偲ぶる夜半の もがり笛 

 木枯らしが吹く日は、木々や柵、電線などから、ヒューヒューと笛のような音が聞こえてくる。
 これを「もがり笛」と呼び、漢字では「虎落笛」と書く。
 勇ましい字面だが、実際は、もの悲しい音である。
 押し迫って、賀状のリストから、物故された方々を外させていただく。
 そんな作業をしていると、亡き人の面影や思い出が、脳裏をよぎる。
 手を休めると、窓の外から、遠く、もがり笛が音が聞えてくる。
 やるせない夜なのである。

 ほろ酔いで 熊手を肩に 酉の市

 酉の市は、毎年、年末に、大阪の大鳥大社など、日本武尊を祭った日本各地の鷲(おおとり)神社でおこなわれる「祭礼」で、東京では、花園神社(新宿)が有名である。
 今年も、わたしは、花園神社へ出向いて、熊手を買った。
 鷲神社は、日本武尊が、武運長久、開運、商売繁盛の神で、熊手守りも縁起熊手も、金や縁、運を掻き集めようというのである。
 新宿という土地柄とあって、友だちと連れ合い、一杯ひっかけてから、でかけることになる。
 この世のすべては、めぐり合わせで、人生は、運をつかむか、否かである。
 熊手を肩に、雑踏に紛れているじぶんが、われながら、おかしいのである。
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2012年09月11日

 晩夏3題

 残蝉や 声かすれきて 高き空  
 
 今年の夏は、領土危機や内政の混乱もあってか、暑さがいっそうきびしくかんじられた。
 夏といえば、蝉の声だが、今年は、例年にくらべて、数が少なかったように思う。
 とくに、九月にはいってから、蝉の声が、ほとんど、聞かれなくなった。
 残蝉は、季語ではないが、晩夏から初秋にかけて鳴く蝉で、一説によると、ヒグラシらしい。
 せみしぐれには、入道雲が似合うが、残蝉の空は、高い。
 もう、秋の空なのだ。

 日輪の 炎やはらぎ 風立ちぬ

 インドでは、灼熱の太陽が、最高神であり、破壊神でもあるらしい。
 善悪両面をもつのは、日本の和魂と荒魂のようなものであろうか。
 熱帯のインドで、照りつける太陽が、悪魔のように思えて、無理もない。
 若い頃は、大歓迎だった夏も、年齢を重ねてくると、ひたすら、秋の涼風が恋しい。
 風立ちぬとは、ここでは、秋風が吹くことだが、物事がはじまる、生気が吹き込まれるという意味もあるようだ。
 読書の秋というが、この秋には、夏にやり残した仕事が、山積している。
 やはり、風立ちぬ秋なのである。

 名月を 背負いて一人 影法師

 夏の夜空に、満月がうかんでいる。
 この満月の次の満月が、今年(2012年)の中秋の名月(9月30日)となる。
 そう思って、歩きだすと、足元に影が落ちている。
 外国へ行っても、夜空に、日本で見た月と同じ月がうかんでいる。
 何のふしぎもないが、おやと思う。
 名月や そこに居たかと 月が言う 
 そんな句を手帳に書き付けた記憶がある。
 ススキに月の風情は、日本だけのもので、名句が多い。
 有名なのが、芭蕉の 名月や 池をめぐりて 夜もすがら であろう。
 わたしの好みは、蛸壷や はかなき夢を 夏の月 である。
 月が、蛸壺の出口に見えている。
 夏の夜空にうかんだ月から、蛸壺のなかで、はかない夢を見ているわれをふり返っているのである。
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2012年07月04日

 初夏三題

 軒下に つばめも帰る 雨宿り

 都会ではあまり見なくなったが、地方へ行くと、家屋や駅などの軒下に巣をつくっている。
 電線に並んで休むすがたは、初夏の風物詩である。
 ツバメが低く飛ぶと雨が降るという諺があるように、梅雨の頃は、空中を飛ぶ虫が少なくなるので、低空飛行して虫を捕らえる。
 虫を追って、知面近くを低く飛ぶスピードは速く、そこから、佐々木小次郎のツバメ返しということばがうまれたようだ。
 ツバメは渡り鳥で、春、暖かくなった頃、南方から飛来して、営巣活動をおこない、ヒナが巣立つ秋口には、東南アジアへ渡り去る。
 つばめが帰るというのは、春になると、冬のあいだ留守だった空巣に帰ってくるからである。
 雨宿りと、帰ってきたツバメと出会いが、梅雨の風情をいっそう深くさせる。

 咲き満ちて あとは散り行く 定めかな

 咲き満ちるというと、桜が連想される。
 散り行くすがたが見事なのも、桜である。
 だが、ここでは、江戸時代、武士がこよなく愛したサクラソウである。
 夏の暑さと乾燥には弱く、清楚な花を咲かせたあと、ちょうど梅雨明けの頃、あっけなく枯れて、休眠にはいる。
 江戸時代は、旗本や御家人など武士階級が、新品種の作出を競い合い、現在、栽培されている約300品種のうち、半数以上が、江戸時代からの株分けによってつたえられたという。
 武士が、サクラソウを愛好するようになったのは、江戸湾に注ぎむ隅田川、荒川、中川の氾濫を予防するため、流域に、大雨の際に調整池の役割をはたす広大な原を整備した古事に因む。
 この原っぱに群生していたのが、サクラソウで、視察にきた将軍家綱がこれを持ち帰って、鉢植えとしたことから、随行してきた武士たちが、真似たという。
 その地が、原生サクラソウの自生地として、国の特別天然記念物に指定されているた田島ヶ原(埼玉県さいたま市桜区)である。
 サクラソウの楚々として美しいさまは、たしかに、日本人の好みなのである。

 永き日や 暮れなずむ空の 赤とんぼ

 永き日は、長くて暮れなずむ春の一日のことで、俳句では、永日(えいじつ)や日永(ひなが)とともに春の季語である。
 時間が季語になるところに、俳句のおもしろさ、奥行きがあるように思う。
 短夜(夏)や夜長(秋)、短日(冬)も、似た表現だが、こちらは、説明的で、詩情に乏しい。
 永き日には、眠気を誘うようなゆるやかな気分があり、真冬なら真っ暗なはずの空に、宵の明星が微かに光っている。
 定時の退社から、まっすぐ、家路につくことはまれだが、時折、そんなことがあると、永き日ののんびりとした気分を味わえるのである。
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2012年05月01日

 春三題

 ふるさとは まなうらにあり 春怒涛

 まなうら(瞼裏)は、瞼の裏のことで、目を閉じてうかぶ映像をいう。
 ただの記憶像ではない。
 まなうら=瞼にうかぶのは、「瞼の――」ということばがあるように、情感に満ち、せつなく、いつまでも消えることがない心象風景である。
 わたしのふるさとは、三宅島で、目の前に荒々しい海があった。
 その海が、いまも、まなうらに焼き付いている。
 海といっても、ただの海ではない。
 荒波の太平洋、小さな島に押し寄せてくる波濤の海である。
 押し寄せ、砕け散り、泡立った白い波が、いくつも岩をのりこえてくる。
 そんな荒々しい海が、わたしのとって、ふるさとの原光景である。
 春怒涛は、夏怒涛、冬怒涛というように、頭に季節の名がついて、季語になる。
 岩に砕ける怒涛も、季節によって、趣が異なる。
 夏には夏の、冬には冬の、春には春の、荒海の表情がある。
 いつの季節も、海を見るたび、その情景が思いうかぶのである。

 さざれなみ 霞みて遠く 島ひとつ

 さざれ波は、細(さざれ)波で、小さな波である。
 打ち寄せる波ではなく、風に波立つ海の様子で、沖の白波も、見方によっては、さざれなみである。
 海と空だけの遠景に、小さな島が、ぽつんとうかんでいる。
 それだけの光景だが、さざれなみは、波立つ心でもある。
 三宅島の選挙をめぐって、島の村議員たちが相談にやってきた。
 その折にひねった句である。

 散りゆきて あとは若葉の 春三番

 春三番は、春一番から数えて、3番目の春の嵐で、春一番とちがい、正式な気象用語ではない。
 二十四番花信風(かしんふう)によると、小寒の三候の風で、梅や椿、水仙の開花を知らせる風という。
 花信風は、花が咲いたことを知らせる風で、春三番は、二十四節気の小寒にあたる。
 この頃をすぎると、若葉が芽を吹き、山は、若草色につつまれる。
 散ったばかりの桜の枝を見上げると、小さな若葉が芽吹いている。
 はなやかに咲いた桜花をみごとに散らせた春の嵐も、春三番になると、若葉の枝をくぐりぬけてゆくだけである。
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2012年04月02日

 春のきざし三題

 残雪を 分けて芽吹く ふきのとう

 気象庁が、開花宣言の基準にしている靖国神社のソメイヨシノやヤマザクラが、ようやく、芽吹いた。
 だが、春を告げる花は、なんといっても、ふきのとう(蕗の花茎)のように思われる。
 残雪から、這い出すように咲くすがたが、春を待ちわびる心情にマッチして、ほほえましい。
 西洋では、雪が、ふきのとうに遠慮して、降り分けるという言い伝えがあるらしい。
 雪の白い色は、ふきのとうから分けてもらった色だからという伝説である。
 小さなパッケージに入ったふきのとうが、スーパーに出回りはじめた。
 特有のにがみが口にひろがるふきのとう天ぷらも、春の訪れをつくづく実感させてくれる

 差しかざし 手にほんのりと 春火鉢

 花冷えということばがある。三寒四温のあと、春一番が吹き、ようやく暖かくなったかと油断していると、急に寒さがぶり返す。
 風もつよく、やっと咲いた桜が散りやしないかと気にかかる。
 最近、火鉢などめったのお目にかからないが、日本の生活文化の代表である。
 木炭を着火させる火おこし器、その火を移動させる十能(じゅうのう)、火箸、灰ならし、鉄瓶をかける五徳、餅などを焼く金網、火消し壷、どの家庭にもあった日常品だった。
 花冷えの日、赤々とした火鉢の炭に手をかざして、暖をとった。
 いまも、炭火の熱が、掌の記憶に残っている。

 まぼろしの 引鶴去りて 空淡く
 
 秋に渡来して、冬を越した鶴が、春になって北に帰っていく。これが「引鶴(ひきづる)」で、春の季語になっている。
 1万羽以上のツルが越冬する鹿児島県北西部の出水平野では、3月頃、ツルたちが、一斉に大陸へ帰ってゆく。
 春の淡い空を見上げながら、飛び立ったツルが、やがて、すがたを消してゆく壮観な光景を思いうかべるのである。

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