2020年04月27日

わが青春譜7

 経済自立と思想運動
 60年安保という嵐が過ぎ去ったあと、政治の岸内閣から政権をひきついだのが、経済中心の池田内閣だった。
 自民党政治は、鳩山一郎や岸信介ら政治や外交、憲法改正に熱心だった旧日本民主党系と、経済一辺倒の吉田茂以来の旧自由党(保守本流/「宏池会」)系が、交代に政権を担当して、政治と経済のバランスをとってきた。
 そのなかで池田勇人は、佐藤栄作に並ぶ吉田学校の優等生で「経済は池田にまかせなさい」と豪語する経済派だった。
 池田内閣の発足をもって、時代のパラダイムが、政治から経済に移ったとはいえ、右翼のテロ事件や極左の暴力事件(学園紛争/浅間山荘事件/内ゲバ殺人)が、70年安保前後まで、断続的につづく。
 だが、60年安保とちがって、国民の共感をえるどころか、反発と恐怖心、嫌悪を招いただけだった。
 国民の関心は、経済にむけられて、池田の「所得倍増計画」が軌道にのった70年代には、「一億総中流」ということばがうまれた。
 この頃から、地方の中学校卒業者が大都市の企業へ集団で就職する「集団就職」がはじまって、急カーブを描いて成長する経済をささえる若い労働力は「金の卵」と呼ばれた。
 経済成長にともなう労働インフラの整備や人口の大都市集中によって、建築ブームがおきると、一般建築のほか、日本住宅公団や自治体が中心の住宅供給事業もさかんになってきた。
 わたしは、昭和37年、新宿区百人町に、東亜興行という会社をおこした。
 建築現場の清掃人を派遣する人材会社で、折からの建築ブームをみこしたものだったのはいうまでもない。
 仕事の内容は、ゼネコンなど建築事業者が、完成した建物を発注者が引き渡す前のクリーニング(清掃)である。
 仕事は、思ったよりも順調にすすみ、予定よりも多くの作業員を雇うことができた。
 東亜興行をおこした理由は3つあった。
 1つは、経済的自立で、わたしは、政治運動に、経済的自立が不可欠という信念をもっている。
 寄付や賛助金に頼る政治活動が、純粋な志を腐らせ、堕落していう例をいやというほど見てきたからだった。
 2つ目の理由は、新島闘争や安保闘争などで共に闘った仲間や同志に正業の職場を提供したかった。
 3つ目は、思想運動の拠点をつくることで、東亜興行にわたしの個人事務所を併設して、かつての仲間や同志と反共尊皇の政治活動をつづけた。
 昭和39年の春、新島闘争や安保闘争の同志だった吉村法俊が事務所に訪ねてきた。
 吉村は、中堂利夫(アジア反共青年連盟)や山口二矢とともに大日本愛国党をとびだして、防共挺身隊の福田進(福田素顕の長男)らと共闘する右翼活動家で、わたしと意気投合するところが少なくなかった。
 話を聞くと、吉村は、安保闘争後、三浦義一門下の西山幸輝が率いる政治団体(昭和維新連盟)に招かれて、活動しているという。
「いっしょにやってくれないか」
 新宿に事務所を立ち上げて2年目のわたしに吉村の誘いを断る理由はなかった。
 西山は、京橋の「西山幸輝事務所」を拠点に「財団法人・日本政治文化研究所」と「政治結社・昭和維新連盟」という2つの団体を主宰していた。
 さらに、西山は、明治時代から終戦まで刊行されていた『日本及日本人』の版権を日本新聞社から買い取って復刊させる準備をすすめていた。
 西山は、わたしに「日本及日本人」社の営業担当役員と株主をひきうけてほしいという。
 編集や営業は「日本及日本人」社でおこなったが、本の発送は、すでにのべたように日本学生同盟の学生に協力してもらった。
 そのなかに、三島由紀夫とともに市ヶ谷の自衛隊本部へのりこんで割腹自殺した森田必勝がいた。
 新島闘争でともにたたかった山口二矢も「日本及日本人」社でともに働いた森田必勝も、愛国の烈士だが、わたしの印象に残っている面影は、あどけない少年のものだった。

 わたしは「日本及日本人」の出版をつうじて、政治運動が力ずくや手練手管だけの世界でないことを知った。
 政治は、文化活動でもあって、そのなかに、出版や講演、討論会などがふくまれる。
 60年安保で、自民党は、団体右翼からアウトローまで動員して、反対運動をおさえこんだ。
 その後、全学連や極左集団は、分裂と内ゲバで自滅してゆくが、日本の隅々にまで浸透した左翼や反日、反伝統主義、GHQが仕込んでいった亡国思想には拭いがたいものがあった。
 政治は、権力で、革命活動やテロは、警察力でおさえこむことができる。
 だが、日本は、政体のほか、2000年の国体をもった伝統国家である。
 警察力や自衛隊で、権力をまもることができる。
 だが、国体を危うくする文化侵犯を武力でまもることはできない。
 文化の侵犯にたいしては、文化をもって防衛しなければならない。
 それには、啓蒙活動が、必要なのではないだろうか。
 60年安保で、右翼は、自民党からの要請をうけて、左翼の暴力にたいして暴力をもってたちむかった。
 しかし、右翼は、自民党という権力(=政体)から利用されただけだった。
 右翼がまもるべきは、権威(=国体)で、自民党や警察に利用される道具であってはならない。
 文化防衛は、言論によって、なされるべきではないか。

  衆議院議員 中川一郎と共に啓蒙運動
 昭和40年代の三派全学連や全共闘の学園紛争や東大闘争が掲げたスローガンに日米安保条約の破棄があった。
 日米安保条約は、条約当事国の片方が破棄宣言をしないかぎり自動継続する。
 したがって、70年安保は、争点にならなかったが、左翼は、安保をタテに政治をゆさぶった。
 すべて、デマゴギーだが、ファシストも共産主義者も、大衆運動に、デマゴギーを欠くことはできないと、公然とみとめている。
 それなら、デマゴギーを粉砕する正論でたたかいを挑んでいこう。
 相談にのってくれたのは、大野伴睦の秘書時代から親しくさせてもらった中川一郎(衆議院議員)だった。
 中川一郎を大会委員長、わたしと五味武(国会タイムズ社長)が世話人をつとめて新宿文化会館で第一回国民討論大会を開催した。
 テーマは「安保は国民に幸せをもたらすか」で、当時、日本人は、日米安保条約がなんたるものか、まったく知らなかった。
 マスコミが、感情的な反対論とデマゴギーをくりだすだけで、内情をなにも知らせなかったからである。
 第1回大会国民討論会 大会委員長/中川一郎(衆議院議員)
 講師/長谷川仁(参議院議員)/源田実(参議院議員)/戸川猪佐武(評論家)/田中栄一(衆議院議員)/藤島泰輔(作家)/山岩夫(日大教授)
 国民討論会では、講演の後、講師と聴衆が活発に質疑応答をおこなった。
 講師と聴衆がその場で直接ことばをやりとりすることで、会場は、おおいにもりあがった。
 第一回大会が成功裏に終って、第二回目からは、わたしが主催者となって、年4回のペースで、討論会形式の講演会を継続することにした。
 第2回大会国民討論会(新宿厚生年金会館)
 講師/村松剛(評論家)/戸川猪佐武(評論家)/齋藤栄三郎(評論家)
 第3回大会国民討論会(東商ホール)
 講師/鵜沢義行(日大教授)/戸川猪佐武(評論家)長谷川仁(参議院議員)
 以下、そのほかの講師の氏名だけを記す。
 大森実(評論家)/中山正暉(衆議院議員)、村上兵衛(評論家)船戸英三(領土問題研究家)/黛敏郎(音楽家)/多田真鋤(慶應大学教授)/深谷崇(衆議院議員)御手洗辰男(評論家)/山岩夫(日大教授)/浜田幸一(衆議院議員)/藤原弘達(評論家)
 わたしは、東亜興行の経営をまかせて、「日本及日本人」の出版と国民討論会に熱中するが、やがて、西山幸輝や三浦義一先生との関係が深まって、わたしの人生航路は大きく転換する。
 そのことについては、別項でふれよう。
posted by office YM at 15:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月09日

わが青春譜6

全日本愛国者団体会議
(右翼結集/全愛会議結成)

 1959年(昭和34年)。右翼団体の連合体として国内最大となる「全日本愛国者団体会議」が設立された。
 綱領は「国体護持、反共戦線」の二点だけだった。
 右翼は、世俗的政党のように、共通の目的や政策を掲げて、政権をもとめる意図も経験も、歴史ももっていない。
 綱領が二点に絞られたのは、右翼は、思想や行動も、一人一党のお山の大将だったからで、大同をとって、小異を捨てたのである。
 発会時、参加したのは、全国80団体だったが、5年後の1964年(第6回大会)には440団体に増加した。
 戦前戦後をつうじて、同じ旗の下に、かくも多くの右翼が、同志的結束心をもって集結した例はない。
 右翼が、大同団結ができた理由の一つは、日本共産党・全学連・労組ら革命勢力の大躍進であった。
 昭和23年の総選挙で35議席を得た日本共産党の暴力革命(五全協)路線にくわえて、三池争議や砂川闘争、そして、60年安保闘争によって、体制維持が危険水域にたっして、右翼陣営に危機意識が高まった。
 もう一つの理由は、議長や顧問らが、右翼史に名を残すカリスマ性をもっていたことだった。
 初代議長をつとめたのが佐郷屋嘉昭(日本同盟)で、佐郷屋亡き後は、小崎金蔵(日本同盟)、高橋正義(日乃丸青年隊)、西山幸輝(昭和維新連盟)、荻島峯五郎(日本国粋会前川一家総長)らが議長団を形成した。
 最高顧問には、戦後最大の黒幕といわれた三浦義一、血盟団事件の井上日召、五・一五事件の橘孝三郎、児玉機関の児玉誉士夫が就任した。
 このほか、新日本協議会や日本郷友会など自民党の外郭団体がくわわった。
 全愛会議の活動の中心となったのは青年部だった。
 高橋正義(義人党のち青思会議長)
 石井一昌(護国団団長)
 福田進(防共挺身隊)
 吉村法俊(全アジア反共連盟のち昭和維新連盟)
 遠井司郎(靖國会・司山會)
 小林健(愛国青年連盟)
 筑紫次郎(東洋同志会)
 わたしも、若輩ながら青年部の幹部として、会議や情宣活動にくわわった。
 佐郷屋留雄議長や井上日召最高顧問が意気軒昂な時代だった。
 この青年部が40〜50年代の民族主義運動の柱となってゆく。
 昭和37年、全愛会議青年部の一部が、児玉誉志夫の影響下で、高橋正義を議長とする青年思想研究会として独立、児玉軍団と呼ばれるようになる。

 脚注「五全協」/日本共産党が第5回全国協議会(1951年)で採択した綱領。暴力革命必然論にもとづく武装闘争方針で、この綱領の下で、交番襲撃などの暴力事件が次々とおきる
 脚注「佐郷屋留雄」/濱口雄幸首相暗殺未遂犯。玄洋社系愛国社党員。1930年、東京駅ホームを移動中の濱口雄幸首相を銃撃、重傷を負わせる。佐郷屋は現行犯逮捕された。濱口首相は一命を取り留めたものの、翌年、この時の傷がもとで死去した。佐郷屋は殺人罪により死刑判決を受けるが恩赦で無期懲役に減刑された。事件から10年後、仮出所する。1954年、血盟団事件の首謀者である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、後に団長となる。1959年に全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となる。
 脚注「橘孝三郎」/国家主義運動家。農本主義を唱え、愛郷塾を創立して青年を指導。五・一五事件に塾生を率いて参加する。出獄後、著作活動に専念。全愛会議の最高顧問
 脚注「児玉誉志夫」/政財界の黒幕として活動。ヤクザやテキヤ、任侠、裏社会にもつよい影響力を持っていた。戦時中、上海の「児玉機関」や軍需物資鉱山などの利権でえた数億ドルの資金で、戦後の政界を牛耳った。結党資金を提供した鳩山一郎(日本民主党)のほか、三木武吉や岸信介、河野一郎らと親しく、次期総理大臣を岸から大野伴睦に譲り渡す誓約(河野一郎と佐藤栄作が署名)の立会人もつとめた。安保闘争時、木村篤太郎は、ヤクザ・右翼の動員をはかったが、児玉は、その世話役をはたした。
 脚注「井上日召」/一人一殺≠フ血盟団事件の首謀者として無期懲役。1940年、特赦を受けて出獄。1954年、佐郷屋嘉昭と護国団を結成、初代団長。全愛会議最高顧問。右翼活動から引退後、三浦義一から経済的援助を受け老後を過ごす。
 脚注「血盟団事件」/1932年におきた連続テロ事件。井上準之助と團琢磨が暗殺された。日蓮宗の僧侶、井上日召の国家改造計画。「政財界の指導者暗殺と海軍のクーデターを連動させて、天皇中心の国家革新を実現させる」という構想だった。犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らが暗殺対象として挙げられた。

 自民党と暴力団
 岸信介首相が、川島正次郎(自民党幹事長)や橋本登美三郎(「アイク歓迎実行委員会」を介して、児玉誉士夫に右翼団体や暴力団の取りまとめを依頼したのは、警察の警備不足を補うためだった。
 陸上自衛隊の治安出動は、赤城宗徳防衛長官が、辞表を懐に岸首相の要請を断っている。
 国会を取り巻いた30万人(警視庁発表13万人)をこえるデモ隊が労組や全学連らの指導で革命軍化すれば、血のメーデー事件をはるかにこえる体制の危機が生ずる。
 血のメーデー事件では、警官隊の数倍のデモ隊が襲いかかって、死者2人に重軽傷者1500人という大惨事になった。
 児玉は「警官補助警備力」として、芝の御成門周辺だけで、稲川組5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、神農愛国同志会(博徒・的屋連合)10000人の配置をきめたが、この打ち合わせに警視庁も同席していたという。
 児玉の「東亜同友会」(全国博徒による反共組織)構想は、錦政会と山口組が衝突したグランドパレス事件(昭和38年))で流れるが、松葉会、錦政会、住吉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会が児玉の呼びかけに応じて、「関東会」を結成する。
 関東会は、加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200人に送りつける。
 政治に介入してきた暴力団にたいして、権力は反撃に転じる。
 昭和39年(1964年)1月に「暴力取締対策要綱」が閣議決定されると同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置、山口組(神戸)、本多会(神戸)、柳川組(大阪)、錦政会(熱海)、松葉会(東京)の5団体を広域暴力団と指定して、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始するのである。

 ヤクザと縁を切った池田政権
 日米安保条約は1960年6月19日に自然成立。同月21日に批准されて昭和天皇による公布。そして、同月23日の条約発効をもって岸首相は退陣を表明した。
 同年7月19日。池田勇人内閣が成立すると、反対運動は急激に退潮した。
 安保反対が、強行採決反対と岸内閣打倒へ傾いて、安保改定への反対運動という性格が薄くなっていたためであろう。
 岸首相は、総辞職の前日(7月15日)、暴漢に襲撃され重傷を負った。
 動機は、安保問題ではなく、岸が、大野へ政権を禅譲する密約を反故にしたためで、犯人は、大野伴睦と縁のある人物だったという。
 児玉誉士夫が立会人になって、岸から河野一郎、河野から大野伴睦へ政権をたらい回しにする約束がまもられなかったとするもので、念書には佐藤栄作の署名もあったとつたえられる。
 ヤクザとむすびついていたのは、岸信介や河野一郎、大野伴睦ら政治路線派で、河野らと親しい関係にあった児玉は「関東会」の名で、自民党の全議員に警告状を送りつけていた。
 政権は、岸の政治路線から、すでに、経済路線派の池田勇人に移っている。
 池田・佐藤ら官僚派は、怯えるどころか、反撃に出る。
 とりわけ、所得倍増論の池田は、高度経済成長という大展望の下で、寛容と忍耐の政治を打ち出したばかりで、支持率も上がって、自信を深めていた。
 浅沼稲次郎刺殺事件や家政婦と夫人が殺傷された嶋中事件、クーデター未遂(三無事件)や河野一郎邸放火のような殺伐とした事件が相次ぎ、国民は政治の時代にうんざりもしていた。
 池田内閣は、1961年、「政治的暴力行為防止法案」を国会に提出した。
 団体活動としての政治的暴力行為を禁じるものだったが、労組への適用をおそれた社会党の反対で、衆議院で可決されたものの、参議院で廃案となった。
 政暴法は廃案になったが、警察当局は、この法案をきっかけに、街宣右翼や過激派への取締りを強化してゆく。

 右翼と反共
 右翼の尊王は、国体思想のことで、国体の中心におられるのが天皇である。
 歴史や伝統、文化などの国体を敬うことと天皇を敬愛することは同じ次元にあって、それが、伝統国家である。
 伝統国家が、国体と政体の二重構造(二元論)になっているのはいうまでもない。
 政体とは、権力構造のことで、強者の論理である権力は、ときには、野蛮で暴力的なものとなる。
 国体と政体、権威と権力の二重構造にあるわが国では、権力(幕府)に施政権の正統性を授ける権威(朝廷)が、権力の暴走をおさえこんできた。
 永遠の権威、国体が、一過性の権力、政体を監視するのである。
 この歴史的仕組みは、現在も、天皇の国事行為や三権の長の認証などとして残っている。
 国体をまもる右翼は、文化の防衛者で、天皇の防人である。
 民を大御宝として慈しむ皇祖皇宗の大御心が、日本の右翼にとって、まもるべき唯一のものなのである。
 天皇=国体の最大の敵が共産主義革命である。
 反共・防共を特化した右翼が反共右翼である。
 60年安保で、自民党に利用されたのが、この反共イズムで、右翼団体だけではなく、任侠や博徒、広域暴力団が、政治結社の看板を上げて左翼革命勢力にたちむかった。
 このとき、右翼は、国体の防人ではなく、政体の守護者となった。
 日米新安保条約が批准されて、全学連や極左、過激労組などによる暴力革命の危機は去った。
 危機をのりこえた政府が、それまで利用してきた暴力団右翼の排除に動いたのは、むしろ当然で、任侠や博徒、広域暴力団は、政治結社の看板を下ろして元の家業にもどっていった。
 一方、右翼は、もともと、文化の防衛者で、国体の防人である。
 政治問題に立ち上がったのは、共産主義革命から国体をまもるためだった。
 自民党がリベラル保守なら、右翼は、ラジカル保守で、伝統主義者である。
 民主主義を奉る自民党は、けっして、保守主義政党ということはできない。
 自民党は、政体に属する集団で、目的は、権力の獲得と運用である。
 一方、右翼は、国体の側にあって、国体の象徴たる天皇の防人である。
 右翼と自民党が手をむすぶのは、価値観や歴史観が近いからである。
 だが、世俗的権力をもとめる自民党と、超俗的権威をまもる右翼は、同列にあるわけではない。
 まして、右翼は、自民党の補完勢力ではない。
 60年安保という革命の危機に右翼は、左翼の暴力に暴力で対抗しただけである。
 嵐が去って、日本は、経済大国の道を歩みはじめた。
 右翼は、ふたたび、天皇をまもる草莽の志士へと立ち返っていったのである。

 君臣が 一つとなりて栄えたる 
   大和島根に 在わす喜び

 民の幸 神に祈れる すめらぎを 
   神に見立てて 永久の国体

posted by office YM at 13:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月18日

わが青春譜5

 嶋中事件のこと
 昭和36年2月1日、中央公論社の社長、嶋中鵬二宅に右翼の少年(小森一考)が侵入、嶋中家の家政婦を刺殺、嶋中夫人に重傷を負わせる事件がおきた。
 動機は、前年11月発売の『中央公論(12月号)』に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』が天皇を冒?しているという理由からだった。
 小説の主人公が見た夢(風流夢譚)という設定で、内容は、朝日新聞ですら非人道性と指摘した支離滅裂なものだった。
 天声人語(昭和35年12月1日)にこうある。
「読んで見るとひどいものだ。皇太子殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリが振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音を立ててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の首なし胴体などとを書いている。過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であってもそれ程問題になるまいが、現に生きている実在の人物を実名のまま処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するというほかない」
(右翼の動向)
 浅沼事件がさめやらぬ同年11月発売された中央公論(12月号)に載った「革命によって天皇家の人々の首が落とされる話」が、右翼にとって見逃しにできない重大事だったのはいうまでもない。
 右翼団体の多くが、ポスターや看板、飛行機ビラ散布までして、中央公論社に抗議をおこない、糾弾や威圧、ときには、暴力的行為にもおよんだ。
 中央公論社は12月号で「お詫び」を掲載したほか、編集長を更迭するなどして、事態が収拾にむかった矢先に、大江健三郎が、翌年1月発売の文学界二月号で、山口二矢をモデルに、右翼青年の性と天皇崇拝をからめて「政治少年死す―セブンティーン第二部」という天皇批判的な小説を発表した。
 これで、沈静方向にむかっていた右翼の抗議にふたたび火がついた。
(政府の動き)
 宮内庁は「皇室の名誉を棄損する」と抗議を発表。宮内庁が皇室に代わって民事訴訟をおこなう案も検討されたが、実現には至らなかった。
 このとき、神社本庁は、不敬罪の復活を主張したが、自民党は政治問題化を避けている。
(深沢擁護論)
「ブラックユーモア」「荒唐無稽なフィクション」「パロディ(嵐山光三郎)」という擁護論のなかに、石原慎太郎や武田泰淳の賛辞、三島由紀夫の推薦(三島はのちに否定)もあったのは注目に値する。
 文学という特殊な文化のなかにおいて、なんらかの価値があったのかもしれないが、文学の門外漢である一般人や右翼にとっては、ただの不敬で、歴史や国体にたいする侮辱以外のなにものでもなかったのである。
 評論家の丸山真男は、言論や表現の自由は、節度をもって行使されるべきと前置きして「表現の自由における節度は、それぞれの内面的良心に従って判断されるべき問題(毎日新聞/昭和36年2月1日)と書いた。
 節度とは度をこさない適当なほどあいという意味合いであろう。
 そして、それが、内面的良心に従って判断する問題だと丸山はいう。
 天皇一家や皇太子一家が革命で首を切られて、その首が金属的な音を立ててスッテンコロコロころがっていくとする表現が、度を越さない適当なほどあいで、深沢の節度の範囲というつもりなのだろうか。
 節度は良心、心の問題で、人間の社会の根本である。
 だが、良心や節度だけで国家の政治は成り立たない。
 社会は、性善説と性悪説の二面性からできているからである。
 節度や良心だけで国を治めてゆくことができれば申し分ないが、人間はかならずしも善良ではないので、同時に法やルール、規制を定めて、国家の運営にあたらねばならない。
 それが法治社会で、これは、規制がはたらいている社会ということである。
 自由は、規制の内にあって、身勝手な自由は、却って、不自由なのである。
 そこで、強者の論理である自由主義に対抗する政治手法として、弱者の論理である民主主義という制度がうまれた。
 平等・公平・自由・人権・福祉などの民主主義の理念は、自分勝手で野蛮な自由主義を規制して実現されるもので、規制がなければ、弱者救済という民主主義の理想は達成できない。
 われわれの民主主義は、全体主義の人民民主主義ではなく、自由民主主義であって、個が尊重されている。
 宗教や政治には狂気がひそんでいて、節度や理性で、深層心理に眠っている狂気を抑えることはできない。
 丸山のいう内面的良心や節度で狂気をコントロールできないので、法治社会においては法が動員されるが、法をこえる手段も、可能性として存在する。
 民主主義は、強者の論理を抑える政治的原理であって、悪や強者を抑えこむ道徳的原理ではない。
 闘争や多数決、そして、テロリズムは、強者に対抗する手段で、民主主義においては、これを防ぐいかなる方法も、ゆるされていない(たとえば予防拘束)のである。

 戦後左右両翼の主たる動き
(右翼のこと)
 戦前の右翼は、占領軍によって、約二〇〇団体が解散命令をうけ、くわえて公職追放令によって指導者を失って、致命的打撃を受けた。
 占領下において、右翼は、完全に封じ込まれて、国体運動も不能になったのである。
 昭和26年、日本はサンフランシスコ条約を締結して、独立国となった。
 同年、保守政治家や右翼要人も公職追放解除となった。
 この年、いち早く全国の右翼団体を糾合して、全国愛国者懇親会をたちあげたのが福田素顕(狂介)だった。
 追放命令が解除されたのち、右翼運動家を組織化したのは、福田の懇親会と日本青少年善導協会が最初で、懇親会は、35年に「大日本愛国団体連合」として、二十八団体を糾合、時局対策協議会(時対協)を併置して今日に至っている。
 素顕は、堺利彦や大杉栄、高畠素之ら国家社会主義者やアナキストなどとの交わりが深かったが、その後、右翼運動に転向している。
 わたしとともに新島闘争にくわわり、後に全愛会議の青年部結成に参加した防共挺身隊の福田進は、素顕の息子である。
 わたしは、昭和30年代初め、反共活動家 清水亘とともに素顕の勉強会に参加している。
 そこで出逢ったのが、八丈島出身の浅沼美智雄やキリスト教の牧師で、戦後、反共運動家に転じた荒原牧水、治安確立同志会会長の高津大太郎ら多くの運動家で、福田や吉村も仲間だった。
 福田進や吉村法俊(のちに昭和維新連盟)は、銀座四丁目の交差点に面した鳩居堂ビルの二階に事務所を構え、朝から晩まで軍歌を流していたが、当時はそれがゆるされた時代だった。
 新島ミサイル闘争の賛成派オルグとして、ともにたたかう以前の話である。

 日本共産党合法化―その後
 1922年の結党以来、日本共産党は、非合法の存在だった。
 日本がポツダム宣言を受諾すると、連合軍が進駐して占領政治がはじまった。
 非合法だった日本共産党は、GHQの民主化指令にもとづいて合法化されると、戦時中、収監されていた幹部も解放されて、以後、活発な活動を開始する。
 1945年11月8日の党大会(四全協)は、非合法だった昭和元年の三全協以来、19年ぶりの会議で、合法化されてのちの初めての協議会となった。
 同党大会で採決された行動綱領によると、連合軍を軍国主義からの解放軍とみなし、連合軍の本土進駐によって、日本に民主主義革命の端緒が開かれるに至ったと占領軍による日本占領を手放しで評価している。
 そして、天皇制の打倒や人民共和政府の樹立などの戦略目標を掲げた。
 合法政党となった昭和21年4月の選挙で、5議席を得ると、昭和24年の総選挙では、衆議院選挙で35議席と大躍進をはたして、保守陣営に危機感がひろがった。

 コミンフォルムの批判により武装闘争へ
 ところが、四全協で決議された「平和的手段によって日本の解放と民主的な変革を達成する」とする方針が、コミンフォルムからの批判をうけて、転換を余儀なくされる。
 昭和26年10月の五全協で採択された綱領には、暴力革命必然論に拠って立つ武装闘争方針が示されて、この綱領にもとづいて、全国的に、騒擾事件や警察襲撃事件などの暴力的破壊活動がくり返されてゆく。
 〇白鳥警部射殺事件(27年1月21日)
 〇大須騒擾事件(27年7月7日)
 〇神宮外苑広場に於ける血のメーデー事件(27年5月1日)
 〇地下トラック部隊(日本共産党特殊財政部事件)
 〇火炎ビン闘争(火炎瓶で交番を襲撃、警官を負傷させ、殺害した)
 〇山村工作隊(中国共産党に倣って農村を拠点とした革命運動)

 候補者全員落選
 21年5議席、24年の総選挙で35議席と大躍進をした共産党が、五全協で暴力革命路線を採用した後の27年10月の選挙では全員落選した。
 コミンフォルムの批判によって、平和主義革命路線を捨て、暴力主義革命へ切った舵が国民にまったく受け入れられなかったのである。

 六全協で戦術転換
 昭和30年7月。第六回全国協議会(六全協)において、劇的な戦術転換がおこなわれた。
 武装蜂起から平和路線(議会内革命)への転進である。
 火炎ビン闘争や山村工作隊は放棄されたが、暴力革命そのものが否定されたわけではなかった。「左冒険主義という戦術上の誤りを犯した」という自己批判が六全協の総括であった。
 昭和33年7月の第七回党大会で、暴力革命必然論を立てた五全協の決定は一部の過激分子(所感派)によるものと責任を転嫁して、廃棄された。
 だが、36年7月の第八回党大会では「二段階革命方式を盛り込んだ綱領を採択している。二段階革命方式は、ブルジョア民主主義革命+社会主義革命の二重革命で、民主主義から社会主義への移行である。
 日本共産党の共産主義革命は、民主主義的平和論を説きながら続行されているのである。
 日本共産党が、六全協以降、放棄した武装闘争路線を受け入れられない急進的な学生党員らは、共産主義同盟(ブント/全学連)や新左翼などの過激派となっていく。

 反共抜刀隊構想と頓挫
 51年の公職追放解除で、活動を再開した右翼や保守政治家にとって最大の危機は、共産主義革命で、日本共産党や社会党、日教組や労組連合は、公然と革命を唱え、とりわけ、日本共産党は、五全協の決定にもとづいて武装闘争を展開していた。
 共産党や職業的革命家に煽られて労働者が蜂起すれば、警察力だけでおさえこむことは不可能で、当時の警察予備隊が保安隊から陸上自衛隊へ昇格するのは54年(昭和29年)である。
 51年の秋に反共啓蒙運動をおこなう「日本青少年善導協会」が設立されたが、啓蒙運動や研修会などで、暴力革命を防衛できるはずはなかった。
 のちに初代の法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官をつとめることになる法務総裁の木村篤太郎は、このとき、全国の博徒・テキヤ・愚連隊を結集した二十万人「反共抜刀隊」の編成という構想を立て、着々と手を打ってゆく。
 木村は、GHQから解散命令をうけていた大日本国粋会理事長梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請、梅津は断ったが、「刑法を改正して、賭博行為の逮捕は現行犯に限定する」という約束を交わして、梅津の協力をとりつけた。
 1951年12月6日、梅津が音頭をとって、上野精養軒に、関東の親分衆が集って「共産党が武装蜂起した場合、任侠や博徒、テキヤが協力して実力で打倒する」という誓約がなされた。
「反共抜刀隊」構想に反対したのが吉田茂だった。
 吉田は、日本共産党などが政府転覆をはかった場合、在日米軍に鎮圧させるという。事実、旧安保には内乱鎮圧≠ニいう項目があったが、内乱の鎮圧を外国の軍隊に頼って、独立国家ということはできない。
 岸信介の新安保(60年)で内乱条項が削られたのはいうまでもない。
 吉田の経済優先主義は、国家の独立や主権までを危うくするリスキーなものだったのである。

「アイク歓迎実行委員会」
「反共抜刀隊」に次いで、自民党が本格的に任侠団体を動員しようと画策したのは60年安保闘争においてだった。
 60年6月19日にアメリカのアイゼンハワー大統領・の訪日が予定されていたが、これに反対していた反安保勢力は、アイゼンハワーの来日にあわせて空前の大衆動員をかけると予想された。
 左翼の反安保・反米闘争が、ソ連の支援のもとで、暴力革命へ飛び火しないという保証はなかった。
 政府自民党(「安全保障委員会」)は「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げると、会長の橋本登美三郎を介して、戦後右翼の大物、児玉誉士夫に協力をもとめる。
 革命勢力の増大に危機感をつのらせた自民党は、ふたたび、任侠勢力の組織的動員に期待をかけたのである。
 作家、猪野健治の調査によると、集められる博徒は1万8000人、テキヤ1万5000人、旧軍人消防関係4000人、宗教団体など1万人、右翼団体4000人、その他5000人で、テキヤの召集にあたったのは尾津喜之助と関口愛治、博徒の召集にあたったのは稲川裕芳だったという。
 この動員計画が、結果として、右翼とヤクザの境界線をぼやかして、両者を暴力集団という一つの括りに入れてしまった。
 任侠勢力は、世俗の集団で、あるのは、思想ではなく、力や経済である。
 一方、右翼は、思想家、思想集団で、暴力は、思想や行動原理の一部である。
 右翼のテロは、思想からにじみだしたもので、利害得失など、世俗的な原理から切り離されている。
 爆弾を投げて大隈重信の暗殺をはかった玄洋社元社員の来島恒喜がその場でみずからの喉を突き、浅沼稲次郎を暗殺した山口乙矢が、東京拘置所で首を吊ったのは、思想は、自死をもって、完結するからである。
 生命を思想とひきかえにするのが右翼なら、生命を世俗の経済や権力などに懸けるのが任侠で、右翼と任侠の死生観は、水と油ほど異なるのである。
 60年安保に象徴される政治の時代が終わると、自民党は、右翼や任侠団体と絶縁して、商法改正などで、資金源を断った。
 任侠系団体は、政治結社の冠を返上して、右翼活動から撤退した。
 任侠は世俗にもどって、右翼は、思想という聖域に引き返したのである。
 昭和30年代がテロの時代となったのは、60年(昭和35年)の安保闘争を中心とした大衆運動の盛り上がりが右翼に共産主義革命の危機感を高まらせた結果で、70年(昭和35年)の安保自動延長以後、革命の危機が遠のくと右翼テロもなりをひそめる。

 ※脚注/30年代の右翼テロ
 ●「河上社会党代議士殺人未遂事件」(昭和35年6月)河上丈太郎社会党顧問がナイフで切りつけられて左肩部に全治3週間の負傷
 ●「岸首相傷害事件」(昭和35年7月14日)岸信介首相が登山ナイフで切りつけられて左臀部に全治2週間の負傷
 ●「浅沼社会党委員長殺人事件」(昭和35年10月12日)日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が山口二矢に刺殺される
 ●「嶋中事件」(昭和36年2月1日)天皇や皇室にたいする不敬な小説を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した
 ●「三無(さんゆう)事件」(昭和36年12月)「無税・無失業・無戦争」の実現と共産革命の殲滅を訴え、34人の元軍人・実業家が検挙されたクーデター未遂事件
 ●「河野邸焼き討ち事件」(昭和38年7月15日)右翼の野村秋介が自民党の河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入。放火して建物は全焼した。

(岸内閣と安保改定)
 昭和32年2月25日。病気で倒れた石橋内閣をひきつぎ、東條内閣で商工大臣をつとめた岸信介が第五十六代内閣総理大臣に就任した。
 戦前、反米だった岸が、一転して、親米内閣の宰相となったのである。
 岸は、鳩山内閣(昭和三十年八月)の幹事長として、重光外相とダレス国務長官の会談に同席して、条約の対等化や日本の防衛など、吉田がむすんだ安保条約の改定をもとめた重光の提案が、このとき、ことごとく拒絶された現実を目のあたりにしている。
 旧安保条約では、アメリカは、日本のどこにでも駐留基地を建設できるにもかかわらず、アメリカが日本をまもる義務は明文化されていなかった。
 岸は、対米従属と片務性がつよい条約を解消して、アメリカとともにソ連や中国と対抗できる、日米が対等な立場に立った同盟を望み、日本がアメリカのよきパートナーである印象をあたえようとした。
 その矢先、ジラード事件が起きる。
 昭和32年1月 米兵ジラードが群馬県相馬ヶ原演習地で農婦を射殺したのである。
 ところが、地位協定や日米安保のとりきめで、裁判権は日本になかった。
 国民は激高して、結局、日本は裁判権をえたが、殺人事件の有罪判決だったにもかかわらず執行猶予という不透明なもので、後日、これが、日本側の譲歩だったことが外務省の「戦後対米外交文書公開」で明らかになる。
 旧安保条約は、戦勝国と敗戦国の不平等条約で、これを対等な同盟にかえるにあたって、岸や重光ら戦時内閣の旧閣僚(重光は東条内閣の外相)が払った努力はなにものにもかえがたい。
 昭和32年1月。岸は、2月に駐日マッカーサー大使と会談して、4月には安保改定と沖縄返還を協議している。
 同年5月、日本の防衛力強化を謳った国防基本方針を閣議決定すると、安保改定へむかってうごきだした。
 それには、自由主義陣営の立場から、国際共産主義への対決姿勢を明らかにして、日本の共産化というアメリカの懸念を払拭する必要があった。
 同年6月。岸は、アイゼンハワー大統領と首脳会談をおこない、安保改定の検討を約束させた。
 アイゼンハワーのこの約束を現実のものとさせる出来事がおきる。
 当時、米ソは、宇宙開発を競っていた。
 32年、ソ連はスプートニク1号の打ち上げに成功して、アメリカをリードするのである。
 毛沢東の「東風が西風を制した」の発言もあって、左派は勢いづいた。
 社会党浅沼委員長の『米国は日中共同の敵』という発言がマスコミで大きく扱われるなど、日本国内で、徐々に、親ソ親中、反米のムードが醸し出されていった。
 アメリカが、日米安全保障の条約の改定を決断したのは、日本を自由陣営にとりこんで、反ソ・反中の砦にするという意志がはたらいたからで、アメリカも危機感をもったのである。
 昭和35年1月。岸は全権団を率いて訪米する。
 そして、アイゼンハワー大統領と会談後、新安保条約が調印された。
 残るスケジュールは新安保条約の批准とアイゼンハワー大統領の訪日だけとなった。
 そして、同年から翌年にかけて、60年安保騒動がひきおこされるのである。
posted by office YM at 13:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月09日

わが青春譜4

 ●池田政権発足そして浅沼事件
 日米安保条という大仕事をやりおえ、岸内閣は、三年四か月の使命を終えた。
 吉田茂と鳩山一郎のあとをうけた岸信介の最大の実績は、むろん、日米安保条約の改定だが、自民党政治の確立と日米関係の強化という戦後政治の基盤をつくりあげた功績も評価されるべきだろう。
 岸内閣が、経済の池田内閣に比較して、政治の内閣といわれる所以である。
 岸から政権をひきついだ池田内閣の政策は、徹底的な経済路線で、その代表が所得倍増計画である。
 高度経済成長と経済大国への道は池田が切り拓いたといってよいだろう。
 池田勇人は、大蔵官僚を経て、終戦後、政界入りして、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格となった。
 池田勇人が58〜60代、佐藤栄作が61〜63代内閣総理大臣である。
 経済の池田と沖縄返還の佐藤によって、日本は、戦後から脱して、新時代にむかってうごきだす。
 以後、自民党は、経済主導型と政治主導型の政策を交互にくりだして、日本の政治をリードしてゆく。
 経済主導型の舵をとったのは、池田勇人を中心に結成された宏池会で、保守本流と呼ばれたのは、吉田ドクトリンを継承していたからである。
 宮沢喜一ら4人の総理大臣をだしたリベラル派で、憲法改正に慎重だったのは、吉田茂以来の伝統であろう。現在、宏池会は、岸田文雄が率いている。
 政治主導型は、佐藤栄作の周山会で、佐藤の退陣直前に、田中角栄が七日会(後の木曜クラブ)を結成、佐藤派から大勢を率いて独立した。
 首相を3期6年つとめた佐藤が、引退後、政権を兄岸信介の派閥を引き継ぐ福田赳夫に譲ろうとしていたためで、田中角栄との間で「角福戦争」が生じたのは政治史に残る有名な話である。
 中曽根康弘の支援をうけて、角栄が天下をとるが、ロッキード事件後、竹下派(経世会)に派閥を奪われて、それが、現在の平成研究会(竹下亘)へひきつがれた。
 当時、自民党党員として、田中派の朝食会に出席していたわたしは、目白邸へ後援会の三宅島村会議長らを案内して、角栄先生と記念撮影をした思い出がある。
 この朝食会は、源田実と長谷川仁両参院議員の推薦で参加した勉強会(新政策総合研究会)を兼ねたもので、わたしにとって、貴重な政治体験であった。
 小渕恵三や山下元利と親しくさせてもらったのも、朝食会の縁で、わたしが衆議院選挙出馬後、テレビのレギュラー出演をへて、政治評論家として活動を開始する以前の話である。
 日本皇民党による竹下登ほめ殺し℃膜潤i1987年)の仲介を依頼された件、あるいは、田中角栄の元秘書榎本敏夫から直接うかがった「ロッキード裁判丸紅ルート」における東京地検の証言捏造など、いずれ、田中派にまつわる話をのべる機会もあるだろう。

 昭和35年7月14日、池田勇人が党総裁選出されたその日、新総裁就任の祝賀会場から出てきた岸信介が右翼に大腿部を数か所刺されて全治2カ月重傷を負った。
 政治から経済の時代へきりかわった時期におきたこの事件が、テロの時代の幕開けになるとだれが予想できたであろう。
 7月19日 池田政権が発足。池田内閣は人心一新、政局転換、政治の基本姿勢を「寛容と忍耐」におき、所得倍増計画を軸に経済優先路線をすすめた。
 60年代は、豊富で質の高い労働力と技術革新、廉価で安定的な資源供給に恵まれて、高度経済成長の条件が整った時代だったのである。

 浅沼稲次郎暗殺―山口二矢のこと
 第1次池田内閣が発足した3か月後の10月12日、 浅沼稲次郎日本社会党委員長が右翼の少年山口二矢(当時17歳)に暗殺されるという事件がおきた。
 60年10月12日、日比谷公会堂で、同年十一月に予定されていた総選挙にむけて三党党首立会演説会がおこなわれた。
 6月19日の安保自動成立以降、反対派のデモも沈静化して、左右両陣営の政治的な衝突もなかった。
 日比谷公会堂は2500人の大聴衆で埋まり、会場は、野次や声援で熱気を帯びていた。
 講演は、民社党委員長の西尾末広、社会党委員長の浅沼稲次郎、自民党総裁の池田勇人の順である。
 浅沼委員長が演壇に立つと右翼団体の野次が激しくなって、司会者(NHKの小林利光アナウンサー)が「ご静粛に願います」と自制をもとめ、浅沼委員長がふたたびマイクにむかった瞬間のことだった。
 一人の少年が向かって右側の壇上に駆け上がり、もっていた銃剣で一突きして、振り回されるような状態から体ごとぶつかって二突き目を刺した。
 わたしは、山口が壇上に駆けのぼって、もっていた刃物で浅沼委員長の胸を2度突き刺した瞬間を眼前で見ている。
 その光景が、いまだ、目にうかぶ。

 脚注/「浅沼稲次郎暗殺事件」昭和35年(1960年)10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂において、演説中の浅沼稲次郎日本社会党委員長が17歳の山口二矢に刺殺された。逮捕後、山口は、東京少年鑑別所内で首吊り自殺した。壁に歯磨き粉を水で溶いた液で「天皇陛下万才、七生報国」と書き残していた。

 この事件で、赤尾敏(愛国党)、吉村法俊(全アジア反共青年連盟)、福田進(防共挺身隊)の3人が別件逮捕されたが教唆≠ヘ立件できなかった。
 吉村と福田は、赤尾敏の愛国党を経て、それぞれ、反共団体を結成したので、山口とは同門ということになる。
 新島闘争では、吉村と福田は、わたしが責任者だった独立青年党と連携して賛成派オルグとして活動していた。
 山口二矢も嶋中事件の小森少年も、赤尾敏に同行して、しばしば、来島して賛成派オルグ団にくわわった。
 吉村は、その後、三浦義一門下の西山広喜が主宰する昭和維新連盟と行動を共にしている。
 昭和30〜40年代の左右両陣営の衝突が暴力をともなったのは、日本共産党の暴力革命論(5全協/昭和26年)や血のメーデー事件(昭和27年)の余韻が濃厚に残っていたからで、当時、右陣営にとって、左翼暴力革命が絵空事ではなかったのである。
 30年代の砂川闘争や新島闘争、そして、安保闘争で、右陣営が暴力的になったのは、極左暴力革命にたいする対抗からで、右翼もまた身体をかけて国体をまもろうとする意識がはたらいたのである。
 新島闘争でも頻繁に暴力事件がおきた。反対派オルグによる防共挺身隊宿舎への襲撃事件や賛成派オルグにたいする傷害事件などで、わたしとともに運動していた松尾は腹部を刺されて重傷を負った。
「お前は行動隊長か」と問われて「そうだ」と答えたためで、隊長はわたしで松尾は副隊長だったので、気の毒なことをした。つねにわたしと行動をともにしていた小鹿という青年も、袋小路に追い込まれて木刀で足を折られている。
 のちに、革マルと中核派の内ゲバ、浅間山荘のリンチ殺人を知って、左翼の暴力主義の本質をみたような気がしたのは、その体験からである。

 浅沼事件の社会的衝撃は大きく、暴力反対の世論をかきたてずにいなかったが、例外があった。
「暴力行為はけっしていいものではない。だが、インテリジェンスのない青年がかねて安保闘争などで浅沼氏の行為を苦々しく思っていてあのような事件が起きたのもわからないではない」という経団連会長の石坂泰三の発言である
 山口に同情的な発言が猛反発をうけたが、小泉信三の後を受けて宮内庁参与に就任した石坂は、尊皇心が厚く、なにより、反共主義者だった。
 左右を問わず、政治行動が、すべて、理性や節度にもとづいているとはかぎらない。
 宗教も政治も、その思想の深層に、理性や節度をこえた狂気が存在する。
 暴力革命や文化破壊が左翼の狂気なら、右翼には、反革命や文化防衛、テロという狂気がある。
 インテリジェンスというのは、知識で、脳みその問題である。
 権力構造(政体)の操作なら知識で間に合うだろうが、文化構造(国体)とむきあうのは、知恵で、これは、心の問題である。
 民族の心は、神話や伝説、長い歴史に培われてきた祖国をまもる防人としての大義で、それが、私心なき誠である。
 左翼によるテロ(暴力革命)は、政権奪取だけが目的で、心も人間としてのきずなも、伝統も文化も、習慣も調和も、すべて捨てられる。
 狙うのは、あくまでも政体で、それが私心である。
 国体=文化の防人(右翼)と政体=権力の亡者(左翼)のちがいは、私心のあるやなしやなのである。

 七生と報国誓い 君は散る
    かなしき雄叫び 神は知るらむ

posted by office YM at 18:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月02日

わが青春譜3

 新安保条約調印
 1960年(昭和35年)1月、岸首相以下全権団が訪米、アイゼンハワー大統領と会談して、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。
 社会党や総評系労働組合は「安保改定阻止国民会議」を結成して、全国的な反対運動を展開、全学連も大規模な動員をかけて、反対運動は大きな高まりをみせた。
 全学連が機動隊と衝突をくり返して、多くの逮捕者を出すにいたって、公安調査庁は、全学連や共産主義者同盟(ブント)傘下の社会主義学生同盟、六全協(三〇年)以後、共産党と袂を分かった過激派などを、破壊活動容疑団体とみとめ、取り締まり体制を強化した。
 昭和35年1月19日、ホワイトハウスで新日米安保条約が調印された。
 しかし、これで条約改定は終わったわけではない。
 日本国における国会採決と承認(批准)を経なければ条約は発効しない。 

 日の本の 結びし 安保条約は
   平和をまもる 国のいしずえ

 強行採決
 新安全保障条約がホワイトハウスで調印されて以降、日本国内では、国論が二分されて、世情は騒然となった。
 国会では、審議拒否や乱闘騒ぎがくり返され、反対運動は、学者や市民団体の署名運動から全学連よる反対決起大会まで、日に日に高まりを見せて、デモ隊は数十万人規模にたっした。
 外国の干渉もくわわって、1960年1月27日、社会党や共産党、総評の安保反対活動を支援してきたソ連は、日本に外国軍が駐留する限り歯舞・色丹島は返還しないと表明、中国も、同年5月9日、北京で、日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会を開催して、100万人が参加した。
 5月19日、政府与党は「新安保条約」の強行採決にふみきった。
 そして、5月20日、衆議院本会議を通過した。
 委員会採決の際、自民党は、座り込みの社会党議員を排除するため右翼などから屈強な青年を公設秘書として動員している。
 左右両陣営の運動激化
 5月19日の強行採決後、6月19日の自然承認にかけて、デモの参加者は増え、抗議行動も全学連を中心に過激になってゆく。
 この頃、右翼の治安確立同志会の坂本勇ら4名が社会党の浅沼委員長にアンモニア入りのビンを投げつける事件もおきている(5月26日)
 当時の事件を時系列に羅列してみよう。
 1960年(昭和35年)
 1月19日・日米政府間で条約調印
 4月    全学連が警官隊と衝突
 5月20日・衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む
 6月10日・ハガチー事件(ホワイトハウス報道官が来日。羽田でデモ隊に包囲されて、海兵隊のヘリコプターで脱出)
 6月15日・全学連と警察隊の衝突で、東大学生の樺美智子が転倒した学生らの下敷きとなって死亡。国会周辺で、デモ隊と右翼百数十人と大乱闘、双方で二十六人が検挙
 6月16日・政府はアイゼンハウワー大統領の訪日招待延期を発表
 6月17日・在京新聞7社が共同声明発表。デモ隊の暴力を批判、社会党に国会審議復帰を呼びかける。自民党の強行採決を批判して、反対運動を煽ってきた新聞マスコミが、アイゼンハウワー大統領の訪日延期後、一転して、全学連らの批判に回った
 6月17日・社会党河上丈太郎、右翼に刺され負傷
 6月19日・日米新安保条約が自然成立(23日に発効)。反対派デモ30万人が国会を取り巻く。
 空前の規模となったデモは、一部、暴徒化して、警察力だけで鎮圧することが不可能なのは明らかであった。
 岸首相は、赤城宗徳防衛庁長官に、陸上自衛隊の治安出動を要請した。
 赤城長官は、辞表を懐に「出動要請に応じれば、国民に銃口を向けることになる。自衛隊に国民を撃てと命じることはできない」と岸の要請を断った。
 60年安保に自衛隊が治安出動していれば、国家と国民の一体感が害われることになって、池田内閣の国を挙げての経済成長政策も失敗に終わっていたであろう。
 赤城長官の決断は正しかったのである。
 警察と右翼団体だけでデモ隊を抑えられないと判断した岸首相は、自民党の「アイク歓迎実行委員会」の橋本登美三郎委員長を暴力団関係者の会合に派遣して、児玉誉士夫を筆頭に松葉会の藤田卯一郎、錦政会の稲川角二、住吉会の磧上義光、関東尾津組の尾津喜之助ら多くの任侠や博徒、テキヤ団体の協力をとりつけた。
「アイク歓迎実行委員会」が、このとき想定した動員数は、全日本愛国者団体会議や1958年に岸が発案して木村篤太郎が率いる新日本協議会ら右翼団体4000人余とその数倍にもおよぶ任侠、博徒ら数万人で、アイゼンハワーの来日が実現していたら、デモ隊と、暴力団員をふくむ右陣営の未曾有の激突が実現していたはずである。
 6月23日・白金の外相公邸で批准書の交換など日米新安保条約の全手続きを終了。
 岸内閣は「人心一新」「政局転換」を名目に総辞職を発表
 全学連のデモや野党の激しい抵抗は、岸退陣によって、休息に終息へむかう。
 新安保は、アメリカが一方的におしつけた旧安保の抜本的な改正で、内乱の鎮圧や第三国への軍事的便宜提供禁止などの内政干渉が削除されている。
 だが、当時、新安保の内容にふれたメディアはなかった。
 旧安保は、そもそも、日本に軍事力がなかった時代の条約で、治安も防衛もアメリカに依存する一方、日本防衛が明文化されていなかった。
 新条約では、日本が他国から攻撃された場合、日本とアメリカが共同防衛にあたるほか、日本国内のアメリカ軍基地の利用には事前協議が必要となる。
 新安保条約は、日本の安全保障と国際的パートナーシップをアメリカにもとめるもので、左翼がこれに反対したのは、ロシアや中国から革命を輸入しようという革命軍だったからで、もともと、反米・反日だったのである。

 全学連の母体である共産主義者同盟(ブント)はマルクス・レーニン主義やプロレタリア国際主義、世界革命を掲げて、これが三派全学連(成島忠夫)やのちのよど号ハイジャック事件(田宮高麿ら)、日本赤軍(重信房子)、共産同赤軍派(塩見孝也)、連合赤軍(森恒夫)、12人の同志を殺害したあさま山荘事件(永田洋子)へつながってゆく。
 70年安保が大きな騒動にならなかったのは学生運動が死んだからである。
 日本共産党からブントが分裂したように、日本共産党から革命的共産主義者同盟(革共同)が分裂、さらに分裂して、革マル派と中核派がうまれた。
 内ゲバで100人以上の死者をだした革マル派と中核派、三菱重工爆破事件の東アジア反日武装戦線に大衆動員の能力はなく、全共闘の東大安田講堂事件(山本義隆)も日大紛争(秋田明大)も政治的な波及効果はなかった。
 全学連をふくめた極左が滅びたのは政権(政体)奪取を狙ったからである。
 国家は、権力(政体)と文化(国体)の二元構造で、権力は一過性で交代をくり返すが、文化や文明は、歴史の永遠性と連続性に拠って立つ。
 暴力で政体を脅かすことはできても、国体たる文化や文明はびくともしない。
 のちにのべるように、60年安保騒動の際、自民党に利用された暴力団系の右翼(任侠や博徒、テキヤ団体)がすがたを消すのは、政治や権力に関与したからである。
 ソ連崩壊後、反共という金看板を失ったが、本来、右翼は、国体護持が使命である。
 頭山満の玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の3つの社則を掲げたが、政治には一言もふれていない。
 頭山満は盟友の犬養毅(第29代内閣総理大臣)からなんども入閣の誘いをうけたが首を縦にふらなかった。
 右翼は国体の防人で、政体の番兵ではない。
 日米安保条約も、北方領土と同様、国体ではなく、政体の問題で、問われるのは、国益と国家の安全である。
 日米安保体制が日米両国にとって有益だったのは、アメリカは、対ソ冷戦に勝利して、日本も、すべてを失った敗戦国から世界の6大強国へのしあがったことからも明らかである。
 かつて、日英同盟は20年で破棄されて、日本は、ワシントン会議における四カ国条約に翻弄される。
 そして、アジア・太平洋地域のワシントン体制とヨーロッパのヴェルサイユ体制が、やがて、日独を戦争へ駆り立ててゆく。
 日米は、自由と民主主義を共有する同盟国だが、伝統国家と革命国家というちがいもあって、同盟の維持が、相互理解と利害の共有、双方の努力にあるのはいうまでもない。
 国家は共に闘うことはあるが、運命は共にしない。(ド・ゴール フランス大統領)
 国家は永続する友好関係もなければ永続なる敵もいない 。永久に存続するのは国益のみだ(ヘンリー パーマストン 英国首相)
 けだし名言である。


posted by office YM at 18:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月28日

わが青春譜2

 安保闘争前夜」@
 北海道の街宣活動
 わたしの政治運動は、新島闘争(昭和34年)から翌年の60年安保闘争へ移ってゆく。
 政治運動といっても、党派や組織とは無関係で、いま思えば、エネルギーのはけ口をもとめて暴れまわった懐かしい青春の走馬灯である。
 当時、体育会系の学生が政治活動にひっぱりだされたのは、右も左も、暴力沙汰がおおっぴらだったからで、体育会系の猛者が左翼活動家とやりあった。
 日本共産党が火炎瓶闘争を放棄した六全協が、60年安保の5年前にあたる1955年で、左右の対決には、まだ、暴力沙汰がついてまわった。
 新島闘争のオルグ団に浅沼暗殺事件の山口二也がくわわっていたことはふれたが、同じオルグ団にくわわっていた防共挺身隊の福田進(隊長)らが左翼のグループに襲われて負傷、わたしが肩に担いで救出する一幕もあった。
 わたしが関連するいくつかのグループも、暴力事件をおこして、検挙されている。
 当時は、天皇を否定する左翼暴力革命が絵空事ではなかった一方、頭山満の大アジア主義や内田良平のシベリア横断譚なども大いに語られて、血気もバンカラの気風も旺盛だった。
 左翼が理屈ならこっちは大和魂だと、左翼暴力革命を阻止して、天皇をまもるという信念のようなものが、右の学生たちにはあったように思う。
 もっとも、のちにのべるように、わたしは、政治運動だけに没頭していたのではなかった。
 社会事業と称して、日比谷野外音楽堂を借り切って、10大学バンド合戦や「アジア友好の集い」などのイベントなどを企画して、つぎつぎ実行へ移していった。
 いま思えば、無謀な計画だったが、行動力のほうも型破りで、それが人生を思いがけない方向へ切り拓いてゆく帆になり舵となった。
 閑話休題。
 新安保条約が強行採決されたのが昭和35年5月19日である。
 その前年、すでに、全学連や労働組合など左翼陣営の安保反対の活動が開始されていた。
 日米安保条約が、日本にとっていかに必要な条約かをうったえて、北海道を一周する予定のわたしたちの街宣活動も、34年7月中旬からはじまった。
 当時、空の便やカーフェリーなどは、まだ、整備されておらず、北海道への交通は、青函連絡船があるだけだった。
 広報活動は、街頭演説とビラ配りが中心で、わたしたちは、日本銀行の現金輸送車を改造した宣伝カーに乗って、道内を巡った。
 遊説部長は、のち全愛会議事務局長をつとめる岸本力男で、わたしが、名目上、総括部長ということになった。
 岸本部長は、むずかしい哲学を論じたかと思えば、浪花節をうなるユニークなひとで、この先生の右翼理論は、難解で、よくわからないところもあったがおもしろかった。
 北海道の街宣を支援してくれたのは、当時、自民党内で、安保の強行採決を段取りした川島正二郎議員で、なかにはいったのが、反共右翼として知られた清水亘という人物だった。
 60年安保にたいする一般国民市民の関心は薄かったが、労組など左翼陣営は、敏感で、宣伝カーにペンキで「帰れ」と書き、刃物でタイヤに穴をあけるなどのいやがらせは、道内巡回中、日常茶飯事だった。
 当時、北海道は、炭鉱労組などの左翼活動が激しい土地柄で、わたしたちの街宣活動にも、多少、妨害もあったが、大きな衝突もなく、9月初め旭川での街宣を最後に、すべてのスケジュールを終えて、帰京することになった。
 そこで、困り果てたのが、食事代にも事欠く金欠だった。
 多少、資金を渡されていたが、2か月で底をつき、わたしたちは、無一文になって、途方に暮れた。
 思いついたのが運動部の友人のことだった。
 父親が函館で大きな会社を営んでいるはずだった。
 訪ねて、事情を話すと、にこにこわらいながら勝手な頼みに応じてくれた。
「カネは返さんでもよろしい」
 わたしたちが、そのあと、食堂にとびこんで、思い切り空腹をみたしたのはいうまでもない。
 後日談になるが、自民党へのりこんで、事情を話すと、「活動資金は仲介者にわたしてある」という話だった。
 どうやら、ただ働きさせられたようだが、後の祭りだった。
 運動にはカネがかかり、その資金は、じぶんで賄わなければならないということを、わたしは、この体験から、痛いほど肝に銘じた。

 七月中旬 夏着で北海道に渡ったわたしたちは、九月初秋の旭川の肌寒さに閉口した。

 北国の 初秋の晩景 肌寒し
  いろり囲んで 国を語りぬ

 戦に 敗れし祖国の 行く末を
  憂いて 我ら 街頭に立つ

「安保闘争前夜」A
 不平等条約改正
 現在の日米安全保障条約は、昭和26年、旧安保条約に代わって、昭和35年1月19日、ワシントンDCで締結された二国間の国際条約で、今日、なお継続されている。
 旧安保条約は、サンフランシスコ講和条約の署名した吉田茂が、平和条約にもぐり込まされていた特約条項(第6条a項但書)の「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」に署名して成立したもので、米軍の制限なき駐留をみとめる一方、日本を防衛する義務を負わない片務的な内容だった。
 アメリカに日本をまもる義務がなく、一方、在日米軍は、日本のどこにでも基地をつくることができるだけではなく、日米地位協定によると、在日米軍の兵士が日本国内で犯罪をおこしても、日本には、犯人を逮捕して裁く警察権や司法権がないなど、旧安保条約は、敗戦国の日本が、戦勝国アメリカの下位におかれた不平等条約だった。
 鳩山一郎や岸信介は、アメリカがおしつけた憲法と旧安保条約に大きな懸念をもったが、公職追放の鳩山や、公職追放の上、戦犯として、3年半も巣鴨に拘置されていた岸らに、政治的な発言や行動はゆるされなかった。
 吉田茂首相は「アメリカがタダでまもってくれるのだからいいじゃないか」と公言して、防衛はアメリカまかせで、経済を優先する吉田ドクトリンを着々と実行に移してゆく。
 吉田ドクトリンは、吉田学校の池田勇人と佐藤栄作へひきつがれて、池田派の宏池会(宮沢喜一ら)と佐藤派の周山会(田中角栄ら)へ分かれてゆく。
 昭和二十八年 吉田茂首相は、社会党の西村栄一議員に「バカ野郎」とつぶやき、これが問題となって、総辞職解散となって、政権が民主党の鳩山一郎へ移った。
 鳩山政権下で幹事長の岸信介は、このとき、重光葵外相とダレス国務長官の会談に同席して、重光が主張した日米安保対等§_がダレスに一蹴される一部始終を見ている。
 その後、藤山愛一郎外務大臣を派遣するなど、何度か、安保対等論がもちあがったが、アメリカは、日本の軍事力の脆弱さなどを理由に交渉のテーブルにつこうとしなかった。
 60年安保騒動で、マスコミは、反安保のキャンペーンを張ったが、新安保が、不平等条約だった旧安保の改正であることをつたえた報道機関はひとつもなかった。
 重光・ダレス会談の数か月後の11月15日、自主憲法と再軍備の日本民主党(鳩山一郎、岸信介ら)と経済優先の自由党(吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら)が合同して、自由民主党が誕生する(55年体制)。

「安保闘争前夜」B
 ソ連スプートニクの成功、アメリカの焦燥
 アメリカ側に変化があらわれたのは、その2年後だった。
 ソ連が、1957年10月4日、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功して、世界情況が変わってくるのである。
 人工衛星打ち上げのロケット技術は、大陸間弾道弾(ICBM)開発と並行している。
 米ソ冷戦のさなかに、ソ連の人工衛星打ち上げ成功が、アメリカにあたえた衝撃は大きく、アメリカは、世界戦略の根本的な見直しを迫られる。
 アメリカの新たな世界戦略は、欧州(NATO)や日本(日米安保)とむすんでソ連包囲網を形成することで、新日米安保条約も、アメリカの世界戦略の一部にくみいれられることになる。
 それが、新安保の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」で、旧安保とのちがいは相互協力≠ェあるかないかである。
 このちがいは、決定的で、相互協力という概念がなかった旧安保にはアメリカが日本をまもる条文はなく、日本がアメリカとともにたたかうという想定もなかった。
 新安保になって、日本は、アメリカの世界戦略におけるアジア太平洋の駐留基地から、アメリカとともに共通の敵とたたかう同盟国となった。
 そして、アメリカに日本をまもる義務があるように、日本もアメリカを支援する対等の地位に並んだ。
 ※日米地位協定と極東条項
 60年安保に瑕疵がないわけではない。
 締結以後、一度も改正されていない日米地位協定が、アメリカの治外法権の観を呈している現状、および、米軍が日本国内の施設および区域を使用できると定める根拠(「極東における国際の平和及び安全の維持」)の極東があいまいで、日本の安全に関係のない極東地域の紛争に日本が巻き込まれる恐れを払拭できない。
 かつて佐藤政権は極東条項の除外をアメリカにもとめたが、アメリカは聞く耳をもたなかった。
 田中内閣も極東条項の除外を迫ったが、アメリカは、除外するなら在日米軍を撤退させる」と恫喝した。
 日米地位協定の改定と極東条項の詰めが急務なのである。

posted by office YM at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月29日

わが青春譜1

 新島闘争
 昭和三十四年。伊豆七島の新島にミサイル試射場設置の計画がもちこまれた。
 村議会は、賛成派と反対派が対立。島外からの支援者もくわわって、新島は激しい政治闘争の場と化した。
 わたしは賛成派オルグ団の責任者として渡島。辻村村会議長宅を宿舎として、同志の学生・青年らとともに賛成派島民の支援闘争をおこなった。
 同年十二月十日 村議会で賛成案採決。ミサイル試射場の設置が決定される。
 翌年は、60年安保闘争とあって、学生運動や労働運動が過熱していた。
 当時、日本は、若者が、青春をかけて、左右のイデオロギーをぶつけあった政治闘争の時代だった。
 この新島闘争の賛成派オルグ団に、社会党委員長の浅沼稲次郎氏を刺殺した愛国党の山口二矢少年がくわわっていた。

 追憶の 真砂の浜に たたずみて
     一人思ふは 帰り来ぬ日々

 脚注「新島闘争」/防衛庁が東京の南西約150kmの伊豆新島にミサイル試射場設置を計画して、昭和34年(1959年)、新島村議会は受入れを強行採決した。これにたいして、新島基地反対同盟を支援する総評や社会党、共産党、左翼学生運動組織がオルグ団を送り込み、新島は、島民が左右に分かれて争うイデオロギー闘争の戦場と化した。

 闘争に明け暮れていた日々だったが、夕暮れには、一人、新島前浜で、海をながめた。
 多情多感な青春のただなかにあって、連絡船が週一回という離島でながめる水平線の残光は、いっときの安息であったが、それまですごしてきた都会への郷愁を誘わずにいなかった。

 新島の 白き真砂は 恋しかり
    いとしき人の名 書きてまた消す

「巨星墜つ」

 昭和四十年、西山幸輝氏(日本政治文化研究所)とともに、日本新聞社から版権を譲り受けた「日本及日本人」の復刊、再刊にあたる。
 ちなみに姉妹誌「日本」の版権は講談社が取得した。
 村上兵衛(作家/評論家)、御手洗辰雄(政治評論家)、黛敏郎(音楽家)、鵜沢義行(日大名誉教授)、山岩男(哲学者/京大教授)、多田真鋤(政治学者/慶大教授)ら錚々たる諸先生が執筆陣に名をつらねた。
 三島由紀夫先生にも、再三再四、執筆をお願いして、玉稿を戴いた。
 本の発送業務は、早大のOB矢野君の協力を得て日本学生同盟の学生諸君に協力を戴いた。
 そのなかの一人が、森田必勝仁兄であった。
 昭和45年11月25日。三島由紀夫が「楯の会」会員らと市ヶ谷の自衛隊本部へのりこんで、憲法改正と決起をうったえるも、決起ならず、森田必勝とともに割腹自殺する。
 
 益荒男の たばしる大刀の 閃きを
     悲しと思う 嗚呼、巨星墜つ

 脚注「日本及日本人」/評論雑誌。明治40年、雑誌「日本人」を改題して三宅雪嶺を中心に発刊。国粋主義を唱えた。昭和20年終刊。戦後、1950年に日本新聞社が復刊、1965年以後は日本及日本人社から刊行された。
 林房雄(作家)や保田與重郎(文芸評論家)ら保守論客が論陣にくわわった。

 脚注「日本学生同盟」/昭和41年に結成された右派の学生運動団体(前身は「早稲田学生連盟」)。中心となったのは矢野潤や齋藤英俊らで運動スローガンは「ヤルタ・ポツダム体制打倒」だった。三島由紀夫、林房雄、村松剛、黛敏郎らの文化人の支持をえて、自主独立をめざす新民族主義を唱えた。

 脚注「三島由紀夫の割腹自殺事件」/1970年11月25日。三島由紀夫は「楯の会」の会員4人をともなって、東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問、総監の益田兼利を縛って総監室を占拠。救出しようとした自衛隊員に日本刀などで切りつけ8人に重軽傷を負わせた。三島は自衛隊員に決起を呼びかけるアジ演説をおこなったのち、早稲田大学学生森田必勝とともに割腹自殺した。

 脚注「森田必勝」/三島由紀夫が結成した「楯の会」の第二代学生長。三島とともに自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自殺した。総監の監禁、自衛隊員8人へ傷害を指示したのは三島ではなく、森田だったという見解もある。

 尊師三浦義一

 国文学者 保田與重郎先生、三浦義一先生による近江の義仲寺再興に
 三浦義一門下 西山広喜氏(日本政治文化研究所理事長)と共に参じる    
   
 義仲寺や 尊師義一の いしぶみ(碑・石文)を
     読みて寂しき 近江野の秋

 脚注「義仲寺」/源義仲と義仲の愛妾だった巴御前巴の墓がある滋賀県大津市の寺院。松尾芭蕉も遺言によって此処に葬られる。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」。戦後、荒廃するも、三浦義一と保田與重郎によって再興される。両氏の墓も義仲寺にある。

 脚注「三浦義一」/日本の右翼。フィクサー。戦前、政財界や軍部と交流が深かった。とりわけ東條英機と親密で、大東塾の影山正治や国家社会主義者の津久井龍雄とも親しかった。戦後、GHQ民生局のケーディスをスキャンダルで追い落としてケーディスと敵対する参謀第2部(G2)とのあいだに強力なコネをつくるなど、GHQ占領下の政財界で、愛国者として隠然たる力をしめした。
 財閥解体の危機から三井十三家を救って、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えたことから室町将軍と呼ばれた。
 北原白秋門下の歌人で歌集に「当観無情」「草莽」「悲天」「続悲天」がある。
 最近(令和元年)、三浦義一の孫で萩原朔太郎の妹、津久井ユキの孫にあたる歌人三浦柳が祖父三浦義一の生涯と短歌を綴った『残心抄』(PHP研究所)が刊行された。歌集「悲天(講談社エディトリアル)」も復刊されている。

 脚注「西山広喜」/日本政治文化研究所理事長。部落解放同盟・松本治一郎(社会党最高顧問)の養嗣子にあたる松本英一(参議院議員)の義兄弟。英一の兄貴格に三浦義一の高弟関山義人(政治結社興論社)がいた。関山をとおして三浦義一の知遇をえる。関山が興論社を解散後、昭和維新連盟を結成。さらに三浦が再建に尽力した日本政治文化研究所の理事長に就任した。
『日本及日本人』の再建復刊にあたって、西山が同社の代表取締役、わたしは株主兼役員をつとめた。

 脚注「関山義人」/戦時中、香港総督府関山機関を運営。戦後は右翼系政治団体の国策社青年部長をへて政治結社興論社社主となる。 児玉誉士夫の兄弟分にして、三浦義一直系の高弟。受勲後、右翼活動を自粛、興論社を解散した。奥州大学(富士大学)学長や明治大学理事をつとめた。

posted by office YM at 09:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

年末年始三句、短歌六首

【年末年始 三句】

背高き
影をおいたる 
冬至かな

侘しさや
暗夜に消え行く 
除夜の鐘

地蔵尊
衣も新た
四方の春

【神田川の夏と秋 二首】  
        
わくらば(病葉)や          
水面に踊りて       
流れゆく         
森滴(したた)りて      
秋まだ遠し       
          
秋高し
青に染まらぬ
ちぎれ雲
子守柿の実
彩なほ冴えて

【尊師三浦義一 二首】

国文学者 保田與重郎先生、三浦義一先生による近江の義仲寺再興に
三浦義一門下 西山広喜(財団法人日本政治文化研究所理事長)と共に参じる    
   
義仲寺や    
尊師義一の
いしぶみ(碑)を
読みて寂しき 
近江野の秋

三浦柳作、祖父三浦義一とその歌『残心抄』を読みて

残心抄
尊師義一の
歌読みて
紙めくるたび
儚く寂し

【愛(まな)娘 二首】 

身障の
吾児を授かり
育みて
健気(けなげ)に妻は
神宝と笑む

(娘の車椅子を押し歩む)
吾児乗せた
車の椅子の
重たさに
己(おの)の老い知り
寂しさ覚ゆ

posted by office YM at 23:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月19日

秋五首

(伊豆大島へ川島忠一君の墓参)
久かたに       
御霊参りて    
やすらけし    
三原の山には    
懸る雲なく   

(過疎化で住む人なき我が家朽ち果てる)         
たらちねの
親の住みたる
古き家
朽ちたるを見て
いとど侘びしき
   
(錆が浜、夕日の沈みゆくを見る)
夕なぎの
水平線を
朱に染めて
つるべおとしの
秋の日暮るる

(さざ波)
暮れなずむ       
打ちては返す    
波おとに    
いとしき君を    
想ふ夕暮   

(秋)
武蔵野の
古き病舎の 
窓辺にも
秋ぞきたりや
コスモス咲きて
posted by office YM at 19:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月26日

元号(五題)

【五月一日元号令和となる】
日の本の 御代のかわりて まほろばの
 国よやすかれ 民よやすかれ

【新たなる御代の弥栄を祈る】
弥栄や 元号変わり 御代あらた
 永遠に栄えよ 日の本の国

【靖国】
ちはやふる 英霊(かみ)のおわせし 靖国に     
 御代のかわれど 親拝はなし  

【多摩御陵】               
いく年も 過ぎにしかたの 武蔵野の
 多摩御陵を 照らしゆく月

【社に祈る】
神々に 霜ふる頭(こうべ)を ぬかづきて
 新たなる御代よ 安けくと祈る
posted by office YM at 07:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする