日米安保条という大仕事をやりおえ、岸内閣は、三年四か月の使命を終えた。
吉田茂と鳩山一郎のあとをうけた岸信介の最大の実績は、むろん、日米安保条約の改定だが、自民党政治の確立と日米関係の強化という戦後政治の基盤をつくりあげた功績も評価されるべきだろう。
岸内閣が、経済の池田内閣に比較して、政治の内閣といわれる所以である。
岸から政権をひきついだ池田内閣の政策は、徹底的な経済路線で、その代表が所得倍増計画である。
高度経済成長と経済大国への道は池田が切り拓いたといってよいだろう。
池田勇人は、大蔵官僚を経て、終戦後、政界入りして、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格となった。
池田勇人が58〜60代、佐藤栄作が61〜63代内閣総理大臣である。
経済の池田と沖縄返還の佐藤によって、日本は、戦後から脱して、新時代にむかってうごきだす。
以後、自民党は、経済主導型と政治主導型の政策を交互にくりだして、日本の政治をリードしてゆく。
経済主導型の舵をとったのは、池田勇人を中心に結成された宏池会で、保守本流と呼ばれたのは、吉田ドクトリンを継承していたからである。
宮沢喜一ら4人の総理大臣をだしたリベラル派で、憲法改正に慎重だったのは、吉田茂以来の伝統であろう。現在、宏池会は、岸田文雄が率いている。
政治主導型は、佐藤栄作の周山会で、佐藤の退陣直前に、田中角栄が七日会(後の木曜クラブ)を結成、佐藤派から大勢を率いて独立した。
首相を3期6年つとめた佐藤が、引退後、政権を兄岸信介の派閥を引き継ぐ福田赳夫に譲ろうとしていたためで、田中角栄との間で「角福戦争」が生じたのは政治史に残る有名な話である。
中曽根康弘の支援をうけて、角栄が天下をとるが、ロッキード事件後、竹下派(経世会)に派閥を奪われて、それが、現在の平成研究会(竹下亘)へひきつがれた。
当時、自民党党員として、田中派の朝食会に出席していたわたしは、目白邸へ後援会の三宅島村会議長らを案内して、角栄先生と記念撮影をした思い出がある。
この朝食会は、源田実と長谷川仁両参院議員の推薦で参加した勉強会(新政策総合研究会)を兼ねたもので、わたしにとって、貴重な政治体験であった。
小渕恵三や山下元利と親しくさせてもらったのも、朝食会の縁で、わたしが衆議院選挙出馬後、テレビのレギュラー出演をへて、政治評論家として活動を開始する以前の話である。
日本皇民党による竹下登ほめ殺し℃膜潤i1987年)の仲介を依頼された件、あるいは、田中角栄の元秘書榎本敏夫から直接うかがった「ロッキード裁判丸紅ルート」における東京地検の証言捏造など、いずれ、田中派にまつわる話をのべる機会もあるだろう。
昭和35年7月14日、池田勇人が党総裁選出されたその日、新総裁就任の祝賀会場から出てきた岸信介が右翼に大腿部を数か所刺されて全治2カ月重傷を負った。
政治から経済の時代へきりかわった時期におきたこの事件が、テロの時代の幕開けになるとだれが予想できたであろう。
7月19日 池田政権が発足。池田内閣は人心一新、政局転換、政治の基本姿勢を「寛容と忍耐」におき、所得倍増計画を軸に経済優先路線をすすめた。
60年代は、豊富で質の高い労働力と技術革新、廉価で安定的な資源供給に恵まれて、高度経済成長の条件が整った時代だったのである。
浅沼稲次郎暗殺―山口二矢のこと
第1次池田内閣が発足した3か月後の10月12日、 浅沼稲次郎日本社会党委員長が右翼の少年山口二矢(当時17歳)に暗殺されるという事件がおきた。
60年10月12日、日比谷公会堂で、同年十一月に予定されていた総選挙にむけて三党党首立会演説会がおこなわれた。
6月19日の安保自動成立以降、反対派のデモも沈静化して、左右両陣営の政治的な衝突もなかった。
日比谷公会堂は2500人の大聴衆で埋まり、会場は、野次や声援で熱気を帯びていた。
講演は、民社党委員長の西尾末広、社会党委員長の浅沼稲次郎、自民党総裁の池田勇人の順である。
浅沼委員長が演壇に立つと右翼団体の野次が激しくなって、司会者(NHKの小林利光アナウンサー)が「ご静粛に願います」と自制をもとめ、浅沼委員長がふたたびマイクにむかった瞬間のことだった。
一人の少年が向かって右側の壇上に駆け上がり、もっていた銃剣で一突きして、振り回されるような状態から体ごとぶつかって二突き目を刺した。
わたしは、山口が壇上に駆けのぼって、もっていた刃物で浅沼委員長の胸を2度突き刺した瞬間を眼前で見ている。
その光景が、いまだ、目にうかぶ。
脚注/「浅沼稲次郎暗殺事件」昭和35年(1960年)10月12日、東京都千代田区の日比谷公会堂において、演説中の浅沼稲次郎日本社会党委員長が17歳の山口二矢に刺殺された。逮捕後、山口は、東京少年鑑別所内で首吊り自殺した。壁に歯磨き粉を水で溶いた液で「天皇陛下万才、七生報国」と書き残していた。
この事件で、赤尾敏(愛国党)、吉村法俊(全アジア反共青年連盟)、福田進(防共挺身隊)の3人が別件逮捕されたが教唆≠ヘ立件できなかった。
吉村と福田は、赤尾敏の愛国党を経て、それぞれ、反共団体を結成したので、山口とは同門ということになる。
新島闘争では、吉村と福田は、わたしが責任者だった独立青年党と連携して賛成派オルグとして活動していた。
山口二矢も嶋中事件の小森少年も、赤尾敏に同行して、しばしば、来島して賛成派オルグ団にくわわった。
吉村は、その後、三浦義一門下の西山広喜が主宰する昭和維新連盟と行動を共にしている。
昭和30〜40年代の左右両陣営の衝突が暴力をともなったのは、日本共産党の暴力革命論(5全協/昭和26年)や血のメーデー事件(昭和27年)の余韻が濃厚に残っていたからで、当時、右陣営にとって、左翼暴力革命が絵空事ではなかったのである。
30年代の砂川闘争や新島闘争、そして、安保闘争で、右陣営が暴力的になったのは、極左暴力革命にたいする対抗からで、右翼もまた身体をかけて国体をまもろうとする意識がはたらいたのである。
新島闘争でも頻繁に暴力事件がおきた。反対派オルグによる防共挺身隊宿舎への襲撃事件や賛成派オルグにたいする傷害事件などで、わたしとともに運動していた松尾は腹部を刺されて重傷を負った。
「お前は行動隊長か」と問われて「そうだ」と答えたためで、隊長はわたしで松尾は副隊長だったので、気の毒なことをした。つねにわたしと行動をともにしていた小鹿という青年も、袋小路に追い込まれて木刀で足を折られている。
のちに、革マルと中核派の内ゲバ、浅間山荘のリンチ殺人を知って、左翼の暴力主義の本質をみたような気がしたのは、その体験からである。
浅沼事件の社会的衝撃は大きく、暴力反対の世論をかきたてずにいなかったが、例外があった。
「暴力行為はけっしていいものではない。だが、インテリジェンスのない青年がかねて安保闘争などで浅沼氏の行為を苦々しく思っていてあのような事件が起きたのもわからないではない」という経団連会長の石坂泰三の発言である
山口に同情的な発言が猛反発をうけたが、小泉信三の後を受けて宮内庁参与に就任した石坂は、尊皇心が厚く、なにより、反共主義者だった。
左右を問わず、政治行動が、すべて、理性や節度にもとづいているとはかぎらない。
宗教も政治も、その思想の深層に、理性や節度をこえた狂気が存在する。
暴力革命や文化破壊が左翼の狂気なら、右翼には、反革命や文化防衛、テロという狂気がある。
インテリジェンスというのは、知識で、脳みその問題である。
権力構造(政体)の操作なら知識で間に合うだろうが、文化構造(国体)とむきあうのは、知恵で、これは、心の問題である。
民族の心は、神話や伝説、長い歴史に培われてきた祖国をまもる防人としての大義で、それが、私心なき誠である。
左翼によるテロ(暴力革命)は、政権奪取だけが目的で、心も人間としてのきずなも、伝統も文化も、習慣も調和も、すべて捨てられる。
狙うのは、あくまでも政体で、それが私心である。
国体=文化の防人(右翼)と政体=権力の亡者(左翼)のちがいは、私心のあるやなしやなのである。
七生と報国誓い 君は散る
かなしき雄叫び 神は知るらむ
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