2013年11月06日

中秋三題

 名月を 湖面に浮かべ 独り酌む

 中秋の名月が、今年以降は、8年後の2021年まで、完全な満月にならないという。
 8年後といえば、次の東京オリンピックの翌年である。
 それまで、完全な満月を拝めないのなら、今年の中秋の名月が、わたしの人生の最後の中秋の満月になるやもしれぬ。
 そんな思いから、井の頭池の畔の料亭の一室を借りて、一人、月見の宴をもった。
 宴といっても、ささやかなものだが、小座敷の窓から井の頭池が望める。
 湖面に浮かぶ名月とは、井の頭池に移った中秋の満月のことである。
 漢詩風に流れたが、わが心境にぴったりで、他に言い回しが思いつかなかった。

 流れゆく 湖上の月や 秋深し

 流れゆくのは、井の頭池の水面に浮かぶ月影だけではない。
 何もかも、流れ行き、流れ去って、ふたたび、還ることがない。
 それが人生で、井伏鱒二の「さよならだけが人生さ」という詩の一節が頭にうかぶ。
 原典は、中国の五言絶句で、「花に嵐のたとえもある、人生は別離ばかりだ、せいぜい、この出会いを大事に、一献傾けよう」という意味合いである。
 秋には、盛りを過ぎる、終わりに向かう、時という意味がある。
 湖上に浮かぶ月に、流れゆくものの哀歓を思い重ねて、秋が深い。

 秋雨の 去りて夕べの そぞろ寒

 女心にたとえられるように、秋の空は、変わりやすい。
 朝、青い空が見えていたのに、午後から降りだすことも、その逆もある。
 秋雨は、梅雨のように長くつづかないが、熱帯性低気圧や台風と合体して、大雨をもたらすことがある。
 その秋雨が上がって、夕刻から、冷え込んできた。
 そぞろ寒いのそぞろは、漫ろで、うそ寒いのうそは、薄である。
 冬の本格的な寒さではなく、冷気をうっすらとかんじる程度である。
 カーディガンを羽織って、雨雲の去った秋の夜空を見上げたのである。
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2013年09月05日

 猛暑二題

 禅林や 命のかぎり せみ時雨
 今年の夏の暑さは、例年にないきびしさで、連日、35度超えの猛暑日がつづいた。
 フィリピン周辺の海水温度が上がったせいで、この辺りで低気圧が発生すると、その北側の太平洋で高気圧が発達する。
 この高気圧が、日本をすっぽり包んで、各地で、観測史上最高の猛暑となった。
 記録破りの集中豪雨や竜巻などの異常気象も、そのせいで、今年の夏は、荒魂が居座り、とおりすぎていった荒ぶる夏だった。
 だが、セミの声は、例年どおりで、都心でも、炎天下、セミの合唱がうるさいほどだった。
 事務所の近くに、豊川稲荷と江戸三大祭の一つ、山王祭がおこなわれる日枝神社がある。
 八月はお休みしたが、毎週、日枝神社の境内を借りて、村上正邦元参院議員や国会議員らと座禅を組んでいる。
 豊川稲荷は、豊川市の曹洞宗妙巌寺と所縁が深い禅林で、禅林は、禅宗の寺院のことである。
 曹洞宗と臨済宗大応派を一括して、叢林とも呼ばれる。
 無念無想の禅の寺院で、セミが、いのちのかぎり鳴いている。
 セミは、一週間のはかないいのちだが、その鳴き声は、8年間の土中生活を終えた最期の雄たけびで、子孫を残したあと、虫としては長い一生を終える。
 寺院の森のセミの声が、無念無想を突き破って、夏の空へ響きわたるのである。

 空蝉が 幹に踏ん張る 生き様や
 空蝉(うつせみ)は、古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもので、この世に生きている人間のことである。
 転じて、現世(うつそみ)で、生きている人間の世界をいう。
 空蝉ということばには、この世も、この世を生きる人間も、セミの一生のように空しいという諦観がにじんでいる。
 山路で、木の幹にしがみついている蝉を見つけた。
 小さな体から発せられるとは思えない大音量である。
 鳴くのは、オスで、メスを呼んでいる。
 一斉に鳴くのは、そのほうが、鳥などの捕獲動物から逃れて、生き残る可能性が高いからだという。
 蝉の一生は、はかないが、生のすさまじさが凝縮されている。
 この世を空しく思うのは、人間の諦観で、世界は、あらゆる生物が、いのちのかぎり、生の賛歌をうたっている。


 
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2013年06月15日

 初夏三題

 水面映ゆ 静けき梅雨(あめ)や 花筏

 花筏は、散った桜の花びらが水面に浮かび、流れてゆくさまである。
 幽玄な春の風情だが、いま、水面を飾っているのは、梅雨空の照り返しである。
 雨が細やかに水面を叩いている。梅雨雲は明るい。その空が水面に乱反射している。
 水面の細かい光の乱舞が、まるで、花筏のようだ。
 花筏は、春の季語だが、この句の季語は、梅雨(あめ)で、花筏は、あくまで、情景の比喩である。
 雨のなかで、こまやかに光る水面が、水にうかんだ桜の花びらを連想させたのである。

 神田川 瀬の音やわらぐ 卯の花月
 卯月は四月だが、新暦では、四月下旬から六月上旬ごろにあたる。
 この頃、卯の花が咲くので、卯月、 卯の花月の名がある。
 入梅の頃なので、雨月でもある。
 語源に雨月(うづき=卯月)とした説はないが、ことばの語呂から、雨月という文字が連想される。
 梅雨時の神田川は、目立って、水量が増すわけではないが、せせらぎが耳に快い。
 卯の花の花期は、五月から七月。枝先に円錐花序をつけ、花弁が五枚の白い花を咲かせる。
 唱歌「夏は来ぬ」にこうある。
 卯の花の におうかきねに 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて しのび音もらす 夏は来ぬ
 卯の花は、春というより、もう、初夏の風物なのである。

 郭公の 声をさがして 高みかな

 郭公(カッコウ)は、閑古鳥ののことで、木々のあいだからつたわってくる郭公の声は、意外に、ものさびしい。
 松尾芭蕉も、「憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥」と詠んだ。
 郭公は、託卵することで、有名な鳥である。
 つまり、本当の親を知らない鳥である。
 カッコーという、途切れ途切れのさびしい響きは、そのせいであろうか。
 さびれているさまを「閑古鳥が鳴く」というが、初夏の林で、一日中、その閑古鳥が鳴いてる。
 夏の訪れと閑古鳥、なんとも、意外な、取り合わせなのである。



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2013年03月26日

 春のきざし3題

 うたかたの 橋をわたるや 寒の川  

 井の頭池に源を発して、東へ流れ、両国橋の近くで隅田川に合流する神田川は、かつれ、平川と呼ばれた。
 徳川家康は、江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。
 二代将軍徳川秀忠の時代に、小石川から南流していた平川の流路が東につけかえられ、神田台と呼ばれる台地を掘り割って、現在の御茶の水に人工の谷を造成し、神田台の掘割に水道橋が架けられた。
 この改修工事ののち、平川は、神田川と呼ばれるようになった。
 井の頭池から神田川沿いの旧街道が、わたしは、散歩コースで、歩きながら、ときおり、徳川三百年の江戸を想う。
 明治維新から百五十年、あと百年後、日本は、どんな時代を迎えているだろう。
 うつし世は、現し世で、この世のことだが、移し世でもあって、うたかた(泡)である。
 日々は、流れる川なら、日々の出来事は、流れに浮かぶうたかたであろうか。
 
 立ちて消ゆ 水泡に春の きざしかな

 春が待ち遠しいのは、庭のおもりをしているせいで、ようやく、庭の草花や木々が芽吹きはじめた。
 川にも、春のきざしがあるもので、流れに水のぬるみが見てとれる。
 つよまった陽射しのせいで、水面が、きらめいている。
 神田川の水泡に、一人、春のきざしを見ているのである。

 やわらぎて 瀬の音に春の 音を聞く

 やわらぎは、寒気や風がやわらぎ、陽射しがやわらかいことで、全長二十五キロ、江戸を潤し、東京の縦走する神田川が、いま、目の前で、薄日を返している。
 やは(わ)らぎは、おだやかになることでもあって、心のやはらぎは、安らぎ、憩いである。
 和は、大和の和、和をもって尊しの和で、やはらぎこそが、日本人の心であろう。
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2013年02月28日

 春まだ遠し五題

 浮かびては 消えゆく水泡(みなわ)春きざす

 わたしの散歩コースは、井の頭池から神田川にそった木立のある路で、何十年もかわらない。
 一年中、同じ路を歩いていると、季節の移ろいが、おのずと、目に入ってくる。
 神田川の風景も、その一つで、風が冷たい川辺は、緑も消えて、寒々しい。
 冬の神田川に浮かび、漂い、消えてゆく水の泡――。
 わたしは、そこに、春の兆しを見ようとしている。
 水泡(みなわ)は、みなあわの音変化で、すべて、泡のようにはかない。
 日々の出来事も、一過性で、水泡のようなものである。
 そんな水の泡も、浮かんで消えて、明日へつながってゆく。
 よく見ると、川辺の木々が、新芽をはらんで、春を待っている。

 初雪や 上つ枝(ほつえ)で華と なりにける

 上つ枝は、上の方にある枝で、中つ枝や下つ枝(しずえ)という類語もある。
 天皇を讃える歌に由来したことばで、上つ枝は天(あめ)を覆(お)へり、中つ枝は東(あづま)を覆へり、下づ枝は鄙(ひな)を覆へりというのは、天皇の威が、天に届き、東国にまでのび、地方にまで至っているという意味である。
 俳句で上つ枝という場合、空に近い枝で、陽を浴び、新芽をはらんでいる。
 その上つ枝に雪の花が咲いている。
 そのコントラストがおもしろかった。
 関東の初雪は、たいてい、年明けで、年が明ければ、新春である。

 笹鳴きや 上つ枝(ほつえ)で寒き 日暮かな

 笹鳴(ささなき)は、冬の季語で、若い鴬が、里近くの笹藪などのなかに身をひそめて、チチチと鳴く風情。
 そこから、鴬の子は、笹子と呼ばれる。
 笹子は、雌雄とも、地鳴きをするが、春になると雄だけが、上つ枝に飛び移って、ホーホケキョと鳴く。
 だが、いまは、寒風に笹が鳴り、上つ枝が、寒々しく冬の空にかかっているだけである。

 老いづきて 月も寒がる 霜夜かな

 夜空に浮かんでいるのは、老月で、下弦の月である。
 その三日月が、いかにも、寒々しい。
 霜夜は、空が晴れて、地上に霜が降りる夜で、底冷えがする。
 年齢のせいか、最近、めっきり、寒さに弱くなった。
 老い就きを老月にひっかけて、鼻水をすすっているのである。

 冬川や 枯葉澱みて 細りけり

 秋の落葉が、川に澱んで、小さなダムをつくっている。
 神田川の周辺は、落葉樹が多く、冬は、川の水量が少ない。
 そのせいでもあるまいが、流れが細って見える。
 散歩の途中でみつけたそんな風景も、一つの冬の風物なのである。
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2012年12月21日

 年の瀬4題

 風に舞う 落葉の街 一人歩む

 舞い落ちた紅葉が、野一面にうちかさなって、ときおり、風にのって空へ舞いあがる。
 木々は、丸裸で、地面の紅葉も、この時期は、紅色を失って、林は、モノトーンにつつまれる。
 それが、武蔵野の冬の風情で、わたしの散歩コースである。
 この寂れた風景に、わたしは、安らぎをかんじる。
 冬は、休憩の季節で、すべてが、じっと息をひそめているからである。
 数か月もすれば、木々が芽吹き、野が若緑色に包まれる。
 枯葉を踏みながら、来年の春まで、この灰色の景色をながめることになる。

 木枯らしや 川面を走る 落ち葉舟

 落葉が、風に吹かれて、つむじを巻いている。
 川面の落葉が走っているのは、流れがはやいからではない。
 木枯らしに吹かれて、川面を滑っている。
 冬の風は、北風、寒風などのほかに、北ならいなどという言い方もある。
 木枯らしも、特有な言い方の一つで、春一番が春の兆しなら、木枯らし一号は、冬の到来である。
 襟巻きをして、足早に歩いている神田川の辺からふとみると、枯葉が、木枯らしに巻かれて、笹舟のように漂っている。
 思わず足をとめて、ながめたのである。

 逝き人を 偲ぶる夜半の もがり笛 

 木枯らしが吹く日は、木々や柵、電線などから、ヒューヒューと笛のような音が聞こえてくる。
 これを「もがり笛」と呼び、漢字では「虎落笛」と書く。
 勇ましい字面だが、実際は、もの悲しい音である。
 押し迫って、賀状のリストから、物故された方々を外させていただく。
 そんな作業をしていると、亡き人の面影や思い出が、脳裏をよぎる。
 手を休めると、窓の外から、遠く、もがり笛が音が聞えてくる。
 やるせない夜なのである。

 ほろ酔いで 熊手を肩に 酉の市

 酉の市は、毎年、年末に、大阪の大鳥大社など、日本武尊を祭った日本各地の鷲(おおとり)神社でおこなわれる「祭礼」で、東京では、花園神社(新宿)が有名である。
 今年も、わたしは、花園神社へ出向いて、熊手を買った。
 鷲神社は、日本武尊が、武運長久、開運、商売繁盛の神で、熊手守りも縁起熊手も、金や縁、運を掻き集めようというのである。
 新宿という土地柄とあって、友だちと連れ合い、一杯ひっかけてから、でかけることになる。
 この世のすべては、めぐり合わせで、人生は、運をつかむか、否かである。
 熊手を肩に、雑踏に紛れているじぶんが、われながら、おかしいのである。
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2012年09月11日

 晩夏3題

 残蝉や 声かすれきて 高き空  
 
 今年の夏は、領土危機や内政の混乱もあってか、暑さがいっそうきびしくかんじられた。
 夏といえば、蝉の声だが、今年は、例年にくらべて、数が少なかったように思う。
 とくに、九月にはいってから、蝉の声が、ほとんど、聞かれなくなった。
 残蝉は、季語ではないが、晩夏から初秋にかけて鳴く蝉で、一説によると、ヒグラシらしい。
 せみしぐれには、入道雲が似合うが、残蝉の空は、高い。
 もう、秋の空なのだ。

 日輪の 炎やはらぎ 風立ちぬ

 インドでは、灼熱の太陽が、最高神であり、破壊神でもあるらしい。
 善悪両面をもつのは、日本の和魂と荒魂のようなものであろうか。
 熱帯のインドで、照りつける太陽が、悪魔のように思えて、無理もない。
 若い頃は、大歓迎だった夏も、年齢を重ねてくると、ひたすら、秋の涼風が恋しい。
 風立ちぬとは、ここでは、秋風が吹くことだが、物事がはじまる、生気が吹き込まれるという意味もあるようだ。
 読書の秋というが、この秋には、夏にやり残した仕事が、山積している。
 やはり、風立ちぬ秋なのである。

 名月を 背負いて一人 影法師

 夏の夜空に、満月がうかんでいる。
 この満月の次の満月が、今年(2012年)の中秋の名月(9月30日)となる。
 そう思って、歩きだすと、足元に影が落ちている。
 外国へ行っても、夜空に、日本で見た月と同じ月がうかんでいる。
 何のふしぎもないが、おやと思う。
 名月や そこに居たかと 月が言う 
 そんな句を手帳に書き付けた記憶がある。
 ススキに月の風情は、日本だけのもので、名句が多い。
 有名なのが、芭蕉の 名月や 池をめぐりて 夜もすがら であろう。
 わたしの好みは、蛸壷や はかなき夢を 夏の月 である。
 月が、蛸壺の出口に見えている。
 夏の夜空にうかんだ月から、蛸壺のなかで、はかない夢を見ているわれをふり返っているのである。
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2012年07月04日

 初夏三題

 軒下に つばめも帰る 雨宿り

 都会ではあまり見なくなったが、地方へ行くと、家屋や駅などの軒下に巣をつくっている。
 電線に並んで休むすがたは、初夏の風物詩である。
 ツバメが低く飛ぶと雨が降るという諺があるように、梅雨の頃は、空中を飛ぶ虫が少なくなるので、低空飛行して虫を捕らえる。
 虫を追って、知面近くを低く飛ぶスピードは速く、そこから、佐々木小次郎のツバメ返しということばがうまれたようだ。
 ツバメは渡り鳥で、春、暖かくなった頃、南方から飛来して、営巣活動をおこない、ヒナが巣立つ秋口には、東南アジアへ渡り去る。
 つばめが帰るというのは、春になると、冬のあいだ留守だった空巣に帰ってくるからである。
 雨宿りと、帰ってきたツバメと出会いが、梅雨の風情をいっそう深くさせる。

 咲き満ちて あとは散り行く 定めかな

 咲き満ちるというと、桜が連想される。
 散り行くすがたが見事なのも、桜である。
 だが、ここでは、江戸時代、武士がこよなく愛したサクラソウである。
 夏の暑さと乾燥には弱く、清楚な花を咲かせたあと、ちょうど梅雨明けの頃、あっけなく枯れて、休眠にはいる。
 江戸時代は、旗本や御家人など武士階級が、新品種の作出を競い合い、現在、栽培されている約300品種のうち、半数以上が、江戸時代からの株分けによってつたえられたという。
 武士が、サクラソウを愛好するようになったのは、江戸湾に注ぎむ隅田川、荒川、中川の氾濫を予防するため、流域に、大雨の際に調整池の役割をはたす広大な原を整備した古事に因む。
 この原っぱに群生していたのが、サクラソウで、視察にきた将軍家綱がこれを持ち帰って、鉢植えとしたことから、随行してきた武士たちが、真似たという。
 その地が、原生サクラソウの自生地として、国の特別天然記念物に指定されているた田島ヶ原(埼玉県さいたま市桜区)である。
 サクラソウの楚々として美しいさまは、たしかに、日本人の好みなのである。

 永き日や 暮れなずむ空の 赤とんぼ

 永き日は、長くて暮れなずむ春の一日のことで、俳句では、永日(えいじつ)や日永(ひなが)とともに春の季語である。
 時間が季語になるところに、俳句のおもしろさ、奥行きがあるように思う。
 短夜(夏)や夜長(秋)、短日(冬)も、似た表現だが、こちらは、説明的で、詩情に乏しい。
 永き日には、眠気を誘うようなゆるやかな気分があり、真冬なら真っ暗なはずの空に、宵の明星が微かに光っている。
 定時の退社から、まっすぐ、家路につくことはまれだが、時折、そんなことがあると、永き日ののんびりとした気分を味わえるのである。
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2012年05月01日

 春三題

 ふるさとは まなうらにあり 春怒涛

 まなうら(瞼裏)は、瞼の裏のことで、目を閉じてうかぶ映像をいう。
 ただの記憶像ではない。
 まなうら=瞼にうかぶのは、「瞼の――」ということばがあるように、情感に満ち、せつなく、いつまでも消えることがない心象風景である。
 わたしのふるさとは、三宅島で、目の前に荒々しい海があった。
 その海が、いまも、まなうらに焼き付いている。
 海といっても、ただの海ではない。
 荒波の太平洋、小さな島に押し寄せてくる波濤の海である。
 押し寄せ、砕け散り、泡立った白い波が、いくつも岩をのりこえてくる。
 そんな荒々しい海が、わたしのとって、ふるさとの原光景である。
 春怒涛は、夏怒涛、冬怒涛というように、頭に季節の名がついて、季語になる。
 岩に砕ける怒涛も、季節によって、趣が異なる。
 夏には夏の、冬には冬の、春には春の、荒海の表情がある。
 いつの季節も、海を見るたび、その情景が思いうかぶのである。

 さざれなみ 霞みて遠く 島ひとつ

 さざれ波は、細(さざれ)波で、小さな波である。
 打ち寄せる波ではなく、風に波立つ海の様子で、沖の白波も、見方によっては、さざれなみである。
 海と空だけの遠景に、小さな島が、ぽつんとうかんでいる。
 それだけの光景だが、さざれなみは、波立つ心でもある。
 三宅島の選挙をめぐって、島の村議員たちが相談にやってきた。
 その折にひねった句である。

 散りゆきて あとは若葉の 春三番

 春三番は、春一番から数えて、3番目の春の嵐で、春一番とちがい、正式な気象用語ではない。
 二十四番花信風(かしんふう)によると、小寒の三候の風で、梅や椿、水仙の開花を知らせる風という。
 花信風は、花が咲いたことを知らせる風で、春三番は、二十四節気の小寒にあたる。
 この頃をすぎると、若葉が芽を吹き、山は、若草色につつまれる。
 散ったばかりの桜の枝を見上げると、小さな若葉が芽吹いている。
 はなやかに咲いた桜花をみごとに散らせた春の嵐も、春三番になると、若葉の枝をくぐりぬけてゆくだけである。
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2012年04月02日

 春のきざし三題

 残雪を 分けて芽吹く ふきのとう

 気象庁が、開花宣言の基準にしている靖国神社のソメイヨシノやヤマザクラが、ようやく、芽吹いた。
 だが、春を告げる花は、なんといっても、ふきのとう(蕗の花茎)のように思われる。
 残雪から、這い出すように咲くすがたが、春を待ちわびる心情にマッチして、ほほえましい。
 西洋では、雪が、ふきのとうに遠慮して、降り分けるという言い伝えがあるらしい。
 雪の白い色は、ふきのとうから分けてもらった色だからという伝説である。
 小さなパッケージに入ったふきのとうが、スーパーに出回りはじめた。
 特有のにがみが口にひろがるふきのとう天ぷらも、春の訪れをつくづく実感させてくれる

 差しかざし 手にほんのりと 春火鉢

 花冷えということばがある。三寒四温のあと、春一番が吹き、ようやく暖かくなったかと油断していると、急に寒さがぶり返す。
 風もつよく、やっと咲いた桜が散りやしないかと気にかかる。
 最近、火鉢などめったのお目にかからないが、日本の生活文化の代表である。
 木炭を着火させる火おこし器、その火を移動させる十能(じゅうのう)、火箸、灰ならし、鉄瓶をかける五徳、餅などを焼く金網、火消し壷、どの家庭にもあった日常品だった。
 花冷えの日、赤々とした火鉢の炭に手をかざして、暖をとった。
 いまも、炭火の熱が、掌の記憶に残っている。

 まぼろしの 引鶴去りて 空淡く
 
 秋に渡来して、冬を越した鶴が、春になって北に帰っていく。これが「引鶴(ひきづる)」で、春の季語になっている。
 1万羽以上のツルが越冬する鹿児島県北西部の出水平野では、3月頃、ツルたちが、一斉に大陸へ帰ってゆく。
 春の淡い空を見上げながら、飛び立ったツルが、やがて、すがたを消してゆく壮観な光景を思いうかべるのである。

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