2011年08月31日

 夏風情二題

 夏空や 子らが戯る 作り雨 

 作り雨は、屋根などから水を流して、雨が降っているように見せかける演出で、江戸時代は、これが商売になったという。
 寒さは、厚着や暖をとって、しのげるが、暑さは、手に負えない。
 そこで、団扇や扇子、打ち水や作り雨、日除け簾や風通しのよい日本家屋のような習俗や文化が生じた。
 よくおこなわれたのが、打ち水で、昔は、盛夏の夕暮れ、各家が、いっせいに、柄杓で道路に水を打ったものである。
 舗装された道路は、水分を吸わないので、打ち水が利かない。
 現代のヒートアイランド現象では、真夏の太陽熱が、アスファルトやビルのコンクリートの輻射熱となって、都市部が「熱の島」になる。
 子どもたちの水遊びも、打ち水に並ぶ夏の風物詩で、夏の青い空の下、ホースの雨がきらきらして、涼しげなのである。

 山道に 落し文あり 夏木立

 落し文は、オトシブミ(甲虫目)の卵を包んだ葉のゆりかごで、形が、巻物の書状に似ているので、この名がある。
 オトシブミの成虫は、クリ・クヌギ・ナラなどの葉を巻いてゆりかごをつくり、なかに卵を一個ずつ生みつけて、地面に切り落とす。
 幼虫は、地面に落ちた「ゆりかご」のなかで、その葉を食べて育つ。
 なんとも、よくできた生態だが、山中で目にすると、おやと思う。
 巻き紙の文を思わせるのである。
 落し文は、示し合わせた場所に文を落としておく密書や恋文のことである。
 これは、大人の感覚だが、昔、里の子らは「からすのお土産」「スズメのお土産」と呼んだという。
 ほかに、「鴬の落し文」「時鳥の落し文」という呼び名もある。
 人里から遠く離れた山中の落し文なので、鳥のしわざとしたのであろう。
 真夏でも、山は、風が涼しい。
 山の土は、水分をたっぷり吸っているので、さわるとひんやりしている。
 ヒートアイランドの都会にくらべて、山は、いかに、自然の情趣と生命にみちあふれていることか。
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2011年08月22日

 晩夏二題

 空蝉や 木漏れ日あびて 果てにけり

 セミは「地中7年、地上7日」と言われる。
 幼虫で、7年間を土中で過ごし、成虫になって、7日間を地上で過ごすのではないらしい。
 木の枝に産みつけられた卵が、一年後、羽化して、幹を這って、地面に潜るまでが幼虫で、成虫は、地中で、木の根の樹液を吸いながら7年間を過ごす。
 それでは、蝉にとって、地上の7日は、何にあたるのか。
 成婚期だという。
 この時期、オスは、腹弁を使って、ありったけの声で、メスを呼ぶ。
 メスの腹には、すでに卵ができていて、一回の交尾で受精、卵をそのまま、木の枝に産み付ける。
 7日間で、相手探しから交尾、出産を終えて、蝉たちは、命を終える。
 空蝉は、蝉の脱け殻のことだが、転じて、生きている人間(うつしおみ)や現世(うつそみ)をさすようになった。
 人生は、蝉の抜け殻のように、はかないというわけだろう。
 今年は、蝉が多かったのか、死骸をよくみかける。
 真夏の午後、ようやく日が傾いた庭先で、一匹の蝉が息絶えている。
 この蝉は、首尾よく、子孫を残せたのであろうか。
 蝉のあわただしい時間と人間のゆったりした時間が、庭先の木漏れ日のなかで、ふれあっている。
 心なしか、聞こえてくる蝉の鳴く声に、勢いがなくなってきた。
 夏も終わりで、秋の長雨予報がでている。
 長雨のあと、秋風が吹きはじめるだろう。

 盆踊り 友も輪に入る 帰郷かな

 帰郷して、盆踊り見物に誘われる。
 やぐら太鼓に吊り提灯、屋台の夜店は、昔と変わらない。
 見ると、幼馴染みが、浴衣姿で、輪に入っている。
 盆踊りは、盂蘭盆に、死者を供養するために踊る仏教行事で、平安時代にはじまったという。
 昔は、旧暦の7月15日に行われたので、盆踊りの夜は、空に満月がかかっていたらしい。
 死者を供養する行事にしては、抹香臭くなく、夏という季節柄、むしろ、陽気である。
 夏祭り、秋祭りと重なって、収穫祭のおもむきすらある。
 日本は、社(土地の神)稷(五穀の神)社会で、国が、下からもちあがって、できあがった。
 先に、絶対王権があった西洋とはちがって、日本は、人々の暮らす村落が先にでき、権力構造は、そのあとつくられたのである。
 夏祭りや盆踊りは、日本が社稷社会だった名残りである。
 社稷社会の頂点に立ったのが天皇で、天皇は、いまなお、社稷に、祈りを捧げておられる。
 盆踊りや夏祭りが盛んなうちは、日本は、昔の日本なのである。
 噴火災害に見舞われたわがふるさと、三宅島も、徐々に、昔の面影をとりもどしつつある。
 見上げると、吊り提灯のむこうに、大きな月がかかっている。

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2011年08月02日

 夏二題

 往来の 人声たえて 夕端居 

 端居(はしい)は、縁側に出て、涼をとることで、夕端居は、夕涼みである。
 端は、人間界を離れて、自然界にふれる場所でもあって、庭に面した縁側も端である。
 縁で涼んでいると、今年は遅いと思っていた蝉の声が聞こえてきた。
 蝉は、一生のうち、99%以上を土中で過ごし、地上にでてきて、鳴くのは最後の1%以下(20日前後)である。
 それだけに、蝉の声には、一途なものがある。
 蝉の声とともに夏に入る。
 空には入道雲がかかっている。

 さざれなみ なぎさに白き 夏来る

 さざれなみは、細波で、さざなみ(漣・小波)ともいう。
 季語ではないが、夏には、小波の立つ海面に太陽が反射して、まばゆい。
 正月(冬)や彼岸(春・秋)は、季節の節目だが、夏は、過ぎ去った歳月の節目で、終戦の夏から、65年がたった。
 十一年前、「さざれ石の巌となりて」の国歌は非科学的というばかげた議論がおきた。
 いまなら、だれも、耳を貸さないだろう。
 日本は、ずいぶん、かわった。
 インターネットの普及で、大新聞による言論操作が通用しなくなったせいだろう。
 かわったのは日本だけではない。
 中国では、高速鉄道事件の遺族がはげしい抗議行動がおこし、温家宝首相が謝罪した。
 天安門事件の二十二年前とは、隔世の感がある。
 国の内外で、さざなみが立っている。
 さざなみは、小さな争い事にたとえられる。
 夏の海を見ながら、国家の難事を思うのである。


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2011年06月24日

 梅雨三題

 一輪の 花も霞みて 梅雨の朝

 庭の花々も、梅雨の下では、ひっそりと咲く。
 朝露に濡れて、水玉をのせているバラの花弁も、優雅だ。
 朝、おきて庭へ目をやると、樹木や草花が雨に打たれている。
 花の色が、ぼかしたように淡い。
 雨に濡れる花の色に、しばし、目を奪われたのである。
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2011年05月13日

 連休二題

 冴え返る さくらの花の 散りてなほ
 冴え返るは、春になって緩んだ寒さが、ぶり返すことで、さくらの花が咲く四月が花冷えなら、冴え返るは、さくらが散った4月末から5月初旬の、季節の風情である。
 俳句では、寒さのぶり返しだが、一般的には、光や音などが際立つこと、いったん衰えたものが盛り返すこと、頭の冴えが殊更なかんじをいう。
 桜の並木道を歩いて、数週間前、満開だった花のにぎわいが目ににうかんだ。
 その桜が散って、いまは、梢のあいだから、青い空が見えている。
 桜は、咲いても花、散りても花で、散ってゆく花も、見事である。
 そして、すっかり花が散った枝にむこうに、いまは、空が見え、小寒い風が吹いている。
 五月の青空が、妙に、冴え冴えとかんじられたのである。

 
 連休や たけのこ飯で 故郷偲ぶ
 連休も、季節をあらわしているので、季語であろうか。
 だが、語感に、風情はない。
 一方、たけのこ飯は、よく使われる季語で、季節感がゆたかだ。
 二つあわせたのが、わたしのたけのこ飯で、台所に立つのも、正月休みと連休だけである。
 わたしの故郷、三宅島で、タケノコといえば、ノダケで、その時期が終わると、ニガッタケである。
 ノダケもニガッタケも、孟宗竹のたけのこより小振りだが、味は、遜色がない。
 ノダケは、天ぷらが絶品で、やや苦味のあるニガッタケは、酢味噌和えや煮物が旨い。
 だが、たけのこ飯には、かなわない。
 たけのこ飯は、わたしにとって、季節の味というより、故郷の味である。
 故郷に、すでに、父母はなく、最近は、でかけることも、まれになった。
 こんどいくときは、ノダケのたけのこ飯を戴くことにしよう。
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2011年04月13日

 春二題

 春愁に 思郷かさねて 海光る

 ものみなすべてが、生を謳歌している春に、なんとなくわびしく、気持ちがふさぐ。
 春愁は、女性の感傷や若者の悩みを意味することばだが、老いの境地では、思郷につながる。
 わが故郷は、三宅島で、海を見ると、ふるさとが思いうかぶ。
 思郷は、望郷のことだが、若かった日々への想いもふくまれる。
 わが青春時代の情熱と奮闘、そして、失意と蹉跌の日々――。
 春が華やかなほど、愁い沈む気分が、わいてくるのである。

 木々芽吹き 澄みわたる空 雲光る

 木々の芽吹きと、澄みわたる空も、一つのコントラストで、前者が青春なら、後者は、壮年、老境であろう。
 空(そら)は空(くう)でもあって、無につうじる。
 若い時代は、すべて、実や有で、空も無も、目にはいらない。
 だが、老境にさしかかると、空や無のなかに、みつかるものがでてくる。
 若かったあの頃、いまの冷静さ、知恵があったらと、悔やまれる。
 だが、過去は、帰ってこない。
 そんなことを思いながら、青い空にうかんだ白い雲を見上げているのである。
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2011年04月11日

 桜三題

 被災地へ 桜前線 近づきぬ

 桜前線が、関東を通過して、東北へむかった。
 被災地でも、やがて、桜が満開になるだろう。
 日本国中に、支援の輪がひろがっているが、政府の被災者救援は、いっこうに捗っていない。
 悲惨な被災地に咲く桜が、なんとも、むなしい。
  
 咲きながら 散るにまかせる 夢一夜


 桜は、咲きながら、散ってゆく。
 潔いとも、はかないともいえるが、人生も、咲きながら散る桜のようなものである。
 競い咲き、いまを盛りの桜も、やがて、春風に散ってゆく。
 よろこびもかなしみも、一夜の夢なのである、
 
 散る花を 見たさに寄りし 風の日に

 満開の桜は、みごとだが、散りゆく桜にも、風情がある。
 散りざまが美しいのは、数ある花のなかで、桜だけである。
 日本人が、桜を愛するのは、春の風に散ってゆくすがたに趣があるからであろう。
 花が散って、やがて、葉桜になるころ、野山や庭園で、いっせいに芽吹きはじまる。
 散る桜に、春のきざしが、みなぎっているのである。
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2011年03月28日

 想い三題

 舞姫や 雪のみやこで 艶に酔う

 二月、厳冬の祇園で、一夜、遊んだ。
 折りしも、雪で、夜の花街にも、白いものが舞っている。
 窓の外が、闇と雪のモノトーンだけに、いっそう、舞妓のすがたが目に艶やかだ。
 夜の雪と舞姫の幻想に、しばし、うつつを忘れたのである。

 面影を 追いて眠れぬ 雪明り

 小さな旅館の窓から、雪明りの町並みが見える。
 眠られぬまま、夜の雪をながめて、若い日々の回想にふける。
 吉田松陰は、已むに已まれぬ大和魂と詠んだ。
 已むは、消えて失くなることで、已まぬとは、いつまでもありつづけることという。
 わたしは、止むに止まれぬで、いつまでも、止まらない。
 愛は、いざしらず、止むに止まれぬのが恋で、大和魂も愛国心も、恋心であろうか。
 面影を追って、一人、独酌の夜である。

 わが庵の 梅は競いて 咲きたれど
   まだ来ぬ文の 待ちて久しき
 

 名残り雪は、春のきざしで、雪の数日後、二月の末に、梅が咲いた。
 約束したでもないのに、梅や桜は咲くが、約束した文は、まだこない。
 二月は、暦の上では、春だが、一年のなかで、いちばん寒く、いちばん、春が待ち遠しい。
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2011年01月07日

 新春二題

 遠近で 殷々と響く 除夜の鐘
 毎年、テレビが、名刹の除夜の鐘を中継する。
 画面には、初詣でに向かう人波も、映し出される。
 年に一度、神社に詣でるのは、祈願か、それとも、禊であろうか。
 窓の外から、近くの寺の鐘の音が、風にのって聞こえてくる。
 こちらは、生の音だが、わが家とは距離があるので、弱々しい。
 一方、テレビの除夜の鐘は、大きく、まるで、そばで聞いているようだ。
 窓の外の鐘の音とテレビの鐘の音を、交互に、聞いているのである。
 

 淋しさや せがれ仏ぞ 初明り
 初明りは、元日の朝、薄暗い空が、ほのぼのと明るくなることで、初日の出の明け初め、東の空にあらわれる曙光である。
 例年、初日の出に夢と希望を託して、初明かりを拝んで、よき年を祈念してきた。
 せがれの逝った今年の初明かりは、なんと淋しく、なんとやるせないことか。
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2010年12月17日

 冬二題

友逝きて ふるさとさらに 遠くなり

 わがふるさと三宅島も、過疎化の例外ではなく、十数年前の噴火による全島避難以後、いっそう、さびれた感がある。
 すでに、両親は亡く、足も遠のきがちだ。
 だが、故郷は、わが心の原点で、いくつになっても、忘れがたい。
 その故郷から、久しく逢っていなかったわが友、幼なじみの訃報が届く。
 そのたび、ふるさとが、ますます、遠のいていく。
 
 
 寒林や 葉音もたてず 風はしる
 
 風は、音によって、かんじられる。
 青葉繁れる時分は、木立をとおり抜けてゆく風が、すずしげな葉音を立てる。
 だが、葉を落とした寒林をとおりすぎる風は、黙って、とおりすぎてゆくだけだ。
 風の季語は、案外、すくない。
 冬の木枯らし、秋の野分(のわき)、夏の南風(はえ)くらいしか思いうかばないが、それでも、春には、春一番や風光る、薫風のほか、東風(こち)、涅槃西風(ねはんにし)、春疾風(はるはやて)がある。
 葉音は、季語ではないが、夏の木立を思わせる。
 風が吹くと、葉がさわいで、木漏れ日が躍る。
 いまは、音もなく、冷たい風がとおりすぎてゆくだけだが、冬木立のこの散歩道も、春になれば、風薫り、夏には、涼やかな葉音を聞かせてくれるだろう。
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