●むつ小川原開発の影武者 昭和48年初秋、わたしの事務所に、小川原湖温泉社長の忠岡武重が訪ねてきた。
忠岡は、わたしの旧い友人で、青森県の小川原湖の湖畔で温泉宿を経営しているが、旅館のほうは人任せで、本人は東京に住んでいる。
のちに、わたしと共に社会事業をおこなうことになるが、その件については後述しよう。
このとき、わたしは、忠岡から、六ヶ所村の村長選挙への協力を頼まれる。
六ヶ所村は、田中角栄の日本列島改造論で、一躍、有名になったむつ小川原開発の中心となった地区で、現在、原子燃料サイクル施設などの原子力施設や国家石油備蓄基地、風力発電基地などエネルギー関連施設が集中している。
だが、当時は、ワカサギやシラウオなどの漁獲量が豊富な小川原湖を擁する以外、これといった売り物がない、青森県下北半島の太平洋岸に位置する半農半漁の村でしかなかった。
忠岡の話によると、開発賛成派と反対派がしのぎをけずっている村長選挙の背景には、自民党がすすめてきた新全国総合開発計画という国家プロジェクトがあるという。
六ヶ所村は、国・自治体・財界が一体となった大型の国家事業(新全国総合開発計画)における苫小牧に次ぐ目玉で、村長選で開発推進派が負けるようなことになれば、当時、数兆円規模といわれたむつ小川原開発が後退して、六ヶ所村は、経済発展の恩恵に浴することができない。
六ヶ所村村長選挙が、開発計画に大きな影響をあたえるとあって、提唱者である自民党が全力をあげると思いきや、忠岡の話では、かならずしもそうではなかった。
忠岡は、わたしに、ある財界人に会ってもらいたいという。
忠岡に案内されたのは東京駅の近くにある日本ビルディングに入居している「むつ小川原開発株式会社」という第三セクター(官民共同事業体)だった。
「新全国総合開発計画」におけるむつ小川原開発は、トロイカ方式と呼ばれるもので、財団や企業らが土地買収と工業用地の造成分譲、計画や調査の業務をそれぞれ分担しあっている。
むつ小川原開発株式会社の資金30億円も、北海道東北開発公庫と青森県が50% 残る50%は経団連傘下の150社の共同出資によるものだった。
社長室で待っていたのはむつ小川原開発の社長をつとめる安藤豊禄(元小野田セメントの社長)だった。
長年、経団連の理事をつとめている財界の大物だが、気さくで率直、驕ったところがなかった。
忠岡と安藤のやりとりから、六ヶ所村の村長候補の一本化に難航しているとわかった。
安藤が忠岡にたずねた。「県連(自民党青森県連)で調整できないものだろうか」
村長選で開発推進派が負けるようなことになると、大幅な計画縮小どころか六ヶ所村の開発計画が頓挫しかねない。
忠岡と安藤の懸念はそこにあった。安藤がずばりと切りこんできた。
「あなたは中川さんと近いとうかがっているが」
安藤がいう中川とは衆議員議員の中川一郎のことである。
だが、福田に私淑する中川は、福田の緊縮財政論に近く、大規模開発による土地価格の高騰やインフレを招く田中角栄の積極財政には批判的だった。
一方、中川は、青嵐会の代表として、多くの右派議員に支持されている実力者で、将来の総理候補として頭角をあらわしつつあった。
安藤から、直接、協力をもとめられて、わたしは、忠岡と共に開発推進派の力になろうと意を決めて、その日、むつ小川原開発株式会社を後にした。
●出稼ぎ村 むつ小川原六ヶ所村 青森県上北郡六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所を主体とする大規模臨海工業地帯を整備する計画がもちあがったのは昭和30年代末頃だった。
その計画が、昭和四十四年五月 田中角栄内閣の「新全国総合開発計画」として閣議決定されて、実行段階に移された。
対象地域は、むつ市やなど16市町村におよんだが、開発の中心は、青森県の下北半島太平洋岸に位置するむつ小川原港の六ヶ所村が中心であった。
六ヶ所村を中心とする一帯に石油化学コンビナートや製鉄所、火力発電などを建設する世界最大の開発といわれたむつ小川原開発計画は、石油危機などによって、縮小を余儀なくされる一方、原子力関連施設が進出してきて、今日のすがたになった。
開発の中心となった六ヶ所村や周辺の地域は、半農半漁で、毎年2〜3千人の人々が、家族と離れて、出稼ぎで現金収入をもとめる土地柄であった。
秋の刈り入れが終わると、家族と別れて都会へ出稼ぎに行き、春の雪解けに帰って、田植え作業するケース、一年をとおして出稼ぎに出るケースと事情はさまざま異なっても、この時代、むつ小川原および六ヶ所村は、貧しい北国の出稼ぎの村であった。
どじょっこやふなっこが遊ぶ 雪解けに
おどうは帰る 手みやげもって ●戊辰戦争で敗れた会津の斗南藩 青森県の東北部、下北地方に位置するむつ市は、かつて、斗南藩と呼ばれた地域と重なる。
斗南藩は、戊辰戦争に敗れて、領地を没収された会津藩が再興をゆるされて移住した藩で、多くの旧藩士が移住して開墾にあたったが、痩せた土地と寒冷による不作や飢饉によって、多くの死者を出し、次第に離散していった。
北辺の地で、薩長政府への復仇を誓って斗南「南(薩長)と斗(戦)う」と名乗った斗南藩士だったが、その誓いはたっせられなかった。
その後、明治4年の廃藩置県で斗南県となったが、同年九月、青森県に編入されて、その名も消えた。
廃藩置県が敷かれても、戊辰戦争で朝敵となった会津藩士が住む北の果てに薩長政府の恩恵はおよぶことがなく、文明開化と呼ばれる近代化もこの地には無縁だった。
むつ小川原開発計画は、明治維新以降、時代から取り残されて、半農半漁と出稼ぎで成り立っていた斗南という因縁の地にようやく訪れてきた恵みの風であった。
尊皇の 武士共(もののふ)が 朝敵と
なりておちゆく 北の地の果て ●開発派、選挙とリコールで敗ける 出稼ぎという労働形態から抜け出して、一年をとおして、家族がいっしょに暮らせる環境をつくるのが六ヶ所村の願いで、青森県政や県議会も同じ思いをもっていたのはいうまでもない。
昭和44年5月30日、列島改造論にもとづく田中角栄の「新全国総合開発計画」が閣議決定されると、開発地区に指定されたむつ小川原および六ヶ所村はわきたった。
ところが、左翼が、むつ小川原および六ヶ所村開発の反対に回った。
左翼の反対は、正当な根拠や理由にもとづくものではない。
反対が先にあって、これを合理化するために、根拠や理由をこじつけるのである。
むつ小川原および六ヶ所村開発反対の理由が、企業公害であった。
誘致された企業が廃液を垂れ流して、人間が住めないほど自然が破壊されるというのである。
昭和44年12月、六ヶ所村の村長選挙がおこなわれた。
六ヶ所村助役と自民党県連事務局長の一騎打ちとなったが、助役の寺下力三も県連事務局長の沼尾秀夫も同じ保守系で、開発問題について、両者に大きな見解のちがいはなかった。
選挙の結果、寺下力三が当選した。
ところが、選挙が終わると、寺下が反対派に豹変して、開発反対をうったえるという想定外の事態が発生した。
これに呼応して、反対派が、六ヶ所村開発反対同盟を結成すると、賛成派も立ち上がって、六ヶ所村は、開発反対同盟と開発賛成派が対立する政治闘争の場と化していった。
三宅島の防衛施設庁の官民共同空港誘致や新島ミサイル試射場設置闘争でも経験したことだが、住民をまきこんだ政治闘争には、左翼(日本共産党ら)がオルグ団を送りこんでくる。
デマゴギーで住民を煽るなどは序の口で、思想的洗脳やイデオロギー教化をおこない、その結果、地域のみならず、親子や兄弟までが対立するハメになる。
雑誌『世界(1986年6月号』)に鎌田慧が「暗躍するフィクサー」という記事(183〜196P)でわたしを誹謗しているが、鎌田は成田空港闘争の当事者で「マスコミ九条の会」呼びかけ人をつとめる左翼作家である。
その鎌田の著作に『六ヶ所村の記録』というノンフィクションがある。
同書の内容紹介に「冷害や凶作が相次ぐ不毛の土地、下北半島の六ヶ所村に次々とみまう開発の波」とある。
これが左翼の論理で、開発で多くの人々がうける恩恵には目をむけず、自然破壊という大衆受けするスローガンを立てて、貧しさや後進性から抜けだそうとする人々のねがいを踏みにじるのである。
左翼オルグ団は、選挙が終わると、六ヶ所村を去って行く。
あとに残るのは、イデオロギー対立の傷痕と両派の不信と憎しみ、反目だけである。
左翼は、村民の対立を煽り、闘争実績を誇るが、あとは野となれ山となれの論理で、村の発展や人々の幸などは端から眼中になかった。
反対同盟は、社会・共産両党に公明党をくわえた野党共闘体制に青森県下の労組や公害反対をスローガンとする左翼系の団体が総動員された磐石の体制であった。
これに対抗するのが自民党県連と六ヶ所村の「五派協議会」だった。
左右対立構造のなかで、賛成派村議による寺下村長のリコール運動がおきたが、結果は、小差で開発派が負け、反対運動に勢いがついた。
●一本化ならずば青嵐会動けず 昭和48年にはいって、村長選挙(12月)の運動が加熱してきた。
むつ小川原開発は、田中内閣が政治生命をかける国家的な大事業である。
村長選は、その成否を左右しかねない大事な選挙である
自民党青森県連にとっても、是が非でも、勝利をもぎとらなければならない小さい村の大きな選挙だった。
だが、障害が立ちはだかった。
共に賛成派の沼尾秀夫と古川伊勢松が互いに一歩も譲らないのである。
候補を一本化しなければ、反対派に漁夫の利を奪われるのは目にみえている。
だが、地元の有力者で、共に多くの公職に名を連ねる著名人である両人とも譲る気はなかった。
背景にあるのが、青森県県政における二大派閥の勢力争いだった。
一つは、知事とその子息である衆議院議員竹内黎一(県連会長)が形成する多数派の竹内派である。
もう一つは、小派閥ながら、大平派の幹部で、中央政界で大きな力をもっている田沢吉郎衆議院議員の影響をうけるグループである。
青森県政では、竹内派と田沢グループが主導権争いをくりひろげていた。
県連は、48年6月頃から、一本化工作にのりだしたが、難航した。
結局、竹内派と田沢グループの調整がつかないまま村長選挙を迎えるはめになる。
わたしと忠岡は、のちに知事となる北村副知事やむつ小川原地方を選挙地盤とする菊池・岡山両県議と幾度か会って、候補一本化の案を練った。
この選挙に負ければ、貧困や出稼ぎによる家族崩壊など、六ヶ所村の悲劇が将来へもちこされることになる。
当時、ケガで松葉杖をついていた北村副知事も、菊池・岡山両県議も悲壮な覚悟で候補の一本化にあたったが、沼尾・古川両候補は一歩も譲らず、ついに11月25日の告示日を迎えることになる。
●中川一郎(青嵐会)と密議 忠岡がわたしを訪ねてきて、「むつ小川原開発会社」の安藤豊禄社長に会った折、青嵐会代表の中川一郎代議士の名が出たのは、わたしが、中川と個人的に親しかったからだった。
わたしが、この件で、中川一郎議員に協力をもとめたのはいうまでもない。
六ヶ所村は、国家的事業である田中角栄の「列島改造論」の目玉というべきむつ小川原開発の中心地である。
むつ小川原開発の浮沈がかかっている六ヶ所村の村長選挙が、自民党はむろんのこと、自民党若手中堅議員の集まりである青嵐会の関心を呼ばないわけはなかった。
だが、青森県連では、竹内黎一と田沢吉郎という地元選出の2人の国会議員が、長年、勢力をもっていて、自民党本部も、普通選挙法の原則から、うかつに干渉することができない。
まして、青嵐会が、青森県連の意向を無視してうごくわけにはいかなかった。
そもそも、候補が一本化されていない以上、応援にかけつけることすらできないのである。
沼尾と古川という保守系両候補の背後にいるのが、竹内と田沢の派閥だった。
●出稼ぎ労働者に投票を わたしと忠岡らがすすめてきた保守系候補の一本化は暗礁にのりあげた。
あとは、保守系候補のどちらかを勝たせる次善の策に頼るほかなかった。
開発反対派を退けるには、開発推進派の共倒れという最悪の事態を避けなければならないのである。
立候補は3人である。
寺下力三郎(現職反対派)
沼尾秀夫(保守賛成派)
古川伊勢松(保守賛成派)
寺下力三郎には、全野党が反対同盟をつくって、労組らの支援体制も万全であった。
開発賛成派は、開発反対派の優位に立っているが、候補者が2人に分裂しているので、2位、3位となって、1位を開発反対派に奪われる。
下馬評は、寺下力三郎が当選で、次点が古川伊勢松だった。
賛成派の村議21人のうち、沼尾支持派が8人 古川支持派が13人だった。
反対派を退けるには、古川伊勢松に勝たせる以外、方法はなかった。
わたしは、中川一郎と知恵を絞って、一つ、妙案を思いついた。
投票日に、2〜3千人といわれる出稼ぎ人の一部を一時帰郷させるというアイデアだった。
六ヶ所村の村長選において、2〜3千人有権者数は圧倒的である。
そのうち一部が帰郷しただけで、現職反対派の寺下力三郎の優位がひっくり返る。
当初、忠岡とわたしが現地に入って、選挙運動をする計画もあったが、身内意識がつよい村組織のなかで、よそ者が画策すれば、かえって、反発をまねきかねなかった。
それに比べると、出稼ぎ人の一時帰郷は、灯台下暗しの名案だった。
青森にもどって、忠岡の小川原湖温泉ホテルで会議を持ち、菊池県議や岡山県議らに表の選挙対策本部を任せ、わたしと忠岡は裏選対≠ノあたることとした。
裏選対というのは、出稼ぎ人を一時帰郷させ、投票用紙に古川伊勢松の名を書かせることである。
むつ小川原開発は、第三セクターで、株主が、国や県、財界(150社)の三者で構成されている。
六ヶ所村村長選の勝敗は、株主であるゼネコンの利害を大きく左右する。
わたしは、ゼネコン各社に赴いて、12月の投票日に、出稼ぎ人帰郷させるよう説いて回った。
そのなかで、とりわけ協力的だったのは、国際興業の小佐野賢治社主だった。
北海道や東北で鉄道やバスなどの運輸交通事業を営む国際興業は、不動産や土地開発にも力を注ぎ、むつ小川原の開発予定地に大規模な投資をおこなっていた。
小佐野は田中角栄の盟友でもあり、大手ゼネコンにも人脈をもっている。
六ヶ所村の村長選で古川が落選すれば、開発の縮小や延期を免れないばかりか、投資効果が下がって、むつ小川原開発の株主でもあるゼネコンにとっても大きな損失となる。
出稼ぎ人に一時帰郷にめどが立って、あとは、投票用紙に「古川伊勢松」と書かせるだけだったが、出稼ぎ人は、もとより、開発に賛成で、なにより、開発反対派の当選をおそれていた。
12月2日 投票の結果、古川伊勢松が当選した。
獲得票は2566票で、反対派の寺下力三郎と79票の差であった。
3位の沼尾の得票1683票と合わせると、賛成派が、全村民の3分の2を占めたことになるが、それにしても、2位の寺下との差がわずか79票だったことを思うと薄氷の勝利だったといえよう。
こうして、田中角栄の列島改造論で最重要政策だった巨大開発「むつ小川原開発」は開始された。
武士(もののふ)の大義に奉じた 子孫らに
文明開化の音 いま聞こゆ ●むつ小川原開発の影の部分 月刊誌「二〇世紀」(昭和49年2月号)に「むつ小川原開発の影の部分」という特集記事があって、ジャーナリストの猪野健治が執筆している。
記事には小見出しが五本立っている。@出稼ぎ村の悲劇A着々進む土地買収B一本化ならずCきらわれた外人部隊D古川支援の影武者――である。
猪野は、忠岡に取材をかけて、わたしの情報にかんしても、忠岡談となっている。
「古川氏を支援した開発派の忠岡武重氏(むつ小川原湖温泉社長)が舞台裏をぶちまける」とあるのは、六ヶ所村村長選の古川当選が、当時、売れっ子ジャーナリストだった猪野の意表をつくものだったからであろう。
忠岡は、遊説中のわたしとむつ小川原で出会ったとのべているが、なにかのまちがいで、忠岡とわたしは、旧知の間柄にあって、共に、むつ小川原開発の安藤豊禄社長のほか多くの政界人や財界人と会っている。
そして、この選挙ののちも、共同で、流通機構改革運動に取り組んでいる(別の項で述べる)。
忠岡はこうのべている。
「古川・沼尾の一本化工作については、山本さんをとおして、古川支援工作をN先生にお願いした。N先生は青嵐会にはたらきかけ、青嵐会は、古川支援をきめた。ここまでが第一段階です」
N先生とは中川一郎衆議院議員である。
記事にはこうある。
「N先生は、忠岡氏に青嵐会の渡辺美智雄、浜田幸一氏らを引き合わせているが、渡辺氏らは、その際、候補を一本化した上て、青森県連の要請があれば」と古川支援に条件を付けた。
しかし、前述したように、県連の一本化工作は失敗に終って、ビラまでつくりながら青嵐会の古川支援は実現しなかった。
●なにもしなかった自民党 記事にはこうある。
「山本峯章氏は、青森県連に、幾度か足を運んで、候補の一本化をと要請したが、県連には、危機感がなく、山本氏はあきれた」
危機感がなかったのではなく、青森県連には、打つ手がなかったのである。
忠岡はこう続ける。
「N先生は国際興業東北グループにはたらきかけ六ヶ所村出身者の帰郷運動をやってくれた」
これも、忠岡の誤認か猪野の曲解で、N先生こと中川一郎は、わたしの人脈で、国際興業と数社のゼネコンに六ヶ所村出身者の帰郷運動をはたらきかけたのはわたしである。
国際興業は、第三セクターの株主ではなかったが、むつ小川原開発に多大の先行投資をおこなって、大きな利害関係を持っていた。
わたしは、これに目をつけて、小佐野を口説いたのである。
そして、出稼ぎ者にジェット機で帰郷してもらい、投票させるという奇策を実行に移すのである。
猪野はこう分析する。
実際、自民党は、この選挙でほとんどなにもしなかった。竹下登副幹事長が来県しているが、これは参院に出馬する鳩山威一郎、佐藤信二両氏の表割りの根回しのためであった。
そして、猪野は、最後に、わたしのコメントでしめくくる。
「むつ小川原開発は新全総―列島改造論にもとづく巨大開発であり、その成否は、自民党―田中内閣の浮沈にかかわるものだ。県連段階で調整がつかなければ総裁権限で候補一本化をはかってでも必勝を期するべきだった。田中総理はそれをしなかった。勝ったからよかったものの負けていたら、青森県連などは総辞職ものだ。いい加減にしろといいたい」
六ヶ所村の村長選挙は、薄氷の勝利で、選挙態勢はお粗末の一言につきた。
自民党本部から、多くの代議士が青森県連に馳せ参じたが、候補の一本化ができなかった県連は、選対本部も設置できない有様だった。
象徴的だったのが、自民党佐藤寿県議が宣伝カーで、開発推進候補へ投票を呼びかけた珍光景である。
これでは、有権者は、二人いる開発派のどちらに投票すればよいのかわからない。
投票開票が終わったその夜、地元の有志の家でささやかな祝杯を挙げた。
北国の ことば訛りは あたたかき
いろり囲んで じょんからを謡う あれから50年、今でも菊池県議のご子息 菊池茂さん、青森市の町田さんから地元の名産を送ってこられる。人情衰えずである。