空を舞い 地にあってなほ もみじかな 落ち葉となったもみじが、地上を赤く染めている。
紅葉(もみじ)は、落葉して地に還る枯葉とちがい、散って地面に落ちても、永らく、色や形を変えない。
紅葉(こうよう)は、葉の老化現象とみられていたが、最近、一つの生態であることがわかった。
発芽や開花と同じように、木々に、紅葉づ(もみづ)という生理現象があるというのである。
紅葉はアントシアン、黄色はカロテノイドという色素のはたらきによるものだが、秋に広葉樹の葉が紅葉(黄葉・褐葉)する理由は、まだよくわかっていない。
紅葉色が鮮やかなほど、寄生して樹液を吸う害虫、アブラムシの寄生が少ないというから、防衛反応の一つなのかもしれない。
そこに、日本人が、新緑や開花と同じように、紅葉を愛する理由がある。
紅葉は、滅びではなく、木々のいのちの、輝きだったのである。
霜立ちて 尚粛々と 山粧う 山が赤く燃え上がるような紅葉は、満開の山桜と並んで、日本を代表する美である。
紅葉を称える季語も、初秋の薄紅葉や初紅葉から盛りの照紅葉、黄昏の夕紅葉、そして、散り紅葉と多彩だ。
カエデ(楓)の別称としてもちいられることはあるが、もみじという植物はない。
紅葉するのは、カエデのほか、ウルシやツツジ、ツタ、ヤマブドウ、ヤマザクラ、カリン、ナナカマド、ウコギ科のタラノキなどで、イチョウやヤナギ、ポプラは黄葉、ブナ、ミズナラ、カシワ、ケヤキは褐葉する。
広葉樹が葉を落とすのは、葉から水分が蒸発するのを防ぐためで、裸となった木々は、休眠状態のまま、春をまつ。
そのひっそりとした風情も、秋山の粧いである。
木々の燃えるように映える紅葉もみごとだが、赤や黄、褐色の落ち葉が山をつつみこんだ景色にも風情がある。
子守柿 鳥がついばむ 秋の暮 柿の紅葉も、カエデや銀杏の黄葉と並んで、色合いが鮮明だ。
秋が深まって、葉が落ち、裸になった柿の木に、実が一つ残っている。
実を一つ二つ残すのは、来年の豊作への祈願であるとも、野鳥のためともいわれる。
それが、子守柿(こもりがき)で、木守柿(きもりがき)ともいう。
秋の夕暮れ、野鳥がやってきて、せっせと庭の熟柿をついばんでいる。
遠慮することはない、おまえのためにとっておいた実だ。
古き家の 木犀の香に 歩み止む 休日に、一時間ほど近所を散歩する。
新築の家は、みな、外に向かって、冷たく戸締りしている。
だが、古い家は、あけっぴろげだ。
たいてい、小さな庭や立ち木があって、ひとが平和にくらしている気配がある。
木犀の魅惑的な香に 歩みを止める。
案の定、古い家の庭のギンモクセイが、星のような小さな花をたくさんつけている。
木犀は秋に花をつけるので、秋の季語だが、秋にしては、艶やかな香である。
秋寒や 道行く人も 背を丸め 秋寒も秋の季語だが、本格的な寒さではない。
朝晩の肌寒さから、秋がきたことに気づくのが秋寒で、道行くひとも、心なしか、背を丸めているように見える。
木枯らしが吹くまで、当分、小春日和と秋寒、秋日和と秋黴雨が交代する日々がつづく。
窓ぬらす 雨声も弱き 秋黴雨(あきついり)
秋黴雨は秋入梅で、秋の長雨である。
春雨のような軽さ、夕立のような激しさ、みぞれのような冷たさはない。
ただ、弱々しく、さびしく、どこか、人恋しい。
雨音がほとんどなく、いつのまにかふりはじめ、いつのまにかやんでいる。
その雨が、いつまでもつづくので、秋の梅雨なのである。
独酌の 徳利も軽き 夜長かな 秋の夜長も、そぞろの一つのかたちで、秋の夜時間が長いという意味ではない。
冬眠ということばから、冬が、活動停止の時期と思われがちだが、実際は、越冬や年越しの活動期で、案外、忙しい。
ひとが、活動を休むのは、秋で、もっぱら食べ、心身を休め、知識を深める。
このとき、そぞろという心のはたらきが動員される。
そぞろは、自由で、直観的で、理屈にとらわれない。
夜更けに気づくと、独酌の徳利が空になっていた。
そぞろに更ける秋の夜長は、酒も、ちょっぴりすすむのである。