2020年06月24日

 わが青春譜14

 ●流通機構改革「動くスーパー構想」
 列島改造景気によるインフレや地価上昇、オイルショックによる消費物価の高騰は、当時、狂乱物価といわれて、社会問題化しつつあった。
 経済成長率が年平均10%をこえ、石炭から石油への転換(エネルギー革命)や石油化学コンビナートなど大型化、合成繊維やプラスチック、家庭電器など各種の技術革新やモータリゼーション、スーパーマーケットなどの流通革命もすすんだ。
 経済成長はゆたかな国民生活をもたらしたが、一方、物価上昇や大都市圏の過密と農村などの過疎、そして、公害などの負の遺産もうんだ。
 忠岡とわたしがめざしたのは、旧態依然たる流通機構の改革で、生鮮三品を中心とした産地直売だった。
 冷蔵車による移動販売だったところから「動くスーパー」と名乗った。
 いまでは、別段、珍しいことではないが、昭和40年代には、まだ、前例のない目新しい発想であった。
 日産自動車と冷蔵販売車の委託契約をおこない、取引銀行を大和銀行ときめて、始動体制を整えた。
 昭和48年10月1日に制定された大規模小売店舗法によって町の商店街に大型スーパーの出店がはじまった。
 これらのスーパーにも、一部、野菜などの産直を目玉とするところもあったが、流通経路の簡素化までには至らず、狂乱物価の沈静に大きな役割は果たすことはできなかった。
 戦後、再建された生協(CO・OP)も、消費者が組合員に共済事業であるが、産直などにつながる大きな動きはなかった。

 ●酒は値切って買う?
 明治以降、日本の国税の主たる対象は、塩・酒・タバコである。
 塩やタバコは、かつて、専売公社が元締めで、公定価格だった。
 酒税も、国家の重要な税収の一つで、国税庁から「酒類の販売事業免許」の許可をとらなければ、販売することはできない。
 わたしと忠岡は、蔵出しの時点で課税される酒が、流通過程では自由価格であることに着目した。
 現在、酒の販売は、完全自由化されてコンビニでも買える。
 だが、40年代は、酒類の販売業免許はきびしく、販売免許はかんたんには下りなかった。
 そこで、免許をもっている知り合いの酒屋を口説いて、出張販売であつかう酒を卸してもらうことにした。
 そして、自由価格で販売して、このとき、「酒は値切って買いなさい」というキャッチフレーズを謳った。
 狙いは、消費者に「流通を簡素化すれば物価が下がる」という認識をもってもらうためだった。
 仕入れた酒(日本酒のみ)をライトバンに積んで「物価高に挑戦!」という旗を立てて、わたしたちは、団地に乗りこみ、日本酒の安売りを開始した。
 酒は公定価格と思っている主婦の多くは、酒屋で酒を値切るなど思いもよらなかった。
 売り口上で、蔵出し酒税の仕組みを教え、日本酒が自由価格で買えることをつたえ、「今晩は二級酒の値段で、旦那に一級酒を飲ませてあげてください」とうったえると、ライトバンに満載してきた酒がたちまち売り切れた。
 あるとき、団地で、日本酒を安売りしていると、国税庁の役人があらわれた。
「免許はあるのか」と聞く。
 わたしは、友人の酒屋の免許で、出張販売をやっていると応えた。
 国税庁の役人は、出張販売にも許可が必要というが、申請しても許可がでるはずはなかった。
 押し問答しているうち、集まっていた主婦が役人に「帰れコール」を浴びせはじめた。
 どうやら潮時で、これ以上役人に逆らえば、友人の酒屋に迷惑がおよぶ。
 わたしたちは、ライトバンの出店をたたんで、団地から引き上げた。
 酒税は、国家の三大税源の一つで、役所によって完全に保護されている。
 翌日、事務所にやってきた酒屋の友人が、国税事務所から、きついお叱りを受けたとこぼした。
「免許取り上げられると店が潰れてしまうよ」と青息吐息である。
 わたしは、国税庁に顔の利く代議士に頼み、始末書を提出して事なきをえた。
 挑戦は挫折したが、物価高への抵抗運動については、十分に手応えがあった。
 旧い流通体制を改革することは簡単なことではない。
 因習やなれあいに利権構造が複雑にからんで、排除には相当の抵抗がある。
 必要なのは、意識改革で、消費者が立ち上がらなければなにも変わらない。
 続いて、肉の流通に挑戦した。東北で購入した牛を解体処理後、流通経路を省略して、店頭販売する計画だった。
 ところが、埼玉でも東京でも、解体処理場が仕事をうけてくれない。
 同和と称する者から、事務所に「われわれの商売を潰す気か」と脅迫電話が入るなど、嫌がらせもあった。
 肉の流通は閉鎖的な体質で、これが、改善されたのは、自由化などの流れにそって、消費者が立ち上がったからである。
 現在は、国内の流通機構も改革され、外国産の牛・豚・鶏が安く輸入されるようになって、市場は、当時では、想像もできないほど開放的になっている。

 ●動くスーパーが不渡り
 酒や肉の流通に取り組んでいた動くスーパー社に大きな災難が降りかかってきた。
 不注意から手形の不渡り事故をおこしてしまったのである。
「動くスーパー社」は日産自動車と冷蔵販売車の改造契約を結んでいた。
 車両数は、業務の拡張に合わせて、今後、数十台にもなる予定だった。
 不渡り事故というのは、日産自動車に渡してあった手形の決済期日に当座の預金残高が不足していたのである。
 忠岡は、普通預金に残高があるので安心していたというが、当座は不足していた。
 このようなケースでは、担当者が連絡をとって、普通口座から当座への資金移動を指導する。
 普通口座から当座預金に資金を振り替えればそれで済む話だからである。
 ところが、取引銀行の大和銀行本店は、忠岡に電話さえよこさなかった。
 そして、銀行に責任はないという一点張りである。
 銀行は、大蔵省の管轄下にあって「動くスーパー社」は、流通機構改革運動で国税庁に喧嘩を売り、肉その他の流通機構改革における法規の解釈や手続きで、役所としばしば悶着をおこしている。
「動くスーパー社」は、権力にとって、目の上のこぶだったのである。

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 わが青春譜13

 ●反共運動前線を去る
 昭和40年代になって、左右の思想的対決に大きな変化が生じる。
 60年安保における左陣営の大衆動員や右翼団体から暴力団まで駆り立てた右陣営の反共戦線が鳴りをひそめて、政治的無風状態がうまれるのである。
 理由の1つは、左右対決の焦点となるべき日米安保条約が自動延長となったためで、左陣営は、日米安保反対を煽って、大衆を動員する争点を失った。
 左翼が沈静化すれば、右陣営も、反共戦線を立てる必要はなかった。
 もう1つの理由は、かつて、安保闘争の主役を演じた全学連が過激派へ変容したことで、学生運動は、国民から遊離した犯罪グループへ転落していった。
 一連の極左暴力事件やゲリラ的な70年安保闘争、学園闘争は警察力で十分に対応できた。
 70年安保で、反代々木系といわれた極左暴力集団は、右翼(反共団体)と衝突するまでもなく、結局、40年代末には自滅してゆく。
 全学連の分派活動の一つにすぎなかった学園の民主化闘争も収束する。
 生き残ったのは、議会主義と平和路線を唱えた日本共産党だけだった。
 天皇や憲法、自衛隊などの問題を棚上げして、革命政党としての正体を隠しているが、日本共産党は、民主主義革命と共産主義革命の「二段階革命論」を唱える革命政党で、いまもなお、破防法における調査対象団体の指定をうけている。
 といっても、日本で、革命がおこる可能性はなく、日本共産党は、反自民のもとに群れる野党勢力の一つにすぎないものになっている。
 戦後体制の残滓、極左暴力革命の危機を回避して、日本が、高度経済成長にむかったのが、所得倍増計画の池田勇人内閣(1960年)からで、池田からはじまる経済優先政策は、その後の佐藤栄作内閣を経て、田中角栄内閣の列島改造論で大きな山場を迎える。
 田中角栄の列島改造計画で日本中がわき立ち、マスコミは、角栄を今太閤ともちあげた。
 国民が目をむけたのは、日米安保や沖縄返還、日中国交回復などの政治課題より、経済問題で、そのなかで、池田勇人の所得倍増計画と並んで国民の心をとらえたのが、田中角栄の列島改造計画だった。
 列島改造景気によって、高速道路や新幹線、本州四国連絡橋、地方の工業化促進候補地が脚光を浴びることになったが、これらの地域で、投機家によって土地の買い占めがおこなわれて、1973年には、インフレや物価上昇などが社会問題化した。
 政府は「物価安定七項目」を打ち出すなど、生活関連物資などの買い占めや売り惜しみ対策を取ったが、インフレはいっこうに収まらず、家計をあずかる主婦はやりくりに悩まされた。
 そのさなかにおきたのが「狂乱物価」で、原因は、第四次中東戦争が発端になったオイルショックだった。
 この頃、むつ小川原開発選挙で行動を共にした忠岡とわたしが、流通革命というべき「動くスーパー」構想を立ち上げたのは、福田赳夫が命名したという「狂乱物価」に挑戦するためだった。
 現在なら、珍しくもない「産地直送」だが、当時は、まだ、流通機構が保守的で、狂乱物価という社会現象に正面からとりくむ機運もなかった。
 わたしは、40年から45年まで、一流の講師を招いて、講演会を主催する大衆啓蒙運動をおこない、45年からは、西山幸輝からひきうけた昭和維新で実践的な政治運動を展開してきた。
 わたしは、反共運動から身をひき、大衆に密着したソフトな社会運動へ方向転換するため、昭和維新連盟の会長を薗田新に譲って、港区赤坂に新たに事務所を構えた。
 昭和48年の初頭で、忠岡とともに流通機構改革運動にとりくもうというのである。


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2020年06月04日

わが青春譜12

 ●むつ小川原開発の影武者
 昭和48年初秋、わたしの事務所に、小川原湖温泉社長の忠岡武重が訪ねてきた。
 忠岡は、わたしの旧い友人で、青森県の小川原湖の湖畔で温泉宿を経営しているが、旅館のほうは人任せで、本人は東京に住んでいる。
 のちに、わたしと共に社会事業をおこなうことになるが、その件については後述しよう。
 このとき、わたしは、忠岡から、六ヶ所村の村長選挙への協力を頼まれる。
 六ヶ所村は、田中角栄の日本列島改造論で、一躍、有名になったむつ小川原開発の中心となった地区で、現在、原子燃料サイクル施設などの原子力施設や国家石油備蓄基地、風力発電基地などエネルギー関連施設が集中している。
 だが、当時は、ワカサギやシラウオなどの漁獲量が豊富な小川原湖を擁する以外、これといった売り物がない、青森県下北半島の太平洋岸に位置する半農半漁の村でしかなかった。
 忠岡の話によると、開発賛成派と反対派がしのぎをけずっている村長選挙の背景には、自民党がすすめてきた新全国総合開発計画という国家プロジェクトがあるという。
 六ヶ所村は、国・自治体・財界が一体となった大型の国家事業(新全国総合開発計画)における苫小牧に次ぐ目玉で、村長選で開発推進派が負けるようなことになれば、当時、数兆円規模といわれたむつ小川原開発が後退して、六ヶ所村は、経済発展の恩恵に浴することができない。
 六ヶ所村村長選挙が、開発計画に大きな影響をあたえるとあって、提唱者である自民党が全力をあげると思いきや、忠岡の話では、かならずしもそうではなかった。
 忠岡は、わたしに、ある財界人に会ってもらいたいという。
 忠岡に案内されたのは東京駅の近くにある日本ビルディングに入居している「むつ小川原開発株式会社」という第三セクター(官民共同事業体)だった。
「新全国総合開発計画」におけるむつ小川原開発は、トロイカ方式と呼ばれるもので、財団や企業らが土地買収と工業用地の造成分譲、計画や調査の業務をそれぞれ分担しあっている。
 むつ小川原開発株式会社の資金30億円も、北海道東北開発公庫と青森県が50% 残る50%は経団連傘下の150社の共同出資によるものだった。
 社長室で待っていたのはむつ小川原開発の社長をつとめる安藤豊禄(元小野田セメントの社長)だった。
 長年、経団連の理事をつとめている財界の大物だが、気さくで率直、驕ったところがなかった。
 忠岡と安藤のやりとりから、六ヶ所村の村長候補の一本化に難航しているとわかった。
 安藤が忠岡にたずねた。「県連(自民党青森県連)で調整できないものだろうか」
 村長選で開発推進派が負けるようなことになると、大幅な計画縮小どころか六ヶ所村の開発計画が頓挫しかねない。
 忠岡と安藤の懸念はそこにあった。安藤がずばりと切りこんできた。
「あなたは中川さんと近いとうかがっているが」
 安藤がいう中川とは衆議員議員の中川一郎のことである。
 だが、福田に私淑する中川は、福田の緊縮財政論に近く、大規模開発による土地価格の高騰やインフレを招く田中角栄の積極財政には批判的だった。
 一方、中川は、青嵐会の代表として、多くの右派議員に支持されている実力者で、将来の総理候補として頭角をあらわしつつあった。
 安藤から、直接、協力をもとめられて、わたしは、忠岡と共に開発推進派の力になろうと意を決めて、その日、むつ小川原開発株式会社を後にした。
 
 ●出稼ぎ村 むつ小川原六ヶ所村
 青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備する計画がもちあがったのは昭和30年代末頃だった。
 その計画が、昭和四十四年五月 田中角栄内閣の「新全国総合開発計画」として閣議決定されて、実行段階に移された。
 対象地域は、むつ市やなど16市町村におよんだが、開発の中心は、青森県の下北半島太平洋岸に位置するむつ小川原港の六ヶ所村が中心であった。
 六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所、火力発電などを建設する世界最大の開発といわれたむつ小川原開発計画は、石油危機などによって、縮小を余儀なくされる一方、原子力関連施設が進出してきて、今日のすがたになった。
 開発の中心となった六ヶ所村や周辺の地域は、半農半漁で、毎年2〜3千人の人々が、家族と離れて、出稼ぎで現金収入をもとめる土地柄であった。
 秋の刈り入れが終わると、家族と別れて都会へ出稼ぎに行き、春の雪解けに帰って、田植え作業するケース、一年をとおして出稼ぎに出るケースと事情はさまざま異なっても、この時代、むつ小川原および六ヶ所村は、貧しい北国の出稼ぎの村であった。

 どじょっこやふなっこが遊ぶ 雪解けに
      おどうは帰る 手みやげもって


 ●戊辰戦争で敗れた会津の斗南藩
 青森県の東北部、下北地方に位置するむつ市は、かつて、斗南藩と呼ばれた地域と重なる。
 斗南藩は、戊辰戦争に敗れて、領地を没収された会津藩が再興をゆるされて移住した藩で、多くの旧藩士が移住して開墾にあたったが、痩せた土地と寒冷による不作や飢饉によって、多くの死者を出し、次第に離散していった。
 北辺の地で、薩長政府への復仇を誓って斗南「南(薩長)と斗(戦)う」と名乗った斗南藩士だったが、その誓いはたっせられなかった。
 その後、明治4年の廃藩置県で斗南県となったが、同年九月、青森県に編入されて、その名も消えた。
 廃藩置県が敷かれても、戊辰戦争で朝敵となった会津藩士が住む北の果てに薩長政府の恩恵はおよぶことがなく、文明開化と呼ばれる近代化もこの地には無縁だった。
 むつ小川原開発計画は、明治維新以降、時代から取り残されて、半農半漁と出稼ぎで成り立っていた斗南という因縁の地にようやく訪れてきた恵みの風であった。

 尊皇の 武士共(もののふ)が 朝敵と
    なりておちゆく 北の地の果て


 ●開発派、選挙とリコールで敗ける
 出稼ぎという労働形態から抜け出して、一年をとおして、家族がいっしょに暮らせる環境をつくるのが六ヶ所村の願いで、青森県政や県議会も同じ思いをもっていたのはいうまでもない。
 昭和44年5月30日、列島改造論にもとづく田中角栄の「新全国総合開発計画」が閣議決定されると、開発地区に指定されたむつ小川原および六ヶ所村はわきたった。
 ところが、左翼が、むつ小川原および六ヶ所村開発の反対に回った。
 左翼の反対は、正当な根拠や理由にもとづくものではない。
 反対が先にあって、これを合理化するために、根拠や理由をこじつけるのである。
 むつ小川原および六ヶ所村開発反対の理由が、企業公害であった。
 誘致された企業が廃液を垂れ流して、人間が住めないほど自然が破壊されるというのである。
 昭和44年12月、六ヶ所村の村長選挙がおこなわれた。
 六ヶ所村助役と自民党県連事務局長の一騎打ちとなったが、助役の寺下力三も県連事務局長の沼尾秀夫も同じ保守系で、開発問題について、両者に大きな見解のちがいはなかった。
 選挙の結果、寺下力三が当選した。
 ところが、選挙が終わると、寺下が反対派に豹変して、開発反対をうったえるという想定外の事態が発生した。
 これに呼応して、反対派が、六ヶ所村開発反対同盟を結成すると、賛成派も立ち上がって、六ヶ所村は、開発反対同盟と開発賛成派が対立する政治闘争の場と化していった。
 三宅島の防衛施設庁の官民共同空港誘致や新島ミサイル試射場設置闘争でも経験したことだが、住民をまきこんだ政治闘争には、左翼(日本共産党ら)がオルグ団を送りこんでくる。
 デマゴギーで住民を煽るなどは序の口で、思想的洗脳やイデオロギー教化をおこない、その結果、地域のみならず、親子や兄弟までが対立するハメになる。
 雑誌『世界(1986年6月号』)に鎌田慧が「暗躍するフィクサー」という記事(183〜196P)でわたしを誹謗しているが、鎌田は成田空港闘争の当事者で「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめる左翼作家である。
 その鎌田の著作に『六ヶ所村の記録』というノンフィクションがある。
 同書の内容紹介に「冷害や凶作が相次ぐ不毛の土地、下北半島の六ヶ所村に次々とみまう開発の波」とある。
 これが左翼の論理で、開発で多くの人々がうける恩恵には目をむけず、自然破壊という大衆受けするスローガンを立てて、貧しさや後進性から抜けだそうとする人々のねがいを踏みにじるのである。
 左翼オルグ団は、選挙が終わると、六ヶ所村を去って行く。
 あとに残るのは、イデオロギー対立の傷痕と両派の不信と憎しみ、反目だけである。
 左翼は、村民の対立を煽り、闘争実績を誇るが、あとは野となれ山となれの論理で、村の発展や人々の幸などは端から眼中になかった。
 反対同盟は、社会・共産両党に公明党をくわえた野党共闘体制に青森県下の労組や公害反対をスローガンとする左翼系の団体が総動員された磐石の体制であった。
 これに対抗するのが自民党県連と六ヶ所村の「五派協議会」だった。
 左右対立構造のなかで、賛成派村議による寺下村長のリコール運動がおきたが、結果は、小差で開発派が負け、反対運動に勢いがついた。

 ●一本化ならずば青嵐会動けず
 昭和48年にはいって、村長選挙(12月)の運動が加熱してきた。
 むつ小川原開発は、田中内閣が政治生命をかける国家的な大事業である。
 村長選は、その成否を左右しかねない大事な選挙である
 自民党青森県連にとっても、是が非でも、勝利をもぎとらなければならない小さい村の大きな選挙だった。
 だが、障害が立ちはだかった。
 共に賛成派の沼尾秀夫と古川伊勢松が互いに一歩も譲らないのである。
 候補を一本化しなければ、反対派に漁夫の利を奪われるのは目にみえている。
 だが、地元の有力者で、共に多くの公職に名を連ねる著名人である両人とも譲る気はなかった。
 背景にあるのが、青森県県政における二大派閥の勢力争いだった。
 一つは、知事とその子息である衆議院議員竹内黎一(県連会長)が形成する多数派の竹内派である。
 もう一つは、小派閥ながら、大平派の幹部で、中央政界で大きな力をもっている田沢吉郎衆議院議員の影響をうけるグループである。
 青森県政では、竹内派と田沢グループが主導権争いをくりひろげていた。
 県連は、48年6月頃から、一本化工作にのりだしたが、難航した。
 結局、竹内派と田沢グループの調整がつかないまま村長選挙を迎えるはめになる。
 わたしと忠岡は、のちに知事となる北村副知事やむつ小川原地方を選挙地盤とする菊池・岡山両県議と幾度か会って、候補一本化の案を練った。
 この選挙に負ければ、貧困や出稼ぎによる家族崩壊など、六ヶ所村の悲劇が将来へもちこされることになる。
 当時、ケガで松葉杖をついていた北村副知事も、菊池・岡山両県議も悲壮な覚悟で候補の一本化にあたったが、沼尾・古川両候補は一歩も譲らず、ついに11月25日の告示日を迎えることになる。

 ●中川一郎(青嵐会)と密議
 忠岡がわたしを訪ねてきて、「むつ小川原開発会社」の安藤豊禄社長に会った折、青嵐会代表の中川一郎代議士の名が出たのは、わたしが、中川と個人的に親しかったからだった。
 わたしが、この件で、中川一郎議員に協力をもとめたのはいうまでもない。
 六ヶ所村は、国家的事業である田中角栄の「列島改造論」の目玉というべきむつ小川原開発の中心地である。
 むつ小川原開発の浮沈がかかっている六ヶ所村の村長選挙が、自民党はむろんのこと、自民党若手中堅議員の集まりである青嵐会の関心を呼ばないわけはなかった。
 だが、青森県連では、竹内黎一と田沢吉郎という地元選出の2人の国会議員が、長年、勢力をもっていて、自民党本部も、普通選挙法の原則から、うかつに干渉することができない。
 まして、青嵐会が、青森県連の意向を無視してうごくわけにはいかなかった。
 そもそも、候補が一本化されていない以上、応援にかけつけることすらできないのである。
 沼尾と古川という保守系両候補の背後にいるのが、竹内と田沢の派閥だった。

 ●出稼ぎ労働者に投票を
 わたしと忠岡らがすすめてきた保守系候補の一本化は暗礁にのりあげた。
 あとは、保守系候補のどちらかを勝たせる次善の策に頼るほかなかった。
 開発反対派を退けるには、開発推進派の共倒れという最悪の事態を避けなければならないのである。
 立候補は3人である。
 寺下力三郎(現職反対派)
 沼尾秀夫(保守賛成派)
 古川伊勢松(保守賛成派)
 寺下力三郎には、全野党が反対同盟をつくって、労組らの支援体制も万全であった。
 開発賛成派は、開発反対派の優位に立っているが、候補者が2人に分裂しているので、2位、3位となって、1位を開発反対派に奪われる。
 下馬評は、寺下力三郎が当選で、次点が古川伊勢松だった。
 賛成派の村議21人のうち、沼尾支持派が8人 古川支持派が13人だった。
 反対派を退けるには、古川伊勢松に勝たせる以外、方法はなかった。
 わたしは、中川一郎と知恵を絞って、一つ、妙案を思いついた。
 投票日に、2〜3千人といわれる出稼ぎ人の一部を一時帰郷させるというアイデアだった。
 六ヶ所村の村長選において、2〜3千人有権者数は圧倒的である。
 そのうち一部が帰郷しただけで、現職反対派の寺下力三郎の優位がひっくり返る。
 当初、忠岡とわたしが現地に入って、選挙運動をする計画もあったが、身内意識がつよい村組織のなかで、よそ者が画策すれば、かえって、反発をまねきかねなかった。
 それに比べると、出稼ぎ人の一時帰郷は、灯台下暗しの名案だった。
 青森にもどって、忠岡の小川原湖温泉ホテルで会議を持ち、菊池県議や岡山県議らに表の選挙対策本部を任せ、わたしと忠岡は裏選対≠ノあたることとした。
 裏選対というのは、出稼ぎ人を一時帰郷させ、投票用紙に古川伊勢松の名を書かせることである。
 むつ小川原開発は、第三セクターで、株主が、国や県、財界(150社)の三者で構成されている。
 六ヶ所村村長選の勝敗は、株主であるゼネコンの利害を大きく左右する。
 わたしは、ゼネコン各社に赴いて、12月の投票日に、出稼ぎ人帰郷させるよう説いて回った。
 そのなかで、とりわけ協力的だったのは、国際興業の小佐野賢治社主だった。
 北海道や東北で鉄道やバスなどの運輸交通事業を営む国際興業は、不動産や土地開発にも力を注ぎ、むつ小川原の開発予定地に大規模な投資をおこなっていた。
 小佐野は田中角栄の盟友でもあり、大手ゼネコンにも人脈をもっている。
 六ヶ所村の村長選で古川が落選すれば、開発の縮小や延期を免れないばかりか、投資効果が下がって、むつ小川原開発の株主でもあるゼネコンにとっても大きな損失となる。
 出稼ぎ人に一時帰郷にめどが立って、あとは、投票用紙に「古川伊勢松」と書かせるだけだったが、出稼ぎ人は、もとより、開発に賛成で、なにより、開発反対派の当選をおそれていた。
 12月2日 投票の結果、古川伊勢松が当選した。
 獲得票は2566票で、反対派の寺下力三郎と79票の差であった。
 3位の沼尾の得票1683票と合わせると、賛成派が、全村民の3分の2を占めたことになるが、それにしても、2位の寺下との差がわずか79票だったことを思うと薄氷の勝利だったといえよう。
 こうして、田中角栄の列島改造論で最重要政策だった巨大開発「むつ小川原開発」は開始された。
 
 武士(もののふ)の大義に奉じた 子孫らに
      文明開化の音 いま聞こゆ


 ●むつ小川原開発の影の部分
 月刊誌「二〇世紀」(昭和49年2月号)に「むつ小川原開発の影の部分」という特集記事があって、ジャーナリストの猪野健治が執筆している。
 記事には小見出しが五本立っている。@出稼ぎ村の悲劇A着々進む土地買収B一本化ならずCきらわれた外人部隊D古川支援の影武者――である。
 猪野は、忠岡に取材をかけて、わたしの情報にかんしても、忠岡談となっている。
「古川氏を支援した開発派の忠岡武重氏(むつ小川原湖温泉社長)が舞台裏をぶちまける」とあるのは、六ヶ所村村長選の古川当選が、当時、売れっ子ジャーナリストだった猪野の意表をつくものだったからであろう。
 忠岡は、遊説中のわたしとむつ小川原で出会ったとのべているが、なにかのまちがいで、忠岡とわたしは、旧知の間柄にあって、共に、むつ小川原開発の安藤豊禄社長のほか多くの政界人や財界人と会っている。
 そして、この選挙ののちも、共同で、流通機構改革運動に取り組んでいる(別の項で述べる)。
 忠岡はこうのべている。
「古川・沼尾の一本化工作については、山本さんをとおして、古川支援工作をN先生にお願いした。N先生は青嵐会にはたらきかけ、青嵐会は、古川支援をきめた。ここまでが第一段階です」
 N先生とは中川一郎衆議院議員である。
 記事にはこうある。
「N先生は、忠岡氏に青嵐会の渡辺美智雄、浜田幸一氏らを引き合わせているが、渡辺氏らは、その際、候補を一本化した上て、青森県連の要請があれば」と古川支援に条件を付けた。
 しかし、前述したように、県連の一本化工作は失敗に終って、ビラまでつくりながら青嵐会の古川支援は実現しなかった。

 ●なにもしなかった自民党
 記事にはこうある。
「山本峯章氏は、青森県連に、幾度か足を運んで、候補の一本化をと要請したが、県連には、危機感がなく、山本氏はあきれた」
 危機感がなかったのではなく、青森県連には、打つ手がなかったのである。
 忠岡はこう続ける。
「N先生は国際興業東北グループにはたらきかけ六ヶ所村出身者の帰郷運動をやってくれた」
 これも、忠岡の誤認か猪野の曲解で、N先生こと中川一郎は、わたしの人脈で、国際興業と数社のゼネコンに六ヶ所村出身者の帰郷運動をはたらきかけたのはわたしである。
 国際興業は、第三セクターの株主ではなかったが、むつ小川原開発に多大の先行投資をおこなって、大きな利害関係を持っていた。
 わたしは、これに目をつけて、小佐野を口説いたのである。
 そして、出稼ぎ者にジェット機で帰郷してもらい、投票させるという奇策を実行に移すのである。
 猪野はこう分析する。
 実際、自民党は、この選挙でほとんどなにもしなかった。竹下登副幹事長が来県しているが、これは参院に出馬する鳩山威一郎、佐藤信二両氏の表割りの根回しのためであった。
 そして、猪野は、最後に、わたしのコメントでしめくくる。
「むつ小川原開発は新全総―列島改造論にもとづく巨大開発であり、その成否は、自民党―田中内閣の浮沈にかかわるものだ。県連段階で調整がつかなければ総裁権限で候補一本化をはかってでも必勝を期するべきだった。田中総理はそれをしなかった。勝ったからよかったものの負けていたら、青森県連などは総辞職ものだ。いい加減にしろといいたい」
 六ヶ所村の村長選挙は、薄氷の勝利で、選挙態勢はお粗末の一言につきた。
 自民党本部から、多くの代議士が青森県連に馳せ参じたが、候補の一本化ができなかった県連は、選対本部も設置できない有様だった。
 象徴的だったのが、自民党佐藤寿県議が宣伝カーで、開発推進候補へ投票を呼びかけた珍光景である。
 これでは、有権者は、二人いる開発派のどちらに投票すればよいのかわからない。
 投票開票が終わったその夜、地元の有志の家でささやかな祝杯を挙げた。

 北国の ことば訛りは あたたかき
    いろり囲んで じょんからを謡う 


 あれから50年、今でも菊池県議のご子息 菊池茂さん、青森市の町田さんから地元の名産を送ってこられる。人情衰えずである。

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2020年05月25日

わが青春譜11

 ●連盟会長を継いでくれないか
 西山幸輝から、昭和維新連盟の会長をひきうけてもらえないかと相談をもちかけられた。
 昭和44年の春のことである。
 西山は、政治結社「昭和維新連盟」のほか、財団法人「日本政治文化研究所」や出版事業「日本及日本人社」などの文化的事業を手がけており、大学教授や評論家、作家ら多くの文化人が研究所や財団の理事や顧問を務めていた。
 昭和維新連盟は、反共と国体護持を旗印にする実践的な右翼団体である。
 昭和維新連盟が、学者や文化人がくわわっている「日本政治文化研究所」や「日本及日本人社」の関係団体というのでは、世間の通りがよくなかった。
 西山が、昭和維新連盟から距離をおこうとしたのは無理からぬことであった。
 西山がわたしに白羽の矢を立てたのは、新島闘争と安保闘争を体験してきた経歴をふまえてのことだったと思うが、わたしにも、反共・尊皇思想をきわめたいという気概があった。
 わたしは「日本政治文化研究所」の理事と「日本及日本人社」の役員を辞任して、いわば、身一つとなって、政治運動にのりだしてゆく。
 昭和維新連盟は、新宿大久保通りに面したビル(科研ビル)ワンフロアーを借りきって、そこへ本部を移して、活動を開始した。
 昭和維新連盟の活動については、いずれのべるが、ここでは、独自の活動を展開する異色の存在だったとだけ記しておく。
 この時点で、昭和維新連盟は、三浦義一が顧問をしていた全日本愛国者団体会議(全愛会議)から37年の独立した青年思想研究会(青思会)に加入していた。
 青思会は、児玉誉士夫の影響がつよく、児玉軍団といわれた。

 ●西山、児玉門下に馳せ参じる
 昭和46年4月10日、三浦義一が逝去する。
 三浦の葬儀を終えた数日後、西山幸輝から食事の誘いがあった。
 財団や雑誌社を退職して以来、久々の邂逅であった。
 その席で、わたしは、西山から、思いがけないことを聞かされる。
 三浦義一が、生前、じぶんが死んだ後、児玉誉士夫に相談しなさいといっていたというのである。
 わたしは、三浦義一門下であることを誇りに思っていた。
 昭和維新連盟をひきうけたのも、心のどこかに三浦義一の反共・尊皇思想があったからで、わたしの右翼思想の根幹に三浦がいたことを否定できない。
 西山も、わたし以上、三浦にたいして畏敬の念をもっているはずだった。
 その西山が「児玉門下となる」という。
「三浦義一亡き後、児玉誉士夫が、政財界に大きな影響力をもつことになるでしょう。しかし、児玉には、児玉軍団の青思会を率いる高橋議長ほか、多くの直参がいます。いまから、児玉門下に馳せ参じても、所詮、外様です」
 だが、西山の意思は固く、三浦義一門下をつらぬくべきというわたしの意見は容れられなかった。
 数日後、わたしは、上野の青思会本部に高橋議長を訪ね、脱会を申し入れた。
 その足で、同じ上野にあった全愛会議の本部を訪れ、萩島峯五郎議長と岸本力男事務長に脱退を告げた。
 萩島峯五郎議長とは気が合い、岸本力男事務長は、安保闘争・北海道遠征の戦友である。
 両者からつよく翻意を促されたが、わたしに枉げる気はなかった。
 以後、昭和維新連盟は、どこの組織にも属さない団体として、独自の運動を展開してゆくのはのべたとおりである。
 これら一連の行動は、わたしが独断でおこなったことで、西山は、関与していない。

 ●遠謀の策か、高等な処世術か
 その後、西山は、青思会の事務局に永井龍、全愛会議に吉村法俊を送りこんでいる。
 それが、西山の政治力で、わたしの独断専行で、多少、波風が立った関係を修復したばかりか、児玉の死後、直参の猛者をさしおいて、政財界に影響力をもつ最後の黒幕といわれる存在となった。
 昭和維新連盟時代のわたしが、硬派の力尽くなら、西山は柔軟な知恵尽くのひとで、長いものには巻かれても、ひと扱いや処世術の巧さからのし上がってゆく遠謀の策士であった。
 もともと参議院議員松本治一郎(社会党最高顧問)の秘書として上京、三浦の高弟、関山義人との縁から三浦門下になったひとで、思想的にはわたしよりはるかに柔軟なところがあって、現実的な対応力にもすぐれていた。
 わたしは、昭和49年に、右翼活動から引退して、評論や講演、執筆などの大衆啓蒙運動を開始したので、西山と、やや疎遠になった。
 仄聞するに、晩年の西山は児玉門下ではなく、三浦義一門下を名乗っていたという。
 児玉の軍門に下ったのは、やはり、遠謀の策か、高等な処世術だったようである。
 高杉晋作は倒幕の決意をこう詠んだ。

 西へ行く 人を慕いて 東行く
     わが心をば 神や知るらむ


 西山の心情が少し理解できるような気がする。
 だが、わたしは、頑なに、三浦にこだわった。
 尊王攘夷の志士、平野国臣は、桜島に向かってこう詠じた。

 わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば
     煙はうすし 桜島山


 わたしは、国臣の尊皇の心のはげしさにひかれるのである。


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2020年05月17日

わが青春譜10

 ●三浦義一先生余話
 昭和40年初旬から、中川一郎(衆議院議員)とともに講演・公開討論会を開始した。
 国民啓蒙運動と銘打ち、わたしが経営にくわわった雑誌「日本及日本人」がこの活動の後援に立った。
 この講演・公開討論会が、事実上、わたしの社会運動の第一歩だった。
 この頃、三浦事務所の内田秘書から三浦義一先生のお世話役を仰せつかった。
 三浦先生は、足が少々不自由で、葬儀など外出時に介添え役が必要だった。
 ボディガード的な要素もあって、体格がよかったわたしが目をつけられたのであろう。
 三浦義一は、GHQ参謀第2部(G2)とつながりをもっていた。
 キャノン機関で知られるG2は、反共防諜機関で、日本解体をすすめていた左翼的なGHQ民政局(GS)と対立していた。
 民政局を仕切っていたのが容共派のチャールズ・ケーディスで、反共主義のチャールス・ウィロビー(G2部長)と敵対関係にあった。
 ケーディスを追い落とした女性スキャンダルの裏にいたのが三浦義一だった。
 東京裁判に反対した日本好きのウィロビーと、尊皇思想家である三浦義一の友情の深さは知る人ぞ知る。
 三浦義一は、戦後復興に際して、裏面から日本の政界や財界をささえてきた。
 したがって、三浦先生のお供にあたって、多くの財界人や政界人、文化人と出会うことができたが、終始、「見ざる聞かざる言わざる」を信条としてきたのは、供人の分を忘れたくなかったからである。
 三浦先生が逝去して、約50年、半世紀の歳月が過ぎた。
 戦後の焼け野原からから70年、日本は、世界に類のない復興を成し遂げたが、今日の繁栄や発展が、歴史書に書かれたきれいごとだけで達成されたわけではない。
 若い人は、現在の日本の平和は、憲法9条によってもたらされたという。
 だが、60年安保をたたかった保守派は、日米安保が日本の安全をまもっているというきびしい現実を知っている。
 物事には表と裏がある。格好の良い背広が、けっして表にでてこない裏地にささえられているように、裏地には、裏地の役割がある。
 戦後、占領軍の支配下におかれて、危機に瀕した国体や伝統文化、国家機能をまもってきたのは、保守派で、外国に媚びをうる国際派・容共派ではなかった。
 その保守派の裏側にいたのが、裏地いわゆる黒幕で、三浦がその一人だった。
 明治維新においても、薩長にたいして、会津藩や庄内藩、奥羽列藩同盟以下31藩が敵対したが、国家を思う気持ちにかわりはなかった。
 歴史書には「朝敵」と書かれるが、薩長は天皇を政治利用しただけで、会津藩以下、朝敵と呼ばれた33藩こそ尊皇的だった。
 歴史は、かくも、表面的なもので、昭和史も例外ではない。
 戦後、黒幕と呼ばれた三浦義一が、日本の復興にいかに貢献したいか、いかに政財界に大きな力をもっていたか、かつての側近が、「見ざる 聞かざる 言わざる」を破って その片鱗を語っても、今なら、三浦先生は、わらってゆるしてくださるだろう。

 ●建国記念日の成立について
 昭和25年、サンフランシスコ平和条約の締結によって、日本は独立国家となった。
 その翌年から、国家の誕生日である紀元節復活のうごきが出てきた。
 といっても、紀元節は、昭和23年占領軍によって廃止されている。
 昭和32年、自由民主党は、議員立法として、紀元節に代わる「建国記念日法案」を提出した。
 だが、これを「反動的法案」とする社会党の反対によって、参議院で廃案となった。
 その後、自民党は、建国記念日法案を9回にわたって提出するが、ことごとく、社会党の反対でつぶされる。
 昭和38年、社会党は「建国記念日」にの≠入れる「建国記念の日」の改定案で妥協した。
 社会党が法案にの≠挿入することで妥協したのは、世論の批判があったからである。
「建国記念日」を「建国記念の日」へ修正して、政党の面子をたもとうというのであろう。
 昭和41年、佐藤内閣で「建国記念の日」の祝日法改正案が成立した。
 あとは、建国記念の日を「いつ」にするかだけで、日にちの決定は、有識者による審議会にゆだねられた。

 ●「幹事長、2月11日でなければ責任をとれんぞ」
 昭和41年11月頃、田中角栄幹事長が室町の三浦事務所を訪れた。
 三浦と会談後、部屋の出口で、三浦が田中に念をおした。
「2月11日でなければ責任取れんよ。いいかね、総理にそうつたえてくれんかね」
 田中は、黙って、頭を下げて退出した。
 三浦は、うなずき「うん。これできまった」とつぶやいて、自室に消えた。
 佐藤政権の背後に三浦がいたことは、当時、政界通ならだれもが知るところで、歴代総理大臣にも、これまで、黒幕人脈が隠然たる力をもっていた。
 総理府に設置された「建国記念日審議会」では、6月頃から建国記念の日をいつにするか審議された。
 だが、野党案には、日本の終戦記念日8月15日をあてるべきという国辱的な意見まであって、収拾がつかなかった。
 野党の多くが、日本を否定することが正義というGHQ仕込みの反日主義に立っているので、昭和23年、GHQが否定した紀元節にもとづく2月11日案はどこからもでてこなかった。
 紀元節は、古事記や日本書紀が、日本の初代天皇である神武天皇の即位日をもって定めた祝日で、神武天皇元年の1月1日 (旧暦)を新暦に換算すると2月11日になる。
 尊皇思想家 三浦にとって、日本の建国記念日は2月11日以外あろうはずがなかった。
 三浦が田中につたえた「責任取れんよ」は右翼の動向だったと思われる。
 40年代初めの右翼陣営は、60安保闘争が終わって間もなく、依然として大きな組織力と行動力をもっていた。
 政府も、右翼の存在を無視して、紀元節=建国記念日という民族的テーマをおざなりに扱うわけにはいかなかったのである。
 戦後、占領軍によって廃止された紀元節は、佐藤内閣によって「建国記念の日」として復活して、2月11日が、晴れて、国民の祝日となった。

 ●「永田を車に入れておけ」
 昭和40年代、大相撲の人気力士だった北葉山の結婚披露宴が帝国ホテルの宴会場でおこなわれた。
 三浦は、双葉山会の顧問を務め、相撲界では著名人であった。
 昔は、夜の11時、NHKで「大相撲ダイジェスト」という番組がその日の取り組みを放映したものである。
 その映像に、土俵近くのマス席で観戦する三浦の姿がよく見られた。
 北葉山の結婚披露宴に出席する三浦に、昭和維新連盟の西山幸輝とわたしが同席した。
 三浦は、大好物のスコッチウイスキー「オールドパー」の水割を飲みながら挨拶にくる人々と挨拶を交わし、談笑していた。
 三浦の隣席に座っているのは、銀座の最高級クラブといわれたAのオーナーママで、オールドパーの小瓶をハンドバッグに入れている。
 三浦のグラスが空になると、ママが、ハンドバッグからオールドパーの小瓶をとりだして、水割りをつくって、三浦の前に置く。
 そのうち、大映映画社長の永田雅一が挨拶にやって来た。
 永田は、顔の広い実業家で、政界にも広い人脈をもち、河野一郎衆議院議員や右翼の児玉誉志夫とも近しい怪人物として知られていた。
 女優を妾にしながら「女優を妾にしたのではない。妾を女優にしたのだ」と言い放つ映画界の父、プロ野球の名物コミッショナーで、大言壮語するところから「永田ラッパ」の異名もあった。
 その永田が三浦の脇のママを相手にラッパを吹きはじめた。
 それが、長時間におよんで、だんだん三浦の機嫌がわるくなった。
 わるいことに、三浦のグラスが空になったのを見たホテルのボーイが三浦のグラスを宴会用のウイスキーの入ったグラスと差し替えてしまった。
 とっさのことで、わたしもママも、そのことに気づかなかった。
「これはわたしのとちがうよ」
 三浦の一言で、ママは、あわてて、オールドパーをとりだして三浦の水割をつくった。
 永田は、様子を察して立ち去って、西山のすがたも見当たらない。
 三浦は、憮然として、わたしに命じる。
「永田を車に入れておけ」
 仕方なく、永田社長のところに行くと、永田は「おじいちゃん(三浦のこと)は怒っているか」と聞く。
 わたしがうなずくと、永田は、肩をすくめて宴会場の奥へ消え、わたしは、後姿を見送るほかなかった。
 宴が終わって、わたしが三浦の身体を支えて歩きはじめると、三浦は「永田を車に入れているな」とたずねた。
「すいません。帰しました」
「バカ者、車に乗せておけといったはずだ」
 わたしは謝りながら、ホテルの玄関で待っていた車に三浦を乗せて見送った。
 そのとき、わたしは、エラい人の世界ははかり知れないと思ったものである。
 翌日、日本及日本人社に出社して、もっと驚いた。
 西山によると、その朝、永田が帝国ホテルの総支配人といっしょに、室町の三浦の事務所へ謝罪にきたというのである。
 帝国ホテルの総支配人をつれて謝罪にいった永田もさることながら、天下の永田をそこまで縮みあがらせる三浦義一とは何者なのであろうか。

 ●厚生大臣を一喝
 昔の政治家は、料亭や銀座の高級クラブを利用して、交流を深めた。
料亭政治というのは、赤坂や新橋、神楽坂などの一流料亭を舞台にした政治形態で、政治家の政策や利害の調整から政治家と官僚の交流、大物政治家同士の談合と、これまで、政界史の裏面を飾ってきた。
 議場で多数決を争うだけが政治ではない。
 三浦義一とウィロビーが組んで、GHQ民政局のケーディスを追い落としていなければ、日本は「逆コース(1948年以降、アメリカが対日占領政策を容共から反共へ転換)」へ舵を切ることができず、中国化していた可能性が高い。
 マッカーサー総司令官や民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスらが逆コースに反対したのは、日本の民主化が道半ばと思ったからだった。
 だが、ウィロビーは、直接、国務省に共産主義の脅威をうったえて、本国で「占領軍のマッカーシー」(赤狩りのマッカーシー旋風)とまで呼ばれた。
 ウィロビーのおかげで、日本は、社会主義化を免れたといってよい。
 政治は、いつの世も、議場を超越した次元で、うごくのである。
 三浦も、財界・政界、文化人と一流の料亭で交流した。
 昭和四十年代初め、佐藤内閣において、新潟県選出の渡辺良夫衆議院議員が厚生大臣となった。
 ある日、三浦の供をして、銀座の高級クラブに入った。
 銀座のクラブは8時にオープンするが、客で賑わうのは8時30分をすぎた頃からである。
 一流のホステスは、客と食事にも同伴する。その門限が8時30分である。
 三浦が足を運んだのは、客も疎らな8時頃であった。
 三浦が店内に入ると、奥の席でホステスに囲まれていた渡辺厚生大臣が三浦に気がつき、座ったまま、右手を軽く上げた。
 田中角栄が右手をあげて「よお!」とやるあのポーズである。
 いくら、政治家の場所に不慣れなわたしでも、まずいことになった直感した。
 三浦は、渡辺を無視して、いつもの座る席に座るとわたしに命じた。
「渡辺を呼べ」
「先生、三浦が呼んでいます」
 と告げると渡辺は立ち上がり、三浦の席に歩み寄った。
「お前いつからそんなにエラくなったのだ」
 恐縮している渡辺にむかって、三浦はたたみかけた。
「だれのお陰で大臣になれたのじゃ」
 しばらくして、カウンターの隅からみると、渡辺が、三浦の脇の席に座って談笑していた。
 それが三浦の人柄で、叱るが、からりとして、根を残さない。
 三浦義一が、佐藤栄作内閣に大きな影響力を持っていたことは、政治通ならだれでも知っている。
 焼け野原から、占領時代をへて、独立国家として独自のみちを歩みはじめるまで、きれいごとの民主政治だけで、日本は、はたして、やってこれたであろうか。
 三浦が、戦後政治のなかで、黒幕として、影響力を発揮できたのは、時代の要請だったとしかいいようがないのである。
(この件については別項で述べる)

 ●「岸さん後で電話をくれないか」
 昭和四十四年頃、渋谷の松濤のお寺で、ある政治家の葬儀があった。
 門から葬儀がおこなわれている寺院の建物まで距離があった。
 わたしは、いつものように、三浦の身体をささえて、式場へ向かった。
 そのとき、焼香を終えて戻ってくる岸総理が三浦と鉢合わせになった。
 会釈を交わして、とおりすぎようとしたとき、三浦が立ち止まった。
「岸さん、後で、電話をかけてくれないか」
 岸は、軽くうなずき、そして、三浦も岸も、そのまま、歩き去った。
 そのあと、岸元総理から電話がかかってきたことはいうまでもない。
 戦後の混乱期から経済復興、高度経済成長期にかけて、黒幕と呼ばれる人々が存在したのは事実である。
 岸は、安保闘争の折、児玉誉志夫に、暴力団・テキヤの動員を依頼している。
 池田内閣でも、血盟団事件の実行犯の一人四元義隆が大きな影響力を持っているといわれた。
 昭和25年 日本共産党五全協の暴力革命路線に危機感をつよめた自由党の木村篤太郎法務大臣が、国粋会などを動員して、反共抜刀隊の組織化を図ったが、吉田茂が予算を組まず、結局、流れてしまった経緯についてはすでにふれた。
 60年安保闘争についても、別項で、別働隊について詳細をのべた。
 三浦は、政財界に大きな影響力をもっていたが、力や組織を背景に威を誇るというタイプの人間ではなく、むしろ、歌人や文化人としての品格をただよわせていた。
 34年、右翼が結集した「全愛会議」の最高顧問となって、戦後の右翼界の重鎮となったが、個々の団体と深い関係をむすぼうとはしなかった。
 直接、三浦の影響を受けた団体も、多くはなかった。
 そのうちの一つが、歌道の修業や人格の陶冶、徳性の練磨を重視した大東塾で、顧問をつとめたほか、塾長の影山正治が主宰した「新国学協会」には保田與重郎や林房雄、尾崎士郎らとともに同人として参加した。
 門下生である関山義人の興論社や西山幸輝の昭和維新連盟、そして豊田一夫の殉国青年隊も役職には就かなかった。
 室町の事務所には重苦しさや威圧を感じる堅苦しさはまったくなかった。
 事務所には、内田秘書のほか、側近の大場先生、運転手だけだったが、来客は、財界や政界の大物、文化人らひきもきらなかった。

 ●「指を落として棺に入れる」
 三浦は情に厚く思いやりのある人であった。
『征塵録』などの著者小山田剣南が晩年病床にあったとき、三浦に命じられて赤坂の料亭茄子のスッポン料理をよく運んだ。
 剣南は、大アジア主義を掲げた頭山満の玄洋社の海外工作を担った内田良平の黒龍会の七人衆といわれた人物である。
 部屋は蔵書に埋もれていた。
 わたしは、その内の一冊を手にとって、無遠慮に、これ読みましたかと尋ねたものである。
 剣南は微笑をうかべてうなずいた。
 わたしが手にとったのはマルクスの「資本論」であった。
 このとき、反共右翼は、腕力だけではなく、左翼との論戦にも勝たなければならないと痛感したものである。
 三浦が、血盟団事件の井上日召を、晩年、援助していた話は知る人ぞ知る。
 昭和46年4月 三浦義一は逝去した。
 葬儀のとき、わたしと豊田一夫が、霊柩車まで柩をはこんだ。
 出棺直前に左手に包帯をして、涙をいっぱいためた男が土色に変わった指の一部を棺に納めた。
 男は大東塾の塾生であった。
 三浦は大東塾の顧問でもあった。
 わたしは、神道右翼にそのようなしきたりがあることを初めて知った。
 三浦家の墓は青山墓地にある。
 だが、三浦個人の霊は、国文学者の保田与重郎と共に再建して、滋賀県の史跡となっている義仲寺に眠る。
 この寺には、木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉の墓がある。
 毎年、芭蕉忌がおこなわれ、句会も催されている。
 今でも変わりないことと思う。
 境内には保田与重郎と三浦義一の石文が建立されている。
 三浦の石文にはこんな一首が刻まれている。
 
 としつきは 過ぎにしと思ふ 近江野の
    みずうみのうへを わたりゆく月
 義一

 後年、わたしは、友と京都で一夜を過ごし、一人、翌日、琵琶湖のほとりに建つ義仲寺に足を運んだ。
 そして、三浦義一の石文の前に立って、過ぎ去った歳月を想った。
 
 義仲寺の 尊師義一の 石文を
    よみて寂しき 近江野の秋

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2020年05月07日

わが青春譜9

『魚が逃げる』『いえ、逃げません』
 神津島の佐藤村長が上京して、赤坂のわたしの事務所を訪ねてきた。
 平成に入って、間もない頃で、頼みたいことがあるという。
 神津島に防災無線を設置したいというのである。
 神津島は、新島の隣島で、人口二千人が住む半農半漁の島である。
 過疎化がすすむ全国の離島、伊豆七島でなかで、唯一、人口がふえている島だった。
 佐藤村長は、かつて、三宅島で、防衛施設庁による官民共用空港設置計画が持ち上がった折り、三宅島が受け入れできなかった場合、神津島で検討してもよいとわたしに請け負ってくれた人物で、わたしも信頼をおいていた。
 このとき、施設庁が密かに調整をしたが、航空母艦を想定したタッチアンドゴー訓練の高さは、海抜20〜30mが限界で、予定地が海抜70mの神津島案は、結局、流れた。
 伊豆七島選出の都議に、わたしも応援していた川島忠一がいて、島の発展に力をつくしていた。
 その川島都議がうごいても、人口2千人の島に防災無線を設置する補助金は下りないようであった。
 聞くと、神津島には、隣島の「新島試験場(ミサイル発射)」に関連する補償金や補助金もでていないという。
 わたしは佐藤村長にたずねた。
「ミサイルを試射すると魚が逃げるので、漁師は困っているだろう」
 佐藤村長は首をふった。「いいえ。そんなことはありません」
 ウソもはったりもない実直な人柄に、わたしは思わず苦笑いをうかべた。
 わたしが、防衛施設庁とともに「三宅島官民共用空港」の建設計画をすすめたのは、1984年のことで、このとき、村議会で、いったん、賛成の議決をえた。
 ところが、共産党を中心とする空港誘致に反対するオルグ団のデマゴギーによって、賛成派村議がほぼ全員、次回選挙の出馬辞退を余儀なくされて、誘致が白紙にもどるという苦い経験を味わわされた。
 このとき、オルグ団が流したデマゴギーは、共用空港ができるとジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」「牛が乳を出さなくなる」「漁場から魚がいなくなる」「若い女性がアメリカ兵に襲われる」「婆さんはポン引きになる」というばかばかしいものだったが、真にうけた島民もすくなくなかった。
 わたしは、唯物論の共産党や左翼オルグ団が、科学や合理主義にもとづいてまっとう論理を押し立ててくると思っていただけに拍子抜けした。
 ところが、これが左翼の戦術で、感情にうったえるレベルの低いデマのほうが正論より政治効果が高いのである。
「三宅島官民共用空港」の建設計画は、左翼のデマゴギーに負けたのである。

 数日後、わたしは、佐藤村長とともに防衛施設庁の東京施設局長を訪ねた。
 そして、神津島が新島の隣島で、佐藤村長には、かつて、三宅島の共用空港問題で協力してもらったことなどを話したあと、こう切り出した。
「新島のミサイル試射で、魚が逃げて、新島の漁民が困っているのです」
 佐藤村長は、あっけにとられた顔で、わたしを見ている。
 局長は、じっと話を聞き、うなずいた。
「わかりました。隣島同士の協力はたいせつなことです。検討してみます」
 魚が逃げるという話に根拠がないことなど、局長は、百も承知である。
 だが、神津島に防災無線の予算をつけるりっぱな理由になる。
 わたしは、新島のミサイル試射に関して、神津島に予算面の配慮がなかったことをちくりと衝いておいた。
 そして、ジェット機の爆音で「豚が子を産まなくなる」式の左翼・共産党のデマゴギーの手法を拝借したのである。
 その後、防衛施設庁から予算が下りて、神津島に防災無線が設置されたのはいうまでもない。

 沖合の イカ釣り船の漁火が 
    明々(あかあか)と映えて 海面 (うなも)を染めり


 新島闘争(その後)
 昭和34年、激しい闘争の末 新島村議会はミサイル試射場設置を決議した。
 その後も、反対派は、撤回運動をつづけたが、試射場建設はすすめられた。
 それから、20年近い歳月が流れた昭和50年代の初めであった。
 新島村の村長や商工会長、建設協会長、観光協会長ら、島の有力者が揃ってわたしの事務所にやってきた。
 議会で、ミサイル試射場設置が議決された後、反対派は、支援のオルグ団と組んで、新たな戦術を展開していた。
 ミサイル試射場につうじる道路予定地を封鎖する一坪地主運動などで、建設阻止にむけて、あくまで、徹底抗戦の姿勢を崩していなかった。
 一方、十数年におよんだ法廷訴訟では、建設派が勝訴して、道路建設の許可も出た。
 問題は、港湾部と試射場をむすぶ通称ミサイル道路≠フ建設予算である。
 防衛施設庁は、当初から、港湾と道路の整備を約束している。
 ところが、その約束がはたされていない。
 新島の有力者がわたしの事務所を訪れたのは、そのためであった。
 わたしは、防衛政務次官、衆議院議員浜田幸一と会って、防衛施設庁東京施設局局長の紹介をもらった。
 下で部長に逢ってくれ?
 わたしは、新島の有力者を率いて、浜田幸一議員に指定された時間に局長を訪ねた。
 用件を伝えると、局長は「下で部長に話すように」と上から目線でいう。
「浜田先生から電話が入っているはずですが」とわたしは尋ねた。
「承知している。下で、部長が伺う」
「わたしが、面会をもとめたのは、あなたで、部長ではない」
 わたしは、正面からまっすぐ局長を見すえて、いった。
 先客は、あわてて席を立って、すがたを消した。
 わたしは、新島の有力者に目をやってからいった。
「この島のひとたちがどんな思いで試射場設置の闘争をしてきたのか、あなたはご存じないか。親子、兄弟までが、賛成派と反対派に分かれて、たたかってきた。闘争が終わっても、不和や憎悪という後遺症が残るのが政治闘争です」
 局長はごくりと生唾をのみこんだ。
「下で部長に会えとはなにごとですか。わたしたちの陳情は、局長の案件ではなく、部長案件というのですか」
 それから、新島の有力者をふり返って、低い声でいった。
「帰りましょう。島に帰って、全島挙げて、反対運動をおこないましょう」
 局長が立ち上がって、頭をさげた。わたしたちは、ゆっくり、椅子についた。
 新島全島が、ミサイル試射場設置反対に転じたら、局長の首の一つや二つとんですむ話ではない。
 大きな政治問題に発展する。
 局長は、そのことに気づいて、粛々と陳情をうけたのである。
 国民の意思=政治が、官僚=行政の上位にあるのが国民主権である。
 政府が、大きな政治案件を自治体でおこなう場合、施設やインフラ整備などの付帯条件をつけて、国家と自治体、国民の三者の利害を調整する。
 新島でも、国と、道路や港湾整備、補助金その他の約束を交わしている。
 ミサイル試射場設置という負荷を島民に押しつけて、あとは知らぬ顔というのでは、国民不在の官僚国家となってしまう。
 わたしたちは、ミサイル試射場設置という責務を果たして、条件が整ったので、約束の履行をお願いに行っただけである。
 役人は、権限や権能を行使する公僕であって、権力者ではない。
 権限は制限された権力で、権能は法律上の公的能力でしかない。
 一方、権力は、国民からゆだねられた権力で、頂点に国家主権がある。
 わたしは、政治家から助言をもとめられると、役人とは大いにケンカしろとけしかける。
 役人は、事務能力は高いが、前例主義や規則主義、自己保身やセクショナリズム(縦割り意識)が骨がらみになっているので、政治家がリードしなければ生きた政治がおこなえない。
 役人とはとことんやりあって、話が終ったら、胸襟をひらいて、酒でも飲み交わすべきである。
 すぐれた政治家は、例外なく、役人との信頼関係が深い。
 陳情政治が、政治腐敗の原因というのは、とんでもないいいがかりである。
 政治家が国民の陳情を汲んで、はじめて、政治に血がかよい、政治と官僚、国民の三者のあいだに一体感がうまれる。
 わたしの陳情政治は、ふり返ると長いが、いまなお、お付き合いいただいている村上正邦(元自民党参議院議員会長/元労働大臣)や田中角栄の了解のもと、行動を共にした山下元利(元防衛庁長官)の協力をえてきた。
 いずれ、そのことにもふれることにしよう。

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わが青春譜8

 言論出版妨害事件
 明治大学教授をつとめ、政治評論家となってから、攻撃的で、右翼的な政治論評で一世を風靡した藤原弘達先生と知りあったのは、国民討論会のゲストにお迎えした縁からであった。
 藤原先生の政治論は明快で、根本の考え方は、二元論であった。
 政治家と官僚、国家と国民を二元論で論じて、永遠に争いをくり返す一元論をバッサリと切って捨てた。
 わたしの「国体と政体」「権力と権威」「軍事と文化」の二元論も、多分に藤原先生の影響をうけているはずで、その意味において、わたしの恩師といえる。
 藤原先生は、官僚制や元老政治の研究者で、『官僚/日本の政治を動かすもの(講談社/1964年)『官僚の構造(講談社)1974年』などの著作のほか研究論文に「最後の元老/西園寺公望論」がある。
 わたしの『役人よ驕るな〈官僚がこの国を滅ぼす〉光人社/2004年』や『民主主義が日本を滅ぼす(日新報道 /2010年)も、土台に藤原イズムがあったように思う。
 国民討論会以後、わたしと藤原先生をふたたびむすびつけてくれたのは、日新報道の遠藤留治社長であった
 藤原弘達先生の推薦文を付けるので、創価学会の批判本を書いてもらいたいというのである。
『創価学会を斬る』(藤原弘達著/日新報道/1969年)が世に出てからすでに26年の歳月が流れていた。
 若干の躊躇もあったが、わたしは、藤原先生の意向に応えるべく、ひきうけた。
 それが『池田創価学会の政権略奪を斬る(日新報道/1995年)』だった。
 そこで、わたしは、基礎票をもつ創価学会が自民党にくいこんで、日本の保守政治を骨抜きにするだろうと予言しておいたが、現在、そのとおりになっている。
 遠藤社長との付き合いは古く、1980年代からである。
『国益を無視してまで商売か(グラマン事件と謎のボストンバック)日新報道 /1980年』)『猛毒農薬が日本人を蝕んでいる(日新報道/1981年)』『レポ船の裏側(北方領土問題の核心)日新報道/1982』など、事件がらみの出版が多く、圧力もあったが、遠藤社長はすこしも臆するところがなかった。
『創価学会を斬る』を企画したのも遠藤社長で、このとき、著者の藤原弘達と版元の日新報道にかかった言論弾圧は熾烈なものだった。
 遠藤社長はこうふりかえる。
「組織ぐるみの運動だったのは明らかで、抗議の手紙やハガキがダンボールに何箱にもなった。藤原先生は、執筆中、都内のホテルを転々として、われわれも異動しながら編集作業をおこなった。藤原の自宅には「地獄に堕ちろ」「殺す」などの脅迫電話や手紙が殺到して、警察が家族の警備にあたったほどだった」
 妨害だけではなく、学会側から初版本10万部相当を丸ごと買い取るという条件もだされたというが、遠藤社長も藤原先生も、一顧だにしなかった。
 さらに、公明党の竹入義勝委員長(当時)の依頼を受けた田中角栄が、藤原先生に直接電話をかけ、赤坂の高級料亭で、2度にわたる交渉がおこなわれたという。
 遠藤社長はこう述懐する。
「藤原先生は、料亭で、角栄にむかって『総理総裁をめざしている男が、一言論人、一出版社の表現の自由を奪い、特定の勢力の利益のためにうごいてよいのか』とタンカを切りました。このとき、角栄は『よし、わかった』と潔く仲介役を降りたのです」
 それが、取次店まで巻きこんだ「創価学会・公明党による言論出版妨害事件」の核心で、超ベストセラー、池田大作の「人間革命」を売らせてもらっている取次店も、聖教新聞を印刷させてもらっている三大紙(朝毎読)も創価学会には逆らうことができなかったのである。
 TBS「時事放談」で、病気で降りた小汀利得に代わって、藤原弘達が細川隆元と辛口毒舌をくりだして国民的な人気を博すのはその後のことである。

 藤原先生とともに九州講演
 言論出版妨害事件の騒ぎが冷めやらない昭和四十七年の秋であった。
 九州の蓮尾国政から講演依頼が舞い込んできた。
 藤原弘達先生とわたしに政治問題について語ってもらいたいというのである。
 蓮尾は、福岡県大牟田市の工務店経営者で、のちに福岡県土木組合連合会理事長をつとめることになる有力者で、地元の人望も厚かった。
 愛国者で、わたしが西山広輝からあずけられた「政治結社昭和維新連盟」の九州総本部長を統括していた。
 講演当日、藤原先生は、TBSテレビの番組に出演しておられた。
 わたしの秘書の寺井という青年がテレビ局に迎えに行き、九州大牟田市まで案内して、わたしは、消防署から注意が出るほど満員となった大牟田市民会館で藤原先生をお迎えした。
 講演は大成功で、主催者の蓮尾国政は、講演を終えた食事会で、藤原先生と歓談して、おおいに満足げであった。
 蓮尾は、西山広輝の人脈の一人だが、そのなかで、忘れてはならない人物がいる。
 松本英一(元参議院議員/社会党顧問)先生である。
 部落解放同盟を選挙基盤としたため、社会党党籍だったが、人格識見や政治信条においては保守主義者で、なによりもわが国の歴史や伝統、文化を尊んだ。
 自由主義や民主主義を信奉して、伝統の維持や相続に無関心な自民党の議員に比べて、松本は、はるかに保守的な政治家であった。

 脚注「松本治一郎」/参議院議員・社会党最高顧問/部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟から「部落解放の父」と呼ばれる。堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれて親しまれた。元参議院副議長。

 松本治一郎先生が現職の頃、一緒に上京した英一先生のお伴をして、赤坂の飲食店やクラブで、語り合ったのがよい思い出である。
 治一郎先生亡き後、英一先生は、参議院議員となると同時に、地元の福岡県建設事業協会の会長に就任、同職を長期間つとめた。
 九州へ出張すると、事務所に招かれて、ステーキ定食をご馳走になった。
 じゃが芋を残すと「山ちゃん、じゃが芋は肉の毒を消してくれるよ」と諭すようにいってくれたものである。
 いまは、みな み霊となって、わたしは、過ぎ去った日々を想って、感慨にふけるばかりである。

 うつし世は 生者必滅 会者定離 
    悟らんとしてなほ 侘しさ覚ゆ


 九州講演 その二
 鹿児島県に加藤天界と云う反共尊皇運動家がいた。
 大牟田市の講演から数か月のち、加藤天界が、鹿児島県で、藤原弘達先生とわたしの講演会を開催したいと連絡があった。
 藤原先生にスケジュールを調整してもらい、その日、先生とわたしは、同じ飛行機で鹿児島空港に降り立った。
 空港ロビーから玄関を出ようとすると先生の足がピタッと止まった。
「山本君、あれは」
 玄関口の前で、二十人ほどの青年が隊列を組み、こちらをジーッと見ている。
 加藤天界が迎えに遣わした者たちだったのだが、藤原先生には、正体不明な不気味な集団にしか見えていない。
 豪放磊落にみえても、藤原先生は、東京大学で丸山眞男に師事した学窓育ちである。
 わたしは、藤原先生をロビーの椅子席に待機させ、玄関まで迎えに来ていた加藤天界のグループの解散をたのみ、それから、タクシーで、藤原先生をホテルへ案内した。
 そして、ホテルで、なにくわぬ顔で、藤原先生と加藤天界を引き合わせた。
 先生は、終始、にこやかに微笑をうかべておられたが、空港ロビーでみせた緊張した面持ちは、いまでも、わたしの脳裏に残っている。
 その夜、ホテルの大広間でおこなわれた講演会は、千人近い聴衆で埋まって大盛況で、会場から、会場から多くの激励の声が飛んだ。
「あんた殺されるよ」
 わたしが、しばしば、出版妨害に見舞われたのは、単行本から週刊誌に至るまで、告発記事が多かったせいで、乗組員を装ったやくざがソ連と秘密取引をおこなっていた実態を暴いた『レポ船の裏側』では、出版後、レポ船が一網打尽になって、やくざの恨みを買った。
『要人誘拐(三井物産マニラ支店長誘拐事件)/晩声社/1987年』『佐川急便の犯罪/ぱる出版 1992年)』『富士銀行の犯罪/ぱる出版/1992年』
『橋梁談合の謀略を暴く/ぱる出版/1995年』、では、背後でうごめく暴力団の存在を暴き、「真珠宮ビル事件」では取材にでかけたフィリピンで被害者の一族を救出するという想定外の取材までおこない、JR東日本のスキャンダルでは告発者の身柄を革マル松崎一派からまもった。
 あるとき、わたしの赤坂の事務所に5人の男が乗り込んで来た。
 取材を中止して、いますぐ、書きかけの原稿をひきわたせという。
 断ると「あんた、そのうち殺されるよ」と捨て台詞を残して立ち去った。
 ジャーナリズムにおいて、暴露という表現の自由がゆるされているが、その自由によって、たとえそれが、社会的善であっても、かならず、傷つき損害を被るひとがでてくる。
 事件モノから本格評論へ、わたしがスタンスをかえたのは、ちょうど、そのころだったことを白状しておこう。
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2020年04月27日

わが青春譜7

 経済自立と思想運動
 60年安保という嵐が過ぎ去ったあと、政治の岸内閣から政権をひきついだのが、経済中心の池田内閣だった。
 自民党政治は、鳩山一郎や岸信介ら政治や外交、憲法改正に熱心だった旧日本民主党系と、経済一辺倒の吉田茂以来の旧自由党(保守本流/「宏池会」)系が、交代に政権を担当して、政治と経済のバランスをとってきた。
 そのなかで池田勇人は、佐藤栄作に並ぶ吉田学校の優等生で「経済は池田にまかせなさい」と豪語する経済派だった。
 池田内閣の発足をもって、時代のパラダイムが、政治から経済に移ったとはいえ、右翼のテロ事件や極左の暴力事件(学園紛争/浅間山荘事件/内ゲバ殺人)が、70年安保前後まで、断続的につづく。
 だが、60年安保とちがって、国民の共感をえるどころか、反発と恐怖心、嫌悪を招いただけだった。
 国民の関心は、経済にむけられて、池田の「所得倍増計画」が軌道にのった70年代には、「一億総中流」ということばがうまれた。
 この頃から、地方の中学校卒業者が大都市の企業へ集団で就職する「集団就職」がはじまって、急カーブを描いて成長する経済をささえる若い労働力は「金の卵」と呼ばれた。
 経済成長にともなう労働インフラの整備や人口の大都市集中によって、建築ブームがおきると、一般建築のほか、日本住宅公団や自治体が中心の住宅供給事業もさかんになってきた。
 わたしは、昭和37年、新宿区百人町に、東亜興行という会社をおこした。
 建築現場の清掃人を派遣する人材会社で、折からの建築ブームをみこしたものだったのはいうまでもない。
 仕事の内容は、ゼネコンなど建築事業者が、完成した建物を発注者が引き渡す前のクリーニング(清掃)である。
 仕事は、思ったよりも順調にすすみ、予定よりも多くの作業員を雇うことができた。
 東亜興行をおこした理由は3つあった。
 1つは、経済的自立で、わたしは、政治運動に、経済的自立が不可欠という信念をもっている。
 寄付や賛助金に頼る政治活動が、純粋な志を腐らせ、堕落していう例をいやというほど見てきたからだった。
 2つ目の理由は、新島闘争や安保闘争などで共に闘った仲間や同志に正業の職場を提供したかった。
 3つ目は、思想運動の拠点をつくることで、東亜興行にわたしの個人事務所を併設して、かつての仲間や同志と反共尊皇の政治活動をつづけた。
 昭和39年の春、新島闘争や安保闘争の同志だった吉村法俊が事務所に訪ねてきた。
 吉村は、中堂利夫(アジア反共青年連盟)や山口二矢とともに大日本愛国党をとびだして、防共挺身隊の福田進(福田素顕の長男)らと共闘する右翼活動家で、わたしと意気投合するところが少なくなかった。
 話を聞くと、吉村は、安保闘争後、三浦義一門下の西山幸輝が率いる政治団体(昭和維新連盟)に招かれて、活動しているという。
「いっしょにやってくれないか」
 新宿に事務所を立ち上げて2年目のわたしに吉村の誘いを断る理由はなかった。
 西山は、京橋の「西山幸輝事務所」を拠点に「財団法人・日本政治文化研究所」と「政治結社・昭和維新連盟」という2つの団体を主宰していた。
 さらに、西山は、明治時代から終戦まで刊行されていた『日本及日本人』の版権を日本新聞社から買い取って復刊させる準備をすすめていた。
 西山は、わたしに「日本及日本人」社の営業担当役員と株主をひきうけてほしいという。
 編集や営業は「日本及日本人」社でおこなったが、本の発送は、すでにのべたように日本学生同盟の学生に協力してもらった。
 そのなかに、三島由紀夫とともに市ヶ谷の自衛隊本部へのりこんで割腹自殺した森田必勝がいた。
 新島闘争でともにたたかった山口二矢も「日本及日本人」社でともに働いた森田必勝も、愛国の烈士だが、わたしの印象に残っている面影は、あどけない少年のものだった。

 わたしは「日本及日本人」の出版をつうじて、政治運動が力ずくや手練手管だけの世界でないことを知った。
 政治は、文化活動でもあって、そのなかに、出版や講演、討論会などがふくまれる。
 60年安保で、自民党は、団体右翼からアウトローまで動員して、反対運動をおさえこんだ。
 その後、全学連や極左集団は、分裂と内ゲバで自滅してゆくが、日本の隅々にまで浸透した左翼や反日、反伝統主義、GHQが仕込んでいった亡国思想には拭いがたいものがあった。
 政治は、権力で、革命活動やテロは、警察力でおさえこむことができる。
 だが、日本は、政体のほか、2000年の国体をもった伝統国家である。
 警察力や自衛隊で、権力をまもることができる。
 だが、国体を危うくする文化侵犯を武力でまもることはできない。
 文化の侵犯にたいしては、文化をもって防衛しなければならない。
 それには、啓蒙活動が、必要なのではないだろうか。
 60年安保で、右翼は、自民党からの要請をうけて、左翼の暴力にたいして暴力をもってたちむかった。
 しかし、右翼は、自民党という権力(=政体)から利用されただけだった。
 右翼がまもるべきは、権威(=国体)で、自民党や警察に利用される道具であってはならない。
 文化防衛は、言論によって、なされるべきではないか。

  衆議院議員 中川一郎と共に啓蒙運動
 昭和40年代の三派全学連や全共闘の学園紛争や東大闘争が掲げたスローガンに日米安保条約の破棄があった。
 日米安保条約は、条約当事国の片方が破棄宣言をしないかぎり自動継続する。
 したがって、70年安保は、争点にならなかったが、左翼は、安保をタテに政治をゆさぶった。
 すべて、デマゴギーだが、ファシストも共産主義者も、大衆運動に、デマゴギーを欠くことはできないと、公然とみとめている。
 それなら、デマゴギーを粉砕する正論でたたかいを挑んでいこう。
 相談にのってくれたのは、大野伴睦の秘書時代から親しくさせてもらった中川一郎(衆議院議員)だった。
 中川一郎を大会委員長、わたしと五味武(国会タイムズ社長)が世話人をつとめて新宿文化会館で第一回国民討論大会を開催した。
 テーマは「安保は国民に幸せをもたらすか」で、当時、日本人は、日米安保条約がなんたるものか、まったく知らなかった。
 マスコミが、感情的な反対論とデマゴギーをくりだすだけで、内情をなにも知らせなかったからである。
 第1回大会国民討論会 大会委員長/中川一郎(衆議院議員)
 講師/長谷川仁(参議院議員)/源田実(参議院議員)/戸川猪佐武(評論家)/田中栄一(衆議院議員)/藤島泰輔(作家)/山岩夫(日大教授)
 国民討論会では、講演の後、講師と聴衆が活発に質疑応答をおこなった。
 講師と聴衆がその場で直接ことばをやりとりすることで、会場は、おおいにもりあがった。
 第一回大会が成功裏に終って、第二回目からは、わたしが主催者となって、年4回のペースで、討論会形式の講演会を継続することにした。
 第2回大会国民討論会(新宿厚生年金会館)
 講師/村松剛(評論家)/戸川猪佐武(評論家)/齋藤栄三郎(評論家)
 第3回大会国民討論会(東商ホール)
 講師/鵜沢義行(日大教授)/戸川猪佐武(評論家)長谷川仁(参議院議員)
 以下、そのほかの講師の氏名だけを記す。
 大森実(評論家)/中山正暉(衆議院議員)、村上兵衛(評論家)船戸英三(領土問題研究家)/黛敏郎(音楽家)/多田真鋤(慶應大学教授)/深谷崇(衆議院議員)御手洗辰男(評論家)/山岩夫(日大教授)/浜田幸一(衆議院議員)/藤原弘達(評論家)
 わたしは、東亜興行の経営をまかせて、「日本及日本人」の出版と国民討論会に熱中するが、やがて、西山幸輝や三浦義一先生との関係が深まって、わたしの人生航路は大きく転換する。
 そのことについては、別項でふれよう。
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2020年04月09日

わが青春譜6

全日本愛国者団体会議
(右翼結集/全愛会議結成)

 1959年(昭和34年)。右翼団体の連合体として国内最大となる「全日本愛国者団体会議」が設立された。
 綱領は「国体護持、反共戦線」の二点だけだった。
 右翼は、世俗的政党のように、共通の目的や政策を掲げて、政権をもとめる意図も経験も、歴史ももっていない。
 綱領が二点に絞られたのは、右翼は、思想や行動も、一人一党のお山の大将だったからで、大同をとって、小異を捨てたのである。
 発会時、参加したのは、全国80団体だったが、5年後の1964年(第6回大会)には440団体に増加した。
 戦前戦後をつうじて、同じ旗の下に、かくも多くの右翼が、同志的結束心をもって集結した例はない。
 右翼が、大同団結ができた理由の一つは、日本共産党・全学連・労組ら革命勢力の大躍進であった。
 昭和23年の総選挙で35議席を得た日本共産党の暴力革命(五全協)路線にくわえて、三池争議や砂川闘争、そして、60年安保闘争によって、体制維持が危険水域にたっして、右翼陣営に危機意識が高まった。
 もう一つの理由は、議長や顧問らが、右翼史に名を残すカリスマ性をもっていたことだった。
 初代議長をつとめたのが佐郷屋嘉昭(日本同盟)で、佐郷屋亡き後は、小崎金蔵(日本同盟)、高橋正義(日乃丸青年隊)、西山幸輝(昭和維新連盟)、荻島峯五郎(日本国粋会前川一家総長)らが議長団を形成した。
 最高顧問には、戦後最大の黒幕といわれた三浦義一、血盟団事件の井上日召、五・一五事件の橘孝三郎、児玉機関の児玉誉士夫が就任した。
 このほか、新日本協議会や日本郷友会など自民党の外郭団体がくわわった。
 全愛会議の活動の中心となったのは青年部だった。
 高橋正義(義人党のち青思会議長)
 石井一昌(護国団団長)
 福田進(防共挺身隊)
 吉村法俊(全アジア反共連盟のち昭和維新連盟)
 遠井司郎(靖國会・司山會)
 小林健(愛国青年連盟)
 筑紫次郎(東洋同志会)
 わたしも、若輩ながら青年部の幹部として、会議や情宣活動にくわわった。
 佐郷屋留雄議長や井上日召最高顧問が意気軒昂な時代だった。
 この青年部が40〜50年代の民族主義運動の柱となってゆく。
 昭和37年、全愛会議青年部の一部が、児玉誉志夫の影響下で、高橋正義を議長とする青年思想研究会として独立、児玉軍団と呼ばれるようになる。

 脚注「五全協」/日本共産党が第5回全国協議会(1951年)で採択した綱領。暴力革命必然論にもとづく武装闘争方針で、この綱領の下で、交番襲撃などの暴力事件が次々とおきる
 脚注「佐郷屋留雄」/濱口雄幸首相暗殺未遂犯。玄洋社系愛国社党員。1930年、東京駅ホームを移動中の濱口雄幸首相を銃撃、重傷を負わせる。佐郷屋は現行犯逮捕された。濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。佐郷屋は殺人罪により死刑判決を受けるが恩赦で無期懲役に減刑された。事件から10年後、仮出所する。1954年、血盟団事件の首謀者である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、後に団長となる。1959年に全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
 脚注「橘孝三郎」/国家主義運動家。農本主義を唱え、愛郷塾を創立して青年を指導。五・一五事件に塾生を率いて参加する。出獄後、著作活動に専念。全愛会議の最高顧問
 脚注「児玉誉志夫」/政財界の黒幕として活動。ヤクザやテキヤ、任侠、裏社会にもつよい影響力を持っていた。戦時中、上海の「児玉機関」や軍需物資鉱山などの利権でえた数億ドルの資金で、戦後の政界を牛耳った。結党資金を提供した鳩山一郎(日本民主党)のほか、三木武吉や岸信介、河野一郎らと親しく、次期総理大臣を岸から大野伴睦に譲り渡す誓約(河野一郎と佐藤栄作が署名)の立会人もつとめた。安保闘争時、木村篤太郎は、ヤクザ・右翼の動員をはかったが、児玉は、その世話役をはたした。
 脚注「井上日召」/一人一殺≠フ血盟団事件の首謀者として無期懲役。1940年、特赦を受けて出獄。1954年、佐郷屋嘉昭と護国団を結成、初代団長。全愛会議最高顧問。右翼活動から引退後、三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。
 脚注「血盟団事件」/1932年におきた連続テロ事件。井上準之助と團琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶、井上日召の国家改造計画。「政財界の指導者暗殺と海軍のクーデターを連動させて、天皇中心の国家革新を実現させる」という構想だった。犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らが暗殺対象として挙げられた。

 自民党と暴力団
 岸信介首相が、川島正次郎(自民党幹事長)や橋本登美三郎(「アイク歓迎実行委員会」を介して、児玉誉士夫に右翼団体や暴力団の取りまとめを依頼したのは、警察の警備不足を補うためだった。
 陸上自衛隊の治安出動は、赤城宗徳防衛長官が、辞表を懐に岸首相の要請を断っている。
 国会を取り巻いた30万人(警視庁発表13万人)をこえるデモ隊が労組や全学連らの指導で革命軍化すれば、血のメーデー事件をはるかにこえる体制の危機が生ずる。
 血のメーデー事件では、警官隊の数倍のデモ隊が襲いかかって、死者2人に重軽傷者1500人という大惨事になった。
 児玉は「警官補助警備力」として、芝の御成門周辺だけで、稲川組5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、神農愛国同志会(博徒・的屋連合)10000人の配置をきめたが、この打ち合わせに警視庁も同席していたという。
 児玉の「東亜同友会」(全国博徒による反共組織)構想は、錦政会と山口組が衝突したグランドパレス事件(昭和38年))で流れるが、松葉会、錦政会、住吉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会が児玉の呼びかけに応じて、「関東会」を結成する。
 関東会は、加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200人に送りつける。
 政治に介入してきた暴力団にたいして、権力は反撃に転じる。
 昭和39年(1964年)1月に「暴力取締対策要綱」が閣議決定されると同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置、山口組(神戸)、本多会(神戸)、柳川組(大阪)、錦政会(熱海)、松葉会(東京)の5団体を広域暴力団と指定して、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始するのである。

 ヤクザと縁を切った池田政権
 日米安保条約は1960年6月19日に自然成立。同月21日に批准されて昭和天皇による公布。そして、同月23日の条約発効をもって岸首相は退陣を表明した。
 同年7月19日。池田勇人内閣が成立すると、反対運動は急激に退潮した。
 安保反対が、強行採決反対と岸内閣打倒へ傾いて、安保改定への反対運動という性格が薄くなっていたためであろう。
 岸首相は、総辞職の前日(7月15日)、暴漢に襲撃され重傷を負った。
 動機は、安保問題ではなく、岸が、大野へ政権を禅譲する密約を反故にしたためで、犯人は、大野伴睦と縁のある人物だったという。
 児玉誉士夫が立会人になって、岸から河野一郎、河野から大野伴睦へ政権をたらい回しにする約束がまもられなかったとするもので、念書には佐藤栄作の署名もあったとつたえられる。
 ヤクザとむすびついていたのは、岸信介や河野一郎、大野伴睦ら政治路線派で、河野らと親しい関係にあった児玉は「関東会」の名で、自民党の全議員に警告状を送りつけていた。
 政権は、岸の政治路線から、すでに、経済路線派の池田勇人に移っている。
 池田・佐藤ら官僚派は、怯えるどころか、反撃に出る。
 とりわけ、所得倍増論の池田は、高度経済成長という大展望の下で、寛容と忍耐の政治を打ち出したばかりで、支持率も上がって、自信を深めていた。
 浅沼稲次郎刺殺事件や家政婦と夫人が殺傷された嶋中事件、クーデター未遂(三無事件)や河野一郎邸放火のような殺伐とした事件が相次ぎ、国民は政治の時代にうんざりもしていた。
 池田内閣は、1961年、「政治的暴力行為防止法案」を国会に提出した。
 団体活動としての政治的暴力行為を禁じるものだったが、労組への適用をおそれた社会党の反対で、衆議院で可決されたものの、参議院で廃案となった。
 政暴法は廃案になったが、警察当局は、この法案をきっかけに、街宣右翼や過激派への取締りを強化してゆく。

 右翼と反共
 右翼の尊王は、国体思想のことで、国体の中心におられるのが天皇である。
 歴史や伝統、文化などの国体を敬うことと天皇を敬愛することは同じ次元にあって、それが、伝統国家である。
 伝統国家が、国体と政体の二重構造(二元論)になっているのはいうまでもない。
 政体とは、権力構造のことで、強者の論理である権力は、ときには、野蛮で暴力的なものとなる。
 国体と政体、権威と権力の二重構造にあるわが国では、権力(幕府)に施政権の正統性を授ける権威(朝廷)が、権力の暴走をおさえこんできた。
 永遠の権威、国体が、一過性の権力、政体を監視するのである。
 この歴史的仕組みは、現在も、天皇の国事行為や三権の長の認証などとして残っている。
 国体をまもる右翼は、文化の防衛者で、天皇の防人である。
 民を大御宝として慈しむ皇祖皇宗の大御心が、日本の右翼にとって、まもるべき唯一のものなのである。
 天皇=国体の最大の敵が共産主義革命である。
 反共・防共を特化した右翼が反共右翼である。
 60年安保で、自民党に利用されたのが、この反共イズムで、右翼団体だけではなく、任侠や博徒、広域暴力団が、政治結社の看板を上げて左翼革命勢力にたちむかった。
 このとき、右翼は、国体の防人ではなく、政体の守護者となった。
 日米新安保条約が批准されて、全学連や極左、過激労組などによる暴力革命の危機は去った。
 危機をのりこえた政府が、それまで利用してきた暴力団右翼の排除に動いたのは、むしろ当然で、任侠や博徒、広域暴力団は、政治結社の看板を下ろして元の家業にもどっていった。
 一方、右翼は、もともと、文化の防衛者で、国体の防人である。
 政治問題に立ち上がったのは、共産主義革命から国体をまもるためだった。
 自民党がリベラル保守なら、右翼は、ラジカル保守で、伝統主義者である。
 民主主義を奉る自民党は、けっして、保守主義政党ということはできない。
 自民党は、政体に属する集団で、目的は、権力の獲得と運用である。
 一方、右翼は、国体の側にあって、国体の象徴たる天皇の防人である。
 右翼と自民党が手をむすぶのは、価値観や歴史観が近いからである。
 だが、世俗的権力をもとめる自民党と、超俗的権威をまもる右翼は、同列にあるわけではない。
 まして、右翼は、自民党の補完勢力ではない。
 60年安保という革命の危機に右翼は、左翼の暴力に暴力で対抗しただけである。
 嵐が去って、日本は、経済大国の道を歩みはじめた。
 右翼は、ふたたび、天皇をまもる草莽の志士へと立ち返っていったのである。

 君臣が 一つとなりて栄えたる 
   大和島根に 在わす喜び

 民の幸 神に祈れる すめらぎを 
   神に見立てて 永久の国体

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2020年03月18日

わが青春譜5

 嶋中事件のこと
 昭和36年2月1日、中央公論社の社長、嶋中鵬二宅に右翼の少年(小森一考)が侵入、嶋中家の家政婦を刺殺、嶋中夫人に重傷を負わせる事件がおきた。
 動機は、前年11月発売の『中央公論(12月号)』に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』が天皇を冒?しているという理由からだった。
 小説の主人公が見た夢(風流夢譚)という設定で、内容は、朝日新聞ですら非人道性と指摘した支離滅裂なものだった。
 天声人語(昭和35年12月1日)にこうある。
「読んで見るとひどいものだ。皇太子殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリが振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音を立ててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の首なし胴体などとを書いている。過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であってもそれ程問題になるまいが、現に生きている実在の人物を実名のまま処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するというほかない」
(右翼の動向)
 浅沼事件がさめやらぬ同年11月発売された中央公論(12月号)に載った「革命によって天皇家の人々の首が落とされる話」が、右翼にとって見逃しにできない重大事だったのはいうまでもない。
 右翼団体の多くが、ポスターや看板、飛行機ビラ散布までして、中央公論社に抗議をおこない、糾弾や威圧、ときには、暴力的行為にもおよんだ。
 中央公論社は12月号で「お詫び」を掲載したほか、編集長を更迭するなどして、事態が収拾にむかった矢先に、大江健三郎が、翌年1月発売の文学界二月号で、山口二矢をモデルに、右翼青年の性と天皇崇拝をからめて「政治少年死す―セブンティーン第二部」という天皇批判的な小説を発表した。
 これで、沈静方向にむかっていた右翼の抗議にふたたび火がついた。
(政府の動き)
 宮内庁は「皇室の名誉を棄損する」と抗議を発表。宮内庁が皇室に代わって民事訴訟をおこなう案も検討されたが、実現には至らなかった。
 このとき、神社本庁は、不敬罪の復活を主張したが、自民党は政治問題化を避けている。
(深沢擁護論)
「ブラックユーモア」「荒唐無稽なフィクション」「パロディ(嵐山光三郎)」という擁護論のなかに、石原慎太郎や武田泰淳の賛辞、三島由紀夫の推薦(三島はのちに否定)もあったのは注目に値する。
 文学という特殊な文化のなかにおいて、なんらかの価値があったのかもしれないが、文学の門外漢である一般人や右翼にとっては、ただの不敬で、歴史や国体にたいする侮辱以外のなにものでもなかったのである。
 評論家の丸山真男は、言論や表現の自由は、節度をもって行使されるべきと前置きして「表現の自由における節度は、それぞれの内面的良心に従って判断されるべき問題(毎日新聞/昭和36年2月1日)と書いた。
 節度とは度をこさない適当なほどあいという意味合いであろう。
 そして、それが、内面的良心に従って判断する問題だと丸山はいう。
 天皇一家や皇太子一家が革命で首を切られて、その首が金属的な音を立ててスッテンコロコロころがっていくとする表現が、度を越さない適当なほどあいで、深沢の節度の範囲というつもりなのだろうか。
 節度は良心、心の問題で、人間の社会の根本である。
 だが、良心や節度だけで国家の政治は成り立たない。
 社会は、性善説と性悪説の二面性からできているからである。
 節度や良心だけで国を治めてゆくことができれば申し分ないが、人間はかならずしも善良ではないので、同時に法やルール、規制を定めて、国家の運営にあたらねばならない。
 それが法治社会で、これは、規制がはたらいている社会ということである。
 自由は、規制の内にあって、身勝手な自由は、却って、不自由なのである。
 そこで、強者の論理である自由主義に対抗する政治手法として、弱者の論理である民主主義という制度がうまれた。
 平等・公平・自由・人権・福祉などの民主主義の理念は、自分勝手で野蛮な自由主義を規制して実現されるもので、規制がなければ、弱者救済という民主主義の理想は達成できない。
 われわれの民主主義は、全体主義の人民民主主義ではなく、自由民主主義であって、個が尊重されている。
 宗教や政治には狂気がひそんでいて、節度や理性で、深層心理に眠っている狂気を抑えることはできない。
 丸山のいう内面的良心や節度で狂気をコントロールできないので、法治社会においては法が動員されるが、法をこえる手段も、可能性として存在する。
 民主主義は、強者の論理を抑える政治的原理であって、悪や強者を抑えこむ道徳的原理ではない。
 闘争や多数決、そして、テロリズムは、強者に対抗する手段で、民主主義においては、これを防ぐいかなる方法も、ゆるされていない(たとえば予防拘束)のである。

 戦後左右両翼の主たる動き
(右翼のこと)
 戦前の右翼は、占領軍によって、約二〇〇団体が解散命令をうけ、くわえて公職追放令によって指導者を失って、致命的打撃を受けた。
 占領下において、右翼は、完全に封じ込まれて、国体運動も不能になったのである。
 昭和26年、日本はサンフランシスコ条約を締結して、独立国となった。
 同年、保守政治家や右翼要人も公職追放解除となった。
 この年、いち早く全国の右翼団体を糾合して、全国愛国者懇親会をたちあげたのが福田素顕(狂介)だった。
 追放命令が解除されたのち、右翼運動家を組織化したのは、福田の懇親会と日本青少年善導協会が最初で、懇親会は、35年に「大日本愛国団体連合」として、二十八団体を糾合、時局対策協議会(時対協)を併置して今日に至っている。
 素顕は、堺利彦や大杉栄、高畠素之ら国家社会主義者やアナキストなどとの交わりが深かったが、その後、右翼運動に転向している。
 わたしとともに新島闘争にくわわり、後に全愛会議の青年部結成に参加した防共挺身隊の福田進は、素顕の息子である。
 わたしは、昭和30年代初め、反共活動家 清水亘とともに素顕の勉強会に参加している。
 そこで出逢ったのが、八丈島出身の浅沼美智雄やキリスト教の牧師で、戦後、反共運動家に転じた荒原牧水、治安確立同志会会長の高津大太郎ら多くの運動家で、福田や吉村も仲間だった。
 福田進や吉村法俊(のちに昭和維新連盟)は、銀座四丁目の交差点に面した鳩居堂ビルの二階に事務所を構え、朝から晩まで軍歌を流していたが、当時はそれがゆるされた時代だった。
 新島ミサイル闘争の賛成派オルグとして、ともにたたかう以前の話である。

 日本共産党合法化―その後
 1922年の結党以来、日本共産党は、非合法の存在だった。
 日本がポツダム宣言を受諾すると、連合軍が進駐して占領政治がはじまった。
 非合法だった日本共産党は、GHQの民主化指令にもとづいて合法化されると、戦時中、収監されていた幹部も解放されて、以後、活発な活動を開始する。
 1945年11月8日の党大会(四全協)は、非合法だった昭和元年の三全協以来、19年ぶりの会議で、合法化されてのちの初めての協議会となった。
 同党大会で採決された行動綱領によると、連合軍を軍国主義からの解放軍とみなし、連合軍の本土進駐によって、日本に民主主義革命の端緒が開かれるに至ったと占領軍による日本占領を手放しで評価している。
 そして、天皇制の打倒や人民共和政府の樹立などの戦略目標を掲げた。
 合法政党となった昭和21年4月の選挙で、5議席を得ると、昭和24年の総選挙では、衆議院選挙で35議席と大躍進をはたして、保守陣営に危機感がひろがった。

 コミンフォルムの批判により武装闘争へ
 ところが、四全協で決議された「平和的手段によって日本の解放と民主的な変革を達成する」とする方針が、コミンフォルムからの批判をうけて、転換を余儀なくされる。
 昭和26年10月の五全協で採択された綱領には、暴力革命必然論に拠って立つ武装闘争方針が示されて、この綱領にもとづいて、全国的に、騒擾事件や警察襲撃事件などの暴力的破壊活動がくり返されてゆく。
 〇白鳥警部射殺事件(27年1月21日)
 〇大須騒擾事件(27年7月7日)
 〇神宮外苑広場に於ける血のメーデー事件(27年5月1日)
 〇地下トラック部隊(日本共産党特殊財政部事件)
 〇火炎ビン闘争(火炎瓶で交番を襲撃、警官を負傷させ、殺害した)
 〇山村工作隊(中国共産党に倣って農村を拠点とした革命運動)

 候補者全員落選
 21年5議席、24年の総選挙で35議席と大躍進をした共産党が、五全協で暴力革命路線を採用した後の27年10月の選挙では全員落選した。
 コミンフォルムの批判によって、平和主義革命路線を捨て、暴力主義革命へ切った舵が国民にまったく受け入れられなかったのである。

 六全協で戦術転換
 昭和30年7月。第六回全国協議会(六全協)において、劇的な戦術転換がおこなわれた。
 武装蜂起から平和路線(議会内革命)への転進である。
 火炎ビン闘争や山村工作隊は放棄されたが、暴力革命そのものが否定されたわけではなかった。「左冒険主義という戦術上の誤りを犯した」という自己批判が六全協の総括であった。
 昭和33年7月の第七回党大会で、暴力革命必然論を立てた五全協の決定は一部の過激分子(所感派)によるものと責任を転嫁して、廃棄された。
 だが、36年7月の第八回党大会では「二段階革命方式を盛り込んだ綱領を採択している。二段階革命方式は、ブルジョア民主主義革命+社会主義革命の二重革命で、民主主義から社会主義への移行である。
 日本共産党の共産主義革命は、民主主義的平和論を説きながら続行されているのである。
 日本共産党が、六全協以降、放棄した武装闘争路線を受け入れられない急進的な学生党員らは、共産主義同盟(ブント/全学連)や新左翼などの過激派となっていく。

 反共抜刀隊構想と頓挫
 51年の公職追放解除で、活動を再開した右翼や保守政治家にとって最大の危機は、共産主義革命で、日本共産党や社会党、日教組や労組連合は、公然と革命を唱え、とりわけ、日本共産党は、五全協の決定にもとづいて武装闘争を展開していた。
 共産党や職業的革命家に煽られて労働者が蜂起すれば、警察力だけでおさえこむことは不可能で、当時の警察予備隊が保安隊から陸上自衛隊へ昇格するのは54年(昭和29年)である。
 51年の秋に反共啓蒙運動をおこなう「日本青少年善導協会」が設立されたが、啓蒙運動や研修会などで、暴力革命を防衛できるはずはなかった。
 のちに初代の法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官をつとめることになる法務総裁の木村篤太郎は、このとき、全国の博徒・テキヤ・愚連隊を結集した二十万人「反共抜刀隊」の編成という構想を立て、着々と手を打ってゆく。
 木村は、GHQから解散命令をうけていた大日本国粋会理事長梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請、梅津は断ったが、「刑法を改正して、賭博行為の逮捕は現行犯に限定する」という約束を交わして、梅津の協力をとりつけた。
 1951年12月6日、梅津が音頭をとって、上野精養軒に、関東の親分衆が集って「共産党が武装蜂起した場合、任侠や博徒、テキヤが協力して実力で打倒する」という誓約がなされた。
「反共抜刀隊」構想に反対したのが吉田茂だった。
 吉田は、日本共産党などが政府転覆をはかった場合、在日米軍に鎮圧させるという。事実、旧安保には内乱鎮圧≠ニいう項目があったが、内乱の鎮圧を外国の軍隊に頼って、独立国家ということはできない。
 岸信介の新安保(60年)で内乱条項が削られたのはいうまでもない。
 吉田の経済優先主義は、国家の独立や主権までを危うくするリスキーなものだったのである。

「アイク歓迎実行委員会」
「反共抜刀隊」に次いで、自民党が本格的に任侠団体を動員しようと画策したのは60年安保闘争においてだった。
 60年6月19日にアメリカのアイゼンハワー大統領・の訪日が予定されていたが、これに反対していた反安保勢力は、アイゼンハワーの来日にあわせて空前の大衆動員をかけると予想された。
 左翼の反安保・反米闘争が、ソ連の支援のもとで、暴力革命へ飛び火しないという保証はなかった。
 政府自民党(「安全保障委員会」)は「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げると、会長の橋本登美三郎を介して、戦後右翼の大物、児玉誉士夫に協力をもとめる。
 革命勢力の増大に危機感をつのらせた自民党は、ふたたび、任侠勢力の組織的動員に期待をかけたのである。
 作家、猪野健治の調査によると、集められる博徒は1万8000人、テキヤ1万5000人、旧軍人消防関係4000人、宗教団体など1万人、右翼団体4000人、その他5000人で、テキヤの召集にあたったのは尾津喜之助と関口愛治、博徒の召集にあたったのは稲川裕芳だったという。
 この動員計画が、結果として、右翼とヤクザの境界線をぼやかして、両者を暴力集団という一つの括りに入れてしまった。
 任侠勢力は、世俗の集団で、あるのは、思想ではなく、力や経済である。
 一方、右翼は、思想家、思想集団で、暴力は、思想や行動原理の一部である。
 右翼のテロは、思想からにじみだしたもので、利害得失など、世俗的な原理から切り離されている。
 爆弾を投げて大隈重信の暗殺をはかった玄洋社元社員の来島恒喜がその場でみずからの喉を突き、浅沼稲次郎を暗殺した山口乙矢が、東京拘置所で首を吊ったのは、思想は、自死をもって、完結するからである。
 生命を思想とひきかえにするのが右翼なら、生命を世俗の経済や権力などに懸けるのが任侠で、右翼と任侠の死生観は、水と油ほど異なるのである。
 60年安保に象徴される政治の時代が終わると、自民党は、右翼や任侠団体と絶縁して、商法改正などで、資金源を断った。
 任侠系団体は、政治結社の冠を返上して、右翼活動から撤退した。
 任侠は世俗にもどって、右翼は、思想という聖域に引き返したのである。
 昭和30年代がテロの時代となったのは、60年(昭和35年)の安保闘争を中心とした大衆運動の盛り上がりが右翼に共産主義革命の危機感を高まらせた結果で、70年(昭和35年)の安保自動延長以後、革命の危機が遠のくと右翼テロもなりをひそめる。

 ※脚注/30年代の右翼テロ
 ●「河上社会党代議士殺人未遂事件」(昭和35年6月)河上丈太郎社会党顧問がナイフで切りつけられて左肩部に全治3週間の負傷
 ●「岸首相傷害事件」(昭和35年7月14日)岸信介首相が登山ナイフで切りつけられて左臀部に全治2週間の負傷
 ●「浅沼社会党委員長殺人事件」(昭和35年10月12日)日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が山口二矢に刺殺される
 ●「嶋中事件」(昭和36年2月1日)天皇や皇室にたいする不敬な小説を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した
 ●「三無(さんゆう)事件」(昭和36年12月)「無税・無失業・無戦争」の実現と共産革命の殲滅を訴え、34人の元軍人・実業家が検挙されたクーデター未遂事件
 ●「河野邸焼き討ち事件」(昭和38年7月15日)右翼の野村秋介が自民党の河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入。放火して建物は全焼した。

(岸内閣と安保改定)
 昭和32年2月25日。病気で倒れた石橋内閣をひきつぎ、東條内閣で商工大臣をつとめた岸信介が第五十六代内閣総理大臣に就任した。
 戦前、反米だった岸が、一転して、親米内閣の宰相となったのである。
 岸は、鳩山内閣(昭和三十年八月)の幹事長として、重光外相とダレス国務長官の会談に同席して、条約の対等化や日本の防衛など、吉田がむすんだ安保条約の改定をもとめた重光の提案が、このとき、ことごとく拒絶された現実を目のあたりにしている。
 旧安保条約では、アメリカは、日本のどこにでも駐留基地を建設できるにもかかわらず、アメリカが日本をまもる義務は明文化されていなかった。
 岸は、対米従属と片務性がつよい条約を解消して、アメリカとともにソ連や中国と対抗できる、日米が対等な立場に立った同盟を望み、日本がアメリカのよきパートナーである印象をあたえようとした。
 その矢先、ジラード事件が起きる。
 昭和32年1月 米兵ジラードが群馬県相馬ヶ原演習地で農婦を射殺したのである。
 ところが、地位協定や日米安保のとりきめで、裁判権は日本になかった。
 国民は激高して、結局、日本は裁判権をえたが、殺人事件の有罪判決だったにもかかわらず執行猶予という不透明なもので、後日、これが、日本側の譲歩だったことが外務省の「戦後対米外交文書公開」で明らかになる。
 旧安保条約は、戦勝国と敗戦国の不平等条約で、これを対等な同盟にかえるにあたって、岸や重光ら戦時内閣の旧閣僚(重光は東条内閣の外相)が払った努力はなにものにもかえがたい。
 昭和32年1月。岸は、2月に駐日マッカーサー大使と会談して、4月には安保改定と沖縄返還を協議している。
 同年5月、日本の防衛力強化を謳った国防基本方針を閣議決定すると、安保改定へむかってうごきだした。
 それには、自由主義陣営の立場から、国際共産主義への対決姿勢を明らかにして、日本の共産化というアメリカの懸念を払拭する必要があった。
 同年6月。岸は、アイゼンハワー大統領と首脳会談をおこない、安保改定の検討を約束させた。
 アイゼンハワーのこの約束を現実のものとさせる出来事がおきる。
 当時、米ソは、宇宙開発を競っていた。
 32年、ソ連はスプートニク1号の打ち上げに成功して、アメリカをリードするのである。
 毛沢東の「東風が西風を制した」の発言もあって、左派は勢いづいた。
 社会党浅沼委員長の『米国は日中共同の敵』という発言がマスコミで大きく扱われるなど、日本国内で、徐々に、親ソ親中、反米のムードが醸し出されていった。
 アメリカが、日米安全保障の条約の改定を決断したのは、日本を自由陣営にとりこんで、反ソ・反中の砦にするという意志がはたらいたからで、アメリカも危機感をもったのである。
 昭和35年1月。岸は全権団を率いて訪米する。
 そして、アイゼンハワー大統領と会談後、新安保条約が調印された。
 残るスケジュールは新安保条約の批准とアイゼンハワー大統領の訪日だけとなった。
 そして、同年から翌年にかけて、60年安保騒動がひきおこされるのである。
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