2020年07月13日

わが青春譜17

 ●菊池義郎後援会「白菊会」
 国政選挙に打って出る覚悟を固めて、品川区に住居を移し、大田区の蒲田に事務所を開設したのが昭和49年のことであった。
 選挙区は、東京二区で、当時、自民党議員は、それまで、23年間、議席をまもってきた菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけだった。
 5人区の東京二区で、自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしが、菊池義郎に面談を申し入れて、後継者指名と「白菊会」の応援をえた経緯についてはすでにのべた。
「白菊会」は、長年、菊池義郎をささえてきた後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 昭和50年に入ると、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書のほか、「白菊会」や旧菊池事務所のスタッフらがうごきだした。
 わたしは、連日、稲見秘書の案内をうけて、後援会幹部のご自宅を訪ねた。
 すべてから支持をとりつけたわけではなかったが、反応は良好で、なかには「白菊会」の地区会員を集めて激励会を開いてくれたひともいた。
 活動が軌道にのってくると、菊池先生も、もちまえの元気をとりもどされて、後援会活動も熱をおびはじめた。
 50年6月10日。品川公会堂で「白菊会」と「山峯会」の共同後援による講演会「山本みねあき/鶴田浩二と語る憂国論」がひらかれた。
 後援活動の一環であったが、新聞が参加者3000人と報じた会場の大半は、白菊会の会員で、白菊会がなければ、成功はおぼつかなかった。
 鶴田浩二とわたしの関係は、学友をつうじてのもので、わたしが、特攻隊の生き残りである鶴田の「遺骨収集」に賛同して以来、意気投合していた。

 昭和50年初旬、石原慎太郎が都知事選に出馬するという噂が飛び交った。
「裕次郎が慎太郎に代わって、国政選挙に出馬するという情報がマスコミから流されると「週刊現代(3月13日号)」は「菊池義郎の東京二区の地盤を引き継いで、とむらい合戦と意気込んでいた山本陣営はカッカときた」などという憶測記事を書くなど、東京二区はにわかにキナくさくなってきた。
 月刊誌「全貌(4月号)」は「石原慎太郎の都知事選出馬で東京二区は大激戦区に!」という見出しを掲げて「前回、石原慎太郎に蹴落とされた菊池義郎が引退、地盤をひきついだ大型新人の山本峯章の動向に注目」などと書き、わたしのもとにもメディアの取材が相次いだ。
 結局、石原慎太郎は、このとき、都知事選出馬を見送った。
 すると今度は「ショックの山本陣営」という記事(内外タイムズ八月三日号)が流れるという具合で、どれも、うわさ話の域をでなかった。
 わたしが狙っていたのは、無所属の次点で、次々回の衆議院選挙を天王山とにらんでいた。
 それには、テレビのワイドショーなどで物価の山本≠フ名を売って、あとは、経験ゆたかな「白菊会」の力を借りで、時間をかけて、選挙区内での知名度や好感度を上げてゆく方法しかなかった。
 したがって、石原の都知事選への出馬には、まったく無関心だった。
 芥川作家で、マスコミの寵児。選挙に出るたびに記録的な大量票を獲得する石原慎太郎の票田と「白菊会」を中心とする主婦層の票田は、別だったからである。
 石原の票を食うことは不可能で、そんな気もなかったが、マスコミは、石原が危機感をもったがごとく、おもしろおかしく書き立てた。
 大型新人というキャッチフレーズは、わたしの人気や実力をさしたものではなく、長きにわたって、菊池義郎先生をささえてきた「白菊会」が山本峯章についたことへの評価で、わたしは、その事実を痛いほど知っていた。
 わたしの「山峯会」と菊池義郎「白菊会」では、大関と幕下ほどのちがいがあって、わたしは、菊池義郎先生やご夫人、稲見秘書に頭があがらなかったのである。

 ●鶴田はヤクザ、山本は右翼だ
 菊池義郎が、すでに、引退したにもかかわらず、51年3月、品川公会堂でおこなわれた「白菊会春季大会」は盛況で、新聞は、会場に入りきれないほどの3000人が集まったと報じた。
 事実上の山本峯章後援会の大会で、鶴田浩二も、バンドを率いて、かけつけてくれて、体験談を語り、ヒット曲である「街のサンドイッチマン」を歌って会場をわかしてくれた。
「白菊会」の活動がさかんになるにつれて、誹謗中傷や流言飛語に悩まされるようになった。
 そのなかの一つが、わたしを支援してくれた鶴田浩二にまつわるものだった。
 鶴田浩二は、東映映画で、やくざがはまり役の一流の映画スターである
 中傷というのは、鶴田はやくざだから、やくざの山本の応援に来ているという次元の低いものだったが、政治的デマゴギーは、低級なほどプロパガンダ効果が高いという法則がある。
 1984年の「三宅島官民共用空港」闘争では、反対派の「空港ができたらジェット機の爆音でブタが仔をうまなくなる」「魚がとれなくなる」というデマゴギーに多くの島民がダマされた。
 山本峯章は右翼という陰口も叩かれたが、これは、黙殺するほかなかった。
 わたしは、1660年前後、保革が激しくぶつかった新島闘争や安保闘争にくわわった。
 この経緯は、菊池先生もご存知だが、先生は、一言もふれらなかった。
 菊池先生自身も、自民党きっての反共主義の論客として知られていた。
 先生は、ともかく、後援会の会員が不信感をもった場合、わたしは、納得がゆくまで話し合うハラで、逃げ隠れする気は毛頭なかった。
 政治思想やイデオロギー、政治信条は、言論の上に成立するものである。
 したがって、政治運動をする場合、信念をもつと同時に最小限の理論武装がもとめられる。
 政治は、言論で、言論が放棄されると戦争となるであろうが、それが政治の破綻にほかならない。
 朝日や毎日のようなマスコミ左翼が、伝統主義や保守主義、民族主義などを右翼(あるいはネットウヨ)と差別的に色づけして、四つに組んだ議論しようとしないのは、大きな問題なのである(この件についてはいずれ詳しくふれる)。
 その後、「白菊会」と「山峯会」は、品川区と大田区で、連日、50人〜100人規模の会合をひらいて、順調に、組織固めと選挙の体制づくりがすすめられた。
 51年9月24日 大田区体育館で「山本みねあきを励ます一万人集会」が開催された。
 選挙にむかって、後援会の強化と臨戦最終体制に入るための大集会で、菊池義郎後援会「白菊会」と山本峯章後援会「山峯会」の共催となった。
 収容可能数5000人ほどの大田体育館で、あえて、一万人大集会を謳ったこの大会は、結果として、大成功であった。
 出席者の7〜80%は白菊会の長年の会員で、さすが、菊池先生を23年間にわたって、国会に送りこんできただけの大組織である。
 この日の大会は「白菊会」に「山峯会」にあやかった形で「白菊会」会長の菊池義郎先生も「山峯会」会長の今東光先生も、壇上で、満足げであった。

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2020年07月03日

 わが青春譜16

 ●石原慎太郎秘書 暴力事件
 国政選挙の準備中、わたしの秘書である押切が石原慎太郎の秘書、浜渦武生らから暴行をうける事件がおきた。
 昭和49年10月25日の夕刻、わたしは、赤坂の事務所で「日本食糧自給連盟(会長赤城宗徳/防衛庁長官・農林大臣)の会議を開いていた。
 食料自給率は、わたしの物価政策の目玉で、この日の会議には、城西大学の岩井主税教授や評論家の広瀬らいつものメンバーが顔を揃えていた。(この件については別項でのべる)
 そこへ、顔面から血を流した秘書の押切がはいってきた。
 聞くと「石原の秘書、浜渦とキックボクサーから暴行をうけた」という。
 わたしは岩井教授から紹介された赤坂の前田外科病院へ押切をむかわせた。
 診断書の結果は「左顔面、前胸部、左大腿部打撲 全治二週間」であった。
 浜渦らが押切を襲った理由は、むろん、衆院選挙がらみで、私怨であった。
 10数年、賀屋興宣衆院議員(東京三区)の秘書をやっていた押切は、参院から衆院へのりかえた石原慎太郎が、賀屋の地盤をひきついで三区から立候補する姿勢をみせたため、賀屋に指示にしたがって、石原の秘書についた。
 役割は、選挙参謀だったが、石原の心変わりで、選挙区が、急きょ、二区に変更されたため、石原の秘書を辞した。
 そして、東京二区で石原慎太郎の対抗馬になったわたしの秘書になった。
 これを、慎太郎に心酔する浜渦が裏切りとみて、先の襲撃事件となったのである。
 押切はインタビュー(内外タイムズ)にこう応えている。
「狂乱物価¢゙治を謳ってテレビで話題になっているばかりか、東京二区で長年議席をまもってきた菊池義郎衆院議員の地盤をひきつぎ、来春の統一選挙に立候補する山本氏を有望と見て、みずから、選挙参謀を買ってでた」
 週刊大衆(昭和49年11月14日号)にこうある。
「(暴行事件)のウラには、押切が秘書についた山本峯章が、石原慎太郎の東京二区から出馬する大型新人という事実が隠されている」「次回の衆院選で、石原は、前回のように、2位に大量差をつけてトップ当選というわけにはいかないだろう」
 第34回衆院選挙東京二区の下馬評で、わたしには、大型新人という形容詞がついていたのである。

 ●暴行事件の全容と経緯
 押切は事件についてこうのべている。(週刊大衆11月14日号)
「10月24日午後6時頃、石原さんがコミッショナーをしているキックボクシング協会のS(清水)から、協会の事務所に来てくれという電話がかかってきました。話なら電話ですませたいと申し入れると、来られないのならオレが行くという話になって、結局、25日の午後、ニューオータニのロビーにあるコーヒーショップで会う約束をしました。当日 事務所(山本峯章)の青年と二人で行くと、清水は「二人で話したいから席を外してくれ」と連れの青年を追い返しました。そこへ浜渦があらわれると、清水は、静かな場所で話そうとエレベーターホールむかいました」
 事件はその直後におきた。
 3人がエレベーターに乗ったとたん、清水が腹部に二発、そのあと、右から浜鍋、左から清水が顔、左脇に拳を撃ちこんできたのである。
 清水はキックボクサー出身で、浜鍋も、学生時代(関西大学)、空手をやっており、この2人の暴力は、素手でも凶器とみなされる。
 エレベーターが地下三階の駐車場につくと、押切は、通路で、二人からまた2、3発殴られた。
 膝から崩れ落ちた押切にむかって、清水と浜渦は事務所まで来いという。
 押切が行く必要はないとつっぱねると、浜鍋は、道義的にゆるせないということばを残して、車で去っていった。
 この事件の原因と経緯について押切は次のように語っている。
「石原議員の秘書になって、他の秘書やとりまきによる誹謗中傷に悩まされることになりましたが、そのなかに、石原が顧問をつとめる団体(10以上)の顧問料をわたしがネコババしているというものもありました。
 この件は、石原とわたしが直接話しあって、誤解は解けましたが、秘書らの邪推やいやがらせ、告げ口がやまないので、イヤ気がさして、公示一か月前に辞めさせてもらいました。
 もともと、東京三区で、賀屋議員の地盤をひきつぐ前提で、賀屋の秘書から石原の秘書になった経緯があって、辞職にためらいはありませんでした。
 ところが、石原は『秘書を何人もクビにしてきたが、秘書から首をきられるのは初めてだ』と怒ったそうです」

 ●被害届けを受理しない赤坂署
 押切秘書が赤坂署に被害届を提出する一方、わたしは、赤坂署にこの事件の厳重な取り調べを依頼した。
 押切は、赤坂署に「この種の傷害事件では、犯人はとっくに逮捕されているはず。犯人未逮捕どころか、事件の捜査がすすんでいないのはなぜですか」と詰め寄ったが、担当の係官は「ほかの事件で忙しくすすまない」「先方は現職議員が関係しているので」「上層部からの命令で」などと言を左右にして埒が明かない。
「共犯の清水はいつ呼ぶのですか」と聞いてもさっぱり要領をえない。
 事件への石原の関与について、内外タイムスは、わたしのコメントを載せている。
「この事件に石原先生が関与しているはずはない。石原さんはなにも知らないのでしょう」
 だが、わたしに、事件の幕を引く気はさらさらなかった。

 ●今東光和尚も仲裁を断った 
 昭和49年11月2日の内外タイムス紙の大見出しに「今東光和尚も仲裁を断った」とある。
 今東光はわたしの後援会会長である。
 週刊大衆に今東光の秘書、茎沢久孝の話が載っている。
「石原議員が、深夜、今東光先生に電話をかけてきたのは、山本峯章後援会の会長だったからで、電話の内容は、とりなしの依頼でした。穏便によろしくというものでしたが、今先生は耳を貸さなかった。すると、翌日、今度は第三者が、2人(浜鍋と清水)に詫び状を書かせるからとやってきましたが、これも断りました」

 ●住吉連合小林楠扶会長からの電話
 そんな折、一本の電話が事務所に入った。
 住吉連合小林会小林楠扶会長からである。
 小林楠扶は、住吉連合という日本最大級の任侠組織の会長で、日本青年社という右翼団体を主宰していた。
 日本青年社が、尖閣諸島上陸決死隊を結成して魚釣島に上陸、点滅式灯台を建設するのは、それから、4年後の昭和53年8月のことである。
 小林は開口一番、「石原の問題から手を引いてくれないか」という。
「暴力をふるわれて怪我をした秘書が告訴して白黒をつけたいといっているので、秘書の意思を尊重したいと答えると、小林はしばらく沈黙したあと、こう念を押した。
「等々力がいってきても聞かないつもりか」
 等々力とは右翼の大物、児玉誉志夫のことで、児玉は、世田谷区の等々力に居を構えている。
 小林の仲裁を断って、等々力の仲裁にのったら、小林の顔がつぶれる。
 やくざの世界では、相手の面子をつぶせば、血の雨が降ることになる。
「だれがいってこようとダメです。これは、わたしではなく、暴力事件の被害者であるわたしの秘書がきめることです」
 小林は、低い声で「わかった」といって、電話を切った。
 
 ●多摩川に沈めてしまうつもり?
 石原慎太郎の後援会の幹部である漆島秀幸から抗議の電話が入った。
「あなたはヤクザを使って、石原先生の秘書を痛めつけたと聞く。けしからんではないか」
 話がまったく逆で、あきれたが、そのあたりの事情を当時の内外タイムスがこう報じている。
「事実関係が逆であることを知った漆島は、石原の秘書内藤秀喜を自宅に呼びつけて、説明をもとめた。この席には、山本峯章後援会の古川亘明と塩満一が同席したが、内藤は二人の素性を知らない。
 このとき、内藤秘書はぬけぬけとこう言って、漆島の叱責をうけている。
「浜渦が個人的に気に入らないのでやったのでしょうが、押切は、殴られても仕方のないやつなのです。多摩川に沈めるという話もでたほどで」
 石原に心酔するのは結構だが、多摩川に沈めるというのでは狂気である。
 スター性のある石原慎太郎には、狂信的なとりまきや支援者がでてくる。
 第37回衆院選挙(昭和58年)の選挙活動中に、石原慎太郎の公設秘書が対立候補だった新井将敬の選挙ポスターに「北朝鮮から帰化」というシールを貼る選挙違反がおこして、新井は落選した。
 この事件は、公職選挙法違反事件として、公設秘書の栗原俊記が逮捕されたにもかかわらず、石原自身に捜査がおよぶことはなかった。
 なお、新井は、同じ選挙区で、第38回衆院選挙に出馬し当選している。
 平成10年、新井将敬は、日興証券利益供与事件への関与が疑われて、逮捕許諾決議の直後、無実を主張したのち、ホテルパシフィック東京で自殺した。
 偶然だが、新井将敬を囲む中小企業や、上場をめざす「IT企業」の集団がいまも健在で、多くが上場をはたしている。
 このグループの中心的人物とは、いまも親交があって、年に数回、相談事をもって訪ねてこられる。

 ●浜渦副知事就任に「待った」
 押切の暴行事件は、結局、告訴状が受理されず、浜鍋秘書も暴行犯の清水も不問となった。
 警察が石原の政治力を忖度した結果であろう。
 だが、この暴力事件が、後日、石原慎太郎東京都知事が推挙した浜鍋副知事の就任に「待った」をかけることになる。
 1995年に議員辞職した石原慎太郎は、4年後の1999年、東京都知事に当選。以来、4期14年の長期政権を築きあげるが、その背後にいて、石原をささえてきたのが、浜鍋副知事だった、
 浜鍋の副知事就任に、最初に、異を唱えたのが自民党都議会だった。
 秘書を副知事という公職へ横滑りさせることへの違和感にくわえて、強面の浜渦にたいする抵抗もあった。
 わたしは、押切にたいする浜渦の暴力事件を報じた内外タイムスを東京都議会(自民党)に提供すると、内外タイムスも、浜鍋の副知事就任への疑問符を続報としてつたえた。
 一年後、後に衆院へ転出するM都議が訪ねてきた。
「先生、もういいですか」
 浜渦の副知事就任について、わたしに意見をはさむ資格などない。
 だが、このとき、一言、M都議にこうつたえた。
「石原の用心棒みたいな男なので、事件をおこさなければよいがね」
 案の定、浜渦は、その数か月後、目黒駅の近くでタクシーの運転手に暴力をふるって、警察沙汰の騒ぎをおこした。
 だが、不起訴になって、事件は、やがて、忘れられた。
 不起訴になったのは、警察(警視庁)の予算は東京都の「警務消防委員会」が握っているからである。
 権力は、政治や行政と癒着しながら勢力を拡大させてゆくのである。
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2020年06月29日

わが青春譜15

 ●山本峯章後援会「山峯会」発足
 冷蔵販売車を団地に展開する「動くスーパー」で狂乱物価≠ノ挑んできたわたしは、流通機構の改革によって、物価を下げられることを知った。
 物価は、国民にとって、生活に直結する切実な問題であった。
 北方領土も日米安保も、国家にとって、大事な政治的テーマである。
 同様に、物価も、国民にとって、重要な政治的テーマで、池田勇人の「所得倍増計画」は、国民に熱狂的に迎えられた。
 所得がふえるのと、物価が下がるのでは、結局、同じことである。
 わたしは、物価を下げる運動が、国政の争点になるとふんで、政治の世界に打って出るハラをきめた。
 昭和49年の春、わたしは、大田区蒲田に山本峯章後援会山峯会の事務所を設立した。
 目的は、国会議員選挙の立候補で、初回で次点にこぎつけ、二回目で当選という青写真を描いて、活動を開始した。
 わたしの後援会(山峯会)の初代会長には、直木賞作家にして参議院議員の今東光が就いてくれた。
 今先生は、中尊寺貫主として、国宝金色堂を再建した僧正としても知られていた。
 この頃(昭和40〜50年代)、衆議院議員の選挙制度は中選挙区制で複数の議員が選出された。
 わたしが選挙事務所を構えた大田区は、東京二区で、大田区と品川区のほかわたしがうまれた三宅島の伊豆七島と小笠原諸島をかかえた日本一広い選挙区である。
 定数は5人で、ここで自民2、公明1、残りの2議席を民社、社会、共産が議席を分け合い、あるいは、争っていた。
 わたしが大田区に事務所を構えた昭和49年当時、自民党議員は、それまで常連だった菊池義郎を追い落とした石原慎太郎だけであった。
 自民党が一人となったのは、宇都宮徳馬が自民党から無所属へ転じたからである。
 わたしは、品川区に自宅を移して、品川区を中心に、後援会の組織づくりに精をだした。
 友人や知人のコネを頼りに、品川・大田両区を回ると「菊池先生の御子息が出馬しないのなら応援してもよい」という声が少なくなかった。
 菊池先生というのは、23年間、東京二区で議席を確保してきた菊池義郎前議員のことで、1972年の第33回衆議院選挙で苦杯をなめていた。
 賀屋興宣の後継者として、参議院から鞍替えして、東京三区から出馬すると噂されていた石原慎太郎が、突然、東京二区から出馬しためであった。
 菊池義郎は、引退を表明したが、後援者のあいだで、子息が後を継ぐという噂が流れていた。
 菊池義郎を支えてきたのは「白菊会」という後援会で、夫人を中心につよい結束力をもっていた。
 白菊会のメンバーの多くは主婦で、だれもが、気さくで人情家の菊池夫人を慕い、夫人の手料理、芋の煮っころがしのもてなしをうけたひとたちも少なくなかった。
 わたしの生まれは三宅島で、父母から親戚にいたるまで、八丈島出身の菊池義郎の支持者でもあった。
 当時、わたしは、自由民主党品川支部青年部長と東京都連合会(都連)青年部の中央執行委員という役職をえていた。
 都連青年部の部長は、保坂三蔵都議(のち参議院議員)で、一定の影響力をもっていたが、東京二区は広く、新人のわたしが、都連青年部の肩書きだけで当選圏内にのしあがってゆくのは容易なことではなかった。
 わたしは、白菊会のキーマンといわれた稲見秘書を訪ね、菊池夫人、そして菊池義郎先生との面談に漕ぎつけて、単刀直入に、協力を頼みこんだ。
 菊池義郎は、政界でも指折りの一本気な性格で、戦時中、時局講演会で中国大陸からの即時撤退を主張して憲兵隊に拘引され、日大教員の職を棒にふった経験をもつ猛者で、反共主義の一言居士としても知られていた。
 菊池義郎は、わたしの申し入れを快諾して、後継者指名と「白菊会」の応援をひきうけてくれた。
 わたしは、いまでも、菊池義郎先生と夫人の恩を深く胸に刻みこんでいる。

 ●パロディ狂乱物価葬儀 テレビ放映”
 昭和49年10月24日、東京大田区の池上本門寺境内で、インフレによる高物価に挑戦と謳って「物価葬儀」なるイベントを挙行した。
 祭壇の上に棺桶を置き、池上本門寺の僧侶による読経にあわせて、参加者が大根や茄子、カボチャなどの野菜を棺桶に放りこみ、高物価に決別を告げるという趣向で、白菊会の会員が中心に、エプロン姿の主婦1500人以上が参加した。
 模擬葬儀のあと、産直野菜の大安売りをおこなうこのイベントは、マスコミからも注目された。
 ▼読売新聞(夕刊)は、写真2枚付きの報道で、見出しにこうある。「本物の棺桶に大根やキャベツ、人参などをどっさりつめて/生鮮食品狂乱物価葬儀/本日急逝いたしました」「式の後は産地直送の野菜十数トン/主婦ら約1500人」(昭和49年10月24日)
 ▼東京新聞は「ストップザ狂乱物価/生鮮食品葬儀」というタイトルに記事がこうつづく。「東京大田区の池上本門寺境内で同日午前9時半から狂乱物価の告別式と青森農協とのタイアップによる産地直送野菜の安売りがおこなわれた。
 境内に設けられた祭壇には棺桶や「狂乱物価」と戒名が書かれた位牌、「貧困者一同」から贈られた花輪などが並べられ、賛同者として「傍観者代表―橋本自民党幹事長、なにもできないしない代表―美濃部東京都知事、評論家として各党幹事長の名前が貼りだされていた」(10月24日)
 ▼週刊大衆は「狂乱物価葬儀/安いことはいいことだ」という見出しに写真2ページをもちいて「おちゃらかしの葬儀は、物価問題に無策の政府・野党をひっくるめてからかおうという挑戦的な内容」(11月14日号)と評価した。
 そのほか、いくつかのメディアが好意的に報じてくれたため、池上本門寺を舞台にした狂乱物価阻止♂^動は、一応の成功をおさめることができた。

 ●フジテレビ「三時のあなた」にゲスト出演
 狂乱物価に無策な政府の無策を批判した池上本門寺の狂乱物価葬儀は、フジテレビ「三時のあなた(司会/扇千景)でもとりあげられた。
 同番組にゲスト出演したわたしと小渕恵三(のち総理大臣)は、狂乱物価の原因となっている産業構造や流通機構について、意見を交し合ったが、小渕とわたしは、のちに、田中角栄の政策研究会「新総合政策研究会」で一緒に学ぶこととなる。
 別項でのべるが、三宅島の「官民共用空港問題」でともにうごいた山下元利(防衛庁長官)もこの研究会で出会い、意気投合した仲である。
 2人とも故人になって、久しいが、このお2人ばかりか、かつで、自民党を築きあげた功労者で、存命されている方たちは、年々、少なくなってゆく。

 ●「山本さん 最近の右翼はどうかね」と田原総一朗
 右翼活動家の前歴を捨て、国会議員候補あるいは政治評論家としての活動を本格化させはじめたわたしにとって、右翼という呼称は、ありがたいものではなかった。
 右翼活動を否定するものではないが、国政選挙や社会運動、テレビ出演には決定的に不利にはたらく。
 世間は、不正が目に余ると、右翼はなにをやっているのかと待望論をのべるが、右翼を善良で小市民的な国民と同列に見ているわけではなかった。
 むしろ、国民にとって、牙や毒のある存在で、だからこそ、右翼には、存在価値があるともいえるのである。
 わたしは、のちに、川崎敬三の「アフタヌーンショー」など多くのテレビやラジオの番組に出演させてもらうことになるが、田原総一朗が司会する「サンデープロジェクト」にも、ゲストとして、10回以上、呼ばれている。
 番組が終了すると、テレビ朝日の近くの全日空ホテルで、出演したゲストやスタッフが食事をしながら雑談する。
 反省会と慰労会を兼ねたような集まりで、スタジオとはちがってなごやかな雰囲気である。
 とつぜん、田原が、テーブル越しに、大声でわたしに声をかけてきた。
「山本さん 最近の右翼はどうかね」
 まるで、景気の動向でもたずねる調子で、これでは、返答のしようがない。
 右翼をまともにとりあげるなら、議題に掲げて、左右から大論陣を張るべきテーマで、食堂の片隅で、もののついでにもちだしてくる問題ではない。
 勘が鋭いジャーナリストの田原がそんなことに気づかないわけはなかった。
 周囲には、番組スタッフや他の出演者がいて、田原に注意をむけている。
 田原のことばから周囲につたわったのは、山本峯章が右翼の関係者であるということだけで、おそらく、田原の意図もそこにあったのだろう。
「田原さん、右翼動向が知りたければ、あなたの友人の野村秋介さんに聞いてはいかがか。最近の右翼のことなど、わたしが知るわけがない」

 ●小渕恵三と「金丸事件」
 このとき、わたしの隣に座っていた小渕恵三が、気まずい雰囲気を察したのか、他に用件があったためか、「出ましょう」とわたしをうながした。
 小渕とわたしは、同じ全日空ホテルの喫茶店に入った。
 小渕がわたしを喫茶店に誘ったのは、当時、小渕は、自民党をめぐる大きな問題に頭を悩ませていたからだった。
 金丸信副総裁が東京佐川急便から5億円のヤミ献金をうけていたとされる「金丸問題」であった。
 竹下派内では、裁判で徹底抗戦を主張する小沢一郎と、略式起訴での決着を主張する梶山静六が対立して、派閥分裂に危機に瀕していた。
 小渕の相談は、マスコミ対策で、金丸と一心同体の竹下派も、明確な方針が立っているわけではなかった。
「マスコミにはノーコメントでおしきるべきです。なにかいえば、誤解や曲解をまねき、あるいは、真意をねじまげられて、口は災いの元ということになりかねません」
 金丸事件は、上申書提出と20万円の罰金刑ですんだが、小沢一郎が自民党から去って、1955年の保守合同以後、38年におよんだ自民党の長期単独政権に終止符が打たれることになった。
 小渕恵三内閣(第一次)は、細川護煕から羽田孜、村山富市、橋本龍太郎とつづいてきた保革連立から脱した5年ぶりの自民単独政権だったが、総理大臣在任中、小渕恵三は、この世を去った。
 小渕は、総理大臣のとき、わたしが談合事件の黒幕と朝日新聞に誤報された折、共通の知人をとおして「心配している」というあたたかいことばをつたえてくれた。
 総理大臣の役も終えたらゆっくり会うことができるだろうと期待していたのだが、それもかなわぬ夢となった。

 いつの日か またあいみむと 契りたる
     君の訃報の 聞くは侘しき


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2020年06月24日

 わが青春譜14

 ●流通機構改革「動くスーパー構想」
 列島改造景気によるインフレや地価上昇、オイルショックによる消費物価の高騰は、当時、狂乱物価といわれて、社会問題化しつつあった。
 経済成長率が年平均10%をこえ、石炭から石油への転換(エネルギー革命)や石油化学コンビナートなど大型化、合成繊維やプラスチック、家庭電器など各種の技術革新やモータリゼーション、スーパーマーケットなどの流通革命もすすんだ。
 経済成長はゆたかな国民生活をもたらしたが、一方、物価上昇や大都市圏の過密と農村などの過疎、そして、公害などの負の遺産もうんだ。
 忠岡とわたしがめざしたのは、旧態依然たる流通機構の改革で、生鮮三品を中心とした産地直売だった。
 冷蔵車による移動販売だったところから「動くスーパー」と名乗った。
 いまでは、別段、珍しいことではないが、昭和40年代には、まだ、前例のない目新しい発想であった。
 日産自動車と冷蔵販売車の委託契約をおこない、取引銀行を大和銀行ときめて、始動体制を整えた。
 昭和48年10月1日に制定された大規模小売店舗法によって町の商店街に大型スーパーの出店がはじまった。
 これらのスーパーにも、一部、野菜などの産直を目玉とするところもあったが、流通経路の簡素化までには至らず、狂乱物価の沈静に大きな役割は果たすことはできなかった。
 戦後、再建された生協(CO・OP)も、消費者が組合員に共済事業であるが、産直などにつながる大きな動きはなかった。

 ●酒は値切って買う?
 明治以降、日本の国税の主たる対象は、塩・酒・タバコである。
 塩やタバコは、かつて、専売公社が元締めで、公定価格だった。
 酒税も、国家の重要な税収の一つで、国税庁から「酒類の販売事業免許」の許可をとらなければ、販売することはできない。
 わたしと忠岡は、蔵出しの時点で課税される酒が、流通過程では自由価格であることに着目した。
 現在、酒の販売は、完全自由化されてコンビニでも買える。
 だが、40年代は、酒類の販売業免許はきびしく、販売免許はかんたんには下りなかった。
 そこで、免許をもっている知り合いの酒屋を口説いて、出張販売であつかう酒を卸してもらうことにした。
 そして、自由価格で販売して、このとき、「酒は値切って買いなさい」というキャッチフレーズを謳った。
 狙いは、消費者に「流通を簡素化すれば物価が下がる」という認識をもってもらうためだった。
 仕入れた酒(日本酒のみ)をライトバンに積んで「物価高に挑戦!」という旗を立てて、わたしたちは、団地に乗りこみ、日本酒の安売りを開始した。
 酒は公定価格と思っている主婦の多くは、酒屋で酒を値切るなど思いもよらなかった。
 売り口上で、蔵出し酒税の仕組みを教え、日本酒が自由価格で買えることをつたえ、「今晩は二級酒の値段で、旦那に一級酒を飲ませてあげてください」とうったえると、ライトバンに満載してきた酒がたちまち売り切れた。
 あるとき、団地で、日本酒を安売りしていると、国税庁の役人があらわれた。
「免許はあるのか」と聞く。
 わたしは、友人の酒屋の免許で、出張販売をやっていると応えた。
 国税庁の役人は、出張販売にも許可が必要というが、申請しても許可がでるはずはなかった。
 押し問答しているうち、集まっていた主婦が役人に「帰れコール」を浴びせはじめた。
 どうやら潮時で、これ以上役人に逆らえば、友人の酒屋に迷惑がおよぶ。
 わたしたちは、ライトバンの出店をたたんで、団地から引き上げた。
 酒税は、国家の三大税源の一つで、役所によって完全に保護されている。
 翌日、事務所にやってきた酒屋の友人が、国税事務所から、きついお叱りを受けたとこぼした。
「免許取り上げられると店が潰れてしまうよ」と青息吐息である。
 わたしは、国税庁に顔の利く代議士に頼み、始末書を提出して事なきをえた。
 挑戦は挫折したが、物価高への抵抗運動については、十分に手応えがあった。
 旧い流通体制を改革することは簡単なことではない。
 因習やなれあいに利権構造が複雑にからんで、排除には相当の抵抗がある。
 必要なのは、意識改革で、消費者が立ち上がらなければなにも変わらない。
 続いて、肉の流通に挑戦した。東北で購入した牛を解体処理後、流通経路を省略して、店頭販売する計画だった。
 ところが、埼玉でも東京でも、解体処理場が仕事をうけてくれない。
 同和と称する者から、事務所に「われわれの商売を潰す気か」と脅迫電話が入るなど、嫌がらせもあった。
 肉の流通は閉鎖的な体質で、これが、改善されたのは、自由化などの流れにそって、消費者が立ち上がったからである。
 現在は、国内の流通機構も改革され、外国産の牛・豚・鶏が安く輸入されるようになって、市場は、当時では、想像もできないほど開放的になっている。

 ●動くスーパーが不渡り
 酒や肉の流通に取り組んでいた動くスーパー社に大きな災難が降りかかってきた。
 不注意から手形の不渡り事故をおこしてしまったのである。
「動くスーパー社」は日産自動車と冷蔵販売車の改造契約を結んでいた。
 車両数は、業務の拡張に合わせて、今後、数十台にもなる予定だった。
 不渡り事故というのは、日産自動車に渡してあった手形の決済期日に当座の預金残高が不足していたのである。
 忠岡は、普通預金に残高があるので安心していたというが、当座は不足していた。
 このようなケースでは、担当者が連絡をとって、普通口座から当座への資金移動を指導する。
 普通口座から当座預金に資金を振り替えればそれで済む話だからである。
 ところが、取引銀行の大和銀行本店は、忠岡に電話さえよこさなかった。
 そして、銀行に責任はないという一点張りである。
 銀行は、大蔵省の管轄下にあって「動くスーパー社」は、流通機構改革運動で国税庁に喧嘩を売り、肉その他の流通機構改革における法規の解釈や手続きで、役所としばしば悶着をおこしている。
「動くスーパー社」は、権力にとって、目の上のこぶだったのである。

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 わが青春譜13

 ●反共運動前線を去る
 昭和40年代になって、左右の思想的対決に大きな変化が生じる。
 60年安保における左陣営の大衆動員や右翼団体から暴力団まで駆り立てた右陣営の反共戦線が鳴りをひそめて、政治的無風状態がうまれるのである。
 理由の1つは、左右対決の焦点となるべき日米安保条約が自動延長となったためで、左陣営は、日米安保反対を煽って、大衆を動員する争点を失った。
 左翼が沈静化すれば、右陣営も、反共戦線を立てる必要はなかった。
 もう1つの理由は、かつて、安保闘争の主役を演じた全学連が過激派へ変容したことで、学生運動は、国民から遊離した犯罪グループへ転落していった。
 一連の極左暴力事件やゲリラ的な70年安保闘争、学園闘争は警察力で十分に対応できた。
 70年安保で、反代々木系といわれた極左暴力集団は、右翼(反共団体)と衝突するまでもなく、結局、40年代末には自滅してゆく。
 全学連の分派活動の一つにすぎなかった学園の民主化闘争も収束する。
 生き残ったのは、議会主義と平和路線を唱えた日本共産党だけだった。
 天皇や憲法、自衛隊などの問題を棚上げして、革命政党としての正体を隠しているが、日本共産党は、民主主義革命と共産主義革命の「二段階革命論」を唱える革命政党で、いまもなお、破防法における調査対象団体の指定をうけている。
 といっても、日本で、革命がおこる可能性はなく、日本共産党は、反自民のもとに群れる野党勢力の一つにすぎないものになっている。
 戦後体制の残滓、極左暴力革命の危機を回避して、日本が、高度経済成長にむかったのが、所得倍増計画の池田勇人内閣(1960年)からで、池田からはじまる経済優先政策は、その後の佐藤栄作内閣を経て、田中角栄内閣の列島改造論で大きな山場を迎える。
 田中角栄の列島改造計画で日本中がわき立ち、マスコミは、角栄を今太閤ともちあげた。
 国民が目をむけたのは、日米安保や沖縄返還、日中国交回復などの政治課題より、経済問題で、そのなかで、池田勇人の所得倍増計画と並んで国民の心をとらえたのが、田中角栄の列島改造計画だった。
 列島改造景気によって、高速道路や新幹線、本州四国連絡橋、地方の工業化促進候補地が脚光を浴びることになったが、これらの地域で、投機家によって土地の買い占めがおこなわれて、1973年には、インフレや物価上昇などが社会問題化した。
 政府は「物価安定七項目」を打ち出すなど、生活関連物資などの買い占めや売り惜しみ対策を取ったが、インフレはいっこうに収まらず、家計をあずかる主婦はやりくりに悩まされた。
 そのさなかにおきたのが「狂乱物価」で、原因は、第四次中東戦争が発端になったオイルショックだった。
 この頃、むつ小川原開発選挙で行動を共にした忠岡とわたしが、流通革命というべき「動くスーパー」構想を立ち上げたのは、福田赳夫が命名したという「狂乱物価」に挑戦するためだった。
 現在なら、珍しくもない「産地直送」だが、当時は、まだ、流通機構が保守的で、狂乱物価という社会現象に正面からとりくむ機運もなかった。
 わたしは、40年から45年まで、一流の講師を招いて、講演会を主催する大衆啓蒙運動をおこない、45年からは、西山幸輝からひきうけた昭和維新で実践的な政治運動を展開してきた。
 わたしは、反共運動から身をひき、大衆に密着したソフトな社会運動へ方向転換するため、昭和維新連盟の会長を薗田新に譲って、港区赤坂に新たに事務所を構えた。
 昭和48年の初頭で、忠岡とともに流通機構改革運動にとりくもうというのである。


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2020年06月04日

わが青春譜12

 ●むつ小川原開発の影武者
 昭和48年初秋、わたしの事務所に、小川原湖温泉社長の忠岡武重が訪ねてきた。
 忠岡は、わたしの旧い友人で、青森県の小川原湖の湖畔で温泉宿を経営しているが、旅館のほうは人任せで、本人は東京に住んでいる。
 のちに、わたしと共に社会事業をおこなうことになるが、その件については後述しよう。
 このとき、わたしは、忠岡から、六ヶ所村の村長選挙への協力を頼まれる。
 六ヶ所村は、田中角栄の日本列島改造論で、一躍、有名になったむつ小川原開発の中心となった地区で、現在、原子燃料サイクル施設などの原子力施設や国家石油備蓄基地、風力発電基地などエネルギー関連施設が集中している。
 だが、当時は、ワカサギやシラウオなどの漁獲量が豊富な小川原湖を擁する以外、これといった売り物がない、青森県下北半島の太平洋岸に位置する半農半漁の村でしかなかった。
 忠岡の話によると、開発賛成派と反対派がしのぎをけずっている村長選挙の背景には、自民党がすすめてきた新全国総合開発計画という国家プロジェクトがあるという。
 六ヶ所村は、国・自治体・財界が一体となった大型の国家事業(新全国総合開発計画)における苫小牧に次ぐ目玉で、村長選で開発推進派が負けるようなことになれば、当時、数兆円規模といわれたむつ小川原開発が後退して、六ヶ所村は、経済発展の恩恵に浴することができない。
 六ヶ所村村長選挙が、開発計画に大きな影響をあたえるとあって、提唱者である自民党が全力をあげると思いきや、忠岡の話では、かならずしもそうではなかった。
 忠岡は、わたしに、ある財界人に会ってもらいたいという。
 忠岡に案内されたのは東京駅の近くにある日本ビルディングに入居している「むつ小川原開発株式会社」という第三セクター(官民共同事業体)だった。
「新全国総合開発計画」におけるむつ小川原開発は、トロイカ方式と呼ばれるもので、財団や企業らが土地買収と工業用地の造成分譲、計画や調査の業務をそれぞれ分担しあっている。
 むつ小川原開発株式会社の資金30億円も、北海道東北開発公庫と青森県が50% 残る50%は経団連傘下の150社の共同出資によるものだった。
 社長室で待っていたのはむつ小川原開発の社長をつとめる安藤豊禄(元小野田セメントの社長)だった。
 長年、経団連の理事をつとめている財界の大物だが、気さくで率直、驕ったところがなかった。
 忠岡と安藤のやりとりから、六ヶ所村の村長候補の一本化に難航しているとわかった。
 安藤が忠岡にたずねた。「県連(自民党青森県連)で調整できないものだろうか」
 村長選で開発推進派が負けるようなことになると、大幅な計画縮小どころか六ヶ所村の開発計画が頓挫しかねない。
 忠岡と安藤の懸念はそこにあった。安藤がずばりと切りこんできた。
「あなたは中川さんと近いとうかがっているが」
 安藤がいう中川とは衆議員議員の中川一郎のことである。
 だが、福田に私淑する中川は、福田の緊縮財政論に近く、大規模開発による土地価格の高騰やインフレを招く田中角栄の積極財政には批判的だった。
 一方、中川は、青嵐会の代表として、多くの右派議員に支持されている実力者で、将来の総理候補として頭角をあらわしつつあった。
 安藤から、直接、協力をもとめられて、わたしは、忠岡と共に開発推進派の力になろうと意を決めて、その日、むつ小川原開発株式会社を後にした。
 
 ●出稼ぎ村 むつ小川原六ヶ所村
 青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備する計画がもちあがったのは昭和30年代末頃だった。
 その計画が、昭和四十四年五月 田中角栄内閣の「新全国総合開発計画」として閣議決定されて、実行段階に移された。
 対象地域は、むつ市やなど16市町村におよんだが、開発の中心は、青森県の下北半島太平洋岸に位置するむつ小川原港の六ヶ所村が中心であった。
 六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所、火力発電などを建設する世界最大の開発といわれたむつ小川原開発計画は、石油危機などによって、縮小を余儀なくされる一方、原子力関連施設が進出してきて、今日のすがたになった。
 開発の中心となった六ヶ所村や周辺の地域は、半農半漁で、毎年2〜3千人の人々が、家族と離れて、出稼ぎで現金収入をもとめる土地柄であった。
 秋の刈り入れが終わると、家族と別れて都会へ出稼ぎに行き、春の雪解けに帰って、田植え作業するケース、一年をとおして出稼ぎに出るケースと事情はさまざま異なっても、この時代、むつ小川原および六ヶ所村は、貧しい北国の出稼ぎの村であった。

 どじょっこやふなっこが遊ぶ 雪解けに
      おどうは帰る 手みやげもって


 ●戊辰戦争で敗れた会津の斗南藩
 青森県の東北部、下北地方に位置するむつ市は、かつて、斗南藩と呼ばれた地域と重なる。
 斗南藩は、戊辰戦争に敗れて、領地を没収された会津藩が再興をゆるされて移住した藩で、多くの旧藩士が移住して開墾にあたったが、痩せた土地と寒冷による不作や飢饉によって、多くの死者を出し、次第に離散していった。
 北辺の地で、薩長政府への復仇を誓って斗南「南(薩長)と斗(戦)う」と名乗った斗南藩士だったが、その誓いはたっせられなかった。
 その後、明治4年の廃藩置県で斗南県となったが、同年九月、青森県に編入されて、その名も消えた。
 廃藩置県が敷かれても、戊辰戦争で朝敵となった会津藩士が住む北の果てに薩長政府の恩恵はおよぶことがなく、文明開化と呼ばれる近代化もこの地には無縁だった。
 むつ小川原開発計画は、明治維新以降、時代から取り残されて、半農半漁と出稼ぎで成り立っていた斗南という因縁の地にようやく訪れてきた恵みの風であった。

 尊皇の 武士共(もののふ)が 朝敵と
    なりておちゆく 北の地の果て


 ●開発派、選挙とリコールで敗ける
 出稼ぎという労働形態から抜け出して、一年をとおして、家族がいっしょに暮らせる環境をつくるのが六ヶ所村の願いで、青森県政や県議会も同じ思いをもっていたのはいうまでもない。
 昭和44年5月30日、列島改造論にもとづく田中角栄の「新全国総合開発計画」が閣議決定されると、開発地区に指定されたむつ小川原および六ヶ所村はわきたった。
 ところが、左翼が、むつ小川原および六ヶ所村開発の反対に回った。
 左翼の反対は、正当な根拠や理由にもとづくものではない。
 反対が先にあって、これを合理化するために、根拠や理由をこじつけるのである。
 むつ小川原および六ヶ所村開発反対の理由が、企業公害であった。
 誘致された企業が廃液を垂れ流して、人間が住めないほど自然が破壊されるというのである。
 昭和44年12月、六ヶ所村の村長選挙がおこなわれた。
 六ヶ所村助役と自民党県連事務局長の一騎打ちとなったが、助役の寺下力三も県連事務局長の沼尾秀夫も同じ保守系で、開発問題について、両者に大きな見解のちがいはなかった。
 選挙の結果、寺下力三が当選した。
 ところが、選挙が終わると、寺下が反対派に豹変して、開発反対をうったえるという想定外の事態が発生した。
 これに呼応して、反対派が、六ヶ所村開発反対同盟を結成すると、賛成派も立ち上がって、六ヶ所村は、開発反対同盟と開発賛成派が対立する政治闘争の場と化していった。
 三宅島の防衛施設庁の官民共同空港誘致や新島ミサイル試射場設置闘争でも経験したことだが、住民をまきこんだ政治闘争には、左翼(日本共産党ら)がオルグ団を送りこんでくる。
 デマゴギーで住民を煽るなどは序の口で、思想的洗脳やイデオロギー教化をおこない、その結果、地域のみならず、親子や兄弟までが対立するハメになる。
 雑誌『世界(1986年6月号』)に鎌田慧が「暗躍するフィクサー」という記事(183〜196P)でわたしを誹謗しているが、鎌田は成田空港闘争の当事者で「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめる左翼作家である。
 その鎌田の著作に『六ヶ所村の記録』というノンフィクションがある。
 同書の内容紹介に「冷害や凶作が相次ぐ不毛の土地、下北半島の六ヶ所村に次々とみまう開発の波」とある。
 これが左翼の論理で、開発で多くの人々がうける恩恵には目をむけず、自然破壊という大衆受けするスローガンを立てて、貧しさや後進性から抜けだそうとする人々のねがいを踏みにじるのである。
 左翼オルグ団は、選挙が終わると、六ヶ所村を去って行く。
 あとに残るのは、イデオロギー対立の傷痕と両派の不信と憎しみ、反目だけである。
 左翼は、村民の対立を煽り、闘争実績を誇るが、あとは野となれ山となれの論理で、村の発展や人々の幸などは端から眼中になかった。
 反対同盟は、社会・共産両党に公明党をくわえた野党共闘体制に青森県下の労組や公害反対をスローガンとする左翼系の団体が総動員された磐石の体制であった。
 これに対抗するのが自民党県連と六ヶ所村の「五派協議会」だった。
 左右対立構造のなかで、賛成派村議による寺下村長のリコール運動がおきたが、結果は、小差で開発派が負け、反対運動に勢いがついた。

 ●一本化ならずば青嵐会動けず
 昭和48年にはいって、村長選挙(12月)の運動が加熱してきた。
 むつ小川原開発は、田中内閣が政治生命をかける国家的な大事業である。
 村長選は、その成否を左右しかねない大事な選挙である
 自民党青森県連にとっても、是が非でも、勝利をもぎとらなければならない小さい村の大きな選挙だった。
 だが、障害が立ちはだかった。
 共に賛成派の沼尾秀夫と古川伊勢松が互いに一歩も譲らないのである。
 候補を一本化しなければ、反対派に漁夫の利を奪われるのは目にみえている。
 だが、地元の有力者で、共に多くの公職に名を連ねる著名人である両人とも譲る気はなかった。
 背景にあるのが、青森県県政における二大派閥の勢力争いだった。
 一つは、知事とその子息である衆議院議員竹内黎一(県連会長)が形成する多数派の竹内派である。
 もう一つは、小派閥ながら、大平派の幹部で、中央政界で大きな力をもっている田沢吉郎衆議院議員の影響をうけるグループである。
 青森県政では、竹内派と田沢グループが主導権争いをくりひろげていた。
 県連は、48年6月頃から、一本化工作にのりだしたが、難航した。
 結局、竹内派と田沢グループの調整がつかないまま村長選挙を迎えるはめになる。
 わたしと忠岡は、のちに知事となる北村副知事やむつ小川原地方を選挙地盤とする菊池・岡山両県議と幾度か会って、候補一本化の案を練った。
 この選挙に負ければ、貧困や出稼ぎによる家族崩壊など、六ヶ所村の悲劇が将来へもちこされることになる。
 当時、ケガで松葉杖をついていた北村副知事も、菊池・岡山両県議も悲壮な覚悟で候補の一本化にあたったが、沼尾・古川両候補は一歩も譲らず、ついに11月25日の告示日を迎えることになる。

 ●中川一郎(青嵐会)と密議
 忠岡がわたしを訪ねてきて、「むつ小川原開発会社」の安藤豊禄社長に会った折、青嵐会代表の中川一郎代議士の名が出たのは、わたしが、中川と個人的に親しかったからだった。
 わたしが、この件で、中川一郎議員に協力をもとめたのはいうまでもない。
 六ヶ所村は、国家的事業である田中角栄の「列島改造論」の目玉というべきむつ小川原開発の中心地である。
 むつ小川原開発の浮沈がかかっている六ヶ所村の村長選挙が、自民党はむろんのこと、自民党若手中堅議員の集まりである青嵐会の関心を呼ばないわけはなかった。
 だが、青森県連では、竹内黎一と田沢吉郎という地元選出の2人の国会議員が、長年、勢力をもっていて、自民党本部も、普通選挙法の原則から、うかつに干渉することができない。
 まして、青嵐会が、青森県連の意向を無視してうごくわけにはいかなかった。
 そもそも、候補が一本化されていない以上、応援にかけつけることすらできないのである。
 沼尾と古川という保守系両候補の背後にいるのが、竹内と田沢の派閥だった。

 ●出稼ぎ労働者に投票を
 わたしと忠岡らがすすめてきた保守系候補の一本化は暗礁にのりあげた。
 あとは、保守系候補のどちらかを勝たせる次善の策に頼るほかなかった。
 開発反対派を退けるには、開発推進派の共倒れという最悪の事態を避けなければならないのである。
 立候補は3人である。
 寺下力三郎(現職反対派)
 沼尾秀夫(保守賛成派)
 古川伊勢松(保守賛成派)
 寺下力三郎には、全野党が反対同盟をつくって、労組らの支援体制も万全であった。
 開発賛成派は、開発反対派の優位に立っているが、候補者が2人に分裂しているので、2位、3位となって、1位を開発反対派に奪われる。
 下馬評は、寺下力三郎が当選で、次点が古川伊勢松だった。
 賛成派の村議21人のうち、沼尾支持派が8人 古川支持派が13人だった。
 反対派を退けるには、古川伊勢松に勝たせる以外、方法はなかった。
 わたしは、中川一郎と知恵を絞って、一つ、妙案を思いついた。
 投票日に、2〜3千人といわれる出稼ぎ人の一部を一時帰郷させるというアイデアだった。
 六ヶ所村の村長選において、2〜3千人有権者数は圧倒的である。
 そのうち一部が帰郷しただけで、現職反対派の寺下力三郎の優位がひっくり返る。
 当初、忠岡とわたしが現地に入って、選挙運動をする計画もあったが、身内意識がつよい村組織のなかで、よそ者が画策すれば、かえって、反発をまねきかねなかった。
 それに比べると、出稼ぎ人の一時帰郷は、灯台下暗しの名案だった。
 青森にもどって、忠岡の小川原湖温泉ホテルで会議を持ち、菊池県議や岡山県議らに表の選挙対策本部を任せ、わたしと忠岡は裏選対≠ノあたることとした。
 裏選対というのは、出稼ぎ人を一時帰郷させ、投票用紙に古川伊勢松の名を書かせることである。
 むつ小川原開発は、第三セクターで、株主が、国や県、財界(150社)の三者で構成されている。
 六ヶ所村村長選の勝敗は、株主であるゼネコンの利害を大きく左右する。
 わたしは、ゼネコン各社に赴いて、12月の投票日に、出稼ぎ人帰郷させるよう説いて回った。
 そのなかで、とりわけ協力的だったのは、国際興業の小佐野賢治社主だった。
 北海道や東北で鉄道やバスなどの運輸交通事業を営む国際興業は、不動産や土地開発にも力を注ぎ、むつ小川原の開発予定地に大規模な投資をおこなっていた。
 小佐野は田中角栄の盟友でもあり、大手ゼネコンにも人脈をもっている。
 六ヶ所村の村長選で古川が落選すれば、開発の縮小や延期を免れないばかりか、投資効果が下がって、むつ小川原開発の株主でもあるゼネコンにとっても大きな損失となる。
 出稼ぎ人に一時帰郷にめどが立って、あとは、投票用紙に「古川伊勢松」と書かせるだけだったが、出稼ぎ人は、もとより、開発に賛成で、なにより、開発反対派の当選をおそれていた。
 12月2日 投票の結果、古川伊勢松が当選した。
 獲得票は2566票で、反対派の寺下力三郎と79票の差であった。
 3位の沼尾の得票1683票と合わせると、賛成派が、全村民の3分の2を占めたことになるが、それにしても、2位の寺下との差がわずか79票だったことを思うと薄氷の勝利だったといえよう。
 こうして、田中角栄の列島改造論で最重要政策だった巨大開発「むつ小川原開発」は開始された。
 
 武士(もののふ)の大義に奉じた 子孫らに
      文明開化の音 いま聞こゆ


 ●むつ小川原開発の影の部分
 月刊誌「二〇世紀」(昭和49年2月号)に「むつ小川原開発の影の部分」という特集記事があって、ジャーナリストの猪野健治が執筆している。
 記事には小見出しが五本立っている。@出稼ぎ村の悲劇A着々進む土地買収B一本化ならずCきらわれた外人部隊D古川支援の影武者――である。
 猪野は、忠岡に取材をかけて、わたしの情報にかんしても、忠岡談となっている。
「古川氏を支援した開発派の忠岡武重氏(むつ小川原湖温泉社長)が舞台裏をぶちまける」とあるのは、六ヶ所村村長選の古川当選が、当時、売れっ子ジャーナリストだった猪野の意表をつくものだったからであろう。
 忠岡は、遊説中のわたしとむつ小川原で出会ったとのべているが、なにかのまちがいで、忠岡とわたしは、旧知の間柄にあって、共に、むつ小川原開発の安藤豊禄社長のほか多くの政界人や財界人と会っている。
 そして、この選挙ののちも、共同で、流通機構改革運動に取り組んでいる(別の項で述べる)。
 忠岡はこうのべている。
「古川・沼尾の一本化工作については、山本さんをとおして、古川支援工作をN先生にお願いした。N先生は青嵐会にはたらきかけ、青嵐会は、古川支援をきめた。ここまでが第一段階です」
 N先生とは中川一郎衆議院議員である。
 記事にはこうある。
「N先生は、忠岡氏に青嵐会の渡辺美智雄、浜田幸一氏らを引き合わせているが、渡辺氏らは、その際、候補を一本化した上て、青森県連の要請があれば」と古川支援に条件を付けた。
 しかし、前述したように、県連の一本化工作は失敗に終って、ビラまでつくりながら青嵐会の古川支援は実現しなかった。

 ●なにもしなかった自民党
 記事にはこうある。
「山本峯章氏は、青森県連に、幾度か足を運んで、候補の一本化をと要請したが、県連には、危機感がなく、山本氏はあきれた」
 危機感がなかったのではなく、青森県連には、打つ手がなかったのである。
 忠岡はこう続ける。
「N先生は国際興業東北グループにはたらきかけ六ヶ所村出身者の帰郷運動をやってくれた」
 これも、忠岡の誤認か猪野の曲解で、N先生こと中川一郎は、わたしの人脈で、国際興業と数社のゼネコンに六ヶ所村出身者の帰郷運動をはたらきかけたのはわたしである。
 国際興業は、第三セクターの株主ではなかったが、むつ小川原開発に多大の先行投資をおこなって、大きな利害関係を持っていた。
 わたしは、これに目をつけて、小佐野を口説いたのである。
 そして、出稼ぎ者にジェット機で帰郷してもらい、投票させるという奇策を実行に移すのである。
 猪野はこう分析する。
 実際、自民党は、この選挙でほとんどなにもしなかった。竹下登副幹事長が来県しているが、これは参院に出馬する鳩山威一郎、佐藤信二両氏の表割りの根回しのためであった。
 そして、猪野は、最後に、わたしのコメントでしめくくる。
「むつ小川原開発は新全総―列島改造論にもとづく巨大開発であり、その成否は、自民党―田中内閣の浮沈にかかわるものだ。県連段階で調整がつかなければ総裁権限で候補一本化をはかってでも必勝を期するべきだった。田中総理はそれをしなかった。勝ったからよかったものの負けていたら、青森県連などは総辞職ものだ。いい加減にしろといいたい」
 六ヶ所村の村長選挙は、薄氷の勝利で、選挙態勢はお粗末の一言につきた。
 自民党本部から、多くの代議士が青森県連に馳せ参じたが、候補の一本化ができなかった県連は、選対本部も設置できない有様だった。
 象徴的だったのが、自民党佐藤寿県議が宣伝カーで、開発推進候補へ投票を呼びかけた珍光景である。
 これでは、有権者は、二人いる開発派のどちらに投票すればよいのかわからない。
 投票開票が終わったその夜、地元の有志の家でささやかな祝杯を挙げた。

 北国の ことば訛りは あたたかき
    いろり囲んで じょんからを謡う 


 あれから50年、今でも菊池県議のご子息 菊池茂さん、青森市の町田さんから地元の名産を送ってこられる。人情衰えずである。

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2020年05月25日

わが青春譜11

 ●連盟会長を継いでくれないか
 西山幸輝から、昭和維新連盟の会長をひきうけてもらえないかと相談をもちかけられた。
 昭和44年の春のことである。
 西山は、政治結社「昭和維新連盟」のほか、財団法人「日本政治文化研究所」や出版事業「日本及日本人社」などの文化的事業を手がけており、大学教授や評論家、作家ら多くの文化人が研究所や財団の理事や顧問を務めていた。
 昭和維新連盟は、反共と国体護持を旗印にする実践的な右翼団体である。
 昭和維新連盟が、学者や文化人がくわわっている「日本政治文化研究所」や「日本及日本人社」の関係団体というのでは、世間の通りがよくなかった。
 西山が、昭和維新連盟から距離をおこうとしたのは無理からぬことであった。
 西山がわたしに白羽の矢を立てたのは、新島闘争と安保闘争を体験してきた経歴をふまえてのことだったと思うが、わたしにも、反共・尊皇思想をきわめたいという気概があった。
 わたしは「日本政治文化研究所」の理事と「日本及日本人社」の役員を辞任して、いわば、身一つとなって、政治運動にのりだしてゆく。
 昭和維新連盟は、新宿大久保通りに面したビル(科研ビル)ワンフロアーを借りきって、そこへ本部を移して、活動を開始した。
 昭和維新連盟の活動については、いずれのべるが、ここでは、独自の活動を展開する異色の存在だったとだけ記しておく。
 この時点で、昭和維新連盟は、三浦義一が顧問をしていた全日本愛国者団体会議(全愛会議)から37年の独立した青年思想研究会(青思会)に加入していた。
 青思会は、児玉誉士夫の影響がつよく、児玉軍団といわれた。

 ●西山、児玉門下に馳せ参じる
 昭和46年4月10日、三浦義一が逝去する。
 三浦の葬儀を終えた数日後、西山幸輝から食事の誘いがあった。
 財団や雑誌社を退職して以来、久々の邂逅であった。
 その席で、わたしは、西山から、思いがけないことを聞かされる。
 三浦義一が、生前、じぶんが死んだ後、児玉誉士夫に相談しなさいといっていたというのである。
 わたしは、三浦義一門下であることを誇りに思っていた。
 昭和維新連盟をひきうけたのも、心のどこかに三浦義一の反共・尊皇思想があったからで、わたしの右翼思想の根幹に三浦がいたことを否定できない。
 西山も、わたし以上、三浦にたいして畏敬の念をもっているはずだった。
 その西山が「児玉門下となる」という。
「三浦義一亡き後、児玉誉士夫が、政財界に大きな影響力をもつことになるでしょう。しかし、児玉には、児玉軍団の青思会を率いる高橋議長ほか、多くの直参がいます。いまから、児玉門下に馳せ参じても、所詮、外様です」
 だが、西山の意思は固く、三浦義一門下をつらぬくべきというわたしの意見は容れられなかった。
 数日後、わたしは、上野の青思会本部に高橋議長を訪ね、脱会を申し入れた。
 その足で、同じ上野にあった全愛会議の本部を訪れ、萩島峯五郎議長と岸本力男事務長に脱退を告げた。
 萩島峯五郎議長とは気が合い、岸本力男事務長は、安保闘争・北海道遠征の戦友である。
 両者からつよく翻意を促されたが、わたしに枉げる気はなかった。
 以後、昭和維新連盟は、どこの組織にも属さない団体として、独自の運動を展開してゆくのはのべたとおりである。
 これら一連の行動は、わたしが独断でおこなったことで、西山は、関与していない。

 ●遠謀の策か、高等な処世術か
 その後、西山は、青思会の事務局に永井龍、全愛会議に吉村法俊を送りこんでいる。
 それが、西山の政治力で、わたしの独断専行で、多少、波風が立った関係を修復したばかりか、児玉の死後、直参の猛者をさしおいて、政財界に影響力をもつ最後の黒幕といわれる存在となった。
 昭和維新連盟時代のわたしが、硬派の力尽くなら、西山は柔軟な知恵尽くのひとで、長いものには巻かれても、ひと扱いや処世術の巧さからのし上がってゆく遠謀の策士であった。
 もともと参議院議員松本治一郎(社会党最高顧問)の秘書として上京、三浦の高弟、関山義人との縁から三浦門下になったひとで、思想的にはわたしよりはるかに柔軟なところがあって、現実的な対応力にもすぐれていた。
 わたしは、昭和49年に、右翼活動から引退して、評論や講演、執筆などの大衆啓蒙運動を開始したので、西山と、やや疎遠になった。
 仄聞するに、晩年の西山は児玉門下ではなく、三浦義一門下を名乗っていたという。
 児玉の軍門に下ったのは、やはり、遠謀の策か、高等な処世術だったようである。
 高杉晋作は倒幕の決意をこう詠んだ。

 西へ行く 人を慕いて 東行く
     わが心をば 神や知るらむ


 西山の心情が少し理解できるような気がする。
 だが、わたしは、頑なに、三浦にこだわった。
 尊王攘夷の志士、平野国臣は、桜島に向かってこう詠じた。

 わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば
     煙はうすし 桜島山


 わたしは、国臣の尊皇の心のはげしさにひかれるのである。


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2020年05月17日

わが青春譜10

 ●三浦義一先生余話
 昭和40年初旬から、中川一郎(衆議院議員)とともに講演・公開討論会を開始した。
 国民啓蒙運動と銘打ち、わたしが経営にくわわった雑誌「日本及日本人」がこの活動の後援に立った。
 この講演・公開討論会が、事実上、わたしの社会運動の第一歩だった。
 この頃、三浦事務所の内田秘書から三浦義一先生のお世話役を仰せつかった。
 三浦先生は、足が少々不自由で、葬儀など外出時に介添え役が必要だった。
 ボディガード的な要素もあって、体格がよかったわたしが目をつけられたのであろう。
 三浦義一は、GHQ参謀第2部(G2)とつながりをもっていた。
 キャノン機関で知られるG2は、反共防諜機関で、日本解体をすすめていた左翼的なGHQ民政局(GS)と対立していた。
 民政局を仕切っていたのが容共派のチャールズ・ケーディスで、反共主義のチャールス・ウィロビー(G2部長)と敵対関係にあった。
 ケーディスを追い落とした女性スキャンダルの裏にいたのが三浦義一だった。
 東京裁判に反対した日本好きのウィロビーと、尊皇思想家である三浦義一の友情の深さは知る人ぞ知る。
 三浦義一は、戦後復興に際して、裏面から日本の政界や財界をささえてきた。
 したがって、三浦先生のお供にあたって、多くの財界人や政界人、文化人と出会うことができたが、終始、「見ざる聞かざる言わざる」を信条としてきたのは、供人の分を忘れたくなかったからである。
 三浦先生が逝去して、約50年、半世紀の歳月が過ぎた。
 戦後の焼け野原からから70年、日本は、世界に類のない復興を成し遂げたが、今日の繁栄や発展が、歴史書に書かれたきれいごとだけで達成されたわけではない。
 若い人は、現在の日本の平和は、憲法9条によってもたらされたという。
 だが、60年安保をたたかった保守派は、日米安保が日本の安全をまもっているというきびしい現実を知っている。
 物事には表と裏がある。格好の良い背広が、けっして表にでてこない裏地にささえられているように、裏地には、裏地の役割がある。
 戦後、占領軍の支配下におかれて、危機に瀕した国体や伝統文化、国家機能をまもってきたのは、保守派で、外国に媚びをうる国際派・容共派ではなかった。
 その保守派の裏側にいたのが、裏地いわゆる黒幕で、三浦がその一人だった。
 明治維新においても、薩長にたいして、会津藩や庄内藩、奥羽列藩同盟以下31藩が敵対したが、国家を思う気持ちにかわりはなかった。
 歴史書には「朝敵」と書かれるが、薩長は天皇を政治利用しただけで、会津藩以下、朝敵と呼ばれた33藩こそ尊皇的だった。
 歴史は、かくも、表面的なもので、昭和史も例外ではない。
 戦後、黒幕と呼ばれた三浦義一が、日本の復興にいかに貢献したいか、いかに政財界に大きな力をもっていたか、かつての側近が、「見ざる 聞かざる 言わざる」を破って その片鱗を語っても、今なら、三浦先生は、わらってゆるしてくださるだろう。

 ●建国記念日の成立について
 昭和25年、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本は独立国家となった。
 その翌年から、国家の誕生日である紀元節復活のうごきが出てきた。
 といっても、紀元節は、昭和23年占領軍によって廃止されている。
 昭和32年、自由民主党は、議員立法として、紀元節に代わる「建国記念日法案」を提出した。
 だが、これを「反動的法案」とする社会党の反対によって、参議院で廃案となった。
 その後、自民党は、建国記念日法案を9回にわたって提出するが、ことごとく、社会党の反対でつぶされる。
 昭和38年、社会党は「建国記念日」にの≠入れる「建国記念の日」の改定案で妥協した。
 社会党が法案にの≠挿入することで妥協したのは、世論の批判があったからである。
「建国記念日」を「建国記念の日」へ修正して、政党の面子をたもとうというのであろう。
 昭和41年、佐藤内閣で「建国記念の日」の祝日法改正案が成立した。
 あとは、建国記念の日を「いつ」にするかだけで、日にちの決定は、有識者による審議会にゆだねられた。

 ●「幹事長、2月11日でなければ責任をとれんぞ」
 昭和41年11月頃、田中角栄幹事長が室町の三浦事務所を訪れた。
 三浦と会談後、部屋の出口で、三浦が田中に念をおした。
「2月11日でなければ責任取れんよ。いいかね、総理にそうつたえてくれんかね」
 田中は、黙って、頭を下げて退出した。
 三浦は、うなずき「うん。これできまった」とつぶやいて、自室に消えた。
 佐藤政権の背後に三浦がいたことは、当時、政界通ならだれもが知るところで、歴代総理大臣にも、これまで、黒幕人脈が隠然たる力をもっていた。
 総理府に設置された「建国記念日審議会」では、6月頃から建国記念の日をいつにするか審議された。
 だが、野党案には、日本の終戦記念日8月15日をあてるべきという国辱的な意見まであって、収拾がつかなかった。
 野党の多くが、日本を否定することが正義というGHQ仕込みの反日主義に立っているので、昭和23年、GHQが否定した紀元節にもとづく2月11日案はどこからもでてこなかった。
 紀元節は、古事記や日本書紀が、日本の初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、神武天皇元年の1月1日 (旧暦)を新暦に換算すると2月11日になる。
 尊皇思想家 三浦にとって、日本の建国記念日は2月11日以外あろうはずがなかった。
 三浦が田中につたえた「責任取れんよ」は右翼の動向だったと思われる。
 40年代初めの右翼陣営は、60安保闘争が終わって間もなく、依然として大きな組織力と行動力をもっていた。
 政府も、右翼の存在を無視して、紀元節=建国記念日という民族的テーマをおざなりに扱うわけにはいかなかったのである。
 戦後、占領軍によって廃止された紀元節は、佐藤内閣によって「建国記念の日」として復活して、2月11日が、晴れて、国民の祝日となった。

 ●「永田を車に入れておけ」
 昭和40年代、大相撲の人気力士だった北葉山の結婚披露宴が帝国ホテルの宴会場でおこなわれた。
 三浦は、双葉山会の顧問を務め、相撲界では著名人であった。
 昔は、夜の11時、NHKで「大相撲ダイジェスト」という番組がその日の取り組みを放映したものである。
 その映像に、土俵近くのマス席で観戦する三浦の姿がよく見られた。
 北葉山の結婚披露宴に出席する三浦に、昭和維新連盟の西山幸輝とわたしが同席した。
 三浦は、大好物のスコッチウイスキー「オールドパー」の水割を飲みながら挨拶にくる人々と挨拶を交わし、談笑していた。
 三浦の隣席に座っているのは、銀座の最高級クラブといわれたAのオーナーママで、オールドパーの小瓶をハンドバッグに入れている。
 三浦のグラスが空になると、ママが、ハンドバッグからオールドパーの小瓶をとりだして、水割りをつくって、三浦の前に置く。
 そのうち、大映映画社長の永田雅一が挨拶にやって来た。
 永田は、顔の広い実業家で、政界にも広い人脈をもち、河野一郎衆議院議員や右翼の児玉誉志夫とも近しい怪人物として知られていた。
 女優を妾にしながら「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と言い放つ映画界の父、プロ野球の名物コミッショナーで、大言壮語するところから「永田ラッパ」の異名もあった。
 その永田が三浦の脇のママを相手にラッパを吹きはじめた。
 それが、長時間におよんで、だんだん三浦の機嫌がわるくなった。
 わるいことに、三浦のグラスが空になったのを見たホテルのボーイが三浦のグラスを宴会用のウイスキーの入ったグラスと差し替えてしまった。
 とっさのことで、わたしもママも、そのことに気づかなかった。
「これはわたしのとちがうよ」
 三浦の一言で、ママは、あわてて、オールドパーをとりだして三浦の水割をつくった。
 永田は、様子を察して立ち去って、西山のすがたも見当たらない。
 三浦は、憮然として、わたしに命じる。
「永田を車に入れておけ」
 仕方なく、永田社長のところに行くと、永田は「おじいちゃん(三浦のこと)は怒っているか」と聞く。
 わたしがうなずくと、永田は、肩をすくめて宴会場の奥へ消え、わたしは、後姿を見送るほかなかった。
 宴が終わって、わたしが三浦の身体を支えて歩きはじめると、三浦は「永田を車に入れているな」とたずねた。
「すいません。帰しました」
「バカ者、車に乗せておけといったはずだ」
 わたしは謝りながら、ホテルの玄関で待っていた車に三浦を乗せて見送った。
 そのとき、わたしは、エラい人の世界ははかり知れないと思ったものである。
 翌日、日本及日本人社に出社して、もっと驚いた。
 西山によると、その朝、永田が帝国ホテルの総支配人といっしょに、室町の三浦の事務所へ謝罪にきたというのである。
 帝国ホテルの総支配人をつれて謝罪にいった永田もさることながら、天下の永田をそこまで縮みあがらせる三浦義一とは何者なのであろうか。

 ●厚生大臣を一喝
 昔の政治家は、料亭や銀座の高級クラブを利用して、交流を深めた。
料亭政治というのは、赤坂や新橋、神楽坂などの一流料亭を舞台にした政治形態で、政治家の政策や利害の調整から政治家と官僚の交流、大物政治家同士の談合と、これまで、政界史の裏面を飾ってきた。
 議場で多数決を争うだけが政治ではない。
 三浦義一とウィロビーが組んで、GHQ民政局のケーディスを追い落としていなければ、日本は「逆コース(1948年以降、アメリカが対日占領政策を容共から反共へ転換)」へ舵を切ることができず、中国化していた可能性が高い。
 マッカーサー総司令官や民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスらが逆コースに反対したのは、日本の民主化が道半ばと思ったからだった。
 だが、ウィロビーは、直接、国務省に共産主義の脅威をうったえて、本国で「占領軍のマッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風)とまで呼ばれた。
 ウィロビーのおかげで、日本は、社会主義化を免れたといってよい。
 政治は、いつの世も、議場を超越した次元で、うごくのである。
 三浦も、財界・政界、文化人と一流の料亭で交流した。
 昭和四十年代初め、佐藤内閣において、新潟県選出の渡辺良夫衆議院議員が厚生大臣となった。
 ある日、三浦の供をして、銀座の高級クラブに入った。
 銀座のクラブは8時にオープンするが、客で賑わうのは8時30分をすぎた頃からである。
 一流のホステスは、客と食事にも同伴する。その門限が8時30分である。
 三浦が足を運んだのは、客も疎らな8時頃であった。
 三浦が店内に入ると、奥の席でホステスに囲まれていた渡辺厚生大臣が三浦に気がつき、座ったまま、右手を軽く上げた。
 田中角栄が右手をあげて「よお!」とやるあのポーズである。
 いくら、政治家の場所に不慣れなわたしでも、まずいことになった直感した。
 三浦は、渡辺を無視して、いつもの座る席に座るとわたしに命じた。
「渡辺を呼べ」
「先生、三浦が呼んでいます」
 と告げると渡辺は立ち上がり、三浦の席に歩み寄った。
「お前いつからそんなにエラくなったのだ」
 恐縮している渡辺にむかって、三浦はたたみかけた。
「だれのお陰で大臣になれたのじゃ」
 しばらくして、カウンターの隅からみると、渡辺が、三浦の脇の席に座って談笑していた。
 それが三浦の人柄で、叱るが、からりとして、根を残さない。
 三浦義一が、佐藤栄作内閣に大きな影響力を持っていたことは、政治通ならだれでも知っている。
 焼け野原から、占領時代をへて、独立国家として独自のみちを歩みはじめるまで、きれいごとの民主政治だけで、日本は、はたして、やってこれたであろうか。
 三浦が、戦後政治のなかで、黒幕として、影響力を発揮できたのは、時代の要請だったとしかいいようがないのである。
(この件については別項で述べる)

 ●「岸さん後で電話をくれないか」
 昭和四十四年頃、渋谷の松濤のお寺で、ある政治家の葬儀があった。
 門から葬儀がおこなわれている寺院の建物まで距離があった。
 わたしは、いつものように、三浦の身体をささえて、式場へ向かった。
 そのとき、焼香を終えて戻ってくる岸総理が三浦と鉢合わせになった。
 会釈を交わして、とおりすぎようとしたとき、三浦が立ち止まった。
「岸さん、後で、電話をかけてくれないか」
 岸は、軽くうなずき、そして、三浦も岸も、そのまま、歩き去った。
 そのあと、岸元総理から電話がかかってきたことはいうまでもない。
 戦後の混乱期から経済復興、高度経済成長期にかけて、黒幕と呼ばれる人々が存在したのは事実である。
 岸は、安保闘争の折、児玉誉志夫に、暴力団・テキヤの動員を依頼している。
 池田内閣でも、血盟団事件の実行犯の一人四元義隆が大きな影響力を持っているといわれた。
 昭和25年 日本共産党五全協の暴力革命路線に危機感をつよめた自由党の木村篤太郎法務大臣が、国粋会などを動員して、反共抜刀隊の組織化を図ったが、吉田茂が予算を組まず、結局、流れてしまった経緯についてはすでにふれた。
 60年安保闘争についても、別項で、別働隊について詳細をのべた。
 三浦は、政財界に大きな影響力をもっていたが、力や組織を背景に威を誇るというタイプの人間ではなく、むしろ、歌人や文化人としての品格をただよわせていた。
 34年、右翼が結集した「全愛会議」の最高顧問となって、戦後の右翼界の重鎮となったが、個々の団体と深い関係をむすぼうとはしなかった。
 直接、三浦の影響を受けた団体も、多くはなかった。
 そのうちの一つが、歌道の修業や人格の陶冶、徳性の練磨を重視した大東塾で、顧問をつとめたほか、塾長の影山正治が主宰した「新国学協会」には保田與重郎や林房雄、尾崎士郎らとともに同人として参加した。
 門下生である関山義人の興論社や西山幸輝の昭和維新連盟、そして豊田一夫の殉国青年隊も役職には就かなかった。
 室町の事務所には重苦しさや威圧を感じる堅苦しさはまったくなかった。
 事務所には、内田秘書のほか、側近の大場先生、運転手だけだったが、来客は、財界や政界の大物、文化人らひきもきらなかった。

 ●「指を落として棺に入れる」
 三浦は情に厚く思いやりのある人であった。
『征塵録』などの著者小山田剣南が晩年病床にあったとき、三浦に命じられて赤坂の料亭茄子のスッポン料理をよく運んだ。
 剣南は、大アジア主義を掲げた頭山満の玄洋社の海外工作を担った内田良平の黒龍会の七人衆といわれた人物である。
 部屋は蔵書に埋もれていた。
 わたしは、その内の一冊を手にとって、無遠慮に、これ読みましたかと尋ねたものである。
 剣南は微笑をうかべてうなずいた。
 わたしが手にとったのはマルクスの「資本論」であった。
 このとき、反共右翼は、腕力だけではなく、左翼との論戦にも勝たなければならないと痛感したものである。
 三浦が、血盟団事件の井上日召を、晩年、援助していた話は知る人ぞ知る。
 昭和46年4月 三浦義一は逝去した。
 葬儀のとき、わたしと豊田一夫が、霊柩車まで柩をはこんだ。
 出棺直前に左手に包帯をして、涙をいっぱいためた男が土色に変わった指の一部を棺に納めた。
 男は大東塾の塾生であった。
 三浦は大東塾の顧問でもあった。
 わたしは、神道右翼にそのようなしきたりがあることを初めて知った。
 三浦家の墓は青山墓地にある。
 だが、三浦個人の霊は、国文学者の保田与重郎と共に再建して、滋賀県の史跡となっている義仲寺に眠る。
 この寺には、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉の墓がある。
 毎年、芭蕉忌がおこなわれ、句会も催されている。
 今でも変わりないことと思う。
 境内には保田与重郎と三浦義一の石文が建立されている。
 三浦の石文にはこんな一首が刻まれている。
 
 としつきは 過ぎにしと思ふ 近江野の
    みずうみのうへを わたりゆく月
 義一

 後年、わたしは、友と京都で一夜を過ごし、一人、翌日、琵琶湖のほとりに建つ義仲寺に足を運んだ。
 そして、三浦義一の石文の前に立って、過ぎ去った歳月を想った。
 
 義仲寺の 尊師義一の 石文を
    よみて寂しき 近江野の秋

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2020年05月07日

わが青春譜9

『魚が逃げる』『いえ、逃げません』
 神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
 平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
 神津島に防災無線を設置したいというのである。
 神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
 過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
 佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
 このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
 伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
 その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
 聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
 わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
 佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
 ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
 わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
 ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
 このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
 わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
 ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。

 数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
 そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
 佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
 局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
 魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
 だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
 わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
 そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
 その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。

 沖合の イカ釣り船の漁火が 
    明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり


 新島闘争(その後)
 昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
 その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
 それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
 新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
 議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
 ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
 一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
 問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
 防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
 ところが、その約束がはたされていない。
 新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
 わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
 下で部長に逢ってくれ?
 わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
 用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
 わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
 先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
 わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
 局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
 それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
 局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
 新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
 大きな政治問題に発展する。
 局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
 国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
 政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
 新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
 ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
 わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
 役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
 権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
 一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
 わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
 役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
 役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
 すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
 陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
 政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
 わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
 いずれ、そのことにもふれることにしよう。

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わが青春譜8

 言論出版妨害事件
 明治大学教授をつとめ、政治評論家となってから、攻撃的で、右翼的な政治論評で一世を風靡した藤原弘達先生と知りあったのは、国民討論会のゲストにお迎えした縁からであった。
 藤原先生の政治論は明快で、根本の考え方は、二元論であった。
 政治家と官僚、国家と国民を二元論で論じて、永遠に争いをくり返す一元論をバッサリと切って捨てた。
 わたしの「国体と政体」「権力と権威」「軍事と文化」の二元論も、多分に藤原先生の影響をうけているはずで、その意味において、わたしの恩師といえる。
 藤原先生は、官僚制や元老政治の研究者で、『官僚/日本の政治を動かすもの(講談社/1964年)『官僚の構造(講談社)1974年』などの著作のほか研究論文に「最後の元老/西園寺公望論」がある。
 わたしの『役人よ驕るな〈官僚がこの国を滅ぼす〉光人社/2004年』や『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道 /2010年)も、土台に藤原イズムがあったように思う。
 国民討論会以後、わたしと藤原先生をふたたびむすびつけてくれたのは、日新報道の遠藤留治社長であった
 藤原弘達先生の推薦文を付けるので、創価学会の批判本を書いてもらいたいというのである。
『創価学会を斬る』(藤原弘達著/日新報道/1969年)が世に出てからすでに26年の歳月が流れていた。
 若干の躊躇もあったが、わたしは、藤原先生の意向に応えるべく、ひきうけた。
 それが『池田創価学会の政権略奪を斬る(日新報道/1995年)』だった。
 そこで、わたしは、基礎票をもつ創価学会が自民党にくいこんで、日本の保守政治を骨抜きにするだろうと予言しておいたが、現在、そのとおりになっている。
 遠藤社長との付き合いは古く、1980年代からである。
『国益を無視してまで商売か(グラマン事件と謎のボストンバック)日新報道 /1980年』)『猛毒農薬が日本人を蝕んでいる(日新報道/1981年)』『レポ船の裏側(北方領土問題の核心)日新報道/1982』など、事件がらみの出版が多く、圧力もあったが、遠藤社長はすこしも臆するところがなかった。
『創価学会を斬る』を企画したのも遠藤社長で、このとき、著者の藤原弘達と版元の日新報道にかかった言論弾圧は熾烈なものだった。
 遠藤社長はこうふりかえる。
「組織ぐるみの運動だったのは明らかで、抗議の手紙やハガキがダンボールに何箱にもなった。藤原先生は、執筆中、都内のホテルを転々として、われわれも異動しながら編集作業をおこなった。藤原の自宅には「地獄に堕ちろ」「殺す」などの脅迫電話や手紙が殺到して、警察が家族の警備にあたったほどだった」
 妨害だけではなく、学会側から初版本10万部相当を丸ごと買い取るという条件もだされたというが、遠藤社長も藤原先生も、一顧だにしなかった。
 さらに、公明党の竹入義勝委員長(当時)の依頼を受けた田中角栄が、藤原先生に直接電話をかけ、赤坂の高級料亭で、2度にわたる交渉がおこなわれたという。
 遠藤社長はこう述懐する。
「藤原先生は、料亭で、角栄にむかって『総理総裁をめざしている男が、一言論人、一出版社の表現の自由を奪い、特定の勢力の利益のためにうごいてよいのか』とタンカを切りました。このとき、角栄は『よし、わかった』と潔く仲介役を降りたのです」
 それが、取次店まで巻きこんだ「創価学会・公明党による言論出版妨害事件」の核心で、超ベストセラー、池田大作の「人間革命」を売らせてもらっている取次店も、聖教新聞を印刷させてもらっている三大紙(朝毎読)も創価学会には逆らうことができなかったのである。
 TBS「時事放談」で、病気で降りた小汀利得に代わって、藤原弘達が細川隆元と辛口毒舌をくりだして国民的な人気を博すのはその後のことである。

 藤原先生とともに九州講演
 言論出版妨害事件の騒ぎが冷めやらない昭和四十七年の秋であった。
 九州の蓮尾国政から講演依頼が舞い込んできた。
 藤原弘達先生とわたしに政治問題について語ってもらいたいというのである。
 蓮尾は、福岡県大牟田市の工務店経営者で、のちに福岡県土木組合連合会理事長をつとめることになる有力者で、地元の人望も厚かった。
 愛国者で、わたしが西山広輝からあずけられた「政治結社昭和維新連盟」の九州総本部長を統括していた。
 講演当日、藤原先生は、TBSテレビの番組に出演しておられた。
 わたしの秘書の寺井という青年がテレビ局に迎えに行き、九州大牟田市まで案内して、わたしは、消防署から注意が出るほど満員となった大牟田市民会館で藤原先生をお迎えした。
 講演は大成功で、主催者の蓮尾国政は、講演を終えた食事会で、藤原先生と歓談して、おおいに満足げであった。
 蓮尾は、西山広輝の人脈の一人だが、そのなかで、忘れてはならない人物がいる。
 松本英一(元参議院議員/社会党顧問)先生である。
 部落解放同盟を選挙基盤としたため、社会党党籍だったが、人格識見や政治信条においては保守主義者で、なによりもわが国の歴史や伝統、文化を尊んだ。
 自由主義や民主主義を信奉して、伝統の維持や相続に無関心な自民党の議員に比べて、松本は、はるかに保守的な政治家であった。

 脚注「松本治一郎」/参議院議員・社会党最高顧問/部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟から「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれて親しまれた。元参議院副議長。

 松本治一郎先生が現職の頃、一緒に上京した英一先生のお伴をして、赤坂の飲食店やクラブで、語り合ったのがよい思い出である。
 治一郎先生亡き後、英一先生は、参議院議員となると同時に、地元の福岡県建設事業協会の会長に就任、同職を長期間つとめた。
 九州へ出張すると、事務所に招かれて、ステーキ定食をご馳走になった。
 じゃが芋を残すと「山ちゃん、じゃが芋は肉の毒を消してくれるよ」と諭すようにいってくれたものである。
 いまは、みな み霊となって、わたしは、過ぎ去った日々を想って、感慨にふけるばかりである。

 うつし世は 生者必滅 会者定離 
    悟らんとしてなほ 侘しさ覚ゆ


 九州講演 その二
 鹿児島県に加藤天界と云う反共尊皇運動家がいた。
 大牟田市の講演から数か月のち、加藤天界が、鹿児島県で、藤原弘達先生とわたしの講演会を開催したいと連絡があった。
 藤原先生にスケジュールを調整してもらい、その日、先生とわたしは、同じ飛行機で鹿児島空港に降り立った。
 空港ロビーから玄関を出ようとすると先生の足がピタッと止まった。
「山本君、あれは」
 玄関口の前で、二十人ほどの青年が隊列を組み、こちらをジーッと見ている。
 加藤天界が迎えに遣わした者たちだったのだが、藤原先生には、正体不明な不気味な集団にしか見えていない。
 豪放磊落にみえても、藤原先生は、東京大学で丸山眞男に師事した学窓育ちである。
 わたしは、藤原先生をロビーの椅子席に待機させ、玄関まで迎えに来ていた加藤天界のグループの解散をたのみ、それから、タクシーで、藤原先生をホテルへ案内した。
 そして、ホテルで、なにくわぬ顔で、藤原先生と加藤天界を引き合わせた。
 先生は、終始、にこやかに微笑をうかべておられたが、空港ロビーでみせた緊張した面持ちは、いまでも、わたしの脳裏に残っている。
 その夜、ホテルの大広間でおこなわれた講演会は、千人近い聴衆で埋まって大盛況で、会場から、会場から多くの激励の声が飛んだ。
「あんた殺されるよ」
 わたしが、しばしば、出版妨害に見舞われたのは、単行本から週刊誌に至るまで、告発記事が多かったせいで、乗組員を装ったやくざがソ連と秘密取引をおこなっていた実態を暴いた『レポ船の裏側』では、出版後、レポ船が一網打尽になって、やくざの恨みを買った。
『要人誘拐(三井物産マニラ支店長誘拐事件)/晩声社/1987年』『佐川急便の犯罪/ぱる出版 1992年)』『富士銀行の犯罪/ぱる出版/1992年』
『橋梁談合の謀略を暴く/ぱる出版/1995年』、では、背後でうごめく暴力団の存在を暴き、「真珠宮ビル事件」では取材にでかけたフィリピンで被害者の一族を救出するという想定外の取材までおこない、JR東日本のスキャンダルでは告発者の身柄を革マル松崎一派からまもった。
 あるとき、わたしの赤坂の事務所に5人の男が乗り込んで来た。
 取材を中止して、いますぐ、書きかけの原稿をひきわたせという。
 断ると「あんた、そのうち殺されるよ」と捨て台詞を残して立ち去った。
 ジャーナリズムにおいて、暴露という表現の自由がゆるされているが、その自由によって、たとえそれが、社会的善であっても、かならず、傷つき損害を被るひとがでてくる。
 事件モノから本格評論へ、わたしがスタンスをかえたのは、ちょうど、そのころだったことを白状しておこう。
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